前記事がipadやiphoneで読み込むと文末まで表示されない現象がまた出てしまい、記事を繰り越しました。

 古典部シリーズの原作をつまみ食いして私が思うことは、千反田えるの行動には責任とある種の自己犠牲が付きまとっているなということです。まさかとは思うのですが、千反田家と関谷家の力量バランス(関谷純の名は極々一部の反動勢力、革新派からやり玉に上がるので、伝統を重んじる人々から見ると目の上のたんこぶ以上の厄介者であったことだろう)に千反田えるが政治的に利用された可能性すらあります。狭い狭い町のなかの出来事ではありますが、伝統を大切にして将来的に成長していくためには、若い者に責任を与えて先祖たちの苦労を偲ばせ、未来に躍進するための知識を学校で身につけさせなければなりません。「なぜ伯父は泣き叫ぶわたしを見て怖いことを言ってごめんよと慰めてはくれなかったのでしょう」「なぜでしょうか折木さん」 「それは簡単なことだ。お前の伯父は、撤回できないことをお前に話したんじゃないか。泣く子を相手にも、いまの話は嘘だったって言えないような肝心なことを伝えたんだろう」「(ふつうに考えてそんなことを言うのはよっぽどのことだ。関谷純という人間と千反田という人間の間にある関係を、赤の他人である俺が立ち入るようなことはできない。・・・はずだ。)」——とはならなかったのは、原作、アニメを読んで見た者ならだれでも知っている話です。結局折木は関谷純に大きく肩入れすることになるのですが、スーパーお人好しが炸裂する(関谷純の悲鳴が聞こえたとして、ある種の自業自得ではないかと我関せずを通すこともできたし、姪の千反田への関谷の不器用な愛情を感じたとしても集団心理の冷徹さを幼稚園児に教えるなんて度が過ぎている。結論として関谷純が背負った薔薇色を折木は激怒したのだが、折木が持つ薔薇色への愛着と憎しみに一定のお人好しの善性が隠されていることに賭けた千反田えるは、とんだギャンブラーだといえる)のを千反田は見越していたのか、気になるところです。千反田がはっきりと怒りを表に出すことを見た事がないと古典部内で話題になったことがありますが、折木が内心で傲慢、慎むべしと念じたように、千反田が傲慢に染まりきる可能性はあります。きっといい人に違いありませんと(根拠なく)人を信じるのはいいことではないからです。罪を憎んで人を憎まず・・・。伊原が千反田が折木に染まっていくのは断固として阻止する!とシュプレヒコールをあげる(有無を言わさず福部里志は巻き込まれる)のは見ていて楽しい。「摩耶花だって好きなマンガから影響を受けたりするじゃないか。千反田さんがホータローからいい影響を受けるのだって——」「————!」「折木は黙って」「いいや、黙らない。伊原、お前は里志が俺とお前の好きなマンガを同列に並べたのが気に入らないから今立ち上がったんだろうが、なら、俺もお前たちに言いたいことがある」「後で聞いてあげるから今は黙って・・・って言ってやりたいけど、いいわよ、聞いてあげようじゃない。わたしはあんたと違って自分のことが大好きだし好きな人やマンガのことははもっと大好きだから、弱い折木を許すことができるってわけ」ふくちゃんが間髪をいれずに叫んだ。「ガンジー! かっこいいよ摩耶花!」ふふ。もっといってふくちゃん。・・・・・・・・・・ガンジー? 古典部シリーズ3作目『クドリャフカの順番』の前に米澤穂信は別構想の3作目を出す予定だったとネットで見て知り、さよなら妖精を買って読むかどうか思案中・・・。ユーゴスラビアといえばサッカー選手のドラガン・ストイコビッチ、しか知識が出てこない(愛称ももちろん知っている)。ユーゴ内戦も聞いているが、あえて近づきたいとは思わない。福部里志はこだわりたいがこだわらない…。水戸黄門、第29部(石坂黄門)を再視聴する機会が、実質BS-TBSの再放送を見るしかない現実。私がイーロン・マスクならTBSと東映にソフト化を迫ろう。第29部第一話から見て、従来の水戸黄門フォーマットを大胆に崩してきたのは明らかで、とにかく状況説明セリフがそれまでの黄門と比べて多い多い多い。時代劇は様式美なので最後には必ず決着するはずなのですが、悪を懲らしめて終わり、というフォーマットを崩しに来ているので視聴者に「ついてこれるか?この新しい黄門に」といらん緊張と覚悟を求めてきました。穴掘って自分で落ちる馬鹿は見ていて楽しいので嫌いではなかったのですが、ウケなかったですね…。ソフト化を求む。千反田えるが人の悪意を見ようとしないのは、伯父の関谷純が薔薇色の高校生活に反旗を翻すことをせずに神山高校を去った事実と、文集「氷菓」に残した積年の思いを姪の自分にだけ告げた現実に答えがだせないからでしょう。伯父の優しさは悲劇ではない。わたしの推測でしかありませんが、折木供恵と千反田えるは関谷純の神山高校での去就を巡って心情的に対立しているのではないでしょうか。福部里志が道化喜劇に興味をそそられ手を出してしまったら、この日々、きっと十年後毎日のことを惜しまないと言い切れるのでしょうか。折木奉太郎は力のタロットカードの啓示を受けていると里志はからかっていましたね。『ふつうの軽音部』で鷹見はたまきの舎弟になればいい、とわたしはからかったのですが、その流れでいうと伊原は糸魚川教諭に関谷純に纏わる学生運動の、おもちゃを取り上げられた子供の狂騒とその矢面に立つ人間の苦労話を聞いておくべきではないでしょうか。なんの益もないのですが、千反田の痛みと悲しみは今のままでは折木にも伊原にも福部にも理解されることはない。千反田本人もどうしてこんなに苦しいのか、わかっていないはずです。プライバシーを人に言いふらす趣味はないと孤独を気取るのに、ここぞと見込んだ相手には秘密を打ち明けて手玉に取ろうとするのは褒められた仕草ではない。やられたことを他人にやり返して精神的な満足を得る。端的にいえば復讐です。糸魚川が関谷純に感じていたであろう後ろめたさは、「なぜ復讐をしなかったのですか。わたし以外に」。まあわたしに害が及べば兎の一羽として皆と一緒に、先輩を生贄にするのですが…。争いも犠牲も、先輩のあの微笑みさえも、全ては時の彼方に流されていく。(中略)いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。折木が「氷菓事件」でらしくなく怒りに震えたのは、関谷のなけなしの復讐が文集氷菓の表紙に留まっていた事実(実害など皆無)(メタ的にいえば「鏡には映らない」事件の首謀者である折木には関谷純にすべてを見透かされていたと感じたことだろう)に、シンパシーを感じていたからでしょう。こいつ、意外と面倒くさい男だな・・・。折木供恵はわたしの妄想の中では「勝てばよかろうなのだー」と弟の前で開き直っているイメージなんですよね。『優しい英雄』でしょ?関谷純。あれも悲劇よねー。いやだったわー。そんな暇はなーい!じゃね! ・・・・・・・・・・・・・・・。「ところで折木君にはお姉さんはいるかしら」「ええいます。神高のOGで五つ上の(姉が)」「そう。やっぱり姉弟ね。似ているわ」「・・・伊原たちを呼んできます」「ええ。約束の時間に会いましょう」 勝てばいい。勝つ算段はなによりも貴い。期せずして福部里志のこだわりとこだわらないことの決算を千反田が外的要因によって迫られており、古典部シリーズは長い休日に入っている。折木供恵に相談すれば、「この世の中には二つの流儀しかない。やるかやらないか。決めるのはあんたよ」となんの役にも立たないアドバイスをしてくるのではないか。探偵は己の欲する所業をためらいなく実行するので「やるかやらないか」と悩む人種では、基本的にない。汚職をしない権力者はいないのと似ている。蕭何が若き日の劉邦を「彼は嘘つきのゴロつき。客人として迎える価値のない男です」と断じて世の中にはいらない人種だと思っていたのに、後に生涯の君主として仕えることになった話は好きなのです。折木供恵が劉邦と似ているといっているわけではない。若き日のガンジーも「やるかやらないか」ではない、古典作品を読み未来の誰かのために行動していたと、先日のEテレの番組で放送していました。非暴力の抵抗運動の根っこが古典作品から生まれていた・・・。福部里志が古典部と折木奉太郎を前にしてじっとしていられるかというと、無理というものです。摩耶花が福部里志を好きと断じて揺らぐことがないのも古典部シリーズ内の大いなる謎なのですが、単純に「好きなことを好きだという人が僕は好きなんだ」と福部が言っているのを聞いた摩耶花が一方的に福部を好きになったのでは。その辺りは千反田が気になっているはずなので必ず読者に明かされることだろう。折木の省エネ主義は、どうしてもやりたいという欲(強欲?)を天敵とする。やらずにすむことをあえてするのであれば、それはエネルギーの過剰消費というものだ。ネットで散見できる古典部シリーズのキャラや謎の独自の深掘りは読んでいて時間を忘れるほどに楽しい。神高の数学教師尾道と千反田との確執に折木が想像し驚き納得しかけて自戒する一連の出来事に、読者として思いをめぐらすことはとても楽しい。愉悦といっていいだろう。伊原がムッとするポイントには折木奉太郎は一日の長がある。折木がぼーっとしていて(無秩序に発生する)伊原の不機嫌を福部があやして「(どうしてふくちゃんは私の気持ちに共感してくれないの)」とさらに事態が悪化するのは、千反田える部長時代の風物詩といってよい。折木ゆるすまじシリーズは糸魚川の笑いのツボを激しく衝くことだろう。「私には許せないものが二つある。作品を見もしないで世間の評判から駄作と決めつける人たちの傲慢さと、私の意見を聞いた上で自分の意見を曲げようとしない折木。折木のくせに・・・」糸魚川先生はどう思いますか。「え。真面目に答えないといけないのかしら・・・」罪のない犯罪は刑法でどう裁いてきたか。ハンムラビ法典に沿って考えれば折木君が伊原さんにあまり関心がないことに起因する人間関係のトラブルなのだから、伊原さんが折木君に対する過剰な関心を取り払うことで報復合戦を防ぐことできる、と伝えることが教員である私に課せられた理想的な答えであると思われる。青春の火種にガソリンをぶちまけるがごとき思考ではあるが・・・。古典部の平和のために武者小路実篤の言葉を引用して伊原さんを煙に巻くのが次善かな。福部君は古典部にとって得難い人材ね…。何事も楽しむ精神は炊飯釜にこびりついたお焦げみたいに、古典部の伝統だから。 折木供恵の後に古典部の部員が消滅していったのは、いったい何をやらかしたというのだ。素行不良な神高教員の身辺調査をしてその報告書を配布したとか…。放っておけば事態は悪化することはあっても、好転することはない。 欲深で嫉妬深い人間(そして嘘つき)は始末に負えないクズですが、人を見る目と欲望を達成するために必要な大所高所を兼ね備えている人間は不思議な魅力があります。己をためらうことがないのは成功すれば美談なのでしょうが、それは粛清によって磨き上げられた物語ですからやはり唾棄すべきものです。蕭何と劉邦には、個人的な人間の好悪と長期客観的な視点がたまに発生するのが楽しい。蕭何は自分と一族を漢帝国に捧げ、神を祭るために劉邦を供えている感があります。野球でいえば審判を買収するのが蕭何で、観客を味方につけるのが劉邦。大事なことは観客を楽しませることなので審判が馬鹿であっては困る。曹参のいう「蕭何の決めたことに変更点はない」は、突き詰めれば劉邦という男の治世の肯定、万人の視線の先にある皇帝の肯定(死すべき)。球場の中の出来事であれば狂気の謀略も法の範疇ですむ可能性がある。そうあってほしいものだ。場外乱闘はしないでねと言っている。「放逐」という言葉を検索してみると「追放」と同じ意味と出てくるようだ。関谷純が神山高校を去るにあたり古典部部長の権限をフルに使って氷菓創刊号を退学する前に刊行しているが、折木たちはその創刊号を目にしてはいない。きっと祭りが終われば放逐されるであろう人間の心理なんて想像できるはずもないが、過失はあったにせよ故意ではない学校公共物への取り返しのつかない破損行為は生徒側が起こしたわけで、関谷純が肝っ玉の強い男ならまあ済んだことは仕方がないと思ったのではないか。死傷者も出ていないわけだし。次の古典部部長に関谷が指名したであろう郡山養子は絶対に納得していなかったようだが。寒村の寺小屋に甘んじてはいけない、と当時の神山高校助校長の英田は神高教師陣に発破をかけて、そしてまんまと自分の体面を潰してくれた生徒代表の関谷が驚くほど従順で物腰の柔らかい人物だったことにどんな感想を持ったことだろう。そりゃ「担がれたな」と思うでしょう。歴史にifはないけれど関谷が退学ではなく数ヶ月の停学処分で済まされた場合は果敢なる実行主義による権力主義者への抗議とその輝かしい戦果は全て関谷純の手腕の賜物だったことになり、英雄は皆に祝福され号砲を鳴らされつつ神高へ帰還することになった…わけです。関谷はともかく、郡山がその茶番に耐えられたかどうか。氷菓創刊号は関谷の退学処分が決定する前に準備され刊行されているので、穿った見方をすれば神高教師たちから古典部の文集は検閲され、取引の後に発禁処分になった可能性はあります。古典部の存続を報酬とした事態の黙秘を関谷に求め、文化祭日程の維持と関谷自身の体面の確保。英雄として友達とお別れができるよう配慮する。笑える要素が何もない。関谷純を取引の材料としてしか見てない人間に囲まれ、『優しい英雄』は自主的に全生徒の盾となり神山高校を去った、より充分な説明を想像するなら、全教師の生徒保護者たちへの面目を立てる(生徒の自主性を尊重し、大人としての責任を果たしたと社会に説明できるだけの行動をしたと)人身御供として関谷は立派に行動した。現場の生徒の声として、関谷ほど明晰に現場を説明できる人間はいなかっただろう。期待以上の活躍。火でもつけるか?(タバコにね) アニメ『氷菓』では小説の中の表記で「相手の目をみつめて」「目をみはって」といった、相対する人物の値踏みをするようなシーンでは意図的に避けて表現しているようです。いやいや・・・。入須と奉太郎のシーンはそんなことはなかったような気がする。郡山養子、現・神山高校教師で図書室の司書である彼女が伊原をなんとなく気に入っているのは、分かりやすい正義感と分かりやすい嫉妬心を隠そうとして隠し切れていない、お尻が見えている狸みたい(雉)だと思っているからでは。未読ですが、『さよなら妖精』のヒロイン、マーヤが折木たちの前に現れていれば、福部里志の知的興奮はとどまるところを知らない状態となり、伊原の精神状態は化学実験のフラスコ内のように予見ができなくなったことでしょう。駆け抜ける嵐。藤子・F・不二雄のエスパー魔美なら高畑くんが命に代えてヒロインの矜恃を守り抜くのですが、ここは米澤穂信の世界。基本、矜恃は等価交換の法則に則り命よりも重い。つまり誰にも守られない。ガンバスターのキックがバスターキック、スーパーバスターキックなのが米澤穂信で、イナズマキック、スーパーイナズマキックなのが魔美世界の藤子・F・不二雄。ヱクセリヲンを土台として貫くか止まるかで世界が決まる。神山高校にSF研はSF研究会は存在する。太田中佐がヒロインだといっているようなものだ・・・・・・・。魔美の母親と高畑は「人間の姿形をしている異分子」に対するアプローチに違いがあり、雪女事件(雪の降る街を)では魔美の父親、佐倉十朗は妖怪女に恋をしたかと美大仲間にからかわれている。半径5メートル内のすっ裸の攻防(精神的に)を娘に見られる十朗は、かなりおいたわしい。十朗の友人の「おい聞いたか!あの雪女、明日、郷里に帰るらしいぞ」(うろ覚え)は折木供恵も比較にならないほどに、なぜおまえが知っている案件…。魔美も男の言を100%信じるので見ているこっちが信じられない。有無を言わさずその通りらしいと話が進むので(その通りらしい!)確かな感動がなければ気になって話が頭に入ってこなくなるだろう。いいお天気ですね! 雪が降っていますけど・・・。 この話は名曲「雪の降るまちを」のサビの歌詞である「新しき光ふる鐘の音~♪」と親子3人と一匹でハモるラストが美しく、感動的です。アニメ版の声で忘れられないのは十朗の友人の声を当てた人物です。アマプラだとオープニングとエンディングを切られて配信されているのですぐにはわかりません。絶対に外す自信しかありませんが、これは当ててみよう。・・・美味しんぼの谷村部長と声が似ているような気がするなあ。違う気もするが。ウィキペディアをみると当たっている? うー。 魔美の母親(になる前)であり十朗の妻(になる前)でもあると視聴者は知っているので違和感がないようですが、夜の公園、寒い日の雪が降る人気のない通りで、明らかに自分を待ち構えていた男からボタンを投げつけられて「今日はいい天気ですね」と声をかけられたら、まあ絶叫して走って逃げます。そうしなかったのは予め佐倉十朗という人物のことを知り得ていたからに他なりません。だとしてもですよ、十朗の友人から「俺はちゃらんぽらんな男だから説得力はゼロかもしれないが、一度あの男の話を聞いてやってくれ」と見ず知らずの男から頼まれて夜の公園に出かける魔美の母親の豪胆さには舌を巻きます。「佐倉があなたに見惚れてから今日まで一年間、ただ眺めてため息をつくだけの腰抜け男だったが、あいつほど心根の優しい男を俺は知らない。この通りだ頼む。お願いします。今日会いに行ってやってください」 ——氷菓事件の解決パートで糸魚川養子は関谷純の優しい英雄の真実を話し出す前に、折木の人物像を確認するかのように「じっと見た」。折木と千反田が関谷純を「撤回できないことを話すなら、たとえ相手が泣き叫ぼうといまの話は嘘だったとは言えない」人物だろうと意見が一致していたように、糸魚川は関谷純よろしく真実を話す算段を確認したのではないか。失われた氷菓創刊号のことを聞かれたら糸魚川はどうする気だったのだろう。もうだれも興味がない、初めから大して好かれていたわけでもない、ただ当人たちだけで盛り上がってしまった状態だったとしたら、今さら表に出したところで意味はない。神山高校助校長の英田の学力重視宣言もエスパー魔美側から眺めると創立以来の天才であろう高畑のような生徒からは眠たい宣言に見える。つまり大騒ぎする理由がない。個としての学力が母体の魅力を底上げするか、高畑はおよそ興味がない。「学園暗黒地帯」で高畑がガラにもなく身体の危険を冒して暴力と謀略が大好きな連中に説得を試みたのは、所属する団体の名誉のためではない。魔美の母親が高畑の無鉄砲さを聞けば(アホだなと思いつつ)好感を持つのではないか。魔美はさながら高田の馬場に駆けつけた堀部安兵衛ですな。アマプラで見られる高田馬場の決闘を見れるだけみるか・・・。忠臣蔵まで広げるとFateでセイバーのマスターで四十七士ゆかりの品を持っていれば47人の堀部安兵衛を演じた役者が出てきそう。食費で死ぬ。堀部安兵衛、1936年の黒川弥太郎主演の映画は見ていてとにかくツライ。浅野の殿の前で大酒をかっくらう中山安兵衛(中山の家の名は絶対に潰させないと、男と男の、武士と武士との約束を義父堀部弥兵衛としている。)のシーンが見ていてお辛いので視聴を中断していますわい。民衆のヒーローとして本人はまったく意識していないのだけれども、長屋の連中がいてくれてこそのこの俺だ!と、愛嬌だけは通常のサーヴァントの5倍以上のゲインがあるんだよなぁ・・・・(イラネーヨ)。大石内蔵助の苦労が大変に偲ばれる。きっと飲み代も自分の懐から出してやったんだろう(そして感謝されない)。万人から大石内蔵助をやってくださいと懇願されても、私は突っぱねる。江戸に来て遊興三昧をしていた大石を殺意の視線で見ていた安兵衛たち(弥兵衛の心労は極まる)を想像すると侍なんかにはなりたくないですな・・・。美味しいところだけ見えるものです。歌川国芳も近寄りたくないほど屈折していますよ。アップデート堀井は疑う余地がないほどにキレ芸芸人と思われます。ハトノが近寄りたくないのは必然。キレて親しい人の首を絞める現場を目撃したら辛い。矢賀が堀井を推して推して推しまくるのは、屈託と屈折のブレンドが使命によって上書きされている人物と見込んでいるからでしょう。そんな人間がこの世にいるのか・・・? 15代武蔵川はほとんどテレビに出てこないので、武双山や雅山に会える機会があれば、どんな先輩だったのか聞いてみたい気もします。恐れ多くて自分の口から言葉が出てこないとは思いますが。氷菓の関谷純にも、人生で何に一番怯えたかを聞いてみたい。千反田えるの好奇心と自尊心に多大な影響を与えてしまったのだから、それくらいは答える義務があるはずです。矢賀はアップデート堀井が好き、藤井は歌とギタークソうま女たらしクソ野郎の鷹見が好き、鳩野は100年に一人の天才、ロックの申し子と呼ばれているはーとぶれいくのハトノが大好き。最新話「君に語りかける」をちろっと読みました。タカミはナイーブだよな…。セミの幼虫羽化事件でのハトノの主観視点と悪夢とカムバックと殺意を込めた復讐の流れを知れば(知ってどーする)、大抵のことは体力(大事)と時間(大事)と金(大事)でなんとかなりそうと思うのでは。鳩野も鷹見も努力を惜しまない人間なので上記3点が揃えば結果を度外視すればなんだってできる。ただし復讐はなにも生まない。地獄の片道キップだけが手に入る。等価交換? 絶対こいつのほうが間違っているのに 弁が立たなくてうまく言い返せない・・・ 人生あるあるではある。ハトノは気持ちよく人前で歌うことに憧れがあって、まあ、誰よりも好きなんだろう。歌う人が。ただし人並みの羞恥心も鳩野にはあるので、安全装置が解除されていないときは(引き金に指がかかっていたとしても)いきなり公衆の面前でリンダリンダをアカペラで歌いだしたりはしない。ただ、本当に気持ちよく歌う人が鳩野に誘いをかけてきたら、ほいほい土俵にあがる軽率さはハトノにはある。なぜならきっと楽しいからだ。人前で歌を歌うことは。1巻から2巻の鳩野はよくいえば糸の切れた凧みたいな女子高生で、たまき以下なんとなく鳩野を応援したくなったメンバーによる追い風で海の方まで流されていきましたが恨み言を言わないのがエライ。逆に追い風を送ってくれたメンバーに今のままでは申し訳がないと修行を始めるので偉い。鳩野は自分のことをスゴイと思ってくれる人がいるとどこまでも図に乗る女ですが、偉いなぁと思われると「もしかしてわたしをバカにしてる・・・?」と勘繰りを始める鎌倉殿体質なので面倒くさい女です。こういった鳩野ちひろの特性が鷹見項希の兄へのカウンターとして、角度も勢いも体重も、すべてが有効に働いている。怒りのトリガーが軽い。ハトノの母親が娘を見れば、「なにもかもがあの人そっくり・・・(おだてに乗せられたのは私だが)」とロック歌手にちひろが憧れることに不安を感じているのではないか。鎌倉殿の13人は令和4年1月から放送され同年12月に終了している。つまり鳩野たちが谷九に入学したのは令和5年の春と思われます。私は鷹見項希にはほとんど興味がない。好きなことをバカされて反論できなくてもいいのだが、疑問に思ったことをきちんと確認しないで周りの騒ぎに便乗して有耶無耶に済ますのは私の信義に反する。どうでもいいことはどうでもいいのですけどね。鳩野の中学生時代の同級生とのカラオケで泣いて帰った事件も、気持ちよく人前で歌った経験は傷ついていない。鳩野の声質が他の人と比べて変わっているから笑われたのであって、鳩野の歌が笑われたわけではない。鎌倉殿も正直あまり見たくはないのだが、史実なのかあまりにも有名な「頼朝公のご恩は山よりも高く海よりも深い」で奮起した鎌倉東国武士団が朝廷軍を打ち破り京都御所を監視下に置いた事件は興味をそそります。矢賀っちが最推ししている源仲章は鎌倉殿の13人からは嫌われていたようだ…。アップデート堀井の概念を理解するために、源仲章(生田斗真)を知らなければならないのか? なにもかもが間違っている気がするが・・・。鳩野が軽音部の第2次、第3次等、脱会ラッシュに巻き込まれないためには、実際本当の所、鷹見のプロトコルと共同戦線を張るのが最善であるのは明白。なら共同合宿でもするかと話が進めばよい。彩目がズタボロになりながら奮起する未来が見える。他校の軽音部にナメられるぐらいならプライドは捨てるのが藤井です。荘園と国有の財産と国民の税で維持管理しているのだから安売りはできないと本当にいいタイミングで頼朝は死んだ(威張る前に死んだ)と、空前の朝廷からのくすぐりと体罰。俸禄と官位。燃やせる物はエネルギーに換算できる。信濃の木曽の軍勢と坂東の幕府軍で、京の街中での綱紀粛正の差は如実に現れたのでしょう。頼りがいがあると思われるのも面倒を抱えるものです。鎌倉殿の13人を見るのが億劫なのは延々と内輪もめを見させられるのが嫌だからなのですが、鳩野の一押しである梶原景時は坂東武者の中では浮いている存在で、源頼家(二代鎌倉殿)からも見放されてしまう流れはなぜそうなったのだろう?という興味はあります。苦労をしょって本分を尽くす。逆シャアでのシャアがキモいっ!とネットで話題になっていたようですが、それをいうなら逆シャア友の会での執筆陣が持つ富野への愛と憎しみは想像を絶してキモい。富野が俺たちを(以下略)!!!! という常軌を逸した感情が溢れているので正視に耐えない。新選組なら鬼の副長が最後の最期で芹沢の名を口にするぐらいキモい。鎌倉殿なら上総広常なのか・・・ッ(見ればいいのに)。ふつうの軽音部でもアップデート堀井の独演会のチラシ(20XX年)(8月25日(日))に地獄の中でこそ心構えある者には光明が開かれると書かれているので、曇りなき眼でキモさに向き合うのは全人類に課せられた使命なのでしょう。ちなみに令和5年(2023年)の8月25日は金曜日なので、ハトノたちが見た鎌倉殿の13人の放送日が史実通りなのであれば、マンガの舞台である大阪は令和6年の日本であると特定できます。そりゃ暑かろう…。エアコンのない教室でエレキギターをアンプに繋ぎスピーカーでかき鳴らしてでかい声で歌うクソあちぃ青春。正気の沙汰ではない。口には出さないが矢賀がハトノに畏敬の念を持つのはごく自然なことです。平家でいえば平重盛? アップデート堀井が戯曲化された重盛(人は地獄の中でこそ花を咲かせるものである)を任じているのなら、絶対に近づきたくない人種ではありますな。アニメ『小市民シリーズ』第21話「黄金だと思っていた時代の終わり」を見ました。小鳩君の他人をイライラさせる性癖に鈍感すぎる性格はかなーりキテました。他人のお金と他人の権力に鈍感すぎると普通に殺されるので気を付けたほうがいい。浅野の殿のまえで大酒をかっくらい重臣たちには礼を払わず義父の弥兵衛の心労は極限に達するシーンなみに小鳩君の日坂君への気の回らなさは酷い。軽いビンタ(なでる程度)で済むわけがない!!!!!!!!!!! 堂島健吾はどこだぁ! 中山安兵衛は剣の腕前だけは常人の比ではない(OPの高田馬場の決闘が効いている)ので、御前試合で浅野の殿から褒められてしまえばすべてが有耶無耶になってしまう。ホームズがスコットランドヤードの刑事に常時でかい面をしているようにです。ロンドンの労働者階級からは喝采されるホームズですが、小鳩君は日坂君のお姉さんから絶叫(なぜ許されるんだよお前は)を叩きつけられるのではないか。大晦日の深夜の病院の病室で。安眠を邪魔する奴は許さない、、、、とか言っていると万人から吉良吉影認定されそうだ。うまい酒が飲めるかだけが人生だ、と聞かされたら「そのお前を不満たらたらで見ている人のまえで飲む酒はうまいのか?」と問い詰めたくはある。一人だけ切腹をさせられなかった堀部安兵衛? 生涯の禁酒を仲間と殿の墓前で誓うのでしょうが、酔わずに生きていけるものなのでしょうか。鳩野が鷹見を否定するのもただギター演奏が上手いというだけではなく、人前でのステージ演奏に邪念がある(可哀想に…)と認めているからでしょう。なぜか上から目線のハトノ・・・。町内掲示板に事故目撃情報、所属高校を特定し目撃者の情報提供を求む、と張り紙をした小鳩君の行動は堂島健吾がいれば止めさせたはずだ。自分のケツを拭くだけではすまなくなる一線を越えるのではないかと判断したと思う。日坂君が交通事故にあった直後に一緒にいた女性を現場から逃がしたという事実を小鳩君は軽く見過ぎていた。上記掲示板の告知をエーカンのエーコが見た時の衝撃は余人にわかるはずがない。我慢できずに小市民シリーズ6巻『冬季限定ボンボンショコラ事件』を買って読んでしまいました。予想していたよりもずっとずっと小鳩君の述懐が多い! 日坂君に怒られてビンタされたことに、なぜ日坂くんは僕に怒っているのだろうなぜ僕はこんなにも衝撃を受けて動揺しているのだろう、と内なる疑問に答えを出せない小鳩常悟朗。おまえというやつは・・・。日坂君が事故現場から逃がした女性を公開捜査もどきで衆目に晒した件について、「運もよかったけど、ぼくの狙いもよかった」と善意全開だったのも・・・・・・・・どう反応すればよいのだ。日坂君が「俺は充分、不運だった」のになんでおまえは追い打ちをしてくるんだ?俺が知らないだけで恨みつらみがおまえにはあったのか?俺にはわからないんだよ俺の——俺の大切な家族の仲を引き裂くようなことを悪気なくしてくる、その理由が・・・。「放っておいてくれよ。頼むよ」 古典部シリーズの折木奉太郎と小市民シリーズの小鳩常悟朗には共通した美点があり、それは自分をよく見せるために他者を下げるという行為を潔しとしないことです。こう書くと、小鳩君はわりと無邪気に他者を軽く(下に)見ているのではないかと思わなくもないのですが、彼を擁護すると「入り組んだ謎を解いてみせると周りの人たちが喜んでくれる」「その称賛が嬉しい」もっと頑張ろうという前向きな性格をしていて、「長い休日」に入るまえの折木奉太郎と小鳩常悟朗はよく似ています。堂島健吾が小鳩君の善性を好ましいと思っているのは、たぶんそういうところでしょう。奉太郎の場合は面倒な雑務を押し付けられても、それが周りの人たちの役に立つのならと黙々と頑張っていました。 悪の姉、折木供恵も幼少期のホータローには「偉い!さすが私の弟。出来が違うね!」グーだよグー!と褒めまくっていたのかもしれぬ。小市民のアニメ2話を初めて見てますがこれは楽しい。健吾の「へぇ~すごいね。教えてくれてありがとう?」「嫌な奴になったなおまえは」「わからないことがあると解明しようと話しだして止まらないおまえはどこにいった? 今のおまえは腹に一物ある嫌な奴だ」小学校の卒業式ぶりに会って(違うか)「三つ子の魂ってやつだ」「おれはおまえのいうことを信じんぞ」と畳み掛ける堂島健吾はかなりの曲者です。小鳩君が「それはおまえの自由だ」「でも僕には健吾が聞きたいようなトラウマなんてなにもない。ただ自然とこうなったんだ。健吾が理由があって善人じゃないようにね・・・」 僕は小市民だけど健吾と違って善人ではない(理由がない、自然と小市民になったのは僕。理由がある、人の手が加わった非自然の侠客、テレビ映画にでも影響されたのが健吾だ)。ボンボンショコラ事件(を見た)後でこのシーンを見てると、小鳩常悟朗はなにと戦っているんだと笑っちゃいますね。小市民は街中を歩いていて不意に襲撃を受けたりはしない。まして入院先の病院でヒットマンに襲われるなんて、小市民を名乗る資格は最初からなかった・・・イジメか。すまん。そもそもの小市民への志向が良かれと思ってやったことが人を傷つけた(黄金だと思っていた時代)ことの反省から生まれているのなら、善人と小市民は両立するのか? そもそもの話、健吾以外に小鳩の知恵働きを称賛(?)した人物はいたのか。その小市民とやらは小鳩常悟朗の悪癖を悪と断罪できるほど魅力的なのか。いいたいこと、わかるだろう。入須と奉太郎の「何も君に責任を負ってもらおうというんじゃない。・・・歯痒いな」の場面を少し連想する。まあ決定的に違うのは、堂島健吾の場合は「念を押すまでもなく常悟朗の責任だ」「馬鹿馬鹿しくはない」「全部俺がそう思っただけだが・・・」「四角をマルにすることは俺にはできないが、四角四面に見て実行するのは得意だ。これが想像を超えてくるとヤミツキになる」「・・・小学校の遠足の時にラップにくるんだ特大の丸い生味噌おにぎりを古新聞の包みから出してみんなから喝采と蔑視の混じった視線を浴びたことを思い出すよ」「あれは姉貴からも人づてに聞いて姉弟の縁を切ろうと思ったと言われた。本当においしいし癖になるうまさなんだがな。なにがいけなかったんだろうな・・・」安心と平穏を脅かしたからに決まっているだろうが。健吾の姉が年長者の威厳を守るためにキッチンで小声でバカな弟の謎の行動をトレースするぞと小鳩と小佐内に宣言(ほぼ強制)するシーンはいい。おそらく堂島健吾は「明文化されたルール」には従うという不文律を自分に課していると思われる。つまりマナーといった「知っていることが常識でわざわざ明文化まではされていない」行為については、ほぼほぼ自分の良心によってのみ判断しているのではないか。姉を敬うといった行為は後者であろう…。アニメ2話のエピローグで堂島姉弟が機嫌よくケーキを食している場面はきっと何度でも思い出してはくすりと笑うことだろう。弟がケーキフィルムを舐め舐めしているのを興味がない球団の4番がホームランを打ったかのように無視している姉。口にする言葉は小鳩君への期待と称賛。おまえ小鳩君を大事にしろよ…。エスパー魔美、ふつうの軽音部、そして小市民シリーズと、わがまま、自由、恥じらい、無知、厚顔と、わたしは何を書きたいのでしょうね。魔美の父、十朗の絵はアート市場ではあまり評価されていない作品です。ほぼ一般大衆には認知されていないので、評価されていない、というのは業界人しか読まない雑誌の片隅に載っているアート時事の記事にちらりと書いてある程度のはなしで、なんというか、世界で魔美だけが十朗の絵を評価している(高畑もいい絵だと思うとは言っている)のが現状であり、真実なのね。鬼岩城でしずかがバギーの独断を「人間が指示したことを守った」と判断したのも、堂島家の台所で姉の知里が「弟の健吾から挑戦を受けた」と判断したのも、鳩野が鷹見に自分の演奏や歌には目もくれず「セミの幼虫だけ見ていた」と判断したのも、お門違いだったわけです。鷹見説はまだ判断保留案件ではありますが…。惰眠からの使者というか、母親たちが私たちも夏休みが欲しいんだわと思うというか、ヘタクソが努力してなにか意味とかあるの?と鷹見が漠然と思うというか(鷹見自身が観衆から絶賛されることにねじれたよろこびを感じていることを忘れてはいけない)、判断保留と判断委譲が起きていると推測されるのですわ。有無を言わさない本物は存在する、は摩耶花の自説であり青春の呪いみたいなものです。そんなものはどうでもいいから我に惰眠を貪る自由を!(厚顔無恥) クドリャフカの順番を読み返すと摩耶花が「夕べには骸に」について熱く語りあえる人物と神山高校で会えることを熱望していたようで、折木が当該本を読んでいたのを目撃した時の摩耶花の心境はちょっと想像できない。小佐内は和菓子と洋菓子との最高を選ぶのなら後者を選ぶ女なのに進学先は京都の大学にするとか、あくまで次善は次善というスタンスは崩していない。ちょっとどうかと思うレベルで高慢で忘れがたい女性ではあります。次善を口にしている時点で、まだ見ぬ最高とは何か?という謎かけは発生していますね。らーめん再遊記で芹沢が度々口にする生麺と乾麺は別物なのに両者を比較することから逃れられない(メーカー側ではわかっていて世間への訴求力の強さを優先しているようだが…)、生信仰や出来たて信仰は百害の可能性すらある!は、芹沢達也の人生の根幹と関わってくる話にもなります。かふくはあざなえるなわのごとし・・・。生命の安全さえ確保できれば、後に残るのは—— どんなに強く握りしめても いつかは手が離れて落ちる 君も乗るなら 君も共犯 分かるか?今から覚悟を決めろ!(ニッコニコな鷹見。顔面蒼白どころではない・・・)サバシスター「覚悟を決めろ!」より 鷹見の足りない覚悟は他者から奪う覚悟であり、奪われる覚悟ではない。 小鳩君もわりとそうだ。健吾の殺しても死にそうにもない常悟朗、というのも、殺意を向けられても謝辞で返す小鳩常悟朗を小学生の時分に複数回目撃したことからきているのではないか。感謝と祝福を届けようとして拒絶あるいは侮蔑で返される。個人差はあれど、集団生活をしていれば必ず発生するイベントです。そこに疑問を持つと相手と自分の正気について、結構なマージンをとっておかないと社会生活を円滑に進めることができなくなります。親子や兄弟姉妹の間では他人よりも遠慮がなくなりやすい。昨今の多発する詐欺事件も、根絶できない理由の一つは相手の正気を公衆の面前で疑うのは控えるというマナーが広く世の中に浸透しているからではないでしょうか。含み笑いは死に直結しない。倉に米が整然と大量に備蓄されていることが評価の対象にならない。おにぎりを持参して出かけることもここ数十年来なかった。客を客と思わぬ。死ぬときは礼儀正しく死にたいものだ。蟄居の意味合いも社会的死を考えるとイメージが変わってきます。我は拒絶する…。こんにちは。お元気ですか。郡山養子が快刀乱麻を断つべきだったのではないか、他者の含み笑いを見て、見ぬふりをする関谷純に甲斐性の無さを感じていたことを。神山高校の三十三年前の運動、『六月闘争』を炙り出した折木奉太郎に不気味さと恨めしさを感じ、復讐者が湧いて出たと認識したのではないか。鎌倉殿の13人もつまみ見をすると、梶原景時が頼朝に天運を感じて大庭景親はそうでもなかったらしいと見えてきて、主役のはずの義時はただの雑魚に見えた。ハトノの「なんだかわからんがおまえは駄目だ」は坂東武者っぽいです。鎌倉殿のパワーバランスは誰がどう見ても、上総広常を味方にできるかどうかで機運が決定していた。対外への見栄え、担ぐ神輿の見極め、内輪の統治ができるかの見定め、配下からの信頼、義時の右往左往ぶりは広常を満足させたことだろう。「面白いんだろ。愉快なんだろ。どんな気分だ今」「武衛は坂東で満足している俺たちとは違う。(不平不満しか言わない)御家人なんざ使い捨ての駒だ・・・」「法皇様だって目じゃねえや」(キ、キルヒアイスぅ・・・・・・)遷都を可能とする権力を最終的に征夷大将軍が手中に収めるまでの物語だともいえる。家康は外様と譜代の色分けと各藩の財務状況を生かさず殺さずに削り取ることに注力したようだ。頼朝を尊敬していたのは嘘じゃないはずです。甲斐源氏の武田はとにかくいいポジションにいますぜ…。金と米と馬だ! 頼朝は東国武士の力を我が物にしなければ何も始まらない。捕らえられて首を落とされたら終わりなのだ。鼻持ちならない源氏の棟梁(頼朝)を千葉常胤らは「懲らしめて」やれと謀反を企むのに上総広常は「親父の敵を取らせて」やろうと度量の広さを見せる。頼朝の父、源義朝は坂東じゃ超有名人なのでしょうが、どんな人物だったのやら・・・。上総広常が斬首した大庭景親の平相国への筋の通し方は、ある意味頼朝から見た理想の御家人そのものではある。喜んで規則や規制に雁字搦めになってくれそうな有力者。鼻持ちならなさは人の上に立つ者に必要な資質だと大庭景親は思っていそうでした。ただの馬鹿は論外。序盤のカチコミ話で義時がひたすら影が薄いのは実に当然のことでした。頼朝が論功行賞のやり方を義時に教えるのは、よくよく考えれば本当に信頼していたのですな。(与える物がない有力者などこの世にいていい存在ではない) 草笛光子が演じる頼朝の乳母、比企尼(ひきのあま)がドラマに出てくるまでは本当にアイツ(頼朝)どうでもいいわと見て思っていましたが、彼女が義時に「北条殿、その者たち(比企能員とその妻の道)のいう事など気にしないでください」「まともに聞くことなどありませんよ」「佐殿にお伝えください」「比企尼はいつでも、殿をお待ち申しておりますよと」 べたべたに甘やかし過ぎだぁ。だから生まれと育ちの良さに嫌みがないのですよ佐殿は・・・。「鎌倉殿の13人」の2話の時点では頼朝に平家打倒の志などない。どうにも父親や叔父にこの世からいなくなってくれたらどんなにすっきりとするだろう(平家もいなくなればなおよい)と漠然と思っていたフシがある。義時と違って頼朝は黙っていても女性から好意を持たれる、ぶっちゃけ頼朝の前半生の運の良さとは、女性運の良さであるといえるはずです。金と米と馬だ!(うんざり) 戦大好き義経は、頼朝と幼少期の京都での暮らしで何にうんざりしたか、いとにくきものを肴に歓談していれば、義時を小突きながら酒を飲み交わしていれば、よかったですね…。 「私だっていとにくきものはあります!今だってそうです!いとにくきもの!あなづりやすき人ならば「後に」とてもやりつべけれど、さすがに心はづかしき人いとにくくむつかし!失礼いたしました!!」 比企能員が比企の本家嫡流ではなく、政子が比企の顔を潰さず伊東の館にクギを刺しに行く(祐親の耳に入れば無事で帰れるはずがない)のは面白かったですね。義時のふんだりけったりは誰のせいなんですか?とまあ言いたい。ただまあ、誰がどう見ても、北条が源氏嫡流に最大加速で接近している状態なので三浦の方から超嫉妬光線が出ているくらいは気にかけてもいい。兄弟の仲が良いというのは、本当に素晴らしいことだ。義時のふんだりけったりは誰のせいかといえば、兄(宗時)と父(時政)のせいです。兄を敬い姉を心配し父には呆れ、所領の安定統治に黙々と精を出す小四郎(義時)は頼朝に好かれる要素が多分にあります。 あの伊東祐親に頼朝が好かれようと努力したのかもしれない(しなかったかもしれない)のは想像するだけで笑えます。義時から「出ていってください。北条から」「源氏の嫡流とかどうでもいいです。優しいお母さん、美人で気立てのいい恋人、食事に文句を言えて朝風呂を用意してもらえるご身分、あなたにはもう欲しいものなんてないじゃないですか」「なにが可笑しいんですか」 「源氏の武者として京に居られる身分であればな。平家との戦いに敗れいつ殺されてもおかしくない暮らしを京でしてきた。生殺与奪の権を握る相手にどう好かれるかを考えて暮らす生活。今のわたしに「北条から出ていけ」と小四郎は言った。今も昔も、わたしが欲しいものはひとつしかない。皆が安心して暮らせる源氏の世だ。その中でしか、わたしは安心して暮らせない」「それをかっこよく言えば、挙兵して都に攻め上がり平家を滅ぼし法皇さまをお助けし源氏の世をつくる、ことになるな…」「絵そらことに北条を巻き込まないでください。源氏の世になれば飢饉は起きなくなるとでもお思いですか?」「神や仏に祈るのは神仏にすがりたいからではないのか。坂東の者たちがわたしを佐殿と呼び慕うのはひとえに法皇さまが持つ神通力におすがりしたいからだ。絵そらことというなら米の不作を源氏のせいにするおまえも己の立場や責任から逃げていることになる。ままならないことではあるが」 小四郎が他の坂東武者たちと決定的に違うのは頼朝が持つ権力中枢への、より豪華な美味しい食事をたらふく食べて美酒をかっくらって安心して寝る、配下にも恩着せがましく生活する楽しみを提供して一族が繁栄する夢を見させる、といった都への渇望があまりない点にある。とにかく父親の時政が正直すぎる坂東武者(死ぬときは死ぬし、生きている間はいい生活をしたいし、家族からはちやほやされたい)なので反面教師であり、死んだら終わりという生き意地汚さを持たなければなにも始まらないと義時は学習している。家族の話ですよね。武士の高潔さをシステムに組み込むのなら、理想の死に際を教科書に載せるに限る。所領の安堵と土地の再分配と・・・。舅殿はわたしの欲しいものを全部持っているようだ。鳩野も鎌倉殿の13人は居間で母親と見ていたのでしょうから、娘が梶原景時を推したのに対し、母親の方は誰のファンになったのでしょう。大庭景親なのではないか。脇の甘さに惹かれるとみた。アノトキヨリトモヲコロシテオケバヨカッタノニ・・・ 北条と伊東の仲裁にやってきたのかと思いきや、「いいぞ。やれやれ。俺が見届けてやる」と喧嘩をけしかける大庭景親なら上総介と気が合いそう。もちろん北条と伊東の共倒れを狙い、領地はおいしくいただく。将来的に新田開発と商業の発展まで言い出したらニセ徳川家康の出来上がりだ。坂東統一、奥州藤原氏との連携、平家軍の自滅、源氏嫡流のモグラ叩きとやること多過ぎで目が回りそう。梶原景時は身命を賭して働いてくれそうだが。平家打倒のシンボルとなる神格化エピソードは必須です。なにかあるかな・・・。やはりあれか。穴を掘ると温泉が湧き出て、川に小便をしたら砂金になり、サツマイモの栽培を奨励したのだ。くっくっくっく・・・。時政の対大庭への口上は「かねてより言ってみたかったから言った」だけで、頼朝のことなんて1ミリも考えていなかった。愉快だ。上総介に「おまえなんかいらん。正々堂々と戦って殺す」が殺し文句になっているのも同じく愉快です。坂東には馬鹿しかおらんではないか!!! 千葉常胤がそうであるように、堂々たる合戦での戦働きは武士の誉れであり源義朝やその父の為義の西国での暴れっぷりは好き嫌いを超えて坂東武者に影響を与えていたのでしょう。頼朝が義経を恐れるのは源平合戦での武勲を考えれば、あまりにも自然です。あと何回も擦って申し訳ないのですが、時政は自分がキモチイイのならやる男で、他人の為に苦労するなんざまっぴら御免(主君の為に身命を賭す、とかアホだと思っている)と考え、そして自分は一国一城の主だと自認しています。調子のいいことを口にして約束は破る。ただ身内と判定している者には情が深い。おまえなんざ使い捨ての駒だ…。頼朝における安達盛長のような忠臣は鎌倉殿の13人の世界では砂金のように希少なのです。上総広常と千葉常胤は鎌倉勢最大の立役者であり、頼朝は神輿の上で揺られているお飾りにすぎません。千葉殿はスヤスヤお爺さんの印象もありますが、誰よりも現実主義者の一面があったはずです。ふつうの軽音部でたまきが「軽音部は気持ち悪い」と常々思っていたと告白していましたが、「源氏はうっとうしい」は坂東武者の総意ではあるでしょう。佐竹氏の扱いがぞんざいなのもその流れです。「軽音部は気持ち悪い」「源氏はうっとうしい」「佐竹氏はズバっと斬る」と、頼朝の気の休まる場所はこの世にはない。征夷大将軍の役職、称号も豊臣政権時代の地ならしがあってこそ、初めて有効に家康が使えた側面がある。返す返すも時政の「苦労のわりに実入りが合わない!」は頼朝が最も嫌う考え方であり、「あー!!もう心が折れた!やめだ!やめだ!!」は(以下太字)石橋山の戦いで無為に兵を殺し一縷の望みで再起しようとしたが雑兵がわらわらと現れて首を狙われるので雑兵を皆殺しにしておいていわく、「心が折れた」なので、開いた口が塞がらない。不満たらたらの大庭の首をチョンパしたかっただけなのにっ!!! 義時が坂東武者に愛想が尽きないのは「父と比べればマシ」「兄上はあの父を全部呑んで行動していた」「最終目標は平将門といって過言ではない」(地獄ではないか)と支離滅裂で破綻はしている。時代劇の陰腹を見たあとに鎌倉殿をみるとなんともいえない気持ちになります。時代劇でヒーローが何十人、何百人と、息一つ切らさずに斬殺していく現場から悪党の部下たちが逃げ出さない、最後の一人まで主君に忠義を尽くす(正気で現場にいられるはずがない)のは異様なのですが、将軍を頂点とした武家社会でのドラマでは、鎌倉武士から連綿と続く土地をめぐる争いが下地としてあるのです。封建社会の封建とは、まさにそれです。ガンダムでいえばビームライフルの光線が装甲を溶かす理由は土地に縛られて生きるのは愚かだという反逆エネルギーに由来するのかもしれません。エネルギー問題は絶対に解決してるよね、あの世界。絶対に生まれて絶対に死ぬのね。鎌倉殿の13人の梶原景時は史記を読んでいるだろうし、伯夷列伝も知っているだろうし、天道、是か非か、と呟けば必ず乗ってくる。生産性のない土地や人間に、価値はあるのかと(逆の場合は論ずるまでもない)。頼朝に天運を見たとか、常時、ギリギリな男ではあります。頼朝、義経の兄弟とあそこまで関わってしまうとか、悪の天運を持っているようだ。え?逆だろうって? そうかなぁ・・・ すべてを度外視して考えてみると、舞台の上であれば裏切りほど見栄えするものはない。悲劇が人を惹き付けるからこそ、情けと忠義がより光り輝く。裏切りが常態化すると常時下痢をしているようなもので、ほぼほぼ衛生観念なんてどうでもよくなる。ロボットアニメでいえばゼオライマーが基準となっているようなものだ。維持コストも全体全滅技もそれが普通だと言い張るのであれば残るのは人間関係だけになるだろう。目的のために手段がある。頼朝と上総広常との間に起きた悲劇の根本はそこです。親の敵討ちすら頼朝には手段だったのですが、わざわざ上総介に説明する馬鹿はいない。あまりに図星を突くと殺されても仕方がない。土地の支配権が安定していると、義理や人情に気持ちを持っていきやすい。銭形平次は長屋の住人から大家の横暴を懲らしめてほしいとの依頼は受けない。結局のところ、江戸の将軍さまのお膝元とは何か?という話になってしまうからです。町人の祝言に武家社会が(ぱっと見には)関わらないのも江戸社会の安定のためです。人情がないからではない。上総介の「法皇さまだって目じゃねぇや」は本当に核心だったのね。おもしろおかしい人生だと、頼朝は後白河に肯定してほしいのだ。それに比べれば源氏の世を取り戻すことなんて些事でしかない。じつにまっとうな人間ではある。もちろんそれは源氏の嫡流という驕りでまわりの人間を散々にカス同然に扱ってきた報いを受ける覚悟が頼朝にはあるよね?という当然の疑問に答える義務を(頼朝は)持っているのだろうという期待を込みでの感想です。「武衛の頭の中は、父親の仇を討つことしか考えていないんだろ。違うかい?」(頼朝、微笑で返す) ガンジーが愛読したインドの創世神話のお話はなんといったっけ・・・ そもガンジーに男兄弟はいたのだろうか。感謝したいのか、感謝されたいのか。鎌倉殿の13人の劇中で一ノ谷の戦いにおいて愛馬を谷底に落とす(義経曰く、鹿が大丈夫なら馬も大丈夫)作戦に異議を唱えた坂東武者はいなかった。梶原景時は結局どうしたのだろう。鳩野が梶原景時を推す理由の一つは、生前にやりたいことができなかった、みんなの前で坂東武者として活躍し称賛され八幡大菩薩の化身よと言われなかったことの無念さに我が身を重ねているのではないか。み、みろよハトノだぜ。はーとぶれいくのハトノだ…。あの八幡大菩薩の化身と呼ばれている・・・? (鶴の理想とあながち外れてはいない予感…) まどマギのほむらもくつがえることのない地獄をなんとかしたい一心で行動していましたが、そもそも地獄とはなにか、なぜ地獄が発生するのか、なぜ誰のものでもない名前もついていないものに固有の名称がつくのか、代替可能品としての地獄(一般的に地獄とは安心を求める場所ではない)、比較検討可能な地獄、持続可能性を考慮した地獄と、スラップスティックな地獄(京都とユーゴスラビアには親和性を感じる)はそこかしこに存在しているのではないでしょうか。2010年に放送されたアニメ、ソラノヲトで主人公カナタの直属の先輩リオは血の呪いから逃れようと七転八倒するキャラクターでした。今思うと通信兵のクラウスをリオが軽んじていたのは責任のない偽物でしかないクラウスのことを少し羨ましいと感じていたのかもしれませんね。偽物が本物の真似をするのはピエロそのものなのですが、クラウスが砂漠の狼(笑)を演じきったのはリオの自分の中にあるクソみたいな部分(全部他人のせいにする)が本当はどうでもよかったと気付く契機になっていました。目的と手段は違う。本当に影の薄い小隊長フィリシア・ハイデマンがリオのクソみたいなところも全部含めて献身的なサポートをしていたのは、今になると奇跡的な出会いだったのだなと思う。よく手をださなかったな・・・。お盆の回でリオは灯篭流しに参加していたのか、いなかったのか。していました。フィリシアのリオの悩みに意味なんてないと思うと言うのは、なかなかの爆弾発言でした。フィリシアが弱り切っていなかったら喧嘩がはじまったのではないか。死者と生者の関係に他人が口をだすな!はリオのクリティカルポイントなので(思えば小隊全員がそうだ)、脚本の妙というか、全然お話に関係なかったじゃん!と思う1話の首のない巨大天使も、弱り切ってなかったらきっと大戦争がはじまっていましたな。時の小隊長は変な性癖を持っていなかったか、否か。持っていただろうなあ・・・。目的と手段は違うが、スペックと相性は絶対なのだ。リオからこの地上における最低のゴミ、耳カスの詰まったダボがぁッ!!と罵られてもカタログスペックの数値に憧れる気持ちは止められない。湾岸ミッドナイトの平本とは来世まで相容れない壁がある。目の前に極上のベースカーがあったら、それがガラス一枚の向こう側にあるとしたら、それは夢中になってしまうでしょう(映画D&D2023年版)。リオが素直になると「逃げて逃げて逃げて逃げて、ついに世界の果てまで逃げてやったぞ」と自嘲し、そして大切な人たちを想って逃げることに罪悪感を感じてしまう。ソラノヲトでは中央政府を打倒しこの地上に楽土を建設するのだ、といったテーマは出てこない。砦の乙女たちが逃げてきた堕天使を匿い、天使の仲間たちが逃げた同胞を取り返しにきてひと悶着がありカタストロフが起きかけ、堕天使の宣言によって騒動は収まる。世界はほぼ終わる。天使群が人類を滅ぼさなかったのは、砦の乙女たちにより懐柔された堕天使から得体の知れない感傷を角笛によって呼び起こされたからである。時政⇔頼朝、上総介⇔頼朝ラインはエスパー魔美の周囲の人々からチヤホヤしてほしい、チヤホヤされたいという単純明快な欲望と比べて、同じ惑星上の出来事とは思えないほどに離れている。ちやほやされることは馬鹿でも嬉しいのか?と問えば、魔美なら「うれしいに決まっているじゃない!!」「もしお年玉をもらって嫌な顔する子供がいるならあたしが説教してやるわ」「ただし暴力を肯定していい気になっている子供がいるならあたしが天にかわってやっつける」「なにごとも人にはブンソウオウってものがあるのよ」と褒められてこそ人は育つのだと言うのではないか。悪い人間にひっかかりそうではあるが。高畑に褒められて有頂天になっている魔美はかわいい。魔美の父佐倉十朗は娘の気立てを好ましく思い同時に心配もしているのですが、「いまの芸能人と比べても魔美が一番美人だ」と娘にいうくらい親バカなので魔美が人から褒められることへの耐性のなさ(自己への客観性のなさ)は佐倉十朗に多くの責任があります。正義のエスパー、という看板をしょって立つ魔美の気概は、そのようにして幼少から育まれてきたのです。パパはあたしとママを幸せにしてくれている(金はないが)。その生涯を賭けて取り組んでいる絵画は世界的名画に勝るとも劣らないはずだ(誰も欲しがらないが)。よってあたしは—— 正しく魔女の系譜に魔美はいる、と実感しますね。呪術廻戦の羂索に娘がいたら魔美みたいな子供なのではないでしょうか。土地の呪いに魔美はほとんど影響されていない、という点は稀有であるといえるでしょう。ヴィランとヴィジランテは本質的に同じものだ、というのは魔美の母親の基本的な社会の見方であると思われます。社会から見て気味がわるい存在は、社会の枠に収まらない、収まろうとしない存在である。社会的存在だと自認しない人間は、なにをしでかすかわからないから。ここで「雪のふる街を」事件を思い返すと、美大生だったころの十朗の挙動は不審者のそれだったので魔美の母親の度胸と好奇心は底が抜けていることがわかる。人様の役に立つことと社会の役に立つことは似ているようで違うことがある。絵画鑑賞が人生の役に立つか、社会的に意義があるかと問われれば、そんなことは知ったことではない。「おい聞いたか!あの雪女、明日郷里に帰るらしいぞ!地元で見合いをするらしい!!」と一度でいいから焚きつけてみたいものだ・・・。アニメとマンガを両方見た人なら知っている話ですが、十朗の美大時代の友人はあそこまで雪女に告白しろと煽っておいて「——で、あのあとどうなったんだ?」と二十年後に聞いてくる(マンガ版)ので本当に興味本位で行動していたのですが、アニメ版ではそりゃないだろうということかブラジルにいる叔父の事業を手伝うから俺の禍根を残さないためにも雪女に会えと言い残して日本を離れるというオリジナル展開があったりします。おまえ自分の直感を信じるって言ってたじゃないか。いや~でもほら、僕は金も地位も名誉もない絵描きの端くれのそのまた卵みたいなものだから、さ・・・。彼女に告白してカップルになるなんて神をも恐れぬ所業というか・・・・・・。いい加減にしろマヌケ殺すぞ。 呪術廻戦で領域のはじまりは両者間にあるルール理解の齟齬を、より洗練された領域が支配することでお互いが強制的にルールに納得する相互理解の手段だった(相撲やろうぜ相撲)ことは、まあ、大好きなんです。現在「ふつうの軽音部」では突発ゲリラ型青春タイフーンの発生を目論む鶴の野望が正に実行されているのですが、鶴の野望の原動力はたまきが経験した弱い自分が臆病ゆえに本当にしたい言いたいことを我慢して他者とぶつかり合ってしまった痛みを自分で感じていた歌の感動として他者に伝えたい(相当に変態的ではある)という、感動の伝道師として壊れるまで突っ走りたいという欲望から来ていると思われます。カタルシスとは弱さゆえに生まれるのだ!!!!! 髙羽の術式と鶴の野望はダブるところがありそうです。欲しいものが手に入らない、欲しいものは他者から与えられるものではない、欲しいものとは自分と相方だけでは手に入れることができない、そもそもが領域に"必殺"とかを付与した馬鹿のせいでお手軽に領域で遊ぶことができなくなった(髙羽の擬似領域も観客と審査員の笑いが術式効果で「必ず笑って」いるのかは不明。羂索の調整でどうとでもなる状況だった可能性はある)、笑いの感情が乗る客席の温まり方は羂索の永遠のテーマ(死ね)だと思う。義ゆえに戦い、義ゆえに死す()。桃が鷹見にあまり含むところがないのは、基本、鷹見が強者に見えているからで弱者が弱者のままでいいという態度を鷹見が桃のまえで見せれば、一転して侮蔑の対象になり得ます。強者とは何か?は鷹見の一生課題なので、桃はわりと天敵です。弱いふりして我を通すのは桃のまえでは鬼門なのです。田口が「? 音楽なんて遊びやん」と鷹見の最大級の地雷を踏み抜いて無事でいられているのは、約束されたモラトリアム空間である谷高が鷹見の傷心を癒す場であるからです(たぶん)。すべてがしゃらくさいですね。楽器店でおしゃかしゃまのイントロを弾いていた鷹見を目撃している鳩野もずっとそう思っているはずです。姉を誘惑した頼朝を義時が見てしまっていたら、ハトノと同じことを思ったかもしれない・・・。(この人はわたしを破滅に誘ってくれている)のを魅力的だと感じてしまうのは、カリスマなのだという他ない。内田桃の愛読書であるという「コンビニ人間」村田沙耶香、著を楽しく読んでいます。36歳になった「古倉さん」こと「私」は1998年(平成10年)5月1日から2017年(平成29年)の5月1日まで、同じコンビニ店舗で週5日出勤のバイトを19年間つづけるという変人(偉人)です。店長はオープン時から数えて8人目なのだそうだ。内田桃と「私」が似ているのは大勢の価値観を尊重し大切にしている人格者である、コミュニティ内の和を乱すことを嫌う、自分が異常者であることを理由に両親を悲しませたくない(内田はわからないが)、物わかりの良すぎる妹がいる(内田は姉(!)と弟だが…)、社会の一員として相応の責任を果たしたいと願い、かつ行動している(こんなわたしを誉めてくれる人たちが社会にはいる。あの人たちのような気持ちの良い人間になりたいとわたしは思う)。ダメだ笑う。わたしをナメた奴のアタマをカチ割るくらいの気分でヤる。鶴の大好きな遠藤周作『沈黙』もふつうの軽音部のせいでまともに読めない身体になってしまったかもしれない。桃がハトノを好きなのは神だからではない。どちらかというと負けっぱなしのグズっぱなしでいるのならヤるほういい、という危険思想に目覚めたからです。知ってた。川崎の暴れ馬とはラチッタデッラというねん。コマでいえば自重に耐えきれない鈍重独楽のように見えてバンドメンバーが揃うとアホみたいに回る(駄馬などいない。名伯楽がいないだけ)それが鳩野ちひろ。独楽は働かないよ。・・・・。もしかして『沈黙』好きは鶴じゃなくて厘だった?ヤベエジャアナイカ 「みんなと青春したいです!」と書いておいて「沈黙サイコーです!」は筋が通らないだろう…。逃げる用意をしなければ。はーとぶれいくのバンドメンバーは桃が大道と乃木と同じバンドメンバーとして交流し、鷹見と乃木との破局が遠因となりバンドが解散した事実を知っています。死ぬほど興味本位な表現で内田桃を解説すると、同じバンドメンバーの女子二人が彼氏を作って充実した高校生活を送っているのを見ていて人として置いていかれている(ただし大道と乃木を応援し祝福したいと心から願っている)ことに焦燥感を持ち、自分は社会的な人間ではないのではないか(欲しいものが欲しいと駄々をこねる人間は子供だ。わたしが優希と舞伽にバンド活動を中心に考えて行動してほしいと願うのは子供が駄々をこねていることと何も変わらない。人は子供のままでいてはいけないのだ…)と自傷行為に似た自省を繰り返す見た目一軍女子が、はーとぶれいくに加入する前の内田でした。内田の"みんなと一緒に(≒おなじで)いたい"という強い願いは、舞伽から「私から鷹見くんを奪った藤井さんが桃と一緒のバンドで仲良くするのを私は見ていられない。自分が最低の駄々をこねる子供なんだと思い知らされて本当に嫌な気持ちになる。だから桃と昔みたいに仲良くすることは、私にはできない!!」と宇宙移民側からコロニーやアクシズを落とされる連邦ハト派の重鎮みたいな事態を生み出しました。わたしも誰も気にもかけていないことですが、「恋が破れたからといってバンドまでやめるのは違うのでは?」と、鷹見も内田も同じことを言っています。オリジンでミライの父親が言っていましたが、本当は皆、心のどこかで戦争を望んでいる。戦争がしたくて堪らないんだ。(そして皆、いいところで止められると思っている。)ランバ・ラルが落ち目の父親を生存させるためにドズルの誘いをギリッギリまで断り続けるのは、尊敬よりも笑いが勝つんですよね・・・。舞伽が中2の桃に告白して玉砕した武田くんを「普通にイケメンだと思っていたけどよく見たらイケメンじゃないし寝グセが酷くて私服もダサイ」(ココな)と桃に好意を寄せた武田を見えない刃物でズタズタにしていましたが、本当は桃は「(好意を寄せてくれた)武田を気持ち悪いと思う私を気持ち悪いと思わないで、ずっと友達でいてほしい」と武田なんてどうでもいいからずっと私と遊んでほしい(子供だ)とこっそりとお願いしていたわけで、彼氏いない歴=年齢の鳩野と矢賀コンビ(すまん)では、よく食べてよく遊んでよく寝ればきっと元気になるよしか言えなかったのはまあ、当然です。大道も見誤ったことですが、桃も舞伽も、サウンドスリープを最上の場所だとは思っていなかった、居心地がいいのと心身が重篤な状況下での避難先は違う(後片付けをしなくても優希がなんとかしてくれるのが前者で、他者からの救援が見込めない生きるか死ぬかの現場が後者。ハトノはわりと血風録寄りの女)。厘のハトノプロジェクトも導火線と火花には大道に目をつけているっぽい。いやおまえ人のことなんだと思ってるんだ…。困難さよりも気持ちよさが勝つ、何を困難とするかは人それぞれの人生観で差が出るのですが、気持ちよさでいえば大した差はでないはずです。人の欲望は4000年前くらいからあまり変化していないのに対して、困難や不幸のバリエーションは増える一方です。遠野元もきっとそう思っていることでしょう(無理やり)。鳩野ちひろのステージ上でのくそ度胸は困難や不幸を燃料にしてギター演奏と歌唱力によってそれがどうした私はこんなに幸せだ(気持ちいいぜこんちくしょー)と恥をさらすことによって実現している。理屈でいえば鳩野が自分のことをみそっかすと認知(鷹見が尊敬する兄のことを悪く言って自己嫌悪しているのに、周りは名実ともに人生勝ち組だねと鷹見を持ち上げるのとは対照的に)すればするほど、たまきや鷹見にありがとう私は幸せです!と感謝を届けているので実に気持ちのいい女だといえるだろう。鷹見は違うか。最新話の第76話「その感情を知る」で嫉妬という言葉が出てきました。鳩野が内田に向けている感情は本当に好きと書いて尊敬なので厘がぽけーっとしているのは少し解せない。たまきへの感情は本当に尊敬しているです。幸せの形は平凡で多様性がない。セミ事件は鳩野が訳も分からずに頑張って頑張って何も覚えていないところに「はとっちの肩にセミの幼虫がついていて、それがめっちゃ面白かった!」と唯一のお褒めの言葉を鷹見からもらうという、「噛み潰してみろ。わたしという不幸を」事件であったわけですが、鳩野には人生を左右する一大事件であったとしても、鳩野の母親や父親から見れば人生のスパイスの一粒くらいであったことでしょう。娘が元気でご飯を食べて生活をしてくれれば、高校の部活での恥の掻き捨ては軽い笑い話くらいでしかない。「いやー常識的やわ、はとっち」だけは鳩野の母親が聞けば「ヤっていいぞ」と言うかもしれない。あの夏の日の殺意だけは、わたしのものだ・・・。思えば虎杖に嫉妬という感情は限りなくない。ある種の無下限ですわ。伏黒が虎杖に重すぎる感情を持っていたのも、津美紀と同じで善人には幸せを享受する権利があり、それは悪人に蹂躙されることのない人生を送ることだ(魔虚羅調伏を最初から諦めているのに大それた野望。宿儺に思いっきりその身の丈に合わない野望のスキを突かれた。魔虚羅調伏は五条とペアを組めば不可能事ではなかったはずだが目的のためには手段を選ばないとまで振り切れないのが伏黒恵)と人間千手観音を目指していたのでスゴイ(ちょっと馬鹿にしてる)。最終回以降の伏黒は魔虚羅を使役できていたのか、使役可能であれば人類特異点を体現しちゃってるのでたいへんにまずい(ゴーゴー)。イナーシャルキャンセラーを常時発動する(毒すらも次々と克服している)最強呪術師とかいたら五条悟も乾いた笑いが出て止まらないだろう。呪術廻戦を1巻から読み直すと病院で亡くなった祖父を虎杖はゆっくりと見送る時間もなく宿儺戦へと突入するので、祖父の死を悲しむ余裕がまったくなかった。呪術師の規定で本来死ぬはずだった虎杖を伏黒が私情で助けてしまい、そして宿儺が伏黒に得体の知れない興味を持ってしまったので、虎杖は身内の死を悼む間もなく伏黒の爆弾、兼相棒として呪術師として死線に立つことになる。親しい人の死を悼む時間。呪術高専の学長の夜蛾(やがっ!)と祖父の死で問答するシーンが第3話「自分のために」であるのですが、よくよく考えると唯一の肉親で育ての親ともいえる祖父を亡くしたばかりの高校生に、「死ぬ殺すばらすが当たり前の狂った職場で働くのを祖父の遺言(と書いて「指図」と呼ぶ)だからやる? 呪術師として死ぬときも祖父のせいにするつもりなのか」と学長を名乗る男が悪魔みたいなことを言ってました。呪術高専に入学する生徒は人間として最低以下の末路になってもいいから呪術師になりたい、という動機が必要なのでそうしているのですが言っている内容がとにかく酷い。小説『コンビニ人間』で「役に立たない人間はここ(コンビニ)では修復されて消えちゃうんですよ?」と白羽くんに言う古倉さんなみに酷い。システムに迎合する気はあるんですか、と悪気なく聞いているのですが呪術廻戦では呪いの王が主人であり、コンビニ人間では社会生活の基盤が主人なのです。呪術廻戦の最終巻を読もう。読んだ! ザリガニ釣りで負けるのが怖いのか呪いの王。ふん、乗ってやる。見ろ俺の方が大きい! あ、それアメリカザリガニだからノーカン。ニホンザリガニの方がレアなんだよ。「あ゛?」「お ?」 領域内のルールにはきちんと従う呪いの王。いや、なんなんだこの領域…。本編では東堂が無駄に使い切ったとも噂される術式の開示(は嘘偽り)を最後の最期で主人公が本心、真心から宿儺に提示したともいえるかも。今後は俺のルールの中で俺と共に生きてみろ。殺さないでやる。寂しさを肯定すると呪いではいられなくなる。対比の問題ではない。嫉妬と政治は切っても切り離せない。内田桃が恋人と別れたからバンドも辞めるってのは絶対に嫌だというのも、ド究極の我儘をいえば人間関係のすべてが壊れたとしても、わたしの趣味に付き合えという王様宣言に他ならない。鳩野の水尾への恋心に内田が二の足三の足を踏むのは当然なのですが、小学生の内田が「つまらんことでギャーギャー騒ぐやつはアホ」という態度を隠そうともしない子供だったことには留意されたい。もちろん私は逃げる。 他人の恋路の成就を願う、というのは氾濫するかもしれない河川の工事を緊急で行うようなもので義務も責任もないのなら放っておくに限る(通報すら躊躇われる)。彩目がなんとなく遠野と桃にちょっかいを出したくなったのはヒマだからなのでしょうが、自分が鷹見から声をかけられた理由が「ギターなら藤井がいいんじゃないか。あいつは上手い」と遠野が言っていたからだとしたら、彩目はどう思うのだろう。嬉しいのだろうか・・・。術式の開示がひゅーっとやってひょいな?ひゅーひょいっ ほらやれ、で済むなら誰も苦労はしない。家電の話と直結しそう。ゲルマニウムラジオをはじめて見て聞いた時は、わりと文明観を揺さぶられた記憶があります。アンテナをうまく張れば音はより鮮明に聞こえてきたはずですが、生来の無精さが勝ち創意工夫の発露は起きませんでした。ここが難しい所で無視することは許さない、他者と価値を共有する、水田の畦道の管理権は自・他・共、と強固に見えて曖昧な状態である(今話題の改正鳥獣保護法の実施も根本的な問題は「誰が責任を取るのか」が曖昧な点にある)、たまきが意中の人物から結婚する話を聞かされて「あ、ごめんね。言ってなかった?」と自分がコミュニティの中にいない人間なのだと思い知らされたことと、状況はまったく同じです。喜田は本当にイケメンです。彩目は自分が望みもしない王子様役を振られてやらされる羽目になる可能性があります。なんで? イノシシやヒグマの子供にちょっかいを出すと母親に殺されるのは知識としては知っていても、実際にやってみる馬鹿はそうそういないはずです。いないはずです。藤井彩目は本作の登場人物の中で、告白され(←本人の中では)告白し返して(本人の…)その相手から一方的に破局を伝えられ、その後殺意を持って元交際相手と相対している貴重なキャラクターです。遠野元には藤井彩目は人間が持つであろう情緒の理解を超えている人物と見えているはずです。それもこれもなにもかもすべてが、内田桃にキモいやつと認識されたくないという遠野元の保身から来ているのですが、「あ、そうか 元は桃以外の女には興味ないんか」(ちょっと性格が悪すぎたか…)は言葉のナイフの先が鋭利すぎるのね。獲物を奪うのにまわりを見て躊躇うやつはアホ、いらん獲物を捨て置くことに躊躇しないやつは死んだほうがよい。なにもかもすべてが鷹見項希とその兄の関係に、彩目の指先がかかっている。鷹見項希を彩目はいつでも殺せる素質がある。あと遠野元も。人生終わるまでに桃にキショいと言われなければ元の勝ちなんか。ただそれを言うと彩目は鶴の同類になる、なってしまうので、言わないかな…。元が「藤井、おまえこそ鷹見以外の男に興味はないんか」と聞けば戦争な。言いそう・・・。ドラマーとしてメンバーの演奏を自由にしてあげたいという気持ちが言わせる可能性がある。彩目がプロトコルに参加していた時にどれだけ水を得た魚のような状態だったか、そのことに鷹見はまったく興味がなく、遠野元には最重要事項(ふさわしい場所でふさわしい人物がふさわしい演奏をする)であったと思われます。舞伽と桃、星と穂高(衛星としての寅子)のように、汗と血で舗装された道を全部ぶっ壊すことになるのか、今後の展開を想像するとわくわくします。レッチリ聞くか。『虎に翼』の星長官(初代最高裁長官)が自分の後釜に座る人物を選ぶことに汲々としない性格だったのは時間がたつほどに異常性が増していきます。周りから見ると穂高一門を星が重用しているのは明らかでしたが、肝心の穂高本人には「君はまだ使い捨てるには惜しい」と(出涸らしでも)死ぬまで働けと発破をかけていましたね。死んでその名を永遠にしろ、は1986年テレビアニメ三国志Ⅱ天翔ける英雄たち、で曹操が張飛に言い残した名言。星の人生はどうやって死ぬか、どうすれば死んだ後に他人からナメられないか、史実を積み重ねることでのみ誇りは伝授される(日和った死に方はほぼほぼ禁忌)、それを韜晦して柔らかい物腰で生きて死んでみせるべきではないですかと、穂高に持ちかけるので、ざっといって 悪魔 誘惑 甘美 とメフィストフェレスと同類ですよこいつは。政敵との対峙と懐柔は星がやり尽くしたはずで、桂場の法学の師は穂高ですが、法曹界での立ち回り指南は独学で星を師と仰いでいるはずです。レッド・ホット・チリ・ペッパーズではなくオアシスを聞くのだ。なにをすべきではなかったのかを……。鷹見は兄の尊厳を奪う覚悟が足りない。ただより高いものはない。鳩野の父親が元妻とちひろといっしょに会わないのは、ほぼほぼちひろのお願いに応えられなかった負い目からだと思うのですよね。負い目のない男に魅力を感じないといえば呪術廻戦の禪院真希。五条をゴミカスバカ呼ばわりし人類の希望禪院直哉は女の尻だけ見てる男(後日、五条悟は面だけ男にランクアップした)と実力と礼儀があろうがなかろうがふんぞり返っている人間は熨斗をつけて殴る。盆暮れの時期に世話になった人への挨拶を欠かさないできた女。お願い力。折木奉太郎の薔薇色への憧れは、善良な社会の一員であることは素晴らしいことだという、素朴な社会通念への憧れと同義であろうと私は思います。「わたしは、(中略)過去を吹聴してまわる趣味はありません」は折木への殺し文句(なぜ探偵という職業が警察からお目こぼしされていると思いますか? 自分たちと同じ市民を守る同志としての連帯感からではありません。どうでもよく低俗な雑務は民間人にやらせてかつ責任もとらせることで健全な社会が維持できるからです。わたしが折木さんを低俗でどうでもよい人間だから身内の恥を晒してお願いしているとお思いですか?)として優秀。俺にコーヒーを飲ませろ……。ディオではないが、わたしは折木さんに安心を与えることができます。折木さんは不安定なわたしをサポートしてください、きっとわたしたちはお互いに最良のパートナーとなります。「・・・つまり俺は出来損ないのシャーロック・ホームズでお前はレストレード警部とマイクロフト・ホームズを兼ねているわけだ。ふん、ワトソンがいないぞ。これじゃあ等価とはいえない」「シャーロック・ホームズの冒険を読んでいる折木さんならご存知のはずです。ワトソン氏は法に触れることも逮捕されることも女性だけで住む邸宅に発煙筒を投げ入れて「火事だ!」と叫ぶことも大義名分、 good cause さえあれば実行する人物です。見返りを求めない、そんな人が本当にいるものでしょうか」「ドラえもんの映画でのび太たちの夏休みが何回来るんだ的な話を俺にされても困る。フィクションはフィクションだ」「ホームズの話を先に始めたのは折木さんです」ぐぅ。「とにかく俺に混迷した事態を打開するような解決策を期待されても困る。お前に嫌われるとわかっていていうが、物事の本質は解決することではなくなぜそうなったかを理解することだ。たとえばドラえもんのび太の海底鬼岩城序盤でしずかがバギーの独断を人間の指示に従っただけだと曲解(?)する場面があるが、あれは源しずかというキャラクターがロボットに人間の業を背負わたことを人間が非難するのはおかしい!というおかしな主張が物語終盤にポセイドンに向かって人間を無意味に殺戮するならあんたをぶっ殺してやる!!と手のひら返しをするわけで、なぜしずかは態度を変えて復讐の復讐を是としたかなんてわかるはずがない」 ワールドトリガーの物語序盤で空閑遊真が質量弾レッド・バレットの存在を知り(結構驚いていた)トリオンを瞬間的に質量に変換する技術にツッコミを入れなかった(『シールドに干渉しない』とレプリカ先生も言っていた)ことも今となれば不穏。アフトの角トリガーのトリオン体とトリガーを一体化する思想も不穏。レプリカ先生がブラックトリガーである遊真のトリオンを外部射出する管制を一手に担うAIなのも不穏。もちろん遊真の身体活動はほぼすべて凍結しているのも不穏。身体の拘束を自発的に選ばせてその見返りとして身体の外部拡張をボーダー隊員たちが得ているのも不穏です。身体の熱量を維持するのにAIの助けがなければなにもできない状態。アフトの外世界をトリオンと化して自らの存在を永続化させるのはゲスの発想ですが、なら他の動物を食べて自らの身体の熱量を維持する生命はゲスではないのかと聞かれると、人間は別にいいんだよ?と言っちゃいますね。スーパーの精肉売り場で動物たちに感謝しているかと自らを省みれば、それは・・・。忍田から「○○一党」と、皆殺しにして袋に詰めて燃えるゴミの日に出す(食べないの?)ぞと言われるのと迅から「死んだ恩師の形見よりかわいい後輩の笑顔」と言われるのでは、城戸ではありませんが後者を選びます。殺しはしない。コンビニ人間の古倉さんはシステムに迎合する側というよりシステムと一体化することで人間らしさを体得できると信じている(余暇を人間らしく過ごせないことが、古倉さんの世間の人々への後ろめたさの根源ではないか…?)ので、今務めているコンビニが潰れたら次の職場へとささっと転職して地域密着のコンビニウーマンとして元気にやっていくことでしょう。古倉さんは遊真にめちゃくちゃ好かれそうな気がする。誰かの役に立てないと生きている甲斐がない、あなたとわたしは違う人間です、死んだように生きるより自分が生きたいようにして死んだほうがずっとよい。わたしは人間らしい人間になりたかったのですが、人間らしい人間になったと言われたいわけではなかったのです。ワートリ13巻でカゲと遊真が初対面した際に(人の心を読む……?)と遊真が影浦のサイドエフェクトに興味を惹かれ、村上に「ホントに心が読めるわけじゃないよね?」と質問する流れはいいです。わたしも見ただけで質量を読めるサイドエフェクトを持っているように見せて、「ホントは別の物を見てるんでしょ?」と遊真から質問されたい。それにしても木虎はいいやつだな・・・。ワールドトリガーでは異界からの侵略者に対して国家が常設する軍隊では対抗できない(押し潰す、熱で焼く、毒で殺す、といった古来からの暴力ではトリオン体には決定的な打撃手段とはならない)ので代替手段として人間が本来持つとされるトリオンを軍事転用する(モヤる表現)ことで対抗している。ありもしなかったものを人間が持っていて当然のものとして社会を形成していこうというのだから普通に考えて完全に頭が狂っているのですが、それが多数を占めれば普通となるのです。木虎が凄いのは良きボーダー隊員であれば良き市民と良好な関係が築けると信じて行動し、三雲修のような反社会的善良個体(反社会的だけど善良な個体)も市民の方々の利益になるのならと受け入れる度量があるところです。修がネイバーと通じていたと知った時はC級服務規律違反の比ではないほどに驚いたはずです。話が変わって弓場のフルアタックは本当にカッコいいのですが、防御のトリガー構成を完全に捨てて一対一のタイマン、キマり決った状態から殺るか殺られるかの状況まで持ち込めれば弓場はほとんど無敵です。ただ何事にも例外はあり千佳が全力でシールドを前方に展開し、ケンカはよくないですと和解のために弓場に歩み寄れば、たぶんプレッシャーで弓場は潰れるのではないでしょうか。ヤンキー、ツッパリの価値観はその他大勢とは違う、個体が持つ信念強度(特に理屈はない。理解できなくてもどれだけその考え方を大切にしているか、外界からのノイズにどれだけ対抗できるかで価値が決まる)オリジナリティがどれだけ他者をシビれさせるかでキマる。重要なことは、他者からのノイズによりイライラする状態はヤンキーにとって恥で、まして外に喚き散らす(ヨーコヨーコヨーコ)ことは死をもって償うべき醜態である点です。ボーダー組織内だとまずなによりもトリオン生成能力の大小が問われ、次に組織内からの情報漏洩阻止の徹底を遵守できること、ネイバーからの侵略にどう対抗するかは正直運が大きくからむので順位をつけるのなら理念としては高いが、指針としては下がる。C級が勝手に行動するな。千佳を守ることがボーダーの戦略と合致している。トリオン生成時における肉体が感じるであろう種々のサイン、木虎がボーダーに入隊してから感じたであろう人生初の挫折(平静時の体内トリオン量が隊員内で下位であったこと)、千、万を超える実戦で磨き上げた弓場のトリオン戦闘体の練度(水道の蛇口とバケツの大きさ)、聞いてはならない体内トリオンの質量はどこに行っているのか(千佳はある日突然ブラックトリガーに変身する未来があったかもしれない)。トリオンを血液に例えると同じタイプのトリオンは輸トリオンが可能なのか。(たぶんできる) 千佳と修では持って生まれたバケツの容量がケタ3つくらい違う印象ではある。バケツでないのなら情報記憶量とみるのが正しいのかもしれない。高トリオン体を分割して安全に輸送できる技術の発明は革命的なのですが、可能性の段階で玉狛支部が全力で潰しにかかるので戦争の火種になりそう。ただ大量輸送の概念は個人や団体で阻止できるとはとても思えない。超圧縮と超解凍、超速読。内田桃のハダカを私は見たいんですが!!レイハハベツニドウデモイイ はあはあ。鳩野がレイハを自分が子供の頃から憧れたロックギタリストと同一視している(みっともないとわかっていることはわたしにはわかっているけどみっともないとみんなから言われることは我慢できないくらいにみっともない、が、わたしの大好きなロックバンドのボーカルはみんなそうだったはずなんだ!!)のはただの勘違いなのかもしれない。野呂あたるの人前でケツを出して脱糞することがパンク!という思想は文字通りのケツ持ち(警察には頼らない、ケツを出した男は生涯その責任を自分で取る)なのでしょう。鳩野はまあとんでもない奴に目をつけられたね。歌で人の思想や人生を変えるということは想像を絶する暴力ではあるのじゃよ…。鶴、つるよぅ・・・。人前で無防備に寝る、というのも暴力なんだよ。人に向けて舌打ちして「思い上がってんじゃねぇぞ」と皆がいる中でクギを刺すのも大概暴力ではある。藤井に聞け。あの時オレはどうすればよかったのかを。内田は(まあまあもうバレバレではあるように)自己責任で決断する人間が好きなので、遠野は「ジャンケンに負けたのはオレのせいだから大道さんの提案は受け取れない」「だけどオレたちが合同ライブで必ず活躍すると約束させてくれるのなら、ありがたくその提案をもらうよ」と、調子に乗り過ぎなイタイ発言をすればよかったんじゃないかなー。そして軽音部内で流行る「約束して?」「約束するよ」の嵐。遠野はつまらない男だけど演奏と歌でどれだけ観客を動かせるかは人一倍気にしている。UKロックバンドがアメリカで成功するかしないか、遠野に語らせたら止まらないはずだ。動物の犬がご主人の命令を喜んで聞くのは寝る食べる散歩する遊ぶクソして寝るのサイクルの外にある何かが犬生の余興として魅力的だからだ。鳩野が特別な人間だと厘が信じてやまないのは、おそらく犬の余興を鳩野はかっこいいと本心から嘘偽りなく思っているからです。自己愛が肥大化すると他者を貶めずにはいられない。道徳心や業界の常識はカビの生える温床になりやすい。藤井が折れやすく、そして強いのは「クソが・・・死んでしまえ・・・」と呪いを吐いても世界を呪おうとはしない人間だから。大道が桃と藤井さんはたぶん馬が合う(そして私は置いていかれる)と感じたのは結果から見れば完全に正しい。鷹見が兄の身を案じて世間では兄貴のような人間は世の中でやっていけない、犬が服着て歩いて人間のふりをしていたら石を投げられて死んでしまう、わかってくれよ!!と叫んだ感情は鳩野が無弦の境地に達するとキングダムを超越する変人だと見て知った後だと、わりとどうでもいいことに感じたことだろう。鷹見が異性からモテてモテて、その自分を取り巻く環境に特に感慨を持たない(なんて俺はつまらない人間なんだろう)態度に谷九高校に入学した頃の藤井は鷹見が特別な人間なのだと感じたのですが、最新話まで読んだ読者には周知の事実として大道優希が努力の末に鷹見と同じような環境を手に入れていることが公開されています。そして大道は鷹見にある種の羨望を持っていて、同時に鷹見から特別視されている鳩野に畏敬(イイスギ)を持っています。親友の桃を寝取られた気分だぜ…。そしてなぜか相談される鳩野からの水尾への恋心。「・・・なぜ私?」「なんというか恋愛相談をバンド内でするとよくないことが起こりそうな気がして・・・」「あと私の知る限り、大道さんが誰よりも一番、相手の気持ちを考えて答えてくれそうな人だから」「プ、プレッシャー・・・」(「まあ、深く考えんくてもええんちゃう?」が封じられた!!)鷹見に丸投げするのがサイコーに楽しい展開であるのは明白。谷九高校軽音部の運命は大道優希の手中にある…。ちなみにカイジの利根川の名言、「世間はおまえらの母親ではない」はエスポワールのルール説明時ではなく、電流鉄骨渡りでの参加者募集時の発言です。「負けに不思議の負けはない」は野村さんの言葉ですが、わりと利根川と近しい気がしますね。チームが勝たないと個人の賞与もへったくれもないといった人生観は特に似ていると思います。付き合いきれないといった感情は、親交だけではなく憧憬や嫉妬といった感情にも派生するようで、まあ、もし鳩野が犬の主人を見捨てない義理堅さにかっこよさを見ているとすれば(鎌倉殿の13人のマイフェイバリットキャラが中村獅童演じる梶原景時なのでその可能性は高い)なんだかんだで鷹見との因縁は死ぬまで続きそうです。ハトノの自分は陰の者なのだという自認は人からよく見られたいという怨念にも似た価値観からきているような気がします。世界は必ず猥雑さを増していく。ハンマーで潰した空き缶は熱を持つのに、潰れた空き缶を見た目もとに戻したとしても、発生した熱エネルギーはもとに戻らないように。怪獣の花唄の歌詞は読んで聴いてみると不可逆はこの世の真理みたいだけどこの世ならざる怪獣が騒げば夢は現実に可逆するよきっと、と歌っているようでロマンがありますな。あとすごい自信だ。SBRのジャイロが父親から叩き込まれたのは神の教えは一方通行で可逆することはない、覆水は盆に返らないしネット上に跳ね上がったテニスボールがどちらに落ちるかなんてことは誰にもわからない。人の心が決めた行動が運命を変える可能性などない。プラマイゼロというか・・・。処刑人として罪人を殺し医師として弱っている人の命を救う生活は、殺人の精度を100%近くまで上げていくことは可能でも人の命を救うことに100%まで精度を上げていくことはできない。殺していい命と救うべき命を選択する(しない)ことを、SBRに参加するまえのジャイロは自分はできる(偉大な先祖たちはしなかった)と思ったわけで、作家荒木飛呂彦のジャイロを過酷な目にあわせてやろうという魂胆はすこぶる酷い。「君はDioに負ける!」からの「ヤロ~・・・・ジョニィ…」は大好き。マルコ少年の時は「やめろ~!」と項垂れるだけだった(チョー痛いとこ突かれたから)ジャイロが愛馬ヴァルキリーにぐちぐち文句垂れてるシーンは可愛いですね。自然を相手にしたレースは100%の旅の安全なんて望めない。SBR参加者はみな愛馬の安全を祈っているし、動物に優しくないことで知られる荒木飛呂彦も人が変わったかのように馬を労わっている。資本主義は富める者がさらに富を増やす(生活の余剰分を貸し出すことで更にリターンを得やすい)が、SBRレースは己の身体一つ、1台の機械、あるいは1頭の馬で北米大陸を毎日休まず他人と競い合って横断するレースで、予備の機械や馬の交換は認めていない。道なき荒野も走破しなければならないので、先頭に立つ者ほど事故にあう可能性が高い。1巻からSBRを読み直すとスティールの人生そのものをSBRで再現しようとしているし、スタート前のビーチの無法地帯ぶりにぶち切れたスティールの『このビーチにいる限り『ルール』はこのわたしだ!』は精一杯の虚勢だったと見て知れて、スティールのこともより好きになりました。番宣CMのスティールの声も100%イメージに合っていてもっとより酷い目にあってほしいと願わずにはいられません。記者たちスティールのこと大好きだろう。令和7年10月13日のTBSテレビお昼の番組「ひるおび」で高市新自民党総裁と公明党代表斉藤氏との会談で連立離脱(白紙状態)の話題を報じていました。高市氏の「新総裁がわたしでなければ連立離脱はなかったのか?」と斉藤氏に質問し「誰が新総裁になろうとも決断に変化はなかった」と答えたと番組で紹介され、司会の恵も副司会の八代も「いささかウェット(すぎる)」「俗人的で(正直)驚いた」と言葉を選んで感想を述べていました。わたしも実生活で「常識ないなお前」とよく言われています。先日中学の同級生と飲み会をして、友人から「S氏は君より成績がよかったんだよ?(ずっとね)」と言われ「知らんかった」と答えたら笑われていました。指導者が迷っている時に「みんなおまえに惹かれて集まっている。その理由をもう一度考えてみろ。(結果に責任は持てないが)自覚があれば、自ずと行動できるはず・・・。知らんが」と他人事で言いたい。フィッツジェラルドのグレート・ギャツビーを見るか読むかしてみるか・・・・・・・・。ひるおびを見直してみると、副司会者八代の発言「ぞくじん」的は「属人」的と理解する文脈でした。自民党新総裁が誰になろうとも公明党は自民党との連立を離脱する、との斉藤代表の発言の真意を「高市早苗個人を理由として」離脱するのではないか取れば、「属人的」と受け取れることになります。バックトゥザフューチャーみたいに国会議員年鑑(人事マルわかり!)の未来分でも手に入れば楽しいんだろうなあ。鶴(ふつうの軽音部)の部内人心掌握の礎は部外の人への恋に敗れ傷ついたたまきが、実は周りの大切な人たちを自分が傷つけていた(外見の美しさ、歌唱能力の高さ、コミュ力、異性へのフランクな対応、とたまきに罪はないがことごとく親友の夏帆を傷つけていた)気持ち悪さを認めて、気持ち悪さを認めて、わたしたちは仲間だ!!!とみんなのまえで歌い上げたことの感動にあります。鶴はたまきでさえ離合と集散から逃れられない、そしてそんな現実に信念を持って戦う(しょっちゅう負ける)姿を見て敬慕しており、まあ、誰が何を言っても出会いと別れは最高だ!!!!と脳を焼かれた女に届く言葉はない。彩目が最大警戒をするのは当然である。まるまると健康に育ててから火加減を調整して美味しくいただくのだ。SBR以降、ジャイロが直面するはずだった絶対王政の崩壊後の生きる目的とは何かの問いに、ジョジョリオンでは再興(復興)とは何を指すのかと逃げ場を封じてから質問を質問で返す展開で攻めてきました。常敏はエリートの復活だッと行動するのですが、父親の街の発展に尽くすことが大人の務めでありひいては人々の尊敬を勝ち取ることに繋がるという考えに同調はできませんでした。月までブッ飛ぶこの衝撃…。ワンダーオブU戦も「流れを見る」という意味不明なスタンドバトル(シビルウォー戦を思いだすゼ)で、ノリスケの「人の流れを見るんだ」がとにかく気になるのだ。4部吉良は救急車に轢かれて死ぬし、8部吉良は母に恩義を感じてくれた友のために死ぬ(8部ホリーは4部仗助のように無差別に人を助ける無鉄砲さがある)のでドラマチックなやつだぜ。「ケッ。ボーリングの爪切りなんて超ダサ」とか言わないようにしよう。センスいいですね。ホントに? 犬も食わない人の暗部を曝け出すとか最悪の趣味だわ。幸せを享受する価値のある人間、ふつうの軽音部の元部長、山添の「その内輪ノリをどんどん広げていってプロにまでなったわけで」「そう考えると別にバカにされるようなもんでもないと思っててさ」は祈りみたいな台詞ですよね。喜田と新田が山添を信頼している(そして桃はスゲー嬉しそうなんだなこれが)のが伝わってきてライブ対決の決着は本当によかった。内田桃の笑顔を見逃している遠野元はマジモンのカスである。腕組みしてる場合か。本当に笑えないぞおまえ。(他人の演奏モチベーションに鈍感なのはまあいい。好きな女性の笑顔になるポイントに関心がないのは傲慢と言われても仕方がない。「内田さんはどういう時に笑顔になるのかを知りたい」と藤井に聞け。命令だ)(腹ペコ状態からご飯を食べた時、と言われるだろうがセルフツッコミ) 内田が新田たまきに人間として好意を持っているのは明らかなのですが、それよりも鳩野の尊敬を一身に集めている人物として尊敬していて、はーとぶれいくがprotocol.に勝つのは必然なのだと内田が言い切れるのは間接的に新田が鳩野の成長を促している事実に安堵しているからでもあります。ジョジョリオンでノリスケが常秀のことが心配で心配で仕方がない(高校生(18)にもなって14歳年上の兄にベッタリでグロ注意!グロ注意!ヒャッハーッ!!と自宅で息子が騒いでいれば父親として心配するだろう)のも、ジョジョリオンの本筋とはクソほどに関わらない話なのですが、最終巻を読んだ後に私の胸に去来するのは常秀は少しは成長したんだろうかという一点ですね・・・。常敏が詩人相田みつをのファンなのはジョジョファンなら誰もが知っていることですが、弟や父親など、ごく親しい間柄の人間には相田みつをの素晴らしさを理解して当然だよと軽いパワハラをはじめることがあります。相田みつをが素晴らしいかどうかはさておいて、すでに広く流通し、経済価値を認められたものを素晴らしい素晴らしいと言っているのはトイレットペーパーは素晴らしいと言っているのと何が違うんだと思わなくもない。もちろんトイレットペーパーは素晴らしい。漫画『ワールドトリガー』でブラックトリガーが作中で重宝されつつ同時に忌避される存在なのと、常敏が相田みつをを愛好してしまう癖は、ほんの少しだけ似ていると思う。しおりが雨取を徹底的に甘やかす(玉狛支部の部費でおしゃれ着を買いたいと雨取が言い出したら「許す!」と言いかねないくらいに)のも、ブラックトリガーは本来すべて消滅させるべきものだという思いが、特に女性にはあるからだと思います。個人差はあるにせよ。エスパーなんていたら気味が悪いという魔美の母親と、浮浪者の「社長」が魔美を気味悪がって逃げ回り、「わたしが元手をつくってあげるから昔のように働いて生計をたててみたらどうかしら」との提案に感嘆、おそれいったのは社会の一員になればきっと幸せになれるとおもうの(きみはエスパーなのに⁉)という社会と関わり生計を立てることできっと幸せになれる、パパが売れもしない名画を出血赤字覚悟の個展を開いては通りすがりの名も知らない人たちに見て買ってもらおうとしているように、目的を達成するために努力することはなによりも尊い(うぅ!!!!!)と、人生訓を聞かされたからです。この「社長」は大会社の社長で資本主義の荒波を泳ぎまくって会社を回しているのですが、たまの休日に銀座、新宿界隈でルンペンをしている変人なのです(ネタバレしてすまん)。アニメ版でもきっとこの話は放映されていることだろう。されてた。声優は・・・(アニメ美味しんぼの声あたりから想像する)大原社主あたりのイメージかな。いや、辰さんというまんまな人物もいるじゃあないか。ネット検索をしてみると、OVA版エリア88のグレッグと同じ人が社長の声をあてているようだ。今度レンタルして見てみよう。見た。想像していたよりもアニメの演出がウェットだった。食わずば死ぬ。OVAアニメの方のマリオネットRのウェットさ(食わなくても死なない機械人形に社会基盤を預けた社会)とちょっと通じる気持ち悪さがあったな…。人形側にウェットさを持たせて(いやいや)自分たちは工学的な存在でございと恥ずかしげもなく舵を切っているように生きて死にたいという欲望は一億パーセント理解できるのですけどもね・・・・・・・・・・・・・。家康が想像の2500分1くらいの流した血の量で江戸幕府を開いていたらどうなっていたんでしょうね。流した血の量に適応した結果の世の中であるというのなら、テキオー灯の常時照射における世の中の変化を観測する実験を行うとどうなるのだろうか。単純に生物が風邪をひかない、寒さや暑さに負けない、高圧空間でもへっちゃら、毒にもテキオーしちゃうぞとなると、ほぼ不死身なのでは。ロボットが人間の代わりに生活する世の中と見分けがつかなくなる気がする。愛があるから素晴らしいのではなく、人間らしい生活をしているから素晴らしいはコンビニ人間の真骨頂(人々が古倉さんを惹き付けてやまないほどの魅力を有していない結果により観測された社会。世の中は素晴らしい)で、鬼岩城から鉄人兵団への最大ストロングポイントでもあります。バギーが熱望した未来はロボットを人間のように生き生きと世の中で活躍させる社会なのです。ロボットに人間が見捨てられないように。リルルが鉄人兵団の生みの親の祖となる人物を一発で探し当て、ドラのタイムマシンに乾坤一擲の大博打を強いたシーンは本当にさらーと描かれています。ドラのひみつ道具のセキュリティのガバさは散々ネタにされていますが、鉄人兵団でのタイムマシンの使われ方はレベルの違う逸脱ぶり(藤本氏は大長編ドラえもんでのび太たちは必ず冒険から帰ってきて日常へと戻ると誓いを立てている)で、別の銀河宇宙での人類滅亡と関与して冒険から帰り日常へ戻ることができたのは、リルルの内心の自由をトルクへと変えて運命を蹴とばしたからなのでしょう。天使のような心を持つロボットになりたいというリルルの内心は現世では邪教中の邪教であり、鬼岩城でのエルの内心とちょっと重なります。やましいといえばドラはギャグまんがの範疇を超えた悪意を素で出すセリフでも有名ですが、鉄人兵団の作中でもザンダクロスの中枢コンピュータをさっさと改造して人類の命令を嬉々として聞くロボットに仕立てることに成功しています。アイデアはスネ夫だぜ。ザンダクロス改造のそもそもの目的は、鉄人兵団と軍事衝突は避けられないと見たドラたちが強力な兵器が必要だと判断し、敵側の土木工事用ロボットだったザンダを軍事目的用ロボへと転用させつつ、自律型無人攻撃機として役立てようと画策したことにあります。米澤穂信の氷菓もはじまりは不本意な英雄、関谷純の転向の真実を省エネ主義者のホータローがどんどんのめり込み暴いていくというものでした。短編『大罪を犯す』(遠まわりする雛に収録)で奉太郎は他者の怒り(や悲しみ)を安易に推測するのは大罪であると自己を戒めるのですが、探偵業で犯罪に首を突っ込み真実をバンバン暴いていく輩が口にしていい誓いでは・・・。慰めろ千反田。「政治家の皆さんだって選挙が終われば熱さが喉元を通り過ぎたかのようにきれいさっぱり忘れるじゃありませんか」わかった、ありがとう…。決めつけるのはよくないナ。尾道の間違いに三分の理があると考えるのも学業が本分たる高校生には必要なことだよな。義務と本分は違う気もするが・・・。ここでおまえに尾道の何がわかるんだよ?と斜め左下から切り込んでくる謎の人物がいると笑える。鬼岩城のラストでしずかはバギーの思いを忘れないと誓っているのですが、人の悪いことをいえば「おまえにバギーのなにがわかるんだよ」とほんのちっとばかし思わなくもない。どうしようもなく人の悪いことをいうとバギーが生存した鬼岩城のエンディングがあったとして、機械の意思をゴミ以下としか思わない人間社会(機械に命じたのはもちろん人間)が生存できてよかったねと悪のアトランチスは滅びてよかったよかったと皆で祝っている中ではバギーのタイヤとサスの接地具合は調子が悪くて仕方がないだろう。皆が命じたことをきちんと守ろうとした挙句に悪の成れの果てあつかいされるのでは(鉄人兵団)生まれてきた甲斐がないというものだ。エルがムー連邦内で異端扱いされるのも陸上人と交流があり禁忌の機械科学に精通しムー最上層部に忌憚なく意見をいえる軍人である(しかも下っぱ)と、首相の息子でもない限りは消される運命にあるからです。一万年まえの法律を律義に守り続けてきた国民をなめるな。氷菓の関谷がそうであるように、一方的に同化され、ちょうどよい機会を見て切り離される。ふつうの軽音部の鳩野も転校した中学校のクラスメイトからカラオケに誘われて、人生初のカラオケを披露しクラスメイトから変な声だなと聞こえるよう言われて泣いて家まで帰った悲しいエピソードがあります。とにかく桃は光で(ハトノは闇)眩しいのですよ。彩目がわりかし卑屈な性格なのも、小学校時代に光の精に見えた桃にずっと友達でいてほしいとお願いをしたら「つまらんやつらに文句をいってやりたかっただけで、人間ぜんぱんにはたいしてきょうみはない」と想像を絶する拒絶をくらったせいでもあります。実際のまんがでは好き嫌い、敵味方、といった話には興味はない、です。桃が小学校のノリを維持したまま社会人になれば、吉良以上のシアーハートアタックを生み出していた可能性は高い。つまるところ吉良に高畑でいえば野球、桃なら軽音、関谷でいえば(神山高校の校史の編纂…?)まあ無理か、といった一人では作業達成不可能なチャレンジを趣味として持っていれば、えらいヒーローになれていたのではないかと妄想する。米澤穂信の書く小説の相棒なら「俺は信じんぞ。三つ子の魂ってやつだ」と小学校の話をいつまで蒸し返すんだよとキレそう。よくも悪くも代替できないおまえだけの宝があるのだから変に無理をしないでやりたいことをやればいい。書いてある用法はきちんと守り、書いてないルールは己の良心に従って生きる。小学校時代の小鳩常悟朗は嫌なやつだが己の良心に従って生きる、ある意味で気持ちのいい男だった。はずだ。この世の中に名探偵はいらないと誰かが言ったとしても、おまえだけはムキになって違うと喚き立てると思っていた。ほら、小5の時に同じクラスの女子に「なぜ薔薇は美しいと思う?」と質問して泣かせたことがあっただろう。クラスの全女子から吊るし上げを食らったのに常悟朗は表情を変えなかったじゃないか・・・。「最悪のエピソードだね」「あの頃の僕は一人一派は元を遡れば同じところに辿り着くと考えていた。でも現実は違った。兄弟でも仲違いすることがあるように人の動機は皆それぞれだったんだ。いわば、その薄い動機の膜を認知するための保険としての小市民さ」「——存外、切れ味が鈍ったわけでもないらしい」切れないはずがないのだから切れるようにしか切れない。ニコニコしながら麻酔なしでささっと再縫合をはじめる(インフォームドコンセントはない)。呪術でいえばサイコロを転がして双六に興じる遊びがパチンコに化けたように天元の結界術が何某かの陣取り合戦ゲームを模した遊び場の提供(御三家も込みで)であれば——天元への人身御供はルール保全の環境整備ということになりますな。ルール保全のための勤勉さ。punkとは鳩野みたいなやつのことや。(うん?うーーん?)ネットミーム漬けの鳩野がジョジョを知らないはずはないのだ・・・。また重ちーが顔を出してきそう。対価を払うスタンド・・・。自分にできないことを他人にやらせようとしている悪…。不思議の「不」はどっからきているのか。不可対称性。ポルナレフではあるまい。まぁ、おっかぶせようというのは後期ジョジョの典型的な悪(重ちーとブチャラティには自分自身からの怒りは他者に向かいにくい)。ホームズのように自分自身の欲望を自分で語って行動し、ワトソンに尻ぬぐいさせてるのもなかなかに最悪ではあるのですが。壁外人類がいると知ってがっかりしたとエレンが言ったその場にジャンがいたらなんと答えていたのだろう。そのかなり後の「俺はおまえたちが大切なんだ」(だっけ?線路工事の帰り道でエレンが皆を赤面させた事件)でジャンなら「俺たちが大切なら大事なことは独りで決めないでここにいる連中に相談してから決めろ。ライナーの二の舞を演じるというなら俺はおまえなんて大切だとは思わない」と言ってやれ フロックの「なあ昔のジャンに戻れよ。おまえはそんなやつじゃないだろう?」はまあまあその通りのなのですが、「エレンが大事な相談を俺じゃなくておまえにしてたことがムカつく」(誰が大事な相談をおまえにするんだよ、)とどいつもこいつも俺をなめやがってとミカサに言ってみようジャン。「ジャンはどうでもいいけどエレンが私に相談してくれなかったことが悔しいのは同意する。ジャンはどうでもいいけど」「(なんで俺を肯定してくれるのがフロックだけなんだよ・・・おかしいぜこんな世の中)」「(エレンおまえもこんな気持ちだったのか・・・・・・・いや、あいつはやっぱり俺とは違う)」快適な内地での暮らし(進撃の巨人~)に拘るのがジャン・キルシュタイン。フロックもエレンも別にジャンのために働いているわけではないが、結果としてジャンのような一生母親のおっぱいでもしゃぶってろと同僚の女性から罵倒されるような男に外を見て生きていく社会性を与えたともいえる。社会の窓というか・・・・・・・・・・・・・・・・・。ふつうの軽音部の最新88話、まだ読んでないのですが、どうもふつうの対価を払う努力をしない人間をレイハが痛烈に批判している内容になっているようです。なんとなく鳩野が桃を好きになった理由とレイハに敬語で話しかける鳩野の心性が重なります。はとっちのいい所は有名人はその光の代償を払っているはずだ、腹が空いたらお腹が減るのは当然なのだと理解していることです。自分が傷つけた父親がわたしを恨んでいるはずがないと傲慢に信じていることと表裏一体です。ちなみに大阪、天王寺周辺は大阪でも治安の良いことで有名なのだそうです。なんだその説明…。川崎のラチッタデッラがハトノのダサくないオシャレなイメージで、ナンバガのボーカル向井秀徳がカッコイイ代表なのね。まわりがナンバガのファンだったりしたら火に油を注ぐようなものです。かわいくてかっこいいはまわりの審美にとって、とても重要なのだと思いますね。鳩野は周りからナメられていることには敏感なので「ハトノ氏はかっこいいですね」とまわりから言われたりしたら水尾も引くほど浮かれてしまうことだろう。信じられないほどストレートに褒められた。向井秀徳並みにかっこいい!!!!!!!!???????(言ってない)画一化の対義語は… 9巻読んだど。遠野聞け。ダバってなに?ダバ返上するにはどうすればいい?ぐいぐい聞け。人生変わるど。そういうとこがダメなんやお前は・・・ジョー・ストラマーも言っている。「パンクイズアティチュード、ノットスタイル」外面で構えようとしてる(四角四面は金よりも好きなのだが)のはパンクではない。野呂から聞いた。虎に翼の第一週で寅子の父、猪爪直言は長男の祝言で羽目を外しまくり寅子は傍観者として女性陣のすまし顔に強烈な違和感を覚えたのですが、父の顔を立てようと宴会ソングを大声で歌ってその場は過ぎ去りました。外面で構えようとしているのはパンクではない。タバコ(を吸うの)も税金を払って国に貢献する立派な行為でパンクではない。立派代表穂高先生が狙い撃ちにされた面は否めないな・・・。池に浮かぶ月影を掬いあげようとするかのごとし。桂場の恩師に対する最大の批判は実弾の代わりに前途有望な女性たちを兵士に仕立て上げた(桂場は法律家が法律で死ぬこと自体にはなんの感慨もない)ことの意義を、先生は最後まで示すべきだったんじゃないですかと妹弟子の寅子を慮る場面ではないかと思う。つまり寅子の努力を先生は(先生だけは)誰が見ていなくても私は見ている、だから安心して頑張りなさいと鼓舞すべきだったんじゃないですか(喜んでヴァルハラに行け。いやフランス法学だと自由と博愛に召されるのか…)と。寅子は不満よりも怒りが勝る法律家だと桂場は見ている。はず。少し前に完結したショーハショーテン!で作中の最大ライバルである絶対高校生王者、絶唱サンドバッグの印象ははっきりいって薄いのですが、作中で一番語りたいのはこのコンビです。全然面白くなかったのですが、畦道の父が全然才能のないフォークシンガーでも愛は届けられる(はず)と終わりのない地獄を夢と希望の20代を糧にメジャーデビューを夢見ていたエピソードと絶サンは重なります。人にウケる才能が人を幸せにするのか、です。畦道の父親はもし才能があったとしても、絶サンのように人を馬鹿にする才能に開花していたのではないか、俺のことを馬鹿にするな、という絶叫を救ったのが今の奥さんというちょっと救い難い過去話を聞かされて畦道のお笑い芸人としての人生は始まっているのです。絶サンの俺が救ってやる証明してやる完璧な実績を見せつけてやる、は畦道の父に対する宣戦布告だろうがよ・・・。ガラ靴の背の高い方岩清水の勝った時はメシに誘っておいて負けた時はそそくさ帰るってのはカッコつかないからチャンピオン、メシに付き合えというのはイカす。傷心の畦道を見届けてから水飲んで落ち着いたら笑-1も優勝してみせろよと目標を示すのもイカす。その後スベ散らかしたらしいのは笑う。寅子がイケメンの恋人と裁判官としての実績を手に入れたらヒリヒリとした面白さが消えていた、星長官にワッハ師匠みたいな憎たらしさがなかったのは悔やまれる。ワッハ師匠のモデルは笑福亭仁鶴なのだろうか・・・。グランデ谷津川もモデルが誰なのかさっぱりわからない!あの因縁のグランデ単独ライブチケットを断った話「面白いことを やる方なんですね」はいつでも笑えるな…。今、思い返すと太陽は本当に自信がなかったのだ、あの時は。アメリカの国旗の星の数を聞かれても正確には答えられない確信があるほどに。太陽の母親も(父親も)傍目からは成功した人間に見えていたのだろう。他者の歓心を買うことが幼年期の太陽の最大関心事で、その実現には「社会的に成功した人間になること」がきっと一番に違いない、皆が褒めそやすことを実行できれば母も(父も)喜んでくれるに違いないのだと邁進したのでしょう。ガラ靴の背の小さい方ひまわりと太陽は似ています。 「母親を笑わせるなんて 楽勝もいいところだろ?」はショーハショーテン!のいいところが全部詰まったセリフです。たしかに椚は神だった。コーヒー飲みたい!!!という時にあったかいコーヒーを給仕してくれる早坂が来てくれたら「神!!!」と叫んでしまうのは当然です。悲鳴をあげたくなるほどに椚と祭は対の存在だったのね・・・。かぐやさまで男性は社会的生物でなければ死、あるのみという思想はけっこーキツいのですが、白銀の場合はそれが人生のすべてなので他人からとやかく言われる筋合いはないのね。くさったミカンというか・・・。ラベルを、誰かに貼ってもらうべきなんだよ。チームプレイの司令塔に生かされて、面白さは生きるんだ。ラベルを剝がされた泥谷がショックのあまり当然の権利だと思い込んで椚に復讐に走るのは太陽から見ると甘ったれにも程がある(作中、シュプレの鉄平太のセリフで「笑うとは、一種の敗北なんだ」と述懐するシーンがあるのですが、なら「泣くことは、真の敗北である」といえるかもしれない。いや、実際マンガの中ではだれがどう見ても敗北したでしょというシーンで皆号泣しているのだ…)。楽勝なら涙が引っ込むという理屈になりますな。(屁理屈) ガラ靴の「クラス一軍は皆つまらない」も泥谷の劣化バージョン群にダメ出しをしているのですが、岩清水が女子高のクラス内でギャグを振りまくひまわりに(絶対口にしないが)天才性を見ていることの裏返しでもある。勝って証明してみせる、実績を見せつける、だれに?という話は私のほとんどすべてですね。ほとんど興味がないくせにね・・・。魔美の母親と畦道の母親は人が良さそうではあるが、社会不適合者そのものの男性に人生を賭けてみるのが凄い。畦道の父親は憑き物が落ちたようにフォークソングの世界から足を洗うのですが、どれだけ惨めだったのか想像もつかない。ショーハショーテン!本編は、息子と娘には絶対に自分のような惨めな思いはさせないぞという父親の情念の物語でもある。虎に翼と似ているな…。畦道が父親の心象を聞いて知ったとしても、いや実際に本人から聞いたわけですが、相方(太陽)がいるとそう無謀な話でもない、初ステージの演目「東方太陽withX」で太陽のアドリブの実力に底が見えないことを知り、ついに底が見えなかった(怖い)。実際、演目「ミュージカル」でド滑り確定のネタを笑いに繋げたのは太陽の舞台上で人を惹き付ける才能があってのものだったし、畦道の誠実さも華がなければ舞台上では意味がない。怖い所だな舞台。泥谷のお笑いへの姿勢はシュプレなどからは本腰を入れてない状態だと思われていたのですが、高校生活の思い出作りの一環としてのお笑い活動なのだとすれば、泥谷の姿勢は常識的で普通だといえます。クラスメートにどっかんウケて、だべったり遊びにいったり、たまにお笑いステージに出て友達からやんややんや言われて内輪で盛り上がるのなら、いったい何に文句を言われる筋合いがあるというのでしょう。ショーハショーテン!では「射程」を蔑ろにする姿勢は悪だとほぼ断じている(原作者の朝倉氏が高校のクラスメートの前で漫才をして、同クラスメートの女子から殺意メラメラに睨まれたエピソードはその典型です)のですが、神が常に正しいかというと、神もかなりいい加減だと言わざるを得ません。畦道がドン・ザ・キッドの岸辺からアドバイスをもらった時は、岸辺の態度は射程がかなり曖昧だったといえます。本業の人間が高校の生徒に大人の都合も考えてしゃべれ、俺たちの時間はタダじゃないんだぞとビジネスの礼儀をやんわりと教えて、いじめられっ子が俺の前で反撃もしないで負けて帰るなんてことは許さない、俺の都合も考えてくれやとプライベートをさらりと見せるのはズルい。ヤマグンから震源地でテキトーに噂が広まっている可能性もあります。射程には共感が必ずついてまわっています。ラベルを貼った者には責任と呪いが付与される(決して本当に欲しい物は手に入らない呪い)。いや、だとしたら太陽にラベルを貼った人間には銀河級(太陽系級だろ)の呪いがいくじゃん…。QSCを整えてお祓いをするのだ!! 石清水のシンデレラコンプレックスはヒビの入った共感と射程への反逆(椚と出会っていたら結構な不信感を持ったのではないか。臨時コンビでお題「シンデレラ」を演じたらガラスの靴は何に化けたことだろう)であり、みんな共感してますよという煽りは岩清水には効くのだ。ぜひラベルを貼らせてください。太陽が気持ちいいのは、あいつ、自分でラベルを貼るという行為の切れっぱしも持ってないのに、絶望の淵にいる畦道の父親に「才能あります」「保証します」とラベルのバーゲンセールをするおバカさんなとこですよ。今気が付いたのですが、本当に欲しかったのは相方だったのですな。ボケは「才能」、ツッコミは「努力」。M-1のDVDを注文してみるか・・・。檜山教授の採点が、ガラ靴「87」神風出世魚「82」いわしつよし「85」ぶるーたす「86」特盛り「80」シュプレ「88」ライジン「93」柴犬世界一周「90」天片「94」絶サン「81」、なのだ。ちなにみワッハ師匠は、ガラ靴「95」神風出世魚「87」いわしつよし「81」ぶるーたす「95(!)」特盛り「77」シュプレ「98(!)」ライジン「92」柴犬世界一周「94」天片「95」絶サン「86」、稽古の量を加点しているのは明らか。檜山教授とワッハ師匠との採点の差が大きいのは「ぶるーたす」と「シュプレ」。いわゆる「コント漫才」と「しゃべくり漫才」で、どちらもワッハ師匠が大幅加点をしている。特にぶるーたすの95点はちょっと破格で、泥谷と新田のコンビが気に入ったのではないか。いやまてまて。泥谷の金持ち設定は嫌みたらしさ鼻持ちならなさを笑いに変えるための布石でコントっぽいが泥谷本人の素を出しているのでしゃべくり漫才、なのだろうか? 私の人生で一番見て聞いて笑ったコンビ芸人はおそらくオール阪神・巨人なんだよなぁ・・・。生活笑百科をほぼ毎週欠かさず見ていたからです。見た目が面白そうですよね。天片はショーハショーテン!でずっとやってきた距離と共感の賞レース総取りを目論む邪道コンビなのだ。いつも変わらずにそこにあることに無頓着である、と言い切るのは悪意に満ちた見方なのですが、システムは善意でも悪意でもない。NHKで毎週お昼に漫才が見れる幸せを全世界が平和になってないのに享受するなんて不道徳!と断罪されるとなかなかに辛い…。ラッパーが司会者だとすれば笑福亭仁鶴は名ラッパーということになるのですか。次回、彩目怒る。(誰よりも特別扱いしてくれる桃が実は誰にも特別扱いしない異星人だった衝撃。忘れていないだろう)遠野は彩目にさんざん(飲み物を)たかられているので、しょーもない意味で彩目の特別だといえる。「あ。こいつ(遠野)今、桃にキショイレッテル貼られた」女性から虫を見るような目で見られると傷つくよな遠野…。蛇口をひねると水道水が出てくるように、何も考えずに自己の行動を決定できる環境はよい。彩目がガーッ!と怒れるのも、鳩野たちがてへへへ・・・と自己の行動が他者にどう影響を与えているかを顧みる余裕があるからです。彩目の判断は他者から見て納得できる理由があるのだ、と鳩野たちは彩目を信頼しています。彩目が鳩野たちにいいように使われている、ともいえる。意趣返しの萌芽が空振りに終わるのはいい。ここでジャイロやシーザー、あいつらかっこよかったなあと思ってしまうのでは、もう一生救いようがない。太陽が2個以上あってもらっても困る。おっぺけぺー

 とんでもない弾圧を受けた後にどう立ち回るかはその人のユーモアセンスが問われるのですが、気持ち悪いのは自分だと堂々と言いたい(親友の夏帆に言わせそうになった)と新田が走りだし、前バンドメンバーは置いてけぼりにされたシーンは今になってじわじわと胸にきています。何もかも持っているように見える人間を何もかもは持っていない人間が世間に噂を流布する。普段の自分の行いを顧みずにはいられない。大道が鳩野に尊敬と苦手意識があるのも同学年で一軍トップにいる鷹見にケンカを売られて臆せずに買うは才女幸山厘に心酔されてるは軽音部の立志伝中の人物でもある新田に可愛がられているはでテングになりそうなものなのに自己評価が低い、鳩野の心性に驚きを感じているからです。幸せなのにこれ以上望んだらバチが当たる、大道の幸せは多数の感じる幸福を引き受けてバチは当たらないように調整すること(幸山は大道をわきまえている人間と見ているのだろう)で、彼女は努力教の敬虔な信者なのだ。エスパー魔美に繋がったな・・・。飼い犬は努力(?)しても人間の都合で捨てられる。大道は絶対に捨てない人間で、ふつうの軽音部の作中で桃と元は捨てられた子犬状態でしょげているところを大道に救われている。野呂と鳩野のダブルパンチは身内外と身内のやらかしを純真無垢水尾に見せつけるという奇行に走りがち。この3人にストッパー役はいない。野呂のおじさんはしずかのバギーに見えるので、おじさんがアル中から脱してくれないと困る。野呂はパンクに傾倒しているだけで常識は誰よりも持ち合わせているのではないか。パンクが憲法なら野呂は総理大臣だな。(仕事しろ) 数志が七道高校との合同ライブで部長として一皮むければいいのですが・・・。鶴に部内を掌握されている現実をみて「めっちゃ心強い」と鶴にいう男だからな…。退屈することの恐怖を、数志はまだ想像したことがない。新田たまきの持つ軽音部への愛情は一筋縄ではなく、コピーバンドの優劣に勝ち負けもないはずなのですが、マウント取りに精を出し男女共にゴシップ話に忙しい谷九軽音部を新田は好きだったのです。大をつけろよデコ助野郎 将棋連盟の改革は、対局は死合いなので遅れた奴は死人と見なす(あ、お前生きてたんだ?)慣習の全面的な刷新も含まれているように感じます。そばもおもちも食べたし新年があけました。健康で昨年を過ごせたことに感謝。暴飲暴食も良識の範囲で収まるように頑張るぞ。年末にスーパーの特売で1個106円(税込)で買ったいわしの缶詰でオメガ3脂肪酸を確保するのだ。身の量が減っている気もしますけどね。将棋連盟も新田たまきも、ついでにいうとAKIRAも、子は親のエゴの塊なんだから悪いけどそこは認めてくれん?と言っているような感じですかね・・・・・・・・・・・。聞いとるかハーディン? アカネイア貴族連合を粛正しまくれば闇にも落ちるヵ 家康は顔色変えずに改易しまくった印象がありますね・・・・・・・・。どうする家康を見てみるか。秀吉側に寝返った家臣は誰だったっけ。榊原康政だっけとググったらどうも間違えたらしい。加賀さんがフリーで作ったヴェスタリアサーガのゼイドの軍師役が敵対する陣営に寝返るシナリオが始まったら夜も眠れないな・・・。髙羽史彦の呪力はお笑いに真面目じゃない奴への不満が募り(刑事事件の被疑者に対して検察が起訴すれば99.9%の有罪判決まで持っていける現実が日車には現実とは思えなかった、ある種の異界に思えたように)羂索と通じて理想のお笑いの箱を出現させている。チョケることと判決を勝ち取ることが同義になっているのです。社会的に正しいのだと分かってもらえて、それが嬉しい。でも相方はできなかった。日車の相方はいい根性をしていますよね…。ヤングアニマルwebで読み切りが載った 森下フミコの反撃/読み切り安田剛助、を読みました。メチャクチャ面白いです。ただひたすらにひかりがおもろい。わたしの財宝を超える人間など存在しないッ!!!!!!!(ギルかおまえは)fate sword 因縁や運命を断つ剣。(基本的に)終わらない物語に終止符を打つ剣。自分のハラをキル剣だろう、それは…。 トリスタンがネタキャラになるのは必然では…。「人の心がわからない」「嘘をついている自覚がない」「闇を飼っているのが自分だけだと思っている」「闇オーミチの可能性についてほんのわずかでも考慮したことがあるのか」「」「遠野の辞書に深慮遠謀という言葉はない」(いやホントは二股だと思うけどね) 大道さんに「遠野君は(内田さん以外の)他のバンドにあまり興味ないから」と言われてほしい。劇光仮面の登場人物、切通アキノリは我慢がならないことにどう対処していたのだろう。劇光仮面1巻はほぼほぼ切通の物語であり、劇中の背骨である劇光は切通が見た光でもある。自分たちが子供の頃見ていた光が、本物の人たちが造った本物の造形だった、ということが劇光「仮面」よりも切通には重要だったのね。常に思考が怪人、改造人間の方に向いていて、いかに生を充実させるかが大切で切実であったと思われます。スフィンクスがそこに在るのは、切通には自分が生きている証なのだと思えたのでは。そんな重い男に告白された真理りまの心情は想像できない。(嫌に決まってるだろう) 最新刊の中野はノリノリ過ぎる。キボーガーを山間地で運用するとかまあまあ正気ではない。悪のクマ退治、鈴木少年(二矢)のたっての願い、対等以上の相手とタイマン相撲と燃えない理由はない。御託はいい。立てキボーガー。  実相寺の気持ち悪さと中野の誠実さ、特に実相寺の肌感覚で気色悪い必死さはどうにも拒絶反応がでるのですが、ミカドヴェヒター自体が死体の再利用品なので実相寺に自分を守るという概念がかなり欠けている。そのリビングデッドが非力で将来性の塊である鈴木少年役を担うという倒錯性(ヴェヒターよォ!)。実相寺は認められないんだよなぁ・・・。自身のぬるま湯の生活を守るためにやむを得ず立ち上がる構図。特撮と現実は地続きだと、いや、現実は特撮の地続きだと認識して生きるのが特美研の美意識で切通の太古の人類は夜空の星を見上げ、そこに神秘を感じて生活していた。特撮造形は星に手を伸ばす人類の見果てぬ夢なんだ(といってから伏龍の話が始まる)。キボーガーが対テロの暴徒鎮圧用兵器としての出自なのも伏龍との関連性が高い。中野は機動隊の出ですしね。ティガのイルマ隊長の「ティガとはじめて会った時、わたしは神を見たと思った」「でも違うのね」「ティガは人間だった」「必ず勝って、ウルトラマンティガ」の流れは熱い。そして危険だ。ハーディンが外様も外様で主君の血筋から消去法で選ばれていた(周りもみんな知っていた)、母方の家系は重きを置かれない(の?)、ホエルンがやたら強化されたらしい(ゲーム違う)、ホエルンに生粋の致命反撃を授けよう。スキル貸与。とんでもない疫病神が疫病神らしく退陣するのがウルトラマンティガ・・・なのか。神に義務はない。空気軍神現る。大魔神っぽいよな。見た事ないけど・・・。呪術廻戦の敵キャラである羂索が嫌いなのはやりたいことを実行するには五条悟が邪魔なので徹底的にその除去に努める真剣さにあります。髙羽と組まれると羂索の緻密さと髙羽の術式の即興コント力(こんとちから、と読む)でなにもかもが有耶無耶にされる地獄が生まれる。いつまでやる気だこいつら。ティガの最終回が人間の心がウルトラマンの力を動かして勝利したのだから、ダイナの最終回はウルトラマンの心が人間の業を燃やして勝利するのが筋でした。ウルトラマンの心性はゾフィーを見るまでもなく魔性ですけどね…。侵略してくる宇宙人の方がウキウキでやってくる感じがするなぁ。お伊勢参りに行く江戸市民の感覚で侵略しに来ているのでは。セブンはくそまじめですよね。メトロン星人は茶ぐらい出したのか? 四字熟語の一つである虎渓三笑、聞けば日光東照宮の彫刻の中にも題材として存在してるそうです。絶対に渡らないと決めていた川の橋を旧友たちと語らう楽しさに夢中となり、うっかり禁を破ってしまう場面の彫刻です。三猿とずいぶん温度が違うなと言わざるをえない。ネットで調べると得体の知れない仙人や賢人たちが陽明門にはいるそうです。中国の上海にある玉仏寺の珍妙さを思い出すぜ。家康は死んでから遁世したかったのですかねえ。葵 徳川三代で前田利家を演じたのは・・・(検索)北村和夫。その息子はNHKの朝ドラ「おむすび」でヒロインの父親役を演じた北村有起哉ではないですか。意外です。おむすびの松平健が演じた爺ちゃんはかなりの自由人でしたが、その子供の長兄は苦労するとしか思えない。次男以降はあほみたいに楽しいのでは。漫画「BLEACH(ブリーチ)」と呪術廻戦は切っても切れない関係ですが、長兄のスタンスという観点から白哉と甚壱を見ると、まあまあお互い苦労している(のではないか)と想像します。しがらみの頂点に近づくほど苦労ばかりが増えていく、五条悟も例外ではないです。相撲だけしていれば幸せ。カッパ(三代)の簡易領域が相手の領域の必殺必中効果を上回る、例えば五条の無量空処とカチ合うと相撲の無限の可能性に上書きされて五条側に流れ込む(最悪)のなら、とりあえず平和でよろしいのではないでしょうか。羂索はコロス。「みんなチョケてる俺を見たいんじゃないの?」と小学生髙羽のわりとギリギリな思いを受け止める大人の髙羽がすこし切ない。脹相も父と母は子供たちの成長を楽しみにしていたのではないかと弟たちに聞かれるまえに確認しておきたかっただろう。俺を助けろ虎杖も悠仁は俺に気を遣ってくれいていると感じていたかもしれませんが、実際にあの時の伏黒は本当に困っていたので本心からのお願いではありました。東堂ぐらいですよね。あいつのデリカシーを心配するなら恐竜が絶滅した隕石の衝突回避方法を模索したほうがまだ建設的だと感じるような人間は…。東堂が高田ちゃんを比較対象として見てしまうのか(高田ちゃんのどこが好きなのか)はちょっと気になる。酒を飲んで高田ちゃんと他のアイドルを東堂の前で比較、論じてしまうと血を見ることになるはずですが、宿儺を怖がらない裏梅を想像するように、東堂を他の人間と大差ないと楽しく相席できる人間にはなりたい。(「東堂葵。親切な奴」と謎ワードがふと口に出て来て笑ってしまった。たぶん殴るまえに呪力総量と呪力の流れをチェックするために「10秒後に腹を殴る。守っておけ」と東堂は言いそうだなと思ったからです。まず「店の外へ出よう」からだろう…)獄門きょう(漢字!「疆」)の作動原理について延々とダベっていたいな。NHKの朝ドラ、ばけばけでヒロイントキは親友サワの人生の一大岐路に立ち会いました。ここで呪術廻戦の日車には師匠がいなかった(と思われる)のを思い出す。自己領域の拡大と罪の裁定(術式の剥奪)、刑の執行(受刑者には可能な限りの抵抗を認める)、なんというかおまえは何と戦っているのかとつっこまずにはいられない。頭にきたクソ師匠と戦っているのなら可愛げがあるのですが・・・。たぶんこの世の不条理に怒っているのだよな。妖怪でも召喚しろ。宿儺が気に入っておもちゃにするはずです。待ってやるから反転術式で治せ。できなければ死ぬぞ。日車と髙羽の術式がカチ合うとNHKの深夜コント番組ライフ!が始まりそう。「Ms.釘崎、可愛さとは何だ?」「たぶん、幸せになると漠然と信じていることがかわいさの正体だと思うのよね」「死ぬときに微笑んで死ぬじゃない?」「あれってこれから幸せになると信じているからだと思う。自他共にね」死んであの世に行ってから「こんなはずじゃなかった…」と生前の後悔を繰り返すのとセットね。羂索と釘崎はメチャクチャ反りがあわないだろう。クソみたいな故郷と天国みたいな都会、クソみたいな因習と天国みたいなアクティブ志向。因習とアクティブの天国合体が羂索だといえます。戦後の炭鉱開発による地域発展みたいなものかな・・・。水源と燃料と水産物、肉、野菜類が豊富に取れて爆発的に増える人口も充分に賄えるならあと必要なのは娯楽(と医療)だけだろう。教育はどこだよ!!それは雑魚の思考だ 鉄腕アトムの青騎士は読んでないんだよなあ・・・。朝日ソノラマ社・月刊マンガ少年別冊ではたして刊行されていたのかどうか。(されていたらしい) BS4Kのウルトラセブンの放送を時々見ていますが、宇宙人がやたらセブンに馴れ馴れしいのとノリがあまりに調子がいいので「こいつら心の底から侵略を楽しんでいる・・・ッ!」と変な気分になります。故郷に帰ったら地球はこんなに楽しかったよと長屋の住人たちに話して聞かせるのでしょうね。ワートリのネイバーたちがこのノリでやってきていたらと思うとすべてがあほらしくなります。(つまり幸せになるためにノリノリでやってきている。本人たちに悪の意識は微塵もない。自他ともに幸福になったコナン・ドイルや!) 佐殿にやたら馴れ馴れしい北条時政(官位が己の領地の保証になるのなら魔除けの類には誠心誠意「の態度」をもってあたるのは当然)は存在しない。魔除けの苦労を考える人は変わっています。頼朝のことを悪く言っていた三浦の息子も、小四郎を相手にしていた時にだけべらっべらぺらっぺらとしゃべりまくっていたのだから、時政から見ればゲラゲラと笑える光景だったことだろう。石橋山の戦いでの時政の名乗りは大変気持ちよさそうで私はいつ思い出しても殺意を覚える。いや、まあ、本当に気持ちよさそうだなあと思うのですけれどもね。時政の生涯であの時の気持ちよさを上回る戦名乗りを目撃したら、嫉妬で乱れ狂って死ぬのではないか。善人は名乗らないというか…。伏黒の姉、津美紀は個人情報云々を別にしても、困っている人を助けても名乗らないと思う。東堂や悠仁の爺ちゃんもまた然り。伏黒の言う「芯の通った人間が好き」はまあ、助ける人間は別に誰でもいい、その時の気分で助けるという暴走善意の人かもしれない。領域展延を使い、高い基礎体術に空中ダウン属性攻撃とガード上からケズれる百裂の拳と脚を持つ暴走善意の呪術師を完成させよう。ダイの大冒険でバランが他者の竜闘気を支配できたのか(そんな環境はない)、竜闘気に細かい制御方法はあったのか(必要ない)、闘気と臆病さは同居できるのか(勇気は臆病さを自覚できる者のみがきちんと扱える)、おしりぴりぴり病は闘気と関係があるのではないか(ないよ)、いろいろ気になります。確かロン・ベルクはポップの親父さんから「かなりの変人」と評されていたような・・・。日車の誅伏賜死で五条の無下限を没収できるかはわからない。日車の領域内で大人が子供みたいなことを始めたら咎められるんでしょうかね。有罪!有罪! 絶対に完成しない(観客のいない漫才のように)メタファーでもありますね、ロン・ベルク。アバンとベルクは因縁が出来てしまった。究極的にはアバンもベルクも他者の承認を必要としていない。どんな偉業を成しても他者があっての自分、というスタンスを(たぶん)死んでも外さないのでバーンみたいに気前よく褒美を与えるという親しみやすさがない。ティガ→ダイナ間の違和感も、いってしまえばティガへの信頼(と願い)をティガ自身はなんとも思っていない(と思われる)ことへの違和感ですな。TV時代劇のヒーローが悪をばっさばっさと成敗していくことへの、俺の納得性といいかえてもいい。私が納得しない以上、認められない。ロン・ベルクは他者からのアイデアで想像もしない武器を作れたら、俺はつまらないことにこだわっていたつまらない魔族だったんだなあと(ベルクさんが死んじゃう!!)言うかもしれませんね。ベルクスシリーズが出てきてしまうと、竜の騎士たちの出生のひみつにアバンが絡んでしまうのではないか、バーンが正体をぼかしてアバンに語りかけてしまうのではないか、要するに配下にならないかとリクルートするのではないかと危惧されます。「病原をより積極的に撃滅するワクチン、それが竜の騎士だ」 完成された竜の騎士は、愛も憎しみも持たないからね・・・。ドルオーラを直視して戦意を失わないおっさんはちょっとどうかしている!!! バランが冗談で口にした「私が気に入った連中は皆、魔王軍からいなくなる」「ハドラーによほど人徳がないのかな」は、ダイの大冒険の世界の冷たい真理をついている。やせ我慢と死にたがりの呪いに満ちていることに。ハドラーはバランに怯えていたのですが、やせ我慢と死にたがりの洗礼を受け入れてバランと並び立ったのです。フローラがハドラーの顛末を聞いたら(誰から聞くんよ?)まず呆れるし、アバンに聞くまえにポップを問い詰めることだろう。「——で、大魔道士ポップくんは彼のことをどう思うのかしら」「」「ひ、姫さん。こいつはまだ若いんだ。勘弁してやってくれ・・・」(オレ一人じゃむりだ!!!!!!) 初代劇光仮面にも通じることですが、退屈で退屈で仕方がない(死に損なった)ので人生を充実させるための趣味活動をしていたら光明がさしたわけです。我が世の春が来た!バーンの魔界大ふっかつ作戦も魔界の住人の幸せのためかというと、・・・・・・・・・・・まあ、そんなことはない。魔界に太陽光が差したら大激変時代が到来するのは確実で、バーンの機嫌は最高潮で三神は頭を抱えたことだろう。肝心の竜の騎士も結果から見れば子作りした後にバーンの勧誘に乗り竜の騎士の性能を存分に発揮してから死んだ(大学に通っていたはずの息子がテロリストになっていた親の気分)のだから堪らない。ごめん、言い過ぎた。娘が大学を卒業したのでフランスの料理学校に留学をさせようと思っていたらラーメン屋になっていた汐見ようこの気分くらいかもしれない。欲望に突っ走る人生。原田編で原田とゆとりのニアミスが起きかけたのはかなりスリリングでしたよね…。ゆとりの「ヘルシーで美味しくてチャンとしているけど、ラーメンと違って全然ワクワクしない!!」「ママの料理と同じよ!!」 は原田の爆弾をかする予感もする。年老いた母親が以前のように料理が作れなくなったのを嘆くシーンをなにかの作品で思い出せるかというと、ない。死なない程度に栄養を補給する方法はいくらでもある。バランたち竜の騎士が母親の優しさに触れるのは死んだ時だけなんです。竜魔人は死を与える。ハドラーが心の底からバランに怯えるのはまったく正しい。じゃあバーンがバランからハドラーを守ってくれるかといえば、寝言は死んでからいえとしかいえない。楽しい、面白いと感じていた作品が冷え冷えとする世界の産物で、それに気が付くとなにが楽しくて面白いと感じていたのかが分からなくなってくる。沽券至上主義を提唱してみたい。クロコダインの張子の虎発言は最終決戦のバーンが口にした「敗北よりは良い」に直接かかると思うのですよね。たとえ二度とは元にもどれなくとも・・・勝利(しょうり)! その二文字のためになら・・・ 本物の呪いなのですが、「勇者アバンと獄炎の魔王」でロン・ベルクが出て来てしまったので、争いに勝つための武器と、戦いに臨む戦士は一心同体だと彼なら言うでしょう。沽券! 端正なラーメンを食べると「二度目はない(かな)」と思う確率が高いのと、高級ホテルでフレンチを食べたときの「もう二度とない(だろう)」は普段使いの食事と比較しての漠然とした感想ですが、普段使いの食事、普段使いの戦闘、普段使いの歌、普段使いの酒、普段使いの—— やはりアバンは異常だと思います。マトリフは思ったことをそのまま口に出し過ぎですね。フローラとマトリフがポップの将来を心配するのは至極当然です。アバンはもう手遅れですし…。「勇者アバンと獄炎の魔王」を読み返してみるとカール王国城下の街でロカが裸で練り歩く場面をより鮮明に思い出し、ロカは本当にいい奴なのだと強く思いました。ふつうの人間なら自分の幸福を他者のせいにしたくなるものです。魔族が傲慢なのはひとえに人間のおかげだ、といった具合にです。聞いとるかロン・ベルク?(死)あいつの必殺剣もモロにメガンテなので考えなしにも程があるだろう。ガンガディアも呆れているぞ・・・。他者充填は悪の発想なのでアウトなのだけど、ドラクエ世界の魔法体系をそっくり作り替えた魔法術の構築ならセーフかもしれない。羂索を殴り倒すにはあいつの知識外から殴る必要があるように。どうすれば殺せるのだろう。ちなみにアバンの凍れる時間の秘法とマトリフのエッチな魔族の本に閉じ込められる話は対比になっているといえなくもない(フローラが聞いたら「すこしはマトリフを見習ったらどうです?」くらいは言うかもしれない)。やむにやまれずという点では、どうやら同じのようですし・・・ 若きハドラーが鬼面道士ブラスに軍団育成の任を与えたのは先見の明がありすぎてちょっと怖いくらいです。バランとロカも「戦士が所帯を持つなんて生涯あり得ない」と言い張っていたわけで、とてもよく似ています。ロンベルクが弟子から「今度結婚しますので仲人役をお願いします」と言われたら「結婚なんてやめとけ。酒も好きに飲めなくなるぞ」「まあ、おめでとう」と魔界一の名酒をみつけて持ってきてくれそう。仲人役はジャンク夫妻がいいぞ。最強の武器と最強の戦士の組み合わせを求めているロンは神々の後始末と新秩序の支配者を自認するバーンと相性がいい。いってしまえば旧秩序と旧支配からの破壊と再生(と支配)なのでノヴァがロンを最後の最後あたりまで毛嫌いしていたのは、理屈的にも感情的にもまったく正しい。バーンも美酒と美女で接待なんてしないで、軽くロンを実力で捻っておけばよかったんじゃないですかねぇ・・・。魔族で向上心のある者と出会うなんてことは砂浜で砂金の粒を見つけるくらい希少なので大事に扱いたかったのかもしれない。「真魔剛竜剣。あれはカスだな」ああん!!!!!?バラン本人より武具(真魔剛竜剣)を茶化されると怒りそうだよな、ロンベルク。竜の騎士に思い入れがあるのではなく、どちらかというと人間として生まれ育ち、ある日真魔剛竜剣がかっ飛んで来る(のではないか)人武一体の物語に惹かれていると予想します。そういう話であるのなら、弱い勇者と弱い武器の組み合わせもお互いが真に信頼しあっているのならロンは家庭教師と専属鍛冶屋をほぼ無償で(頼んでもいないのに!)はじめる奇特さを持っているのだろう。変人すぎる。バーンもバランの生まれ持つ底知れぬ殺気には警戒しても、神々が由来となる自分の知識外からの一撃(単純にいえば闘気と魔力以外から派生する技術)にはまったく無警戒です。ロージェノム化はしないのだ。フローラの「勇者とかいう住所不定の無職には鈴をつけときなさい」は金言なので、ダイの剣には鈴がついていると思われる…。ロンが一番、傍若無人な人物でバーンの魔王軍総司令の誘い(無期限の酒宴を受けといて)を断る逸話は6軍団長が聞いたら全員ハドラーの顔を見ずにはいられない。フレイザードがいたら「ヒュー! ハドラー様、残念でしたねぇ!」くらい言っちゃうかもしれん。「ふん。物の数ではない。かえって張り合いがでるわ」 ((おお)) 「(ふっ)さすがだな魔軍司令殿。バーンの手駒としての自身の存在に疑念を持たないばかりか主を見返してやろうという覇気を感じる。私もうかうかしてはいられないか・・・」 (!!!!!?????? 魔軍司令殿が手駒? この男はなにを言っておるのだ) 思ったことを全部小声で口に出してしまう世界線のバランと相変わらず忠義が厚いクロコダイン。バランと真魔剛竜剣はダイとゴメちゃんの関係に似ていたらすごい笑える。 沽券とは自身をみじめだとはどんな拷問を受けても認めないことでもある。ロンが造る武器には魂があるっぽいので、武具が持つ自負はすべての勇者に説教と、その誇りの体現を宿命づけられていると(恥ずかしながら)断言できます。中二病も極まれば神話を侵蝕するのだ。褒めているわけではない。ロンが覚醒時の9割は酔っぱらっていることには注意を要する。アニメ「機甲界ガリアン」の神々の最終兵器巨大鉄板ってどうやって止めたのか覚えていないな・・・。竜魔人バランも一度変身するとその場の全員をほぼ殺す(ソアラ死亡時は何一つ遠慮がなかった)ので剣の出番はまだ理性が残っている時だけかもしれない。ガメラの墓場ならぬ剛竜剣の墓場がどこかにあるのではないでしょうか。バランの竜魔人化はヒュンケルの考えなしの説得のせいもあったのですが、ダイの大冒険の世界の永遠に繰り返す鉄則、弱音を見せられないので痛いトコを突かれるとここぞとばかりに「おまえが悪い」とキレる、誰も自己を顧みない(マトリフ、聞いてて耳が痛いだろう)現象の再確認だともいえます。食べることと寝ることと死ぬことは修行なのですが、たぶんそんなことを人前で口に出していったら馬鹿にされてしまうのでしょう。誰もが馬鹿にされないゲームに参加しているのだから、馬鹿は馬鹿にしてよいのですとも言い換えられます。竜魔人化はそれまでの竜の騎士の慣例からすれば、目的を果たしたら生きる気力を失い、マザードラゴンが生命活動を任意停止させて天界へ回収する、流れとなっていたようです。重要なことは三界の神々も竜の騎士のログアウトには口出しできない(なのでマザードラゴンが仕事を放棄すると竜の騎士は文字通りの天涯孤独になる)のです。おいおいおいおいおいおいおいおい。いやな世の中だよなぁ・・・。映画見てないですけど、大魔人(埴輪形態)が常時街中でおとなしく生活を送っているようなものです。バーンの心境たるや。ゴメにどうかしているほどに憎悪を持ったバーンは、わりとまともな心性をしています。竜の騎士と神々の涙が友達で願いをなんでもかなえてくれる、バーンはブチ切れないので偉い。バーンがバランを配下に誘う際に「貴公が望む願いをわたしがかなえよう。わたしにできることならなんでもする。それでどうかな?」と言ってしまって延々とソアラとディーノの話を聞かされるバーンをすこし見たい。「まだ終わんないの?」 三界の神は娯楽のために世界を創造したわけではないと、信じたいですよね。強者には蓋を。弱者には楽園を。環境維持のためには竜の騎士をと、なんというか竜族は竜の騎士を感知したら殺さずにはいられない(いつ殺されるかわかったものではないから)。ゴメを憎むバーンも、世界創造と奇跡の体現はできない。敗北よりは良い。いや、マザードラゴンの心労はだれも気にしないな・・・。ダイは竜族の長とは会っておいてみたいですよね。まあ・・・・・・・・・・・・ロンベルクに会ったあとなら、どんな変人に会っても耐性ができているから大丈夫でしょうし…。あの人、あつかいにくいよね。麒麟族が神魔双雷槍を保持していて聖母竜の友人兼、守護者として末裔が生き残っている(いた)とか妄想すると楽しい。バランがヴェルザーを打ち倒したのも個人的な動機で命を奪わなければならなかったのではないし、ダイがバーンを滅したのも個人的な動機で命を奪わなければならなかったのではない。ここで「え? ダイは地上のみんなが大好きだからバーンを殺したんでしょ?」と言われると、うーんと返答に詰まる。竜の騎士の力を思うがままにできたら・・・とダイの大冒険の世界の権力者なら一度は夢想するだろう。真魔剛竜剣を超える剣を鍛えることができたら・・・と年がら年中妄想していた中年男性が本当に成し遂げた事例ならある。「虎に翼」の寅子の初代パートナー佐田優三、優三さんが日本国憲法の化身となり、初代最高裁長官、星朋彦は腑抜けになった穂高に死して花となり後継に道を示せ「わたしもそうする」と盛大に呪いをかけていきました。ダイの大冒険でメガンテ禁止、虎に翼で優三さん死ぬの禁止とすると途端に炭酸の抜けたコーラみたいになりそう。落とすための勉強(試験)と殺して奪うための戦争(富国強兵)、神魔双雷槍は神代では神権の象徴で魔界戦国時代では国落とし(雷雲の大発生による大規模破壊呪文と同等、永遠にMPを消費するイオナズン発生装置)兵器、ダイが訪れるころはちょっと丈夫なトンファーになっていそう。ロンの「(誰だって)自分の欲するものを手に入れたいとおもうものだ」「オレの場合は武器と使い手だったというだけで、おまえたちとなにも変わるところはない」「そうだろう?」はいいことをいっているように聞こえて、欲しいものを手に入れるのなら(目的を達成するのなら)周りの目を気にしてはいられない行動あるのみと、バーンのやっていることも肯定しちゃいそうで問題が多々ある。バーンからは最大級に気に入られる人物のタイプではあるが。おべっかやよいしょをしないで行動する人間、バーンパレスの設計技師もロンみたいな変人であった可能性は高い。バーンの自画像や彫刻ももしあるのなら、ミストが探してきた人材からバーンが指名して作成させたのではないかと想像できる。ザボエラもロンの爪の垢でも飲んでいれば化けたかもしれない・・・。物語全編を通して見ると、やはりハドラーの小心が最大の軋みであると思います。フレイザードの謎の爽やかさは虚栄心の鼻っ柱の純度が120%の爽やかさであり、ハドラーは開き直って地底魔城の玉座からぶるぶる震えて立ち上がり、ヒュンケルの養父にさんざん愚痴を聞いてもらえばよかった。「こんな時にクロコダインがいてくれたらどんなに心強いことだろう!!!」(えー いまそれわしに言う? わたしはあなたの心の強さから生まれたのだから これから勇者に殺されるのはいやだと泣き言をいわれても困るんだけど… )ヒュンケルの謎のハドラーへの忠誠も、ふつうに考えれば養父への愛がハドラーへの義理立てになっているのだろう。いやまあ、ハドラー、散々だな・・・。「これで負けたら、バカだぜぇ!!!」ひゅーひゅー バーンを苦笑させたら凄い。バルトスの最期はどうしたってクロコダインの「オレは・・・馬鹿だった・・・」を連想しますし、かなりどうしようないことを考えれば「オレという上司がいながら他所の人材に魅力を感じるとは言語道断!! あなたらしさ(気高き心)を取り戻してください? おまえにオレの気持ちはわからんッ!!!!!!」 ぼかぁ!! バーンのロンへの態度と比べると、ちょっとだけハドラーがかわいそうではあるのです。クロコダインを見習え おトキの親友サワもダンナに「あなたってホントにハンパ者よね」と辛らつなこと言っていたよね・・・ だってクロコダインだって「オレ馬鹿」いったあと自決したじゃん!!!!!!! オレが死んでいいの!? ハドラーのギリギリの台詞が「アバンよ。俺の右腕になれ」なのでバルトスが泣いているぞ・・・ おサワのダンナは自分のボスに「つまらない面子にこだわっていないで男の度量で真実の愛を見せてみてはどうですか?」「奥さんに言いつけますよ?」と言えと妻に催促されているのです。バルトスも我慢した。「人間の子供を育てることを酔狂だなとあなたはいった。酔狂!あなたに足りないものはまさにそれだ!!!」ハドラーをいじめると気分がよくなるのは如何ともし難い。原作者三条陸も言っている。少年ジャンプはバトルロジックを延々と述べていても誰も文句をいわない。次の展開が待ち遠しいのなら、いつまでもニコニコしながら聞いていてくれる、と。日車の領域はいくらでもつけいる隙がありそうですよね。あれ、術師の良心が暴走した結果なので電波ジャックならぬ呪力ジャックをして日車の満足する死を演出してあげれば、彼、満足して死にますよ。断言できる。ロンの大望もベルクスシリーズの一振り(双剣のライゼだろう)に武器と使い手の一体化を託してみたのだろう。ライゼの皮肉屋な性格、おまえみたいなゲス野郎は嫌いじゃない、はロンの「弱いやつらについたほうが面白い」のセリフを思いおこさせる。???? ベルクスの連中と反対のことを言っているな、ロンベルク。弱いやつらについてみたいと思わなかったのか、と。(正論パンチ!正論パンチ!)ライゼはご丁寧に魔剣と仮面の謎通信の仕組みも説明しかけるという親切ぶり。謎通信の方が興味深いですよね。ガイバーⅠとガイバーⅡだ。(Ⅲだ!!) アイル・ビー・バック ニシコオリサン!(あ、サブタイにかかってた…) ザボエラを主人公にするのなら彼のいい所は研究熱心な所なのでロンの爪の垢でも飲ませたらベルク匠たちの魂分けの技術を応用した遠距離たましい通信の構築をしてもらおう。世界をひっくり返す技術なのでさぞ高く売れることだろう(キーヒッヒッヒッ!!!!)。竜の騎士と剛竜剣はお互いが別世界にいても通信できそうなので(剛竜剣の移動エネルギーも謎過ぎるが)おまえたちは最高の研究材料じゃあ~!(殴る)。ガイバーの原作でガイバーⅡの深掘りエピソードが出てきたときは震えたよね…。リスカー監察官は伊達の効いた男だったので質実剛健のゼクトールとはいがみあっていてほしいものだ。新参のゾアロードで野心家のギュオーがいかに美味しいキャラであったことか・・・。ハミルカル・バルカスとリスカーが邂逅している可能性は高い。人類の殖装者をバルカスが調べないことはあり得ないからです。ただ、アルカンフェルの支配から脱する方法を調べることにもなるので、ガイバー世界の法則からいえば、世界の反逆者になってしまうことでしょう。生物は必ず死ぬように、人類は降臨者に支配されなくてはならないからです。バルカス最後の賭けは、晶に自由を求める自由を最上の価値とするや否やを・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いやー、アルカンフェルを至高とする生き方をバルカス爺が捨てられるかは、やっぱりわからないよね。アプトムが絶対においしいところを攫っていく確信はある…。 みんなもガイバーを読もう! 

  「ご存じですか? 支部長」

  『「ガイバー」とは〝降臨者(かれら)〟のことばで、〝規格外品(きかくがいひん)〟———といった意味だそうですよ…』

リスカーがバルカスのことをまったく知らないなんてことも絶対にない。つ ま り、規格外品についてリスカーとバルカスは話し合うし、バルカスから見ればアルカンフェルの精神支配から脱したことをリスカーは自覚しているのかを聞かないわけにはいかない。ゼクトールならよかったのに…ッ!! おサワがいたらシンプルに小さい男共だ。この半分弱どもがよ・・・とつぶやくのでしょう。アプトムとガイバーⅡFはコンビを組ませたら永遠に漫才をやってくれそう。こいつら地球や人類のことなんてはっきりいってどうでもいいですからね。たぶん晶には同情するし・・・。アルカンフェルには「なんでまだ死なないの?」くらいのドライさで接しそう。アルは正真正銘の地球の神なのですが、フィーメイルもアプトムも神様には興味がない、というかあの二人は自分たちより先に死んでいった者たちへの当てつけと義理を通すこと以外、たいして興味がない。上位者からの精神波干渉も受けない。マキシマが常に未来のことを考えている(いた)のとは対照的です。フィーメイルとアプトムの合意点が生まれると世界がひっくり返りそうだよ。未来と地球と人類が他人事ではなくなったからオレと私たちに協力しろドクターと、バルカスを脅迫する未来ですな。OVA一期の瀬川哲郎の声優は・・・塩屋浩三。ドラゴンボールのブウ役でも声をあてていますね。ギュオーに「答えろ!!(あんたに聞きたいことがある)人類は兵器の素体として生み出されたと言ったな。いったい誰にだ!!」はいつ思い出しても痺れる台詞でいい。晶もめっちゃ感心しただろう。巻島もなんだかんだで瀬川兄妹が不幸な目に遭うのは気分はよくないはず。ただし、ギュオーが酷い目に遭うのには歓迎するね。バルカスも主君アルカンフェルをぶっ殺した仇敵のギュオーを憐れむ気持ちはないにせよ、虫けら同然になっても野心を燃やし続ける様を見るとちょっとだけ感心するかも。ギュオーが本性を見せた後のゼクトールの感想はぜひ聞きたい。ゾアノイドはゾアロードに絶対服従するプログラムを受けているのですが、ゼクトールの「組織内のエリートはこうあるべき。自ら率先しなければならない」の信念はゾアロードへの服従に反逆するのでないかと思う。してください。OVAエレゲンの最期はゼクトールに使命を与えました。OVA6巻は瀬川哲郎の晶に与えてしまった運命の覚悟と悔恨の章でもあるので、スパーっと見るとギュオーは運命にあらがう重みに欠けているように見えます。(おぉ ここでフレイザード理論がきた) 名誉!最高の調味料だぜェ~~!!!! フレイザードはカスでゴミなのですが、今生がすべて、オレは欲しいモノをすべて手に入れてみせるぜェ~~!!!!というシンプルな生き方はかなり憧れますね。ガイバーのヴァルキュリアは女フレイザードといってもいいかもしれない。自らが監察すべき対象に(自身の一部といっていい対象に)「ヘドがでるぜェ~!!」とユニットの強奪と日本支部のスマッシャーによる破壊と人員の虐殺とやりたい放題でしたから。クロノス監察官の出自なので、腹心を育てるのは事実上無理だったはずで(倫理観)女の一念は怖い、というか振り切れ過ぎていてアプトムだって恐怖しますよ。ギュオーを獣神将に推した人は消されたと思いますが、ヴァルキュリアのパトロンも一族ごと抹消されているのではないかと予想しますね。いや、誰です? リスカーが悪いとかいっている怖い人は・・・ フレイザードの向上心も、6大軍団長のトップに立ちあわよくばバーンの地位も手に入れようという打算なき勇気によって立っているわけで、ハドラーの「オレはアバンを倒したが勝ったとはいえない」といった精神的な充足の願望とは無縁なところも、フレイザードの謎の爽やかさに一役買っています。ギュータでは真の武人とはどんな人間なのだろう? 勇者とは何者なのか? といった疑問の答えは家族と共に暮らす中にあるのだろうと漠然と示されているんですよね。マトリフの場合は「オレは今まで散々若い女の尻と胸を揉んできたが、おまえ(カノン)ほどいい揉み具合の女はいなかっ・・・

 なぜアバンは苦悩してロン・ベルクは苦悩しない、というか吹っ切れているかというと自分のしたいことが明確だから クズの使い手、クズの武器、オレの認識内のクズ(身内だと判断した場合のクズ)はすべて始末して成仏させると決めているからです。聞いているかマトリフ~

 バーンが持つ魔王軍は地上破壊計画の前座にすぎないのですが、その前座に有り余る時間と財力と人材を投入しているのがバーンの茶目っ気でもあるわけです。なんというかエントロピーの増大をバーンが趣味で管理して崩壊を防いでいるというか・・・。バランがなんとなくバーンを見逃しているのも地上破壊計画を知らされていないのが一番の理由なのですが、盤上の乱れを正す行為を責務と捉えずに楽しんでいるのを見て毒気を抜かれた一面もあると思います。ポップがなにもかもバーンには敵わない、なにをしても無駄なんだと思いかけたのもバーン個人の戦闘力からではなく、バーンの目的に最初から人間たちが視野に入っていなかった、森を開墾して畑をつくる際に動物や昆虫たちのことを考えてもいないように、目的を成し遂げるための確固たる意志があることに絶望したのです。最終的に「死者と生者をあまねく照らす太陽になれ」と話が進んでいくので私なんかだと「そんなことはしったこっちゃないよ」となるのですが、大切なものをなんの理由も説明もなく奪われたら方針を変えるのでしょう。本当に大切なものが、バーンには自分の肩書だったわけであの世でハドラーに詫びを入れなくては格好がつかない状態です。あの世のハドラーなら笑って「あなたもただの人だったようですな」と小突いて終わりですか。ギュータの逢魔窟は人の中の打算が何十倍にもなって自分に返ってくる構図です。バーンが洞窟に入ればこの世のありとあらゆる名誉がバーンに襲ってくるのではないでしょうか。あの世のハドラーは必要のない見栄っぱり成分が抜けているのでめちゃくちゃいい上司になっているのでしょう。ザボエラはあの性格のまま地獄行きでしょうが、そんなザボエラにさえ「生前は世話になった。ありがとう」と一声かけに来てくれそうだよ。「この無能!あれだけお膳立てしてやったのに負けおってよくワシに声をかけられたな!ちょ~っと肉体が強いことだけが取り柄のクセに人間ごときに連敗するなど魔族の面汚しよ!!顔も見たくない、消えろ!!」 ・・・。「父上。今までお世話になりました」「あなたは大切なものがなにも見えていない」「ハドラー殿を見習って、一度なにもかも捨てるべきです。また会うこともあるかもしれません、それまでお達者で・・・」 実際、底なしの自意識で人を見下して誉め言葉と肩もみ(安楽な立場)を要求する御仁など掃いて捨てるほどいる。それがこの世の中じゃ~っ!!!、と開き直られるといい加減ツライ。まぞっほの「兄者にはおれの気持ちはわからないよ・・・」はかける言葉がない。「父娘そろって冷てえなぁ。人間なんてみんな弱いところがあるだろうがよ・・・」といっといてスパルタしか対応策がないマトリフも、だからおまえはマトリフなんだよ、と思いますね。サウンド・オブ・ミュージック(映画、1965年)を見返してみるかな。大佐が謎の人物過ぎる印象があったのですが、(いやたぶん、謎はいっそう深まる予感しかない)あの映画が歴史に残る名作なことは否定しようがない。(きっと問題作でもある) Fate/Zeroのギルが性格はカスなのになんだかんだで受肉するはイスカンダルと勇者たちとの絆をエアで粉砕するは(地球はかい剣みたいなものだろうアレは)やりたい放題なのだけれども悪ではない。子供たちを労働の担い手と見ないで、教育を与えて普通選挙を実施して、施政者を定期的に交代させる治世の状態を構築してみよう英雄王。まあ、絶対にぶち切れるんですけどね・・・。都市で人口を増加させると当然食料を増産させる必要があるし、備蓄した食料を保存するために倉とその保護のための城壁が必要になる。永遠のいたちごっこが生まれるので王がキレる。親友と魔物退治の冒険にでも行きたくなるだろう。アルトリアならなんとかしようと頑張って努力する。絶対に気に入った部下といっしょに駆け落ちなんかはしない。すればいいのに。聖杯問答で駆け落ちネタを披露したらギルもイスカンダルも爆笑して「腹が痛い!余の 我の 負けだ!」で決まりだよ。アルトリアはライダーとアーチャーの「王とは」などという酒盛りの話題には乗らずに、自分の本懐をまっすぐに述べればよかった。「騎士王などと、わたしが自分で名乗ったことはない」と場をシラけさせてから自分の欲の形をはっきり言えばよかった。セイバー、アーサー王の欲の形は「皆が自分たちの力で幸せになってもらいたい」「そのためにならわたしはどんな苦労も厭わない」「この身をすべて国に捧げよう」・・・・・・・・・・。・・・・・・なんで円卓が生まれたんでしたっけ。円卓かくし芸大会を王主催で開けば、マーリンあたりに(正直、なにが面白いのかさっぱりわからないが、皆が幸せそうなので会を開いてよかった)(毎年恒例にするか)と王の矜恃(矜恃?)を皆に示すことができてよかったと笑顔でいてくれるのではないか・・・。ランスロットは王を見ていて、もどかしくて死にそうだよな。ギネヴィアが箸と茶碗をもつ係で、ランスロットと二人羽織をして周りを凍り付かせようぜ!!!(事情を知らないアーサーだけが笑い転げている) 褒めてほしいか罰してほしいか命令してほしい、ランスロットを中心とした世界だとなにもかもが腐っていく。そもそも湖の貴婦人の—— イスカンダルに征服させよう。あんな奴ばらまでも招待するのか? 当然だ。王の度量はその宴に招待する客を選ばぬことでも問われるのだぞ? 誰もが思うことですが、王の軍勢に宝具レンタルをすることがFate世界の最強であることは明白。一人ひとりがサーヴァントなのでその英雄由来の宝具を貸し与えても全然気にならないくらいに 湖の連中の頭をカチ割りたい と願えば叶うし奇跡なんてものはいらない。

 手数の多さとパーソナルさは現代の社会で目に見えない、ざるや一種のろ過器のようなものになっている、ような気配があります。他者所有の曖昧さによる頭のいかれ具合といってもいい。錯乱したサーヴァントはキャスターだけではなかったらしい、というアレです。ギルガメッシュの最大不満ポイントは人間は不自由を求めることなので、(王の軍勢は王の下に集うことで最大の自由を謳歌しているのだから、見せつけられた以上殺すしかない。敬意を払って)己の欲するところを為せばいいのね。本当に強い者は自由だ、と少年マンガを体現するような話になりますけどね。ふくちゃんこと福部里志が欲してやまない聖杯じゃあないですか・・・ 好き好き公言するマヤカは強者であり自由なのだけれども、本当に強くなければ簡単にポシャる。ライダーがギルに正面切って出された酒杯を飲み干してから「おぬしの聖杯も奪い受ける」とぬけぬけ言ってギルが笑うのは歴史的天変地異といえるでしょう。おい、ギルガメッシュが酒宴で笑ったぞオイ。放送されてから15年くらい経ちましたが、え うそ こいつ笑ったぞ と今気がつきましたよ。道化を身近に置いといて、それに怒りを覚えるのでは王の中のカスを自認するべき。つまり三王の中でだれが一番笑えるかといえばギルなので、一番王らしいのはギルなのである。対王宝具が必要だな・・・ 王は鍋で怒りを煮ても、心はすぽおつで鍛錬するように清廉でなくてはならぬ デ・ポルターレ! 冗談なんだから笑えよ、と王に特攻を持つ。王以外には殺される。常時展開型です。燃費は死ぬほどいい。

「アーチャー、そしてセイバーよ。これが宴の最後の問いだ!」

「そも王とは孤高なるや否や!」

なんというか、イスカンダルはいっしょに酒を飲んでいても楽しくて安心できるのがいい。セイバー相手だと死ぬほど気を使いそうだからね。アーチャーはふつうに殺される。王と共に酒を飲み語らうということは、明日には死体となり蠅に卵を産み付けられている自分を想像することでもある。それは王とて変わらない。変わらないよな、セイバー。王の軍勢を100%の精度で展開できるライダーは絶対に招き寄せては駄目な相手なのですが、いの一番で酒を飲み交わしたい相手だというのが憎たらしい。切嗣が見たら発狂する。そもそも正義の味方と軍隊は同じ世界にはいられない。対軍宝具を持つ水戸黄門を想像してみてほしい。消すしかない。民を虐げる悪党を成敗する、つまり悪党がどこからどこまでの範囲に入っているのか・・・・・・・・・・考えたくもない。光圀がこの世の隠れた善人に光を与えたい(自分もそのおこぼれに与りたい)とやる気MAXだったのは有名。絶対に身近にいてほしくないタイプのお人だ…。

「実に楽しい宴でした」

「ぜひまた、ご一緒したいものです」

 不自由の中に望んだドラマが生まれる。円卓一党の望んだ未来はまさにそれだったはず、です。イスカンダルが喝破した「それは奴隷だ」がマーリンから見れば本当のことを言うな非人間め、といったところでしょうか。ぜひまたご一緒したい、は魔術師からすれば禁句みたいなもので戦いもしないで「軍門に降る」と口にする馬鹿がどこにいるというのだ・・・ 光圀の志向は鬼や妖怪からみると希代の変人以外の何者でもない。あ、いま「光圀は天皇家を崇め奉る御仁なのだから、都落ちした連中に憐憫の情は持たないでしょ?」と思ったあなた。たぶん正しい。でも史記の伯夷・叔斉のエピソードに感銘を受けた光圀なら、大切な人を想いやせ我慢を貫く人々に思いを馳せるのは当たり前だと思うのだよね…。セイバーが酒盛りで一番欲しいものは、同情でも救済でもなくて、たぶん鼓舞です。もちろん聖杯なんてものは、欲しくはなかった。おらぁっ!そこのおまえ!セイバーが欲しいのは聖杯じゃなくて士郎でしょ?といっただろ!そんなことは知ってんの!アーチャーとライダーのいる前で「男が欲しい」とセイバーがいったら地獄でしょうが!!!笑うけどね。ちなみに運命が不変なら士郎は凛に取られて凛はその罪悪感で一成をぶっ殺すよ(なんでやねん) なんとなく、Fate世界だとアメリカはハブられる予感が多々あります。魔術師は歴史と伝統の権化なので あ た り ま え だ ろ うとも思います。ひたすら数で押すのは死徒っぽい気もしますね。ギルガメッシュに「雑種、なにをしにここまで来た?」と聞かれたら「観光です」と答えるのだ。「ほう、観光か(観光とはなんだ?)」「え、観光知らないの(田舎ものだ…)」 「金ぴかさん(仮)は旅行をしたことはないんですか」「庭(のこと)は庭師にまかせるのが当然であろうが。見て愛でればそれ以上のことは徒労でしかない」「(なんてもったいない馬鹿であろうか・・・)」「なんてもったいない馬鹿であろうか」「(中略)」「つまり貴様が我に愉悦とはなんたるかを指し示すというわけか」「いってないですし、しったことではない、といったら・・・」 英雄に余暇の過ごし方を指南する、というのはタタリ神になったナゴの守に湯治を勧めるようなもので、やれるものならやってみろ、木造の巨大ダム(木遁)を建設するというくらい、人間にできることではありません。ジコ坊を本当に恐怖させるにはどうすればいいか、一夜にして国土強靭化と首都機能の移転を成し遂げる(どうやって?)くらいの時間と物資の概念破壊をしなければならないでしょう。なにが怖いって犠牲なくしては成長なし、と世界を見ているジコ坊なら、この化け物は必ず人の世を喰らい尽くすだろうと喝破するからです。便利で快適な生活は麻薬みたいなものですからね。もののけ姫は人間が豊かな森をはげ山へと変化させていく過程を悪とは断じていない。つくづく初代様の木遁は頭がおかしいな・・・。そして警察権能をうちは一族にまかせようとする千手(私怨の代名詞に警察権を一任)は本当に頭がおかしい。綱手の我慢強さは驚異的だよね。マジで尊敬できる。美人だしね。NARUTO世界は各国の警察が碌に機能していないので忍の力を当てにしているのですが、中忍選抜試験! あの気の狂ったようなお祭り! 綱手はまあまあ馬鹿の馬鹿による馬鹿のための馬鹿祭り、と諦観しているのではないかと思います。んで、大蛇丸がひっかきまわしに乱入するのですから、死ぬまでやってろ以外の感想しかない。大蛇丸がクソなのは綱手を逆撫でするところで、「わたしは心の底から傷ついたから忍をやめる」と仲間に弱音を吐けないところが大蛇丸の可愛いところでもあります。まあぶっ殺すけどね。唯一の弱音を吐けそうな男は仙人とかになっちまうしね・・・。まあ滅茶苦茶です。周りがどんなに凄い!と持てはやしても、納得できない以上は屈辱でしかない。逆に生涯最高の出来と自画自賛した作品が誰からも相手にされないのであれば、じゃあ「期待」とはいつ、どこで、だれが、なんのために、忘れられる権利も合わせて使うのでなければ口にした人間を捻りつぶしてもいいのかと確認をしたくもなるでしょう。

 現在、上映中の映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』のガンダムチャンネルのPV、『エンディング主題歌:ガンズ・アンド・ローゼズ「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」』は素晴らしい。今まで旧式のWindowsノートPCでYouTubeを視聴することになんの不満もなかったのですが、このPVは美しいディスプレイで何度でも見たい。おまえは美人を良いカットで何度もなめるように喰らいついてでも見たいのか?と言われれば「そうだ」と答えよう。

 進撃の巨人のジャンとNARUTOの綱手は少し似ていて、進撃ならフロック、NARUTOなら大蛇丸が、両者に修羅の世から降りてもいい、おまえ(あんた)にはお似合いだと堕落と取引を持ち掛けてきます。考えるとかなり笑えます。なんで堕落しきったお前ら(フロックは自分を救世の徒だと信じていますが)に諭されなければならないのか。そしてジャンも綱手も、ふつうなら絶対に乗らない誘惑にグラグラ揺れてしまうのです。ジャンに(ミカサ似の)美人の嫁さんと快適な一等地の住まいと昼間から高級ワインをちびちび飲める上級国民のイメージは効くのだ。酷すぎでしょ ジャンを馬鹿にしとんのか!ごめんなさい。 俺に無限月読は効かねぇッ!!(じゃーん) 漢の蕭何なら「ケチのつけようがないほどに整理された税収管理と法令実施要綱」の夢を見てさらに後世に残すために奔走しそう。きちんとした役人を育てるためには、食うに困らない環境で子供たちに教育を与えることができる場を作らなければならない。ウィトゲンシュタインの話がEテレ100分de名著ではじまったので皆さんもぜひ見てください。彼のことを知るととんでもなく繊細な人物だったことに驚く。そして根性がある。とにかく諦めないお人です。なんでそんなに諦めないのですか・・・。いやー。現在ジャンププラスで連載中の「勇者アバンと獄炎の魔王」の登場人物、賢者バルゴートと姿が重なります。実績や名声よりも、とにかく諦めないことにただただ驚く。本当にどうしてそんなに諦めないのでしょうか。「素晴らしい」とはなんなのだろうか。わたしは本当に素晴らしいということを理解しているのだろうか。100分de名著のテキストでお笑いをステージ上で演じるにあたり、採点方式の競技であるのなら採点可能な競技としての「お笑いとはなにか」を規定しなければならないのではないか、で、それは本当に笑える話なのかと、笑える環境を欲していたのに笑えない話ばかりをはじめるとなんのためにお笑いを求めていたのかもわからなくなってしまう。安全とか利便性とか健康とかお笑いとか、本当に欲しがっていたのかどうかもわからなくなります。らーめん再遊記で芹沢が原田に名状しがたい感情を持つのも、本当の所は才能への嫉妬ではなく、簡易な改良による幸せの発露を難なく発揮するところにあります。もし原田に原田を慕うラーメン職人がいたら「ふん」の一言ですますくせに延々と益体もない文句を心のなかで言い続けることでしょう。芹沢が酒の席で汐見の自慢をはじめたら全員、目を剥きますね。だいたいもともとが自分の作品たるラーメン「肉だし清湯麺」の改良を汐見にやられて「絶対に私のほうが美味しいです」と言い切られたのが始まりだったのですから…。原田編のラストも芹沢が「今までお前が作ったラーメンの中で、こいつが一番うまかったと思う」なので、芹沢も歳を取ったのだ。「芹沢さん。シャクだったんじゃないですか?」と水を向けたら取っ組み合いのケンカだな。ウィトゲンシュタインは奪われた子供らしい生活を取り戻そうと小学校教諭時代にスーパーハッスルしたのだろう。芹沢が自分の理想のラーメンが世間からは見向きもされなかった(エサでも食うかとトイレットペーパーを食うよりかはマシかぐらいに思われた)のと、ほんのちょっと似ています。そのエサに道義的な責任があなたにはあるでしょ、とラーメンハゲに説教をしたのが藤本なのだ。このラーメンはもっと美味しくできます!とほざいたのも藤本です。トンコツラーメンはどう考えても人間が食べるようなものではないと思いますよね?口に入れて咀嚼して味わう前までは・・・。(しかし飲み込めるか?) ゆとりの両親も父親の橋爪亮二が元妻の汐見ようこに「きみの本当の姿を写せるのは僕のカメラのレンズだけだ」とかぬかしていたのかァ~?!ゲスゲス 再遊記1巻、夏川の「こんなしょぼい店に社長がいるわけないだろ」を思い出しました。ウィトゲンシュタインも(たぶん)言っていますが、本質なんてものは本来はどうでもいいものであろう。自分が本当にほしいものに比べれば。(そして退職金と年金を溶かしちゃうのだあ)それでビジネスをしようとかおまえは神様かなにかなのか・・・ 大門さんが本当に欲しいものは情熱!でしょう。芹沢、おまえは本当に凄い奴だ!尊敬する!なのになんでおまえはそんなに謙虚なんだ?!ラーメン作ると人格も磨かれるのか!どうなんだ!! (こ、殺される・・・)原田編の緊張が高まるポイントは有栖がグルタに説明したように「理想に殉じてこそ」「本当のラーメンに近づく」(≒偽物が跋扈するこの世に真実を打ち立てる)と、あの頃はみんなちょっと頭がおかしかったと冷静に分析をしているところです。ざっくりいうと売れるラーメンは悪で、人気のでない個性的なラーメンから本物が生まれるのだと信じていたのです。化調化調。なのにみんな高級フレンチとかのほうを指くわえて見ていたのですから構造的にいびつで滑稽だったのは否定しようがない。なんだかんだで大衆化を馬鹿にしていたのですね。再遊記はこのあたり(芹沢の青春)を何度も何度も掘り返しては(ウィトゲンシュタインのように)理想と現実の擦り合わせをしているように見えますね。ウィンドウズ95が発売されたのが俺の青春だー(嘘)。原田の特異性は人の幸せをきちんと願える善良性と人並み外れた料理への感受性が同居している点にあります。ウィトゲンシュタインを生涯心配して見守ったお姉さんみたいだな・・・ 原田のヒモ生活を支えていた女性たちには、原田のラーメンへの情熱に関してはほぼ、あってもよかったし、なくなっていてもよかったくらいのものだったのでしょう。スポーツまんがとラーメンまんが(こと再遊記に関しては)の類似と相違を考えると、宇崎編ではっきりと宇崎の欲望が露呈したように男は死ぬとわかったら人生の意味とか青春時代の情熱とか犬も食わない戯言を言い始める生き物で、同じ感情を内包している人間はその戯言に同情し憐憫の念を禁じ得ないという、作者(プレイヤー)と読者(ギャラリー)との一体感が発生しやすい、というのが私の見解です。生前の迷惑の総量をギャラリーたちで分担してくれる(?)のを期待しているというか。死人に鞭打つようなこと書いてますね。再遊記1巻がべらぼうに面白いのも芹沢の死と再生がテンポよく書けているので芹沢の生前の悪行(まだ死んでない)を許せる気になれる(ような気がする)のが大きい。・・・あかん。宇崎編を読み返すと宇崎さんの寂しさと嬉しさがしみるしみる。たった一人ついてきてくれた部下の平田が宇崎が一番おかしかった頃に逃げ出したエピソードは本当にページを飛ばして読まなかったのですが、芹沢は根掘り葉掘り調べてから宇崎に直接、聞き出しましたね。誘導尋問をするような形で。芹沢、おまえ本当に最悪だな。らーめん再遊記ではロックスターに並々ならぬ思い入れがあるようで、単純にロックスター信仰とはなにかといえば、降参したいし潔く死んでほしいのですな。芹沢が有栖君と酒を飲んで語らうことといえば、時代が古いことに憤り、何事も外国人まかせなことに腹を立て、未熟で無礼な新参者だからと先人から煙たがられることにさらに腹を立てる。まあすべては過去の話となった(らしい)のですが。なあ有栖君よ。本当にすべては過去の話になったと思うか? そういえばカップラーメン業界では激辛ブームがきていたような気がしますが、ブームは本当に本物だったのでしょうか。私は辛いものはまったくノーサンキューですが、辛さはうまさ辛さはうまさと念仏みたいに唱えていれば本当になるのですか? 家康が三河の一向一揆に心底苦しめられた逸話を思い出したりします。おまえら現実を見ろ。現実ってのはおまえなのか? 現実的な税収制度?破綻しない役人の構築?寝言は寝て言え。蕭何が信賞必罰の鬼でかつ、どんなに功績があっても邪魔なら消す(自分も劉邦も例外ではない)男なのは痺れるのね。誤解されることを一切躊躇しない、殺されることも勘定しない、そこまで振り切れるのはそうそうない。ガウマンとケネス、ハサウェイとレーン・エイム。こいつらで語っていると永遠に遊べそうだなぁ・・・。レーン・エイム、潔い男。変な所でまじめなんだよなこいつら。テロリストなのに。あの娘から見れば俺も大臣どもと同じという訳か。こりゃマフティーに殺されても文句はいえんな。君のような美人と話していてもドキドキするようなことはなくなった。こんなことも楽しいと感じることができるようになった。10代の頃と同じという訳にはいかんさ… ハサウェイはミライさんとチェーミンを泣かすんじゃないよ。ケネスは絶対にそんなことはしないと思うぞ。いやまあ女は泣かしていると思うよ。ブライト、視線を外したな… シャアはわりかし女の手のひらの上でくるくる回るタイプの総帥だったよね・・・ 大佐が私を口説いたのは遊びだったんですか? 本気なワケないだろ ここで「合理的に生きている」から合理的に死ねとシャアの亡霊が出てきますよね。アメリカでシャアが道化扱いされるのも、合理的にアメリカが正しいのなら、より合理的な存在に屈服させられなければならないですし、(もし)道義的に優れているのならば積極的に道を示さなければならない。できる相談ではない。負かした相手に説教される度量がアメリカにあればね。AIが人間に説教されて頭を垂れるか。まさかまさかの「アムロ。あんたちょっとセコいよ!!」が今世紀に復活してこようとは——ッ!!!!!(ハサウェイもアムセコ発言を聞いているじゃあないか!)ハサウェイはチェーミンに懺悔しなさい 親しい人が作ってくれた料理を美味しそうに食べなさい。身近で生活している人が、生きることに積極的であることがどれだけ嬉しく幸福であることか。身近で生活している人が、生きることに積極的であることがどれだけ嬉しく幸福であることか。ディアナ・ソレルは地球でハッピーに生きて死にたいと地球への帰還を熱望する。まさしく隣人が人間の暮らしを熱望しているわけです。連邦政府高官が自分たちの利権(とステータス)に熱心でいることに比べると、比べてよいのか理解ができないくらい、同じ世界の出来事とは思えません。月の女神が戦神の意見を無視する訳ないだろッ!イラムの遠い子孫はギンガナムの副官になっているかもしれませんね。・・・。え、ギムを後ろからヘッドロックするの? あのモジャモジャ頭の後ろから? 正気じゃねぇな。はあーーーーーー。なあ。この私はセコいのだろうか? え。御大将。わたしに聞いてます? 御大将はセコくありませんよ。わたしが保証します。バカかどうかですか。他の奴に聞いてください。 もし御大将が他人の意見をきちんと聞いて反省し、柔軟に組織を変えていけるお人だったなら、全然面白くなかったでしょうね。旧世紀の政治家で鉄は血だといったお人がいたそうですが(注意。実際は鉄と血である)御大将こそ鉄であり血だと思います。わたしはまったく退屈していませんよ。ああディアナ様からの御命令はまだですかねぇ・・・ 遠い過去の歴史で地球人類絶滅を掲げた政治家がいたらしいですけど、宿命のライバルに利敵行為をしまくり(最新の軍事機密を匿名でぽーんとプレゼントしたりな)痴話喧嘩しながらあの世にいったそうです。歴史の年表に名前が載る人ってわからないですよね。何がしたくて人の上に立ち、なんて言われたくて行動しているのか、とにかく謎ですよ… (コンサルとかいう人種はうちの御大将に質問されたらなんて答えるんだろう。古のローマ皇帝の話でも聞かせるのか)ルビコン川はどこかと聞かれればそりゃあ地球降下作戦の陣容如何だろう。下調べと作戦稼働領域の設定。どこまで引いてどう支配するかの作戦に御大将が呼ばれない理由がない。ヤマトの平成・令和の新アニメで地球の危機だからといってアンドロメダ無人艦隊をほいほい作る(波動砲はもちろん装備している)のは狂気以外の何物でもない。ハサウェイが誰からも理解されず、ケネスだけがハサウェイの清廉さ(バカ役割マジメ)の正体に気が付いているようです。ハウンゼンに同乗して粛正する人たちの人となりを見ておきたい、というハサウェイの狂気は何も考えずにチェーンを殺害したことへのクソバカマジメな反省と後悔から出力されていますよね。きちんと相手を理解しようとする努力。正しくニュータイプであるよ。ケネスはハサウェイを殺すしかないじゃん・・・ シャアの幽霊ならシャアの亡霊と会話しなさいよ。ぜぇーーーーーーーーーったいに「野暮を承知で言うが、恋人をつくって遊んでいたほうが人生は楽しい」とシャアに言われるよ。セコい?上等だアムロッ!!!(両手くるくるパンチ)ハンドリー・ヨクサンのこと、急に好きになってきたな。役割を演じている連中(連邦高官たち、自分も含めて)をどこか冷めた目で見ていて、若い連中に羨望と期待を持っているように見える。ブライトと同じやん小説版(読んでない)と同じ結末ならブライトは苦悶して死ぬしかない。ハサウェイがどう思っても、ブライトから見れば自分たちの青春が息子を殺したのは厳然たる事実で、相棒であったミライですら、ブライトの絶望に手を差し伸べることはできない。あのとき、ビンタじゃなくてケツを叩いていれば・・・! 狼を豚に変えろというのか。去勢しない雄豚。英語が堪能だったらろくでもない罵倒語がぽんぽん口から出てきそうだナ・・・ 監督がF91と深いつながりがあると聞けば、(ガンダムシリーズの中では)異色の主人公シーブック・アノーを思い出す。とにかくいい子でした。シャアの影響といえばマザコンとカリスマとやってくれそうな予感(オイ)ですが、シーブックにはなかったですね。とにかく大切な人のために頑張る。周りも狂わせない。シャアがおかし過ぎるのですよ。シャアがおかしい人間で害しかないとはっきり言える人間は、ガンダム世界ではでてこないのね。富野ガンダムの原罪は宇宙に棄民を放り出したことなので、棄民の希望の象徴であるジオンの遺児を完全否定できる人間は、人類の原罪を背負って立つ気概があることが条件なのだ。ソンナヤツイルカボケ ハサウェイが狂うのもシャアの幽霊が憑依するのなら当然の話で、ガンダムUCのように全ミノフスキー炉の停止までいけば、人類が宇宙に進出するか地球圏内に留まるかを真剣に議論する場が生まれることだろう。生殺与奪の権利を握られた状態で正気でいられるかは不明。時間遡行も可能となれば神と呼ばれても仕方がない。電子レンジみたいに規定通りに火を使わずに調理可能な状態をミノフスキー炉で実現できれば神になった気にもなる。人間は、健康と食事を担保されれば容易く思考を放棄するのですから。お祭りに情熱を注ぐのは余興の華です。蕭何が呆れて劉邦が裸踊りで乱入するアレです。F91を見直す気になってきました。ハサウェイは宇宙世紀の第一部にケリをつけたと揶揄されるのを目や耳にすることがあるのですが、チョー単純にいえばシャアを実質的に殺したのがハサウェイである(カッとしてやった)のではないかと。ガンダムのシャア的な要素を殺したという意味です。シャア的な要素、結局は世直しなんでしょう。オデュッセウスも流浪の王子だったようなそうでもなかったような・・・。本当に知らない。ハサウェイが仲間たちからモテまくるのは見ていてかなり微笑ましいのですが、そこにレーンがいると、みんなレーンをかまってしまいそうです。ケネスが「オレもマフティーにぶっ殺されても文句はいえんな」といえるのは、例えばギギとキャットファイトをしたメイスにぶっ殺されても文句は言わないかというと普通に避けるし普通に拘束するはずで、自分が誰からも害されない人間かといえば「そんな理屈は到底成り立たない」が「せめて自分から見て納得できる人物」に「害されたいもの」だと漠然と思っている、のではないでしょうか。マフティーが持つ清廉さ、とかなんとか言ってる連邦軍人の高官は、全宇宙を探してもケネスぐらいしかいませんから。そういえばケネスはハサウェイの命の恩人でした。「英雄さんはこんなところで一人寂しく食事かい?」「おまえが取らないなら俺がいただくぜ?」「ペーネロペーはハサウェイにまかせるぞッ」散々モーションをかますよね・・・ 劇中でのシャア的なケレン味はギャルセゾンのパイロット、フェンサーが担ってます。いちいち独り言っぽい状況確認のセリフを入れてくるので好きにならざるをえない。我がギャルセゾンの前に障害物なし。ゴルフが出るぞぉ!ビゴビゴビゴビゴ (劇中歌) かっこ良すぎ。劇場版3章はシャアの亡霊がハサウェイの脳内でダンスを踊るのでしょうが、ハサウェイの仲間たちに是非!退治されてほしいですよね!! 一作目以上に街中の住民たちが巻き添えを食うのでしょうが、マフティーの連中はハサウェイがハウンゼンで閣僚たちの見物をしたいという我がままを許可したように、ハサウェイが満足して死ねば満足なのだ。そうとしか言いようがない。逆襲のシャアでシャアの副官(?)であり愛人のナナイはシャアの隕石落としは本意ではない、と薄々感じていたように役割を演じていた結果本人の渇望する幸福とはかけ離れた生活をしている(人類は地球から卒業しなければならないとかふつうの人にはどうでもいいことだ)(ハサウェイは情けない)ことは不幸なのだ。イラムがいきなりぶっちゃけそう。身近な幸福に満足できない情けないやつなのだと。ターンエーの癒し クスィーGに搭載された画期的な技術、ビーム・バリアはよくよく考えると結構なトンデモ技術で、初代RX-78に標準装備された携行型ビームライフルのように戦場を一変させる可能性がある。とにかく体当たりしてくる(超高速で)鎧の巨人(空を飛んでくる)ライナーみたいなもので「こいつマジで死なねー!!!!!!!」と、醜いうえに最強なので生まれてくる前の姿に分解してやりたくなる。なにごとも程度が大切。いや、ほんとにガリアンの宇宙巨大鉄板はどうやって防いだのかまったく思い出せない…。そう、程度。わたしの人生初のガンダムはゼータガンダムからだったので、とにかくクソつまらんロボットアニメだというネガティブな感想しかなかった。逆シャアでケリをつけたいと願った監督の心境からすれば当然の内容なのでしょうが、なんか知らんがガンダムとかいうロボット(ガンプラブームは来ていた。売り切れていたのでなぜかイデオンの敵方の手足がヒョろい不気味ロボットを買ってしまっていた)のかっこいいアニメを期待していたのに!裏切ったんだおまえは!!金も払ってもいませんでしたけど・・・(ジムとイデオンは顔が似ているなとは思ってた)(今でもジム系のダサいロボットは愛せる)ザクを愛した者から見たらジムのダサさは腹を切って詫びろと思ってもしかたがないだろう(嘘ではない)。ハサウェイの3作目で水中MSと格闘してビーム串刺し3兄弟とかやってくれんかな…。ミノフスキーの磁場で水中から持ち上げてからぶーんと放り投げたりな。応援するゼ。地球人相互理解とかに興味がない人間だな、わたしは。そもそも馬鹿にしてくる人間に興味を持つのは、なかなかにハードルが高いはずなのだが・・・ 偽マフティーでいえば連邦高官の方々そのものにはなんの興味もなく、人質として金と交換できる価値に興味があります(ハサウェイがキレる)(ケネスは偽物だなこいつらと見当をつける)と礼儀正しく話しかけてくるのが正しい地球人類なのだ。ふつうの軽音部の内田桃の逆鱗に触れる人間は「内輪の中にいる人間で礼儀と躾がなっていない奴」であり、最初から情報は開示されているのですが、この世に王は二人以上はいらないのだ。第107話を読み、そう遠くない将来に鷹見は内田からドロップキックかそれに類する技を受けるのは確定されたと思いました。これまでにもいろいろとあったのですが、鳩野と水尾が親しい関係になるとわかれば、鷹見の無分別な思慮と行動は、内田の許せる恥の許容値を超えるだろうと思えるからです。許容する義理は所属する世間の大切さ如何によるのね。少しは野生動物のように身の危険を察知する神経を活性化させなさい。ぼんくら過ぎるのは罪だぞ。

 映画『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』をもう何回も見返しているのですが、レッド・ウィザードは変にプライドが高いので圧倒的な実力を持つわりに組織の拡大をしていくのが苦手です。組織のトップ、ザス・タムはたぶん不死なので組織内の刷新もしようがないのでしょうが、物語の中で最高の魅力値を誇る詐欺師のフォージに作戦の基幹部(大勢の市民をある種の箱の中に集める作戦)をまかせるなど、自分たちに魅力がないこと自体には達観をしているのはさすがです。レッド・ウィザードが操る魔術は人知の結晶の極みで、PCゲーム「バルダーズ・ゲート3」で自キャラでレッド・ウィザードを選択できるのなら選ばない理由がない。勝手に行動すると粛清されるので毎日ザス・タム先生のお経を唱えてから行動しよう。どこから見てるかわからないからね・・・ 毎日のお経をなんとかごまかしてハーパーに潜入捜査するのはチョー楽しそうです。滝がショッカー本部に潜入するみたいなものですよ。(絶対に拷問されるヤツだ)エドガンがいたら悲鳴をあげて喜ぶね。あ、今の時間軸ってどこ?フォージはどこでなにしてるの?オレのエドガンを籠絡するような詐欺師はハーパーの名に懸けて正義の鉄槌を下すゼ・・・ Any con artist who tries to seduce my Edgan will face the full force of justice, I swear by Harper’s name.(DeepL翻訳) I will bring down the hammer of justice on Harper's name to any con artist who tries to seduce my Edgan.(Google翻訳) 意味わからんけどDeepL翻訳のほうが好みかな・・・ レッドウィザードがジャスティスとかいっとるな 「なに笑ってんだ!?」「ハーパーが眠りから目覚めたようだ」「!!!!!!!!!!!!!(ぶっ殺してやりたいという顔)」 沢城みゆきの声で「今日という今日まで我慢してきたが貴様の顔を見るのも今日で最後だッ!!!」いわれてー 「オレはおまえさんのことがあまり嫌いじゃない」直訳よりもどっかの映画から台詞を持ってきたい感じ。「殺してやる!」「まあまあ好きなんだが…」どんな修羅場だ。映画サントラ買おうかなあ。ソフィーナのテーマはノリノリで好き。怪しすぎんだろ。フォージと組ませたザス・タム先生が一番の悪人だろう?普通に考えて・・・ 先生のお考えは素晴らしいが、先生ご自身が完全無欠のお人かどうかはちょっと別の話なのだから、おまえさん、ちょっと頭冷やしたらどうだ・・・って聞いてないな。作中で度々登場している青いトンボはエドガンの亡き妻ジアが、夫エドガンのかけがえのない誠実さを大切にしてほしいという願いを届けてくれる精霊のような存在で——あかん。私がそんなことを書くと胡散臭くてしかたがない。「飛べよ!鳥人間だろ!?」から始まる映画なので、エドガンは誠実、とかおまえの目ん玉はどこについているんだとヤジられるほうがスゲー居心地がいいのね。ただまあ、ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り、の一番大切なところはジアから見たエドガン像は誰にも誇れるのだという一貫性にあると私は思うので、私のまえでエドガンを悪く言うとその気がなくても殴っているかもしれないので注意が必要なのだ。金金金でいえば、結局のところザス・タム配下(サーイの国民も含む)が現世の財宝に執着があるか、ソフィーナはこれっぽっちもフォージにくれてやる財宝に興味がなかったせいでエドガンに煮え湯を飲まされた(フォージコロス)わけで、いかに人生をエンジョイするかを疎かにしていたためにハーパーに片足を突っこんでいたエドガン一行に圧倒的な実力差をひっくり返されたのです。な?オレのいった通りだっただろ? 劇中でホルガがエドガンに気を遣うシーンはほぼないのですが、エドガンは現世に存在し続けることに片足の半分くらいは重心をあの世の方に移しつつある男なのでホルガの食欲と肉欲と名誉欲(と家族愛)にいつも救われています。あたしは一族の誇りを体現して死にたい、と日々全身からぶっ殺オーラを発している狂戦士なので朝起きたら顔を洗うくらいの気分で癇に障る奴は殴って半殺しにするのがホルガです。サーイのレッド・ウィザードにはエドガンは因縁があるのですが、ホルガにはない。ネヴァーウィンターの都市をアンデット化したヒューマンで埋め尽くすという暴挙に対し、ハーパーの精神を取り戻したエドガンが仲間たちに問う。ガラス一枚の向こうにはキラキラと輝くお宝があったが、いまや宝の船は自分たちの手中にある。かたや死してなお奴隷としてサーイの魔術師どもに人生を使役されてしまう人たちがおれたちの目の前にいる。わくわくドキドキするお宝と冒険は、いったいどちら側にあるのだろうか、と。ドキドキでいえばドリックとホルガがセクシーな格好をしていたとして、どちらにふらふらといくかといえばノータイムでドリックなのですが、ホルガがセクシーではないからというわけでもなく、単純に食われたくないからです。映画の映像で映るミシェル・ロドリゲスと作中共演者との共同インタビューで映るミシェルは別人に見えますよね。体の圧が全然違うのですが、どういうこと?圧でいえば劇中でザス・タムとソフィーナの密談をフォージが扉をバーンッと開けてぶち壊すシーン、記録媒体か再生設定か再生機器か、あの時のやかましさ(不快ではない)は結構、差異がある。IMAXの総本山、グランドシネマサンシャイン池袋に行ってみるかねぇ・・・

「あのフォージのクソ野郎——ッ!!」

「フォージは糞を垂れるのか?」

「ああ?違うよ。言い回しだよ」

「そうか。私はそのような言い方はしない。言葉は行動に現れるからな」

「あんた、つまらない奴だって言われたりしない?」

 映画の中、全編にわたって自分の中にいる劣等感と折り合いをつける(エドガンにとって最高のクソ野郎はフォージではなくゼンク)のだと優しく朗らかに語りかけてきますよね。アウトローたちの誇りは。ゼンク・エンダーのトドメの説教セリフは「サーイにもよい人間はいる」、ろくでもない自己の中にも美しく輝く財宝はだれの心の中にもある。そう、きみの心の中にもな(ケッ!)だれかこいつの隣り代わってくんない!? ゲーム、ラストオブアス2が一部からとんでもない悪評が出てきているそうな。ゲーム自体は見た事も遊んだこともないのですが(ない)、ヒロインがゼンク・エンダーだと思えばいいのではないでしょうか。しらないけど… 復讐に走るのが状況からいって当然だろ!?と叫んでいるのに「辛く、苦しい困難が自己を覆い尽くそうとした時、わたしは古の賢人の言葉を思い出す・・・」とか言い出されたら空気読めや!!!とぶち切れますよね。エドガンの小声を全部拾ったあげく「聞こえているぞ」と念押してから「大嫌いだ…」と言われてほくそ笑む男だからな、ゼンク・エンダーは・・・ うーん。買ったままプレイしてないバルダーズ・ゲート3を起動してみるかぁー。キャラメイクして最初の移動空間でうろうろして満足して終わる予感しかないが。ドラクエに慣れきった温室プレイヤーには楽しくなってくるまでの助走時間がしんどくて堪らないのだあ。具体的にはザクの性能が貧乏人の軽自動車なんだとしっくりくるまでの時間が短ければ短いほどよい。軽さは正義。当たらなければどうということはない。あれだ。ゾンビに殺されても次、そこにいるのは知っていると拳銃撃ちまくる(コストが安いから)バイオハザードです。とにかく軽いのは正義。日立はS1。なんでNECが天下を取ったのかわからないよな・・・ ふつうの軽音部の108話、桃の弟(夕李)は大道に憧れているナ。姉を御せる時点で偉人で、姉といっしょに居続けることができる時点で人格者なので、美人でかっこよく驕らない性格ときたら憧れないほうがおかしい。姉はゴリラだからな。ハトノのどうしても譲れないポイントは父はかっこいい(母はたくましい)のだ。誰もそんなことは思ってもいないけど・・・、「いや、そんなことはない」と鳩野に弟がいれば突っ込む所なんでしょうが、ハトノに弟はいないのね。証明しなければならない。鳩野ちひろを心配する母親(名前不明)は娘が父親そっくりなことを折に触れて感じている。奪われたのではなく、(いや広義の意味ではそうなのか・・・?)与えられなかった弁明の機会をハトノは感じている。そしてそれが正しいとも、思え切れてはいない。「いや、ドギャルじゃねえか!!」と突っ込んだのは矢賀だったか、鳩野だったか。遠野のだめだめなところも鳩野に(ほぼ)興味ない(ような気がする)あたりで、聞け、ハトノに。「内田さんや藤井が鳩野さんに惹かれている理由がわからん。どうしてなんだろうか」と。「オレは鳩野さんに興味があるんや!」元が持つ「よいバンド」の原始的なイメージがなんなのかも知らんしな。「よいゲーム」の原始的イメージだと基本、ドルアーガに辿り着くよね。ただ、最初から宝箱の出し方を知っているの知らないのとでは決定的に「ああ、ドルアーガいいよね」の背景が違う。なぜ知っているかの背景も違うので、そして知っていることでプレイすることの多幸感ももちろん違う。カタログスペックと現実のマッチングがこれ以上なく上手くいった感というのか。スペックにツッコミつつ現実をドライブできれば、それに勝る幸福などほとんどないだろう。SNS時代はカタログを漁っていたころと大差ないと言われれば、いや、まったくそうだなと言わざるをえない。おい誰だ。おまえなんかYS-11の回のプロジェクトXを死ぬまで繰り返し見てろといった性格の悪い奴は・・・ ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇りのお話の中でエドガンのキャラを見ると、自分のような世俗の欲にまみれた人間が高尚な思いを胸に冒険者として活動するなんてことは、そもそも最初からおかしかったんだと(フォージとゼンクがエドガンに惹かれてやまない善性の人間)物語が始まるまえから心が引き裂かれていたのです。鳩野のようにね。旧友にせっかくの休日に自分たちの音楽(と歌)で楽しんで、帰っていってほしいと願ったら「サブが楽しくて幸せっぽいのはもう十分わかったから、わたしみたいなクソは帰るな。せっかくの楽しい気分を台無しにしてスマン」と友人として礼節を尽くされたことに、鳩野は対応することができないのです。ハトノの基本スペックは壁を殴って破壊することなので(レッキングクルー!)壊れている家屋の補修や建て直しは専門外なのですよね。つるつるつるつる… 鷹見の性格さえ良ければ、どれだけ鳩野の手助けができることか。いやまあ、都合のいい時だけ頼んなよという話。現代の高校生のお話なので、藤子・F・不二雄のドラのように「許せぬ!」と親友の尊厳を守るために自己の命を投げ出すことまではしないはずなのです。(鬼岩城で「ドラちゃんといっしょなら安心ですわ」と母親たちが言っていましたが、いったいドラのなにを見ているのか…。のび太の方が100倍正しく物事を見ている) ハトノの母親は「この娘は父親そっくり」と事あるごとに心配しているのですが、本当にいよいよの段になってやらかす時に(そっくりなのは)「私だった!!」と認識するはずです。渇望と充足と誇りと毎日の暮らしを秤にかけて生活しているのです。術式開示は嘘偽。直毘人の24フレーム縛りは趣味を限りなく領域まで上げるアホの所業で(息子はイッてしまったが)世界は美しくなければならない(自分の認識と同じように)と、領域まで上げると自己と世界の動きを認識し(て実行し)ないと基本即死という傍迷惑な術式でしたね、あれ。直毘人が部下たちから慕われる理由の一つは、飲み会の席でよっぽどのことがなければ機嫌を悪くしない度量の大きさにありました。オーディオマニアの術者なら自己の声の歌の周波数縛り(なにも考えていない)を術式にかけて美しくあれと迫ってくるのですかね。声の美しさで周囲のバランスを強制的に引き上げる(ついてこられない場合は死ぬ)術式。領域ってのは理不尽なもんですよ。邪悪な者に産み出された存在が己の在り方に苦悩して成長し、そんな理不尽なこととは無縁そうな者たちと敵対し戦うことで別種の生き方があることを知り、違う生き方を選択する。くだらなければくだらないほどよい。デカルチャー! ピッコロも別種の世界!という意味らしいなぁ・・・ 怒りが重要なファクターだとしても、ドラゴンボールの世界では亀仙人の教えの中には怒りの存在は度外視されている(亀は武泰斗に鶴の悪口を吐きまくったんじゃないかなぁ・・・)。亀仙人とミスター・サタンの二人で夜の街に繰り出したら汚名と醜聞のダブルハリケーン状態になりそう。死に際が見事すぎたシャーディスとマガト(進撃の巨人の登場人物)がドラゴンボール世界に転生し(亀仙人とサタンにうざ絡みされ)ていたら、さぞ醜く爆笑必至な飲み会になることだろう。特にサタン。おまえは心配だよ。ピッコロのような異星人が侵略しにきて、やつらは単性の生物で自己から卵を生み出して増える(ふ化した個体は軍隊の師団を壊滅できるほどのデタラメな強さを誇る)と亀から聞けば、進撃組の二人は酔いもさめることだろう。ネイルと最長老の関係を見ればわかるように、基本的にナメック星人は争いを好まず、敬老の精神は自己のどんな欲望よりも勝る。ピッコロもまた然りである。とりやまさんがピッコロのことが大好きなのも、きっとそのあたりの不器用さが好ましいのだと思う。ピッコロが生まれた経緯を聞いてしまったら、シャーディスとマガトはピッコロに会わないわけにはいかなくなる。自己保存、自己肯定、自己満足。マンガ『アオアシ』小林有吾を10巻まで読みました。冨樫、いいですね。俺様のくせにユースへの決めつけと苛立ちを隠さない(本当の俺様なら役に立ちさえすればユースなんてものはどうでもいい)青い大将なところがいい。キャプテン翼ならエリート校(みたいに見える)修哲にライバル心を燃やす石崎くん(全部若林が悪い)のようです。まあ、日本代表・正ゴールキーパーが専属コーチをしている小学生とか身近にいたら理屈以前に嫉妬するよね・・・。若林も石崎のことは嫌いじゃないと思います。本当の俺様とは若林みたいな奴のことをいうのだ。まあ、絶対的な守護神が自陣ゴールを守ってくれていて、鬼のようなコーチング(正確無比)が最後尾からズバズバ飛んできたらマンガの登場人物かあいつは?と、まず現実を疑うね。理想的ではあるが、そんなことがあるか?と。冨樫の理想のサッカーは福田が思い描くサッカーの実現で、じゃあ福田の理想のサッカーとはなにか? 10巻まで読んでいると、アシトがサイドバックとして司令塔になることだ、としか考えられない。そしてアオアシ界の若林はいました。お嬢こと海堂杏里です。冨樫からサッカー観をもったいないと言われ幼馴染の遊馬からは「若林くんじゃ!!(笑い)」とネタにされています(嘘です)。叱咤に関してはエスペリオンユースの指導者たちはよくよく考えていますよね。伊達ヘッドコーチの胃に穴が開くのが早いか、アシトが成長するスピードが速いか、勝負だ!!! 福田のサッカー観をだれよりも信頼し、だれよりも疑問視しているのが伊達なのです。エスペリオンユースは最強、と日本サッカー関係者の間では有名らしいです。誰からも信頼されないゴールキーパーは理論上、存在しない。結婚式の余興に歌手を呼ぶ時に性格の悪い人を呼ばないのと少し似ている。己の地位に恋々とする者が見る者を魅了する人間なのだと自分を誤解することほど痛々しいことはない。つまり痛々しいゴールキーパーはこの世に存在することができないのではないか? 見て楽しいサッカー、来て見て楽しいサッカーは絵に描いた餅なのではないか。冨樫が地元のサッカー少年団の監督に無理言ってエスペリオンこどもサッカー教室(という名の青田買い)に参加したのは天啓でしたよね。租税は面白くない、と子供が言っているようなもので失笑以外の何物でもない。貨幣制度の根幹が面白くない。アオアシのアニメを見て、興味を持ったからコミックを買ったクチなので主人公のアシトのアンバランスさがじわじわと胸にきています。サッカーが好きなのにサッカーの有名人にはあまり興味がない・・・・・・の?アシトは。冨樫もサッカーへの興味がサッカーそのものよりも、サッカー馬鹿をみつけてバカ騒ぎをすること自体に興味があるようにみえる。戦争そのものに興味があるのではなくて、理路整然と狂気に身を浸してバカ騒ぎすること自体に生きている価値を感じているような。ゼロ戦があるのに空母を運用しないのはもったいないみたいな・・・ 失点するキーパーはこの世に存在することができないが得点できないフォワードはこの世に無数にいる。多摩体大附属戦で義経が無双しているのを見て橘がガックリしていたのですが、自分にできると思われることを盗めばいい。盗んだら使いこなせばいい。キーパーは自分に自分で声がけできないもんな。(やってもいいけど)(変人だが)ドイツの有名なGKマヌエル・ノイアーの経歴を見ると、寂しがり屋なのにすごい孤独ですよね。彼は… 福田達也曰く、「計算なんて言葉はやめろよ」なのですが、キーパーが計算できなかったらこの世の地獄でしょうが。読むかあブラザーフット。(一話からすごいしんどい)レアル・マドリードの正GKってだれなのでしょう? 大活躍云々。よりよく寝て、よりよく生きる。アシトがユースの生活環境(サッカー漬け)に感激して目を輝かせていたのを伊達たちが見ていたら心の中の満足メーターが急上昇したことだろう。ユースは結果ももちろんだが、主体は育成のはずですからね。冨樫のユースアカデミー生が大っ嫌いなのはアクセントが効いてます。連中はプロになる結果以外には人生の楽しみがない生き物だと見ているので(そういった面は確実にある)しけた面をしているアカデミーあがりの連中に冨樫が仲間意識を持つのは、本来ならとても難しいのです。女性初の(選手経験がないのに)男子プロサッカーチームの監督になる!と宣言しているお嬢のことは気に入ってますよね、冨樫(呆れているけど)。弱っているアシトを見て乙女スイッチが入るのを冨樫が見たら、心底くだらない生き物だなと見切りそう。重箱弁当で餌付けした事実が後々に効いてきそうだ・・・ しかし大友は本当に得難い人物だよなですよね。なにもかもわかっていて、なにもかもほっとくよね。そして人の女難を心から喜ぶ… 大友はチビで愛嬌があり女性から無視されやすいタイプの男なのでなのに、人をナメることをしない。圧倒的にいいやつなのだ。杏里から惚れられたらどうするんだ大友。あと、とにかく常識があるよね。ちなみにわたしは上げたらそこにどんな大義がなくても落とすので、大友は時と場合によっては血の底(おぉ)まで落とすよ。冨樫と遊馬と杏里でアシト談義をした際に大友がいたら、さすがにアシトの友達をやめようと思ったかもしれない。モテすぎだからね。現代サッカーならぬ、現代LEDテレビ談義なら混ぜてくれぃ RGBLEDテレビってそんなに凄いの・・・? 圧倒的に残像感のない液晶テレビ(発色最高)があったら電気屋のテレビコーナーで小躍りしちゃいますよね。ひゃっほー BS4KのNHKサッカーワールドカップの放送を見に行こうゼ。ひゃっほー といっても、最高の有機ELテレビと見比べるとどうなのでしょうねー なに?買えないのだから気にするなって? そのとおりだぜこんちくしょー とにかく大友を大したヤツだと持ちあげたくなる気持ちはわかる。アシトのお母さんにだれが一番気に入られるかというと、十中八九、大友になるのではないか。仲良く遊んで気持ちよく店にお金を落としに来い。ベッケンバウアーは敵だ。おい大友のまえであまりイチャつくな。めんどくさ過ぎるから・・・ 花が栗林に惹かれていたらエスペリオンは地獄だったよ。容易に想像がつく。ドイツサッカーの黄金時代はいつ頃だったのか・・・ 私が思い浮かべるドイツのサッカースタイルは2002FIFAワールドカップの準優勝チームだった時のドイツです。正直、カーン以外の選手は顔も名前も知らないし覚えていません。いえ、いました。クローゼ! 検索して調べるとFIFAワールドカップの最多得点王なのですね。そう、7-1でブラジルを撃破したのは2014年準決勝だったか。ごめんクローゼ。当時はあんまり記憶に残る選手じゃなかった。ドイツは強いんだなあ、くらいに試合を見ていた。全盛期のシャビのベストゲームを見てみなくては・・・ 舶来ものを過剰にありがたがるのは小平浪平が許さない(急にどうした)。関心も興味もない。アオアシ世界の無比は関心を持たせる能力なのだ。そりゃあ強いに越したことはないが、だれからも関心も興味も持たれなければ、そもそも強さなどゴミ以下の価値しかない。まあテレビがきれいに映ったからなんなの?と聞かれると、たしかに「なんなの?」という気はする。航続距離が圧倒的で空戦能力が最強な艦上戦闘機を空母打撃群として運用するとして、それがどうした?と思われれば、まあ、たしかに「それがどうした?」とは思いますよね。健康で長生きすることに誰も関心も興味を示さないのなら、早く満足して死ぬこと以外に人生の楽しみなどないことになる。小学生のうちから「人生で一番大切なことは、身体と心が健康であることなんだよ?」といっていたらかなり心配ではあるが・・・ 昭和が面白くクソつまらないのもまあ、サイクルが速過ぎるせいでもある。ナディアのBS4Kの再放送見ました?バベルの塔の回からナディア救出作戦のたった2話ですが、バベルの塔スゲーッ!!!!からさらばだネモくんどっかーん!!!まで忙しすぎて面白すぎるだろう。ぎゃははははは!!!!!おりょ? EVA3号機がサンソンみたいな活躍をはじめたら腰ぬかすよね・・・「いいかジャン。男に必要なものは気合だ。押して推して惜しまくれ!なんとかなる!!!」「でもなジャン。このハンサムでダンディな俺様が活躍できるのも、すべてハンソンのおかげなんだ。相棒は大事にしろよ…」ガーフィッシュの艦長ですが、「停船せよ。さもなければ次は貴船(!!)に命中することになる」とすごい紳士なんですよね。サンソンは見習え。たしかガーゴイルをバベルの塔の基地まで船に乗せてきたので、ガーフィッシュ艦隊の総司令を兼ねている艦長なのではないか。ふふふふふふ。いやまあ、パーティーに出席するから件のガーフィッシュにいたのは副長だと思うけどね。ふしぎの海のナディアの劇伴の素晴らしさを語り始めたら液晶と有機ELのどちらが美しいかくらいに不毛な長話になりそう。とにかくネモのノーチラスはバベルの塔で狙い撃ちですよ。近すぎるでしょうが!!!! 新劇場版エヴァ3作目の人工衛星が使徒に乗っ取られるシーンは大音量でみれたので大満足でしたよ。ドルビーアトモスなら忙しすぎる音響になっていること間違いなし。ノーチラスの危機に大天使が駆けつけるとかどこの外宇宙から来たんだおまえは?と「敵の味方でないのなら味方」と大味すぎるアクションだぜぃ。アスカは土壇場でシンジの名前を呼ぶんじゃないよ。「目を覚ませ!3号機のパイロット!」と叫んだら使徒の支配から脱出するようなご都合主義だぞ、それは・・・。ノーチラスがけん引ビームにひっかかって原子振動砲で裸にひん剥かれたのは昭和…じゃなくて平成2年10月26日のことだ。当時から超遠距離の雷撃戦(という名の空中ミサイルぶっぱ)には納得いかねえぜ。万能ミサイル説すぎるのね。ミサイル艦がありゃいいじゃねえか。ロマンがないよ。サンソンがノーチラス号のことを最初から嫌いなことも、考えてみると一貫した態度なのです。規格化された量産品を使って幸せになろうという考え方が嫌いなのだろう。初恋の女の子の危機に必ず救出に向かうという向こう見ずな少年を見捨てることは、サンソンにはできないのでしょう。王立宇宙軍をちょっと思い出す。ハサウェイのガンダム映画はそのあたりを苦く演出してます。地球の環境とか人類の統治とか、どうでもいいでしょ? グランディス一味がガーゴイルに悪態をつくシーンは、思い返してみると直接に対峙して文句をいったのはナディア救出作戦(第8話)時のみかもしれない。その際に売り言葉に買い言葉でサンソンがライフル銃でガーゴイルの心臓を狙撃している。散々擦られている話題ではありますが、ガーゴイルは己の美学を実務より優先させる道化みたいなところがある男で、そんなところは冬月先生そっくりです。ノーチラスのクルーを全滅させるだけなら、いくらでもやり方はあったよね。誰も自分には逆らえないので思いつきの作戦を実行させては詰めの甘さで煮え湯を飲まされている。あんたが主人公だよ… ピクシブ百科事典のガーゴイルの表記内容を読みましたがツッコミどころ多数! 声優の清川元夢にキャラソンを歌ってもらおうとスタッフが画策したところ「嫌です。演歌ならいいかな」と(清川が)いったのでオリジナル演歌を書き下ろして歌ってもらったそうな。怖い 兄弟船をネモ(大塚明夫)とガーゴイル(清川元夢)でマイクを代わりがわりして歌うんかい。ネモは望郷ガーゴイルは支配(掌握)、売り言葉に買い言葉ってね。ガーゴイルは古代アトラス人の美術・芸術の信奉者でもあるので、ナディアが「素敵ね。こんなに美しい彫刻を造れる人たちはどんな生活をしていたのかしら」とガーゴイルに水を向けていれば(いやいや待て待て)まあ、ろくでもない目にあっていたことでしょう。「ナディア姫。特別に君にだけわたしのコレクションをご覧にいれよう」パチーンッ! ガーゴイルとジャンの共通する類似点は実は多く、自分の気に入った対象の解説をはじめると興が入ってきて止まらない。ジャンから本気の説教をガーゴイルが受ければ、本気でたじたじになる可能性はあります。自分の知恵と勇気と未来への希望を他人の幸せのために使えない人間なんて本当の進歩人じゃない! 偽者!(ガーゴイルのコンプレックスをぶっ刺すジャン)ネモから「本当のアトランはわたしではなく、きみなのかもな・・・」とか言われていたら効果百倍。ふしぎの海のナディアの初期イメージ画集を眺めると、いったいどこからガーゴイルが出てくるのかが謎すぎる。最終的にパリ上空で異星人の造った巨大戦艦と巨大帝国艦同士が火花を散らす特撮バトルだっ!と監督が決めたのなら、ひつぜんてきにそうなるのかもしれない。今どんどんガーゴイルにハマりつつあるのでナディアエンディングテーマソングもガーゴイルの心情を歌っているようだ・・・とヤバイことを考えはじめている。ガーゴイルの限界は古代アトラス人から連なる美術、芸術、科学、人文、思想と、もっとも美しく優秀な者たちがこの世界を統べるべきだという選民思想なのですが、一方的に旅先で出会った少女に一目ぼれし、追っかけて、仲良くなりたいなーと(フラれるに決まっているだろう)バカまる出しで告白したジャンには何もかも及ばない(及ばなかった)というのが現実なのだ。なんの因果か、ナディアの気持ちがジャンにどんどん傾いていくのがガーゴイルの妨害活動によってなのだから笑うしかない。とにかく変人どもが自分を助けたいというジャンに協力してくれる。世界が変わる。まさに吊り橋効果。いやホントに笑う。ストリーミングでの視聴とダウンロード後の視聴で同じ楽曲、同じ元データで、差は出るものなのだろうか? アンプとDACの魔力に信奉できるかの話になりそうだが・・・ 同じ映画を別の映画館で見聞きして(して? 映画館ごと買う気か?)スペックを比較する気か・・・ そりゃあタイムマシンがあるなら、鷺巣詩郎のレコーディング現場を見学したいよ。マイケル・ジャクソンのミュージックテープを再生した時はこの世の存在とは認められなかった。たぶん今でもそうです。グランディス・タンク、略してグラタンの活躍もサンソンが心の目で外部カメラの映像を(テレビゲーム、グランツーリスモシリーズのように)脳内に映写できる異能者であれば、なんて俺様はかっこいいんだ!!!とテンションが爆上がりですわ。実際にバベルの塔の宮殿からの脱出ゲームがあれば、延々延々と脱出しますよ。絶対にノーチラス以外のゲームクリア条件があるに違いない!(無数のハチの巣エンドを体験しつつ)とステージ内を走りまくりどこかにボーナスが落ちていないかを時間を溶かしつつ探索しまくりたい。きっとあるはずだ!!! まあガーゴイルが「ネモのノーチラスをバベルの塔で狙い撃ちすればチョーかっこよくね?」と茶目っ気を出さなければ、「ノーチラスが侵入してきたであろうガーフィッシュ通用口を閉じるか、付近にいる全ガーフィッシュを詰め込んて雪隠詰めにすればいい」とチョーつまらねえ安全策を取って数と時間で押し切ればいい。ゲームエンドだ。ガーゴイルは善意と愛嬌でできてますからね。ネモがジャンにお願いして(キルアがビスケと上手く付き合うなら絶対安全策がある(キモイ)とクラピカに教えたように)「奴のことを褒めまくってくれないか?第一段階として私のことをべた誉めしたうえで、私のことをなにも否定しないでガーゴイルの思想や行いを誉めてやってほしい。私は自分の国を破壊したが、奴は自分で国を興そうとしている。熱意と覚悟は本物で、高貴な者だけが持つ責任を果たそうとする姿は誰よりも美しい」、と。「ああ。ようやくわかってくれたかネモ」とキモイの極致に達したガーゴイルの発言を聞くかもしれないのでやっぱりなしで。ビスケも本来の自分の姿が好きではない(ゴンやキルアがビスケを好きなのは、自分自身の努力で自分自身が好きな自分になるのだと他者依存性がきれいさっぱりない点があげられると思う)が、ガーゴイルのように結果を求めているわけではないのだ。ジンと似ているね。キルアがビスケが心から喜ぶことを考えているけど実行はしないのが少し笑える。ビスケの肉体に夢中な人が出てきましたが、あの人、まったくなんの躊躇もなく、ビスケの核心に触れそうだよね。美しい美しい美しい(がーんがーんがーん)。ちょうどよかったとクラピカが前言を撤回するのとセットだ。よろしいか?(いいわけがない。にこやかな顔で「正直、心苦しかった。言えてよかった」とクラピカなら言うね)ジャンプラの新連載のマンガ、キモイをガン無視するキルアみたいな子ですね。念能力を対人戦で殺すことに特化した相手への対抗策として編み出すのなら、時間稼ぎと認知能力の阻害と復讐の気の起きなさを考慮すべきなのだ。最終的に、こちらが寿命で死ぬまでに向こうが「必ず殺してやる」という気にならなければそれでいい。まあつまり、羽虫がうざいが、それに頓着するのもあほらしいと思わせればよい。美人すぎるのでバカが寄ってくるから擬態する能力を身に着けるようなものです。最後の一手、終わらない終局。誰だ。パトレイバーっぽくてヤマトっぽくないなとか言った奴は・・・ 後藤が帆場のこと考えているとニヤけてしょうがないのをしのぶが注意するのを喚起されたい。気の使いようを念で再現、微調整するようなもの。映画D&D/アウトローたちの誇りは至る所に気を使いまくっているので、ジャージで見に来てしまっていたら急いでトレーナー(一張羅)とGパン(一番新しいヤツ)に着替えてこなければならない。成城の東宝スタジオにある試写室が自宅の敷地内にあれば最高と妄想して、TOHOシネマズの旗艦店はどこかと検索すると・・・。あ、今週の木曜、6月11日に名古屋栄館が新規オープンするね。こけら落としはジブリ作品の4Kリマスター祭りになっている・・・。ふつうに考えて成城のスタジオでリマスターの編集してるのではないか。え?そんなことはしない? いやいやでもでも、映画の上映前にスピーカーと音の相性をみたりするでしょ? 東宝の自前の映画館なら尚更に。あれだ、ナディアも22.2chリマスター作業をNHKホールで録音して、渋谷のスタジオで調整して、どこで上映するの…。呪術廻戦0での、真希の「誰もがオマエみたいに呪いに耐性があるわけじゃない」は廻りめぐってるのだ。極論をいえば、誰もが乙骨のように呪いに耐性があれば、誰もが安心して生活ができる。空気中や水道水に呪いが入っていても、気にせず吸い込んでごくごく飲み込めるのならインフラを改めて整備する必要はない。感謝の正拳突きを行う動機もなくなるのね。夏油は捻じれている。どれもこれも同質の数を増やしたいという正義の実現による同質ではない者の足掻きなのだ。五条にはその足掻きが無駄としか思えない。無駄じゃない!が夏油の信念なので、五条は親友の生き様を見守ることしかできない。五条は真希に潜在的な苦手意識があるね。親友に決定的な刻印を刻み付けて、良い方向性に導いたのが真希だったので。真希の「なんでオマエが被害者ヅラしてんだよ?」「気持ち悪ィ」は、まあ最悪な罵倒なのですが、乙骨は自分を殴る同級生の人生の不幸を未然に防ごうと里香に命令するほど自分の身の安全よりも周りの人たちのことを気にかけている。里香の暴力を制御できないからです。乙骨と七海は作中で出会っていないのですが、あの二人は本当に似ています。呪力、呪霊がらみで一般人が不幸に見舞われているのを見てしまったら、結果を考えずに人助けをしてしまう、誰かがインフラとして人生を捧げなくてはならない(そうしないと一般人は生活ができなくなるから)ことに疑問を持たない、浄化槽が自分であること、乙骨の場合は自分自身が動く腐海でもある(毒は吐かないが、過呪怨霊は破壊と呪いを巻き散らかす)ことに、保守的な(保守!)考えを自分の信条にすることに至るあたりが。ノンノンノンノン!と釘崎が出てくるな・・・ ショッピングと食べ歩きを人生の信条にするべきなのだ。世界は丸い!(だからどうした…)あと男も漁ろう。 虎に翼の第一週の面白さは格別なのですが、娘が昭和の新しい世に羽ばたこうとする祝福の門出をまるまると全部、夫とその恩師にお膳立てされた猪爪はるは鬼と化します。優三以外にはバレなかったのですが、その怒気は(なぜか)桂場が喰らうことになります。ほほいのほーいと女性の社会参画の理想に燃える穂高が喰らうべき怒りだったのにもかかわらずです。このボタンの掛け違いは最終回まで是正されることはありません。猪爪はるの怒りは第4~5週の共亜事件騒ぎで矛先を向ける方向を見失うので(本当にそれどころではなかったので)うやむやになります。思えばヒロイン寅子の新潟三条支部赴任のエピソードの中途半端さも「中央から赴任してくる女性判事の経歴の箔づけ」に関しては、本当の本当の本当に、一顧だにされていないのが気になりますよね。虎に翼が絶対に一顧だにしないのは星長官の人となりであり、いってしまえば明治維新の御一新に関する当事者たちの気持ちをどこに持っていったのかという話になります。死ぬほど遠回しに穂高がしょんべんカーブの死球を喰らったともいえなくもない(いや、いえんだろう…)。明治大学の創立精神、独立自治と直結する話でもある。「できもしねぇことをセコセコやんのを 意味ねぇっつーんだよ!!」憂太が真希から一本なんて取れるわけねぇっつーんだよ!!すじこ!!(人間はキモい)そうだそうだ、(以下ヤベぇ文句の数々)(特に釘崎まわりの暴言)(青くなる虎杖)(思わず言い過ぎたと反省する五条) 五条と夏油は呪術廻戦、壊玉・玉折の時点では日本の呪術システムの基幹である天元と敵対することもアリだと見込んでいたので、盤星教信者たちと理子との間にある埋めようのないミゾの存在を見て混乱したわけです。特に夏油が。日本の道路信号システムが一人の人間の制御によって(船舶や航空機や電車も含めてもいい)保たれているとして、どこの馬の骨ともしれない人間がその重責を引き受けよう(どうなっても知らんが)としゃしゃりでてきたら、いい気分はしないかもしれない。なるほど、メタルグレイモンになる分にはいいけどスカルグレイモンになると困る。だからコロモンからやり直すって話ね。いや、違うね。(馬の骨だっていってるだろーが・・・)五条の六眼と天元(と星漿体)は因果で繋がっているそうな。・・・・・・あれ。乙骨の六眼はどうなったのでしょう。SFマンガなら大銀河、大宇宙の法則を司る存在が出て来て天元の存在そのものを飲み込もうとしてくるヤツだ。パンチパンチ! 明治大学の創立には安中藩出身の有名人新島襄と関わりがあったのかなぁ。フランスとイギリスとアメリカのギスギスっぷりは見ている分には楽しい。群馬と栃木と茨城でわいわいやっているようなものです。てめえが馬の骨だ!!!我こそが馬の骨!!!!(どーぞどーぞ) 今の道路交通法で騎乗して移動するのはアリなのかな?(検索する)馬の道路標識・・・! 見た事はない。呪術廻戦の世界では天元の結界術による保護で、ある種の結界はわりと簡易に張れる。ウィザードリィのように簡易キャンプが開けてかつ外部からの攻撃にはほぼダメージを受けない(なんと緊張感を削ぐ便利キャンプ)のなら、使わない手はない。瞬間で張れて瞬間で解除できるのなら便利すぎるので抹消だ。まあ、いっそキャンプ中はキャンプ外からは存在が感知できず、かつキャンプ内の状態はある種のメニュー画面なので喰らい判定は存在せずにゲーム中の時間はそのまま過ぎていく(キング・クリムゾンが無条件で無限に発動できる。悪用しないのが人間である条件)のならメニュー中に瞬間移動のコマンドも用意しておこう。悪魔的なブギウギの使い方な気がしてきた。 盤星教信者たちと理子と黒井の間には「何も奪うな」という制約と誓約、というよりも意味つけの争いが生じていて、夏油はその意味の解釈に一生を費やしたともいえる。救いようないバカだなおまえは。五条への精一杯の皮肉が「わたしが五条悟なら、この馬鹿げた理想も地に足が着くと思わないか?」なのは黒井が聞いたら泣く。浅瀬で子犬が溺れて死にそうな場面で、夏油は助けた後のことを(一瞬)考慮してしまうが五条は気にしない。気にするべきなのだ。領域を展開すると領域全体にガソリンをぶっかける術式だったとして、無尽蔵にガソリンが無から精製できるのなら人類の救世主ともいえる。基本的に人類、特に日本に住む人間は天元に感謝するべきなのだ(呪力の発生と循環に天元が恣意的に絡んでいなければ)が、呪力の操作は領域と術式を絡めた「ダムと浄水場と配水システムと各家庭の蛇口」のように洗練されていても、天元前はそれはそれは大ざっぱで大らかだったと思われる。ジャンププラスで連載中の勇者アバンと獄炎の魔王ですが、ここにきてマトリフの「弱音を吐かない」偏屈さが黄金のように輝いています。この男は生涯で一番の弱音を吐いたのが「惚れた女が穀潰し同然の自分(マトリフ)に故郷に帰ってきてくれてありがとうと礼を伝えて、満足して死んだ」後にこの世から消えた故郷に向かって「俺はおまえのことが大好きだったが、他の若ぇ女も同じぐらい大好きなロクデナシなんだーーーーーっ!!!!!」と叫んだゴミなのです。いやあ、人のことは言えないな。ぶっちゃけ、使命も運命もこの世界の命運も、俺の欲望の前には釣ってきた魚を焼いたメシのオカズよりも軽いのだ。偏屈極まる。バーンと話が合いそうだよな。好きな焼き魚の話とかさ。あと凍れる時間の秘宝の話もね。アバンがウロドの戦いで凍りついた後の話は、マトリフの人生で最も自信を喪失した時間だった。原研のもんじゅ開発で必ず成功させると人生を賭けた技術者もきっといるのでしょう。バーンも自分自身を実験体にして、凍れる時間の秘宝の実用化を成功させているのでそこだけ見れば、偉人中の偉人なのだ… 会いたくないよね。魔界編でバーンの研究成果を盗み得た勢力と出会うのはさ。永遠に消えない炎(メラだ)とか、バーンは何気に狂っているのだけれども、老バーンの時は自慢話の類はしない傾向がある。マトリフの師、バルゴートは若い時はスッゲー鼻持ちならない賢者だったのではないかと私は想像してます。おばあちゃんのいうとおり こいつはくずだとわかった もやしてしまおう 判断が速い! バーン配下に女っ気がまるでないことを今さら指摘しても本当にだからなんだよという話になるですが、ダイ大世界の退屈キング、ロン・ベルクが変人中の変人なのは心震える感動と驚きがあの男の場合に限っては「武器と使い手がお互いに信頼し高め合う関係」性であり、それ以外は刺身のツマ程度に物事を見ているからで、つまり女っ気の軽視は「女は身の丈に合わない武器を見て、自分を鍛えて相応しい使い手になろうとする気がない(まあ男もないが)」とチョコを買ってついてくるおまけを見たら雑な商品がついてきたので世界を見限った小学生みたいなのがロン・ベルクというわけです。魔族は長生きをするので魔族の神の聖書や詩篇があれば、ロンあたりは気に入ったフレーズを諳んじて暇つぶしに鼻唄を歌うくらいするのではないか。映画D&DのウルトラHDブルーレイ版は多言語対応なのでインドやロシアやエジプトや南米、あたりの国の言語でも聞いてみますかねぇ。お友達のエドガンならご存じのはず、詐欺師を信用しちゃだめだって、ホルガ・ホルガ・ホルガァ~♬、とかなんて言っているのだろう。イモを投げたわ!!! ダイ大世界では個人の持つ魔力を質量に変化させる技術が確立されている。ハンターハンターでいえば強化系の技術そのものといえるもので、バーンの圧倒的な近接戦闘能力は魔力を打撃力に変える理力の杖の効用に、その理由を求めることができる。もしもの話、バーンを上回る魔力量を保持し光魔の杖を商店街のくじ引きの3等あたりの掃除機程度にしか見えないくらい完成度の高いマジックアイテムがあれば、攻・防・呪文の三点セットのワールド級の新技をお披露目できるのではないか。竜の騎士の「戦闘マシンとしての経験の蓄積」云々のくだりも、めちゃくちゃいかがわしい設定ではあったしね。魔力ダムとしての効用があるマジックアイテム(本人にダム強度が備わっていることが必須条件)で、それは副次的な効果に過ぎない、とかね…。も、一回ジョジョ8部を読んでみるかァ~!? 誰か目の覚めるような憲助とヴァレンタインの文章を書いてくれんものか。承太郎とジャイロと常秀はそっくりだと誰かいってくれよォーーーーーーーーーーーーッッッ!!!! おい誰だ劣化していく承太郎だなァ?とかいった奴は!!!常秀は康穂を助けてないだろーがよおッッッ!(勝手に自ダメージが入る音)読み返してみると雨樋(あまどい)に負けていた。マジか。まったく記憶になかったな・・・ ネイマールに自分を重ねる常秀。クロコダインの必死さを理解し評価したのがザボエラだけだったことが、30年くらい過ぎてから私に効いてきた感があります。初めて読んだ時から強く思っていることの一つに、クロコダインはフレイザードのことを理解していなかったのではないかという不満がある。フレイザードはおまえと同じでとにかく必死だったんだぞ(そして同僚のクロコダインを正しく評価していた)。だからなんだというわけでもないのですが・・・ トップをねらえ!でいうところの人は自分と同じ人生を歩めない、おまえの誇りはおれの誇りではない、ケンカ売っとんのか。カノンが死んでいなかったらアバンの身は危なかったぞ… フレイザードの持つ者から何もかも奪って成り上がるンだという気概はとにかく突き抜けているのでキモチイイのだ。みじめったらしいのだけれども、恨みつらみがないというか。若ハドラーの愛でてやりたい純粋さで出来ているような爽快感を感じます。絶対魔族のオンナも寄ってきたと思うのですけどネ・・・(若ハドラーの方) もちろん飽きたらポイと捨てられる。化ける可能性だけを見れば、フレイザードには純粋な魔力を闘気に変換させる節目が来たのかもしれない。カノンは武闘家と魔法使いと僧侶のミックスみたいな(まるで魔王のような)特性があったのですが、フレイザードがカノンと戦えば弱点を強さに変える方法に目覚めたのではないでしょうか。右手と左手に炎と氷の特性を持たせてぶん殴ってきそうだよね、カノンは。(あ。フレイザード戦に限っていえば左右逆にした方がよい)マトリフとガンガディアが到達できなかったのはバーンが体現しているフェニックスウイングである。なんとなく獣王痛恨撃と似ているよね、あれ。しかしなんとなく私はフレイザードを尊敬しているな…(そしてクロコダインには辛い)(辛辣の方) 勇者アバンと獄炎の魔王、はハドラーの負けん気が折れて現実を見る風見鶏最高!と雄々しく再起する魔族の青年の話でもあるのだ。フレイザード、おまえ、大変だな・・・ ハドラーにできた最初の友達がアバンであるともいえる。ぜぇ~~~ったいにフレイザードなら唾を吐くね。き、嫌いになれない・・・ フレイザードは全方位に唾を吐いているわけではない。クロコダインへの評価は「鋼の肉体」であり、己の長所を生かす者には敬意みたいなものを持つ(ちょっぴりね)のがフレイザードなのだ。バーンもちょっぴりフレイザードのことが気に入ってるよね。マトリフがガンガディアと戦い、極大消滅呪文の片鱗、というか暴走を見せたのがウロドの戦い。マトリフは極大消滅のエネルギーを両手の中に押さえ込んで指向性のあるエネルギーに変換させて、狙った方向に必要な量を放つという技を完成させる。自動車(内燃機関)の構造で頭がおかしいのはクランクさせるエネルギーを電気からとり、その電気はガソリンエンジンの回転力からオルタネーターを駆使してバッテリーに貯めるという発想です。よく実現したよね。自動車には無駄な部品は一つとしてないとある本に書いてありましたが、事故のない安全な道具としての自動車は夢の発明品といえます。実際の自動車を運転する機会を経験すると、原動機の出力特性と車体の重量は運転感覚に決定的な影響を及ぼすことがわかる。教科書やカタログを読んでいるだけでは(ギュータで修業しているだけでは)わからないことはある。納得への道はサディズムで舗装されている。ジャイアンがエルを助けた行為は、正々堂々とした決着を望まない輩には制裁を加えるというフェア精神の発露だったといえる。ジャイアンにとって背後からのだまし討ち行為は死をもって償わせるべき、禽獣に劣る行為なのだ。まあ、エルたちが油断していたのはジャイアンたちがコソコソ隠れていたからなのだが・・・ コソコソ隠れて自分たちだけが安全な場所から高みの見物を決め込むのはアトランチスの国是そのものだ。ポセイドンが根っからの番犬気質ならおそらくなにもかもが許せないのだろう。しかしマトリフはハドラーに因縁があり過ぎる。オレは根っからの超天才でよ・・・ 沈黙の艦隊、ジパングで死にそうもないキャラといえば深町と角松ですが、それでも角松は死にそうでしたよね。梅津艦長が「みらい」とそのクルーたちによる歴史改変の可能性を危惧していましたが、そのことと同じくらい、角松の人の好さ(による歴史改変)を危惧していたのではないかなぁ… 「我々が国民のために国を守ることは仕事であって使命ではない。同じように、この世界の歴史を守ることは・・・、」「わたしの我儘だ」「この世界で我々はなにも失ってはいない。失いようがないともいえる。だから何かを手に入れようとすることには慎重でなくてはならないと思う。元いた世界に帰りたいという我々の願いはこの世界に根を下ろすことで慰められるかもしれないが、この胸に去来する寂しさは・・・」(角松が唾を飲み込む音)「死ぬまで持ち続けるべきだと、わたしは思っている」呪術迴戦の東堂がここで乱入すると、好きな女のタイプを聞かれて即答できないような奴は青春を楽しむことはできない。聞いているかメカ丸 と戦いにウキウキワクワクできないのなら青春の舞台には立つなと説教を始めそうだい。呪術師とは自分という個が何をありがたがる人間なのかを万人にさらけ出すことを是とする人種だともいえる。夏油が家族が誰からも感謝されないことに憤りを覚える人間なのだと自覚したのが高専3年の夏だったわけですな… 夏油は皮肉力が足りない。マンガ「ルックバック」で主人公藤野の闘争心に火をつけたのが京本の藤野先生に自分の描いた絵をみてもらいたい!という欲望だったことを題材にしてマンガ「ショーハショーテン!」の畦道の父親のことを論じてみろ。不特定多数の第三者を大勢笑わせたい!という藤野の欲望は畦道(息子)の欲望に直結しますね。夏油の猿共は嫌いという本音は猿共に笑われることがたまらなく嫌いだという子供の駄々でもある。子供なんてみんな駄々っ子だろうに・・・ 泣いて喚いて騒いで 少年マンガが自由を手に入れる過程を描く作品なのだとすると、ジャイロや藤野や畦道が、マルコ少年の先祖代々の誇りの体現や京本の絵画の描写力や文化祭ステージ上で浴びた観客の爆笑の大波はすべてが刻印だといえる。ダイでいえば竜の紋章だし夏油でいえば悪意のない第三者からの拍手がそれにあたる。竜の紋章は誰がための怒りか、本当に意味がわからないのだ。ジパングでいえば角松がハワイでチャンネーをナンパするのが目的だったのになんの因果か——死にかけの旧日本軍将校を助けて情報統制を蔑ろにしたせいで——えらい目に遭ったのもタイムリープした際の注意事項を守らなかった教訓だといえるだろう。無茶いうない。笑いは一種の敗北宣言なんだとショーハショーテン!作中で誰かが(シュプレの鉄平太が)いっていましたが、誰かに認められる(一種の敗北宣言)ことは誰かに認めさせることでもあるのです。真魔剛竜剣が泣いて喚いて騒いで土下座して どうかわたしを武器として使ってください と求めてきて その願いを実現することに何の意味があるのか? と応えれば、「わたしには価値があります!」「あなたを皆が竜の騎士として認めます!」「これはこの世界でもっとも価値のあることです!」「ただ生まれて育ってきただけでは価値がないと、おまえはそう言いたいのか?」「価値があるかどうか、決めるのは自分自身なのではないか?」「おまえは勘違いしているのではないか?」「まず、おまえはわたしに認められなければならないのではないか?」 ダイ大世界では極限まで圧縮された闘気は手元に置いておけるバスタービーム(触れると自壊する。触らなくても周囲を蒸発させる。根性で切断タイプと拡散タイプと反射タイプ(?)に使い分けできる)みたいなもので、神話の伝説の武器でも対応するのが難しい。バーンもフェニックスウイングの試し撃ちを(慎重を期しながら)複数回、何種類も試したことだろう。自身から放ったメラゾーマの連発にどのくらいフェニックスウイングで耐えられるのかチャレンジしようぜッ! バーンがロン・ベルクを買っているのも真魔剛竜剣に挑む心性が気に入っているからで、極論をいえばバランが人間ではないと感じながら王女という立場も完全無視したソアラはロン・ベルクと同じかそれ以上にヤクザな女なのだ。酒もって来い クロコダインが魅力的なのだということをそのへんの散歩行きたがってキャンキャン吠えている犬でもわかるようにこんこんと説明したい気分だ… クロコダインが人間の素晴らしさに感動しているところに、いかに人間がシステマチックに物事を進めたがる生物なのかを百例を交えて言いたくもなる。オレの人間への敬意は、そんなものでは消えはせんぞっ! バランにソアラだって人間だったじゃん・・・といったのはヒュンケルだったか。探り探っていくと真魔剛竜剣がシステマチックへのあらゆる文句を粉砕する神の遺産になっている。竜の騎士の戦闘生物としての遺伝子とかもグロテスクの極みであり、バーンから見るとロン・ベルクの爽快さはちょっと筆舌に尽くしがたい。ロンの愛剣もダイの剣と謎の精神ネットワークで繋がっている可能性すらある。ご主人の皮肉は最高なので時々我慢できずに吹き出してしまうのが星皇剣さん(二代目)の悩みとか。ショーハショーテン!の登場人物の中で、実写ドラマ化する場合にキャラの再現度が最も難しいことになるのはライジンの二人であろうと推測します。アニメ「ハイキュー‼」の白鳥沢戦のクライマックス「強さとは実に多彩」は本当にシビれるので何度も見返しているのですが、ライジンの背の小さいほう(ギャッ!)バンはたとえクラス内のお笑いヒエラルキーを破壊してでも本当に笑えるギャグを全力で取りに行く男(逆にいうと絶対に笑えないことには全力で逆らうのだろうと推測できる)なので(ブンタの姉がバンを魅力度ランキング上位に持ってきていること疑いようがない)、私がライジンを全然面白くないと認識している時点で実写ドラマ化する時のバンの俳優さんには私から見た時のハードルは銀河系よりも厚く、アンドロメダ星雲よりも遠いのだ。現代人は忙しくて理性的でだれよりも優しい。ドルビーシネマでスパイダーマンの新作映画を見に行く理由が複数できてしまっている。スパイダーマンにはマジでなんの思い入れもないのですが・・・ ネットの情報によると、ネッドはホームカミングからレギュラーというかピーターの参謀兼オタク仲間として表舞台に出てきてしまった、らしい。D&Dつながりでホームカミングは最初のほうだけ見ているので、あ、それ、オレ、知ってるわ。ネッドが驚いて落として壊してしまった球形の模型って、あれデス・スターなん? ネッドが模型を落とすまえに「スッゴイよネッド!!これ自分だけで作ったの!?まるで目の前に宇宙が広がっているようだ!(以下、SWの枝葉末節話がはじまり本編ははじまらない…)」ペトロバラインがでてこないヘイルメアリーだ バーンがクロコダインのハドラーへの忠誠心を本当に評価していればバーンが己の名を惜しむなんてことはなかったのね。他者評価、ヘイルメアリーの映画でトロッコ問題が来たなと思うのは死の片道キップが異星人の友人の好意によって故郷への帰還が叶う望外の僥倖に化けたときでした。主人公グレースは異星人ロッキーがこちらの動きを片時も目を離さず独り言も聞き漏らさない面倒くさい奴だということ以外、同じ目的を達成するための同志、仲間だと信頼していたので、宇宙で一人で孤独に死ぬことに憤慨してくれたロッキーに友情を感じたのでしょう。来たぞスタートレック!シンプルかつ合理的。野口英世の東京での苦学生(←学生ですらない)時代をつぶさに見てきた石塚三郎のことが猛烈に好きになってきたぞい。カメラ撮影が好きだったという話一つでいくらでも青春時代の笑い話がでてきそう。野口の笑えない話に相談に乗ってくれた石塚もカメラ撮影に口出しされると本気で切れたらしい(嘘)。西尾維新の化物語を・・・・・・・・・・・・・・・・・アマゾンで、オーディブルで、聞いてみるかぁ・・・・・・・・・・・・(あまったれてんじゃネーゾ!)(はーい)庇護下での組織内で己の地位向上(と組織運営の円滑化)に自己の生存目的をみつけている、つもりなのだ。アニメ「アオアシ」の再放送で冨樫のサッカー観が悪目立ちする回が放送されていました。お嬢こと海堂杏里が子供の頃から大人の目線を気にしないで育った(どう考えても同世代の子供からの視線のほうが刺さる子供時代だったろうと想像できる)ことが不良として誰からも相手にされない冨樫と対比することで皮肉が効いていると感じますね。ルール内での成り上がりにお行儀はあるのか?サッカー選手の経験がない人間がサッカーチームの監督をしてもよいのか?ユースサッカーも部活サッカーも碌に経験していない人間がプロサッカー選手になってもよいのか? しらん。4年に一回にわかサッカーファンになってきただけだし…。杏里のサッカーへの情熱は・・・・・・・・・・。冨樫がお嬢はおもしれーと思う理由はサッカーだけを見ている(クラブチーム運営、広報、自治体との折衝、そろばん勘定等は冨樫から見ればサッカーの範疇ではない、と思われる)女が珍しいという珍奇なヘアースタイルをして突っ張っている奴を見ていると応援してやりたくなる現象と似ている。あほそうな犬を見るとなでてやりたくなるのとも似ている。なんだっけ。武蔵野戦のまえに竹島が赤毛坊主になったのを冨樫が見て言葉を失ったのは、「気合で俺が負けている・・・!?」(結果として俺が間違っている・・・!?)と謎理論で敗北感を感じそうになったからですかね。橘がずっと感じていたエスペリオンへの申し訳なさ、ふつうの人間が超人ばかりの環境に自分から入ってきてなんの役にも立たず、いるだけで周囲に迷惑をかけている、ここに存在することに耐えることができない((大友を見習え!!!)) 橘の見習いたい真似できないところは——誰もが面倒くさがることをみんなの意見をきいて資料もそろえてまとめ上げる我慢強さ、結果よりも過程の中で尊敬される、されていることに本人が気づかない(結果を重視する性格だから)あたりかと。おお、橘に見離されないよう、生きていかないと、人としてダメになってしまいそうだ・・・。

 前記事がipadiphoneで読み込むと文末まで表示されない現象が出てしまい、記事を繰り越しました。

 突然ですが、皆さんはジョジョリオンを読んでいると前の部のボス格キャラであったヴァレンタイン大統領を思い出したりしませんか。単行本の14巻を読み終わったところ(#58 東方家の夜明け)で強くそう感じました。内憂外患という言葉を地で行くような東方憲助から目が離せません。

 ジョジョ7部SBRで説教キャラといえば、ヴァレンタインとリンゴォとジャイロの父(『何かよォ~気のせいかずいぶんと上から見下されてる感じがすんだがなああ——』)ですが、なぜ説教をするかといえばジャイロには見込みがあると感じさせる余裕があるからです。すげェ~遅れてやってきた反抗期と言ってはいけません。SBRは4部の重ちーとダイレクトに接続されている予感が拭えないので、理屈抜きでヴァレンタインと憲助は重ちーの決死の決意の影響下にあると仮定しています。重ちーは物心(ものごころ)にまだ乏しく、物心(ぶっしん)への欲望に世俗の関心が追い付いていない愚者です。ジョジョ第9部 The JOJOLands はハワイが舞台と聞いているので、夏の暑い時期にキンキンに冷えたコーラを飲んで読むといいかもしれない。極度に不安定な立場から安心を求めて行動を起こすのは第1部のディオから続くJOJO世界永遠のベクトルで、ジョースター家はそのベクトルを無遠慮に引っ掻き回す鼠みたいな存在だともいえます。「てめーはオレらツェペリ一族250年の『鉄球』を見下してんのかッ!」 国王の庇護のもと、死刑囚に安心を与え社会から抹殺する役割を持つツェペリ一族の掟に疑問を持ったジャイロは矛盾の塊なのですが、安心して神のもとへ行ける心境をジャイロはどう考えていたのでしょう。ツェペリ一族が持つ家族愛と仕事への誇りは幸福な人間関係を築くと精神的に破綻する罠となっており、ジャイロの父グレゴリオが親戚や友人たちと極度に淡泊な関係を続けたのは一族の幸福と繁栄を考えれば当然の行動だったといえます。ジョニィがジャイロに嫉妬心を抱くのは当然過ぎるくらい当然です。「飢える必要あり」 ・・・といったそばからロースト・ビーフ・サンドイッチと女体を出してくる荒木先生はイカレてるぜ…) ジャイロが北米大陸横断レースそのものにアメリカ建国の開拓精神を感じて敬意を払っていたかは甚だ不明です。ジャイロの敬意は大切な個(人)に向かっていて、ナプキンが象徴するもっともらしい約束(先人を敬い国や故郷を愛する心)、正しい決断のお願いを己のモノにすることはできそうもありません。ツェペリ家の紋章のついた襟あてを死刑囚が勝手に拾い好きに修繕した事実を『あの囚人は真面目な使用人の家系の少年』だと思ってしまえば冷徹な死刑執行などできなくなるのです。不衛生で穀物庫を荒らす鼠を『可愛らしい小動物』だと思ってしまえば人の世の統制ができなくなる(保管する食料を喰い荒らし人間を害する病原菌を撒き散らすのならそれは悪だろう)、蚊を殺すことに躊躇する馬鹿はこの世にはいないのと同じです。正しい決断をお願いしたい。『取り引き』の決定権は… その『罪』その『穢れ』を誰かにおっかぶせろ。ルーシーを通じて『安心』を手に入れるといい… この地には幸福のみが残る。感傷を捨てて、役割を果たせ。結局のところ完走者39名、ポコロコ騎手が総合優勝を果たし60億円を手にした。——で、たぶんそこは重要じゃない。男の世界はどこにいった問題が発生していて、金や経験では買えない事態を手に入れろとリンゴォの亡霊が囁く。男の価値と社会的な価値観はリンゴォがジャイロに託した生き方の指針で、そのズレの差異を、次の8部で延々延々延々と(岩人間を通して)確認しているようにも思える。この俺を『殺し』にかかってほしいからだ。リンゴォもヴァレンタインもジャイロも父親に反抗的な態度を取る前に生き方を社会から強制されたと見ることができる。ヴァレンタインの父親が自身の命を賭して連隊の危機を救ったエピソードは感動的なのですが、その覚悟は自分よりも弱いひ弱な息子に頼っており、その事実を公正に観れば、賞賛されるのは父親ではなく息子であったはずです。戦争で死んでいった敵軍の兵士たちの無念さも戦場にいない子供たちが背負うことになるので、卑劣さはどこにもない漆黒の意志による殺人を人として未熟な子供たちに聖なる領域へと高めてくれる修行として課すという、どこのスパルタだよと絶叫したくなる事態ですがリンゴォはマジです。リンゴォを貶める態度をジャイロは取らない。一刻も早くこの場を立ち去るための殺し合いがジャイロの意地を通すための決闘へと変化している。ジョニィは間違いなくまだ生きているが、友を救いたいという感傷、罪人の少年は無罪だろうという感傷、不当に拘束されて条件付きで自由にしてよいという立場への感傷……。ジョニィ・ジョースターの伝説が常敏に繋がるなんて誰も思わないでしょうよ。等価交換の欺瞞、損をしないと理解できてしまうとキツイお仕置きがくる、誰かにしゃべらずにはいられないからついついしゃべってしまう。吉良吉影ェ…。(植物のような平穏な生活。深い『絶望』もない……。激しい『喜び』はいらない……。本当に素晴らしい町だ杜王町。穏やかでも安心もできない人生をおくるのはまっぴらだという事は、よく知ってるだろうッ! 決してわたしはこの世に思いどおりにならない事がある事を学習したりはしないッ! 絶対に理解したりはしないぞッ!!) ・・・、ジョジョリオン読み終わったなりー。虹村京とホット・パンツの登場時のカッコよさと、すごく地味に退場したことについて誰かと話したい気分なり。"立ち向かう者"に厄災を与えるスタンドとか後半の東方家の運命を一身に負う常敏には辛すぎる相手でした。常敏と虹村さんは吉良吉影(とホリーさん)繋がりで、ロカカカで世界を牛耳ろうとした常敏は虹村京から見ると(兄の吉良吉影も似たような奴だったじゃんとツッコミが入りますが)兄と母を道端に転がる邪魔な小石程度にしか思っていなかった極悪人です。ホリーさんもロカカカと無関係ではないので、虹村京の孤軍ぶりは相当なものです。本編で人間でここまで孤独に戦っている人はいなかったかもしれません。スタンドもバイクで相手を轢き殺すだけ(扉を開けて前に進んだときにだけ現れる)と追尾固定型で本体は安全とワンダー・オブ・Uとの類似点があります。君の奇跡の愛…。バイク愛は東方家では辺境に追いやられてますが、京からだけは形式だけではない敬愛を憲助は感じていたかも。・・・ソリッドなバイク愛を感じるのでハーレーっぽいバイクにはクソムシを見るような心情で表面的には完璧な関心を装う虹村さんであった可能性もあるか。ウフフ イカすバイクだろ? ジョニィの愛馬も年取ったあばれ馬で性格もいじけている駄馬だったなぁ…。ブランドの栄光しか見えない、馬にも認められない金メッキのジョニィ。"呪いを解く"ことは尊厳の破壊なのではないかという仮説がジョジョリオンを読んで脳裏をよぎる。田最環・東方家襲撃事件で憲助の大切なものを次々と破壊される場面は岩人間が人間の家族愛をロカカカの実ビジネスの大切な要素としてしか見ていないことを如実に示しています。あとジョジョリオン吉良吉影は性癖がイッてることを除外すれば、義に厚い好漢でした。覚悟が最初から完了している(3部の承太郎のように)のでかなり変な人間ではありますが…。・・・・・・2巻を読み返すと吉良吉影の性癖悪評は半分くらい勘違いでした。手の形が美しいと自他ともに認めるナルシストで、美しくない手の形は自らに始末させる几帳面な性格の男というだけで。適地適合、おまえはどっちなんだ。男ならはっきりしろ… 覚悟はいいか?オレはできてる 問題なのは平穏な生活と美しい手を手に入れた吉良が難病の母親のために裏社会のドス黒い悪に立ち向かうという、自身の欲しい物をすべて手に入れた後にそのすべてを手放してマイナスへ向かうという意思(映画『タイタニック』のディカプリオを想起する)です。ノリスケの地域社会への貢献、強さは絶対ではなく、大切なものは特別なもの、本当に弱っている人に与えられるのは花とフルーツなんだという信念は吉良と通じるものがあります。自分こそが弱者なんだという信念(玉美ィ…)も玉のように美しい・・・か? 玉美が自分のことを既存の神と同格の存在だと疑わない人間なら、ほぼほぼ世界を手中にしていただろう。争いは嫌いなんだという性格もたいへん神らしくてよい。ワンダー・オブ・Uの最悪な特徴である念じただけでスタンド攻撃が始まる(真実に近づく意志がなければ無害な)ことへの対策は、ほぼほぼ無意味だとは思いつつも、厄災なんてどうでもいい(どうにもならないから)、花は美しく果物は甘く、愛はあったと誰かに伝えることに尽力する意思だけだ(敵はどこだーッ!!!)。まさかまさかまさかの、バイツァ・バストの肩入れをする気概が生まれるとはお天道様でも思わないでしょうよと叫びたい気持ちです。億泰と仗助に天然記念物のゴミを見られる視線で見られてもやむなし。なぜなら限りなくゴミだからです。限りない安心と安全、非常に安定している運命。4部の吉良は誰にも頼らずに自分自身の幸せを手に入れようともがき苦しむ悪党でしたが、絶対にあきらめない姿勢(幸せが手に入らないなんてことは死んでも認めない)はちょっと惹かれます。期せずして4部吉良はワンダー・オブ・Uの事実上の天敵、吉良の安心を脅かすこの世にあってはいけないもの(質問に質問で返す無礼者には死を。Death to those who have the temerity to answer a question with a question. "無礼者"はこの訳で合っているのだろうか…)です。術式反転を運命で実行するアホみたいな荒業(誰にも見えない)。ちょうど黄金長方形がこの世の中のどこにでもある(なんなら最初から手の中にすらある)のに、名誉と愛が宿命のように追いついて全てを奪い去って行く、ジョニィの白ネズミのダニーがチューチューとどこにでも現れて(籠の中でもポケットの中でもなく晩餐のテーブルの下に現れて)ジョニィの大切なものと等価交換を迫るようにです。(※ 一番どーでもいいと思っていたシュガー・マウンテンにここしばらく纏わり付かれているような状態。吉良吉影の反転と仗世文への問いかけが、そうじゃあないだろ プライドで言えないのか? と最大級のナメた質問で返されているのに核心をつかれているせいで言い返せない。常敏がギリギリでなよなよし、SBRディオがつるぎ頃の年齢で(…どころか半分の5歳の時に)極限までマイったお願いを聞かされて、おそらく京は兄と母が二人だけの秘密で難病患者を助け続け、あげく自分たちがその立場になったら年の離れた自分には一切相談しないで(変なヤンキー崩れといっしょに)家族の平穏と幸せを追求しマイナスへ走ったことに少々怒りを覚えている。シュガー・マウンテンの泉には肉親の情といったものが少なからず関係しており、憲助が言った「スタンドは尻の穴のようなものだ(だから他人には見せない)」は、人間は岩人間のように血縁関係や義兄弟といったものと無縁で暮らすことはできない(人間の赤ん坊は人間関係の中でしか成長することができないから)、逆に言うと、本当に植物のような成長ができてしまえる植物人間がいるのだとしたら、個と個の自我の境界というものは限りなく薄く、群生し世界を覆い尽くすことが目的となるのだろう。ただし現に地球には様々な植物が存在して、人間と共生している……が。鍋料理をつついているとキノコはうまいなりと思ったから書いてみました。馬鹿な子ほど可愛いという言葉がありますが、常秀を見ていると限度というものがあると思われます。いくらなんでも常秀にはもったいない!)これはうまいに違いないなり! 杜王町の朝……東方家水着パンケーキ事件(コミック4巻 #018『カツアゲロード』その①)で明らかになったのは、牛乳の賞味期限の一日過ぎぐらいで過敏に騒ぎ、家族旅行をドタキャンする気でいたのに家族と同じものは食べない常秀の我儘ぶりです。航空力学と食品衛生を論ずるのに神の信仰を持ち出した常秀に姉の鳩と憲助は付き合うのだから東方家は次男坊に甘すぎます。鳩も鳩でこの世の中は神様が造ったから牛だって人間だって存在しているのよと弟をたしなめる(牛乳は酪農家の方々の仕事によって各家庭やスーパーに届けられ、虹村さんの台所仕事で食卓にパンケーキとして並んでいるし、旅客機の運行も言わずもがな。まずは働いている人たちへの信頼が先では・・・)のですが、社会の仕組みを自分が目で見て経験して理解できたものが確かで、理解できないが存在しているものは不安だから信じないと駄々をこねる常秀は少しだけ可愛いかもしれません。さ…三角形の内角の和が180°なのは本当なのか兄貴ッ⁉(そういえば私も本当にそうなのかは知らない)常秀てめえッ!(あぁ…。三角形の外角の性質、平行線の錯角、聞けばああそうなんだと思っても、基本的に一刻も早く忘れたいので、存在できてよかったなと他人面がしたい…)ジョジョリオンの巻数構成として、岩人間の暗躍はもちろん記憶に残るのですが主菜は東方つるぎの身の安全を確保することなので、全体の対立項(人間は岩化して死ぬ可能性がある生き物である)⇔(岩人間は人間の一種だが全体の主を占めない)、ほとんどの人間は岩人間に無関心である、岩人間化する可能性のある人間はその問題を人間社会に提起する気はない、逆に岩人間一派(?)はこの歪な状況をビジネスチャンスと捉え人間社会に打って出る気がマンマンである(等価交換は金と権力になるから)…と、かなり混乱しています。東方家で万年無駄飯食らいの常秀がなぜか集団から排除されるリスクには怯えていない(定助が常秀に嫉妬心を持たないのは立派)のは、まあ、機を見るに敏のド級の反対なので、長い目で見ればいい奴なのかもしれない・・・。康穂が常秀から右手を分けてもらったことに特に恩を感じていないように見えるのも、常秀の人徳によるところが大きいだろう。ちょっとだけ近くにいてほしくないだけで、人間として下に見ているわけではない(康穂)。ちょっとだけ人間として下に見ているだけで、近くにいてほしくないと思っているわけじゃあない(将来変わっていく可能性はある)。常秀の羨ましいところは、兄と父の間に確執があり、その原因が「人から下に見られる」ことに起因していたことにいつか気づくだろうということです。ヤンキーは他人からナメられるのが死ぬほど嫌いなのね。下手をすると吉良吉影が平穏な生活(with殺人ライフ)を失うことくらい絶対に嫌だったりする。憲助の感情の大噴火が発生しなかったのと、東方花都が模範的な囚人だったことは、他人様の家庭は自分たちの家庭と同じくらい大切で敬わなければならないと、ヤンキーの精神を持ちながら人間の血の血統を重んじて、かつ社会道徳を大切にする(除く岩人間)大人であることを示しています。自分が重病人や重犯罪者になると覚悟して生活するのは、自分より大切な人たちがいなければまずできない。4部しげちー、7部ジャイロ、8部透龍と、今まで難なくできていたことが何らかの外的要因により実行が困難となり、8部透龍がそうしたように「避難訓練」を開始すればすべてが無事に過ぎ去っていく。重ちーはサンジェルマンの袋の追跡を途中で諦めればよかったし、ジャイロは『納得』を追わなければよかった。強欲な食欲とツェペリ家の宿命をいっしょにするなと思いますが、こんなことを思うのはバカげた事か? カスを優しくするとどこまでもつけあがる、とジョースター卿に直言するのはスコットランドヤードの警部でしたが、あの人もどこまでも引き裂かれていました。4部の杜王町が特別なのはカスのおまわりさんである仗助のお爺ちゃん(娘の暴行・傷害の現行犯をお互い様で済ませた)を尊敬する問題行動の多い叔父を承太郎が認めて、一切尊敬していない祖父が「黄金の精神」が人々にしみわたると太鼓判を押したせいでもあります。アマプラで『マイ・フェア・レディ』(1964年)をレンタルして見ると、冒頭オペラハウス前のヒギンズとイライザの口喧嘩で「人が鳩みたいに囀るな!!」とどやしつけた後のヘプバーンの表情は凄いですね。田舎娘が金ほしさに街に出て来て元手のかからない商売を始めたら、公衆の面前で人間以下の扱いをされた。鳩が豆鉄砲を食ったようとはこのことです(言った)。マイフェアレディ・デスロードの誕生だ…。イライザが人生初のバスタブを見て洗濯でもするのかとピアス夫人に聞いてからのシーンがあまりにも恐ろしくて一気に早送りをして、ヒギンズ邸での別れ、傷心のヒギンズ、ヒギンズのアパートでの遣り取りの記録からの再生停止、エンディングへと初回視聴は終わりました。ピアス夫人は名セリフが多いですね(ため息)。フレディが若き日のジェレミー・ブレッドであったとは出演者名を見返すまでまったく気が付きませんでした。これっぽっちもグラナダ版ホームズの奇人変人の面影がない。まだ見ていないシーンでジェレミーの独壇場があるそうなので楽しみです。イライザの「頭の変な奴とは関わり合いにならねえ!」はジェレミーを経由するとグラナダ版1話『ボヘミアの醜聞』でアホみたいな人数の群衆を通りに用意して変装、内偵し邸宅に放火する(ふり)をして上機嫌でアパートに帰宅するホームズを予見していたといえるでしょう。グナラダ版ホームズでは軍人たちが酒場で流行り歌を合唱したりはしても、皆が一斉に歌い踊り出したりはしません。ジェレミー・ブレッドのホームズは神の寵愛は完璧な美と計算によってのみ、この地上にもたらされると思っている節があります。退屈な答え合わせを鼻持ちならない態度で(そして間違っている)議論を吹っかけてくる人間は紳士ではない。パンやスープを買う金も酒代に消えるイライザの駄目親父が日がな一日何をして過ごしているかは不明ですが、映画冒頭の雨のシーンで誰も凍えていない所を見ると冬のロンドンではなく夜を路上で寝て過ごしても凍死するような季節でもないようです。SBR、ジャイロとジョニィを見ていると、ショートカットの欲にとりつかれているのはジャイロだったかジョニィだったか。結果だけを見て自分の行動の意味を知ろうとするのは早計すぎる。名伯楽は現在でもいるんだと強く信じられるニュースでした。米国野球殿堂博物館のジョシュ・ラウィッチ館長の2025年野球殿堂入り者の発表コメントは、テレビニュースを見て画面にくぎ付けになる稀有な出来事になりました。誰だってそーする。ワタシだってそーする。犬は犬の世界で生きているし、人は人の世界で生きている。ジョジョの物語の中では犬はろくな目にあわないのが通例ですが、岩助は最後まで生き残れたのでしょうか…。確認。最終話の様々なフルーツケーキが出てくるページの右下のコマの隅のスミにいました。洋酒と砂糖菓子の匂いがこもる室内でおとなしくしていられるだから偉いな。いや、犬の鼻には洋酒と砂糖の匂いは忌避するくらいに刺激が強いのではないか。ジャイロがマルコの死刑執行を忌避したのはマルコが可哀想だったからではなく、ジャイロ自身があまりにも惨めだと自分を呪ったからです。父グレゴリオの教えに反発して国王の恩赦に期待するのはツェペリ家の長子にあるまじき軟弱さですが、人の死は特別で犯罪者は社会が生み出すのだから、社会が人の生を肯定して犯罪者を生み出さなければジャイロは安心していられた。ホット・パンツとジャイロは犬猿の仲といってよい関係ですが、自身の弱みは社会からの視線(主にカトリック教会から見た社会の価値観)と自己の欲望(はっきりいって肉だ)がかなりズレてしまい、その修正に苦しんでいる、敬虔なキリスト者として互いに相手が駄目な奴として見えてしまうのかもしれない。シビル・ウォー戦はSBRでも屈指の訳がわからないバトルなので初めて読んだときは「なんだかよくわからないがとにかく大変だ!」と一気に読み飛ばしたものです。ジョニィの絶対殺すマン(迷ったら殺さない)の片鱗が出ていましたね。ジャイロのいう「敬意を払え」はシビル・ウォー戦に限っていえば足枷でしかなかったのでは…。ジョニィの絶対に殺すという漆黒の意思は弱みを握られた場合はそいつを殺してなかったことにする(弱みが消えるのではなく結果的になかったことになる)、弱みを洗練させて力に変える。弱みと弱いは近しいようで自身と他人ほどに違う。『感傷』という心は危険だぞ……。おまえの未来を永遠に惨めなものにしかねない…! 未知の扉を開けたくなる性分と、どれだけ過去に囚われているか。ジョニィはアメリカ人にしてはジメっと性根の湿度が高く、イギリス人のような性根の悪さを感じなくもない。ジャイロは実在したフランスの死刑執行人サンソンをモデルにしていると荒木飛呂彦氏はいっていますが、自分の欲望にゴーサインを出すことに成功したホット・パンツのモデルがいれば、きっと面白いことでしょう。ジャイロに限らず世の男性の悩みの大半は社会に適合できるか否か(世の中の仕組みと自身の尊厳との間に納得が得られるか否か)であり、対外的な顔を用意して広告塔としての満足感を得ることは男の価値観では忌避されがちではありますが、結果として所属する生活共同体の利益に繋がるのであれば、誰にも真似できない戦果を得た英雄だといえます。『虎に翼』では主人公寅子の母親である猪爪はるは、ほっとんど内心を吐露しないキャラクターでしたがはるが死ぬ週の放送は録画もしていないので娘にどれだけなにを伝えていたか、いまだに私にとっては謎です。死ぬ前にいい思いがしたいと寅子の父直言は洗いざらいの後ろめたい秘密を家族に打ち明けてから死んでいます。あともうすぐに死ぬという段になって、安心して夢心地になりたいと、ここぞ!というタイミングで懺悔をはじめるわけです。さえないおっさんでしたが、この決断のタイミングには脱帽です。直言は旅館の手伝いをしていたはるに一目ぼれをして、正気を失い前後不覚になったところを穂高に救われています。魅力値が人間の限界を超えている(端的にいえば皆殺しにさせることができる能力)のは人間社会には害悪でしかありませんが、皆殺しにできる能力自体はヒトのカテゴリーを無視すればありふれた現象です。飢饉や疫病、自然災害による大絶滅などです。ツッコミをしたいが無意味だからあるがままにまかせる。ヒーローは自身の境遇に憐れみを持たないものですが、同時に抹消すべき対象にも憐れみを持ちません。なにかおかしいな、なにがおかしいのだろう。  虎に翼の第2週で出てきたシソンヌのお二人は元気でやっているのだろうか・・・。ドラマの中では第14週「女房百日 馬二十日?」のラストで桂場が皿を喰いながら、司法の独立!法の下の平等!と叫んで穂高重親のことを偲んでいましたが、正直、桂場から見た穂高重親像は激しくピントがずれているといえます。そんなことは桂場自身でわかっているかもしれませんが。寅子が桂場に警戒心を抱くとすれば、それは師への盲目性の暴走でしょう。法曹関係者は皆、穂高重親のように己の良心に従って行動しなければならない、たとえ自らの居場所がなくなったとしても・・・。(女房百日、馬二十日 君子固窮、小人斯濫 …?) つくづく久藤の軽さが桂場を救っていると思える。久藤が小腸なら桂場は脳ですかね。目には目を、歯には歯を。過度な愛には適度な誇りを…。

 はるが実家を出たがっていた事実は第1週で娘の寅子に面向かいながら説明しているのですが、ここではるが説明しなかったことは女が自分の意思で家を出るには結婚という制度を利用することでしか事実上ありえない、一生かけてでも返し切れない恩がある穂高ではあるが、穂高個人というより穂高重親という社会的身分のある紳士に頼って家を出たという事実(出来の悪い教え子可愛さに嫁の世話の骨を折ってくれた)が正直しゃくにさわる。同じ思いを娘にはさせたくないから寅子の結婚相手は娘が納得するまで選ばせてあげたい、と。本当は家制度そのものをぶち壊してやりたいがな・・・。ジョジョ7部、SBRのヴァレンタイン大統領がナプキン理論を提唱したのもバカ共を制するには国民から尊敬を受ける権力者が名実一体の存在と化せばよい(「あんたが『いい人』だという事を信じられたらどんなに素晴らしいことだろう」)という信念からなのですが、絶頂で居続けることはド級の傲慢ではありますが、楽しいことはよいことだと素面で言われたら「楽しさ」ってなんだよと聞き返してみたくはあります。ワートリの弓場や当真がしているツッパリスタイルやリーゼントヘアを、「楽しい?」「なんでなんでー」と聞く度胸はわたしにはない。弓場に関しては大学受験のために隊から離脱している神田が弓場の土俵をせっせと作るのが楽しくてしょうがない性質だったことは間違いないと思います。閉鎖環境試験に神田が参加していれば東と同じくらいの人気者になったのでは。大学で建築を専攻したい神田が遠征艇の設計と運用に興味を示さない理由がないからです。トリオンは万物の創生という天地開闢以来の革命的生成素材なので、本当なら技術屋はすべてのコネをボーダーに注ぐはずですが、意外と皆さん落ち着いてます。はねっかえり者の面倒をみる(宇宙戦艦ヤマトで波動エンジン技術は伝えてもコスモクリーナーは取りに来い的な)(ニューヨーク摩天楼群が高さと利便性を利点にして過剰人口を支える代わりに高い場所から落ちると死ぬことには沈黙するように)のは自分が乞食になる覚悟がある人間だけの、なんですか、余興みたいなものでしょうか。・・・諏訪隊の日佐人がメチャクチャ気になってきたぞ。日佐人は実は若村11番隊に現在所属しているのですよ。ヒュースに「あてにしない(ならない)モノは何?」と聞けば「運頼みの戦術だ」とヤツは即答する。「運とラッキーの違いは?」(ヒュースと諏訪を接近させてはならない。鳴きまくってオリまくるヒュースが爆誕してしまぅ。いついかなる時も他家のリーチから大三元を狙う。集中力が切れることはない)日佐人と麓郎と義人を仕切るのは生駒隊オペレーターの細井真織。こんなん期待するに決まっているでしょう。アニメワートリの劇中音楽を担当している川井憲次のサントラCD、パトレイバー劇場版(1作目)を注文したぜ。楽しみだぜ。鼻歌でOVA5巻陸上自衛隊レイバーの始末ソングを歌っていると劇場版のゼロ虐殺シーンに移行する罠・・・。初期OVAを見返しているとLの悲劇(VHS版のパッケージがキテる)での南雲の立ち回りが気になり、そもそも源さんなる人物を提案したのは誰なのか。後藤から提案すれば予行なしで(風呂場で練習するはずがない)あの後藤の声色を南雲が耐えられるとは思えないし、南雲から提案すれば「・・・誰がやるの?」と後藤が疑問を呈し一同の視線で事態を察した後藤がチーム後藤の任務遂行能力に疑問を持ったことだろう。シゲさんがじゃあオレがと名乗り出て後藤が折れたのではないか。プレステでCDを再生しようとすると「表裏が逆なんじゃない?読めんぞ」とエラー表示されてしまう。表裏を入れ替えても同じ。調べるとCD再生には対応していなかったらしい。CD音源をBGMにするゲームはとっくにこの世から消えていたのだ…。川井憲次氏のライナーノーツは軽く自虐が入っていてくすりと笑えます。零式が太田機の生首を持って現れるシーンのウォ~という唸り声は曲の中に入っていたのですね。災い鳴るかなバビロン。その諸々の神の像は砕けて地に伏した。しのぶさん、やばくなったら逃げろよ・・・といってもムリか…。劇場版パト2で南雲は散々な目に遭っていますが、知り合いからおれの嘘に信憑性を持たせるために一芝居打ってくれない?と頼まれて、下衆を蹴とばさずに捨てられた子犬のように悩んでいてはいけない。端的にいって初期OVA、劇場版の後藤は警察官ではない。意図的に連絡を絶ち、非常時だからと公用車の強奪、米軍の弱みを握り恫喝して決起部隊への攻撃に参加させる(黙っていればバレない)等、3巻の怪獣騒ぎがなければリアリティのあるキャラクター造形なのかと迷ってしまう。ラーメンハゲこと芹沢達也は掘れば掘るほど人から恨まれているエピソードがでてくる(そして他人面する)のと少し似ている。直接向かってくることが(あまり)ないという点で。人間は虚構だが犬は虚構ではない。歪んでいるよな・・・。らーめん才遊記で汐見ゆとりが大学を卒業し新社会人になるまでラーメンを食べたことがなかった設定は、母親の汐見ようこの特異性をここにきて嫌というほど実感します。以下ネタバレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 才遊記の最終巻は汐見ようこによる「ラーメンは虚構」というラーメンのフェイクまみれの実態を暴き、娘には正しく努力した人間の文化をきちんと理解して継承してほしいという親の欲目の暴走(知識量とその理解力、理論を実践する再現力と汐見ようこは怪物である)を前作の主人公である藤本のラーメンを食べて文明開化した娘のゆとりがドキドキは止まらないっ! ワクワクは正義!(藤本ぉ~)と妖怪退治をするお話なのです。根っこの部分で汐見ようこは「正しさ」、芹沢は「美しさ」、ゆとりは「ワクワク」、藤本は・・・子供のころ食べたラーメンのおいしさうまさを信じているのだぁー。だからゆとりにジャストフィットしたのか。 有栖には今は亡き小池サン(麺の努力家タカシの店主はまさか…)に謎の肩入れをしていてほしいのだが。あ、小池さんは生きていると思います。お金を払ってラーメンを食べてくれるお客さんには、ただ「うまい」か「まずい」だけを評価してほしい。アッサリ醤油スープにちぢれ細麺の昔ながらの中華そばが一番、高額なラーメンなど邪道、ラーメンの値段はタクシーの初乗り料金を超えるべからず、ラーメンなど行列して食うものじゃない、ラーメン屋ふぜいが食材や調理法にこだわり料理人きどりなどこっけいだ、しかしホントユーチューバーだのコンサルだのは自分じゃ何も作れねえくせに偉そうなこと言ってるよな⁉ 汐見ようこもだ!自分で研究して自分で作って自分で本を書いて自分で学校を作って栄養バランスに優れてヘルシーで美味しくてチャンとしてるしてるなんて偉ぇじゃねえか!俺は食わねえけどな!! (中略)つまり俺の方が十倍うまいってわけよ☆ 武田のオヤジこそ自分のうまいラーメンはお客だってうまいはずだという芹沢の理想を貫いている人物ではある。挫折しそうな時は腕力と脅迫(類似)行為でそう思ってもらう、人間への真っ当な信頼を貫く道を、本人は歩いているつもりだ。つまり主観の話だ。呪術廻戦で領域展開が奥義のように紹介されても、天元は別に珍しいものではなかったと述懐していたように人がみなハイハイしていれば二本足で立って歩く人間は異常者でしかない。とんこつラーメンの出自が事故と偶然だったエピソードも「よし客に食わせよう」と思うのはラーメン店主が主観で生きている人間だからだ。塩匠堂事件はみんな主観は人任せで生きているのだから権威のあるような人間に神輿に乗ってもらってみんなでハッピーになろう、というハッピー計画でしたが、事故を起こして主観的に幸せになってもらうのはラーメン的といえばラーメン的なのです。やくざのやり方と同じともいえます。恥をかかせ敵に回すことになるリスクを平和的に相手に伝えて空気を読ませてみんなで幸せになるハッピー計画ですからね。塩匠堂のラーメンは時代遅れで大してうまくないなんていう物好きは業界から追放すればいいだけです。実体のないラーメン勢力を捏造する企てに恥ずかしさと忌避を己の主観に感じなければいいだけの話になります。みんなハッピーになりたい、塩匠堂のラーメンは最高ですと本当はみんな言いたいはずなんだ、そうじゃないかな? ピッコーン!!ピッコーン!!(×2.5) とりあえず食材をなんでも土鍋に入れて煮てしまえ… 塩匠堂の塩ラーメンが驚くほど色褪せて感じたというグルタの経験は、過去に驚くほど美味しく感じたのはなぜなのだろうという疑問を持ちさえしなければ、「その通りだよ、グルタくん」「よくぞ『本当の理由』を探り当てたね」と有栖から祝福されることはなかったのです。本当に美しい出来事かどうかはともかくとして。芹沢はニコリともしていない。かつてプロレスに熱狂して今はそれほどでもないことに納得のいく理由(ニューウェイブの当事者としてゆとりに心配されるほど老いぼれたとしても人外魔境を手探りで冒険した日々、先駆者に励まされたことの喜びを過去のものにしたくない、馬鹿だが幸せだったことへのケジメ)を自分の中でどうとるか。自己憐憫と自己愛をラーメンに全賭けしたことへの後始末だといえます。AIに全部まかせて肉体は機械に移してハッピーな脳内ライフを楽しもうと、全ベットしてもよいのではないか。チャンとした会社、チャンとした人間、チャンとした社会、チャンとしている人生・・・。食事とちゃんとしていることには因果を感じます。ラーメンをB級グルメの枠に閉じ込めようとする『中華そば原理主義者』たちですね。ボッコボコのギッタギタを発見伝、才遊記、再遊記で探してみると、やはり発見伝1巻の有栖と小池のやり取りと才遊記1巻のゆとりとようこ、再遊記1巻の低レベル店でまったりうらぶれ芹沢社長の3つでしょうか。暴虐武人…傍若無人。言いたいことはオレのラーメンに勝ってから言え、なんてセリフ、一回でもいいから言ってみたいなあ…… 「なるほど、素晴らしい……」「どのスープもみな、食材の旨味がしっかりと引き出され、しかも臭みは一切ない……」「ラーメンマニアが考えたにしては上出来じゃないか」(べたぼめ)(ラーメン発見伝5巻収録、第三十五杯 プロとアマチュア(前編)より) 後編で「オマエのブレンドスープはあの時点で99%、完成していたんだ——」「"常識"にとらわれているようでは、まだまだだな」と芹沢。素直に間違いを認めることができる人は自分に自信がある人ですよ、とは藤本の上司である四谷の言葉です。近場のスーパーにはトンコツストレートスープは売っていないようですが、実際はどうなのだろう。発見伝の前半ではトンコツ醤油ラーメンを題材として博多ラーメンがよくでてきます。何巻だったか昔ながらのトンコツラーメンは東京進出時からの研究・対策が進み、トンコツ単体では勝負にならない時代になってきているという話がありました。ストレート鍋スープのパック販売もトンコツ主体の商品は生き残れない背景があるのかもしれません。スープのコクは寒い時に口にすると病みつきなるおそれがあります。ニューウェイブ系も新世代系に飲み込まれたように、システムに取り込まれることは誇りだと思えればいいですね。ただし言うほど簡単ではないと武田のオヤジを見ていると、そう、思います。少なくとも存命中は無理。宿儺と漏瑚の火力勝負(単行本13巻~14巻)で宿儺は最大火力の調理こそが飢えを満たす最短距離、唯一の方法だと漏瑚に諭すのですが、どう考えても適時適材適所、その場に応じた火力の調整ができてこそ一人前なのです。半端者が知ったようなことを口にするのは百害あって一利なしです。(ブーメラン) 真希が乙骨になぜわたしが出来損ないなのか聞けよ、気になっているんだろ?と聞いたことと比べると宿儺の器の小ささが際立ちます。秤が"熱"を愛しているからこそ熱に対してダサい真似はできない!!と貫徹しているのに比べて小器用に炎を出したり引っ込めたりする宿儺はダサい。火力調整のできないガスコンロは己を恥じるべきだ…。というわけで宿儺にトンコツラーメンを食べてもらうために、彼を九州へ連れて行こう!領域展開だ。製麺の機械による省力化と種類の多様化に絶句してもらい有栖に負けないラーメン評論家になってもらうのだ。裏梅は泣く。脂と塩と肉と炭水化物による絶え間のない波状攻撃。これは新世紀の蒸留ろ過抽出芸術、ニューうずまきだぁっ! 澄んだ清流の岩苔を食み成長した鮎をふんだんに使ったラーメンとか確かに正気ではない。武田のオヤジの酔った妄言は大体は正しい。たぶん淡口らあめんも食べたことはないのだろうなあ。

 虚構とは現実ではない、現実とは過去の文化の積み重ねである、一時代を築いた文化表現は正しく現実の中から現れている。つまり誰にでもわかる強みは安心して納得できる下地の上によって立っている。90%の完成度の作品に10%を足すのは新人の入社試験に課していいハードルではない。なら100%は最高か、足すものはもうないのかといえば、古き100%は過去でしかないと烙印を押されるのでは評論家死すべしと言いたくはなる。スーパーの精肉コーナーを見てまわると鍋物用の商品が消えていることに気がつく。キノコ売り場も入口正面の売り場から裏側にまわり陳列スペースも減っている。パックおでん売り場も商品数が減っている。初かつおと解凍とろかつおが別スーパーで同時期に店頭に並び始める。季節は春めいてきましたね。ドラえもんで未来に起きることを予見して杖か葬式を用意しておくのは余計なお世話だとしても、リカバリー可能であればステージ上の失敗を放置しておくのはありなのかもしれない。ホワイトアルバム2で学園祭ステージを見ていた冬馬曜子は娘が三角関係の拗れから地獄を見るだろうなぁと十分予見できていたはずで、死ぬほど頼りにされているのもステージを見ればわかる。万が一ヘマして失敗したらどうヤジを飛ばそうかな…と腕を組んで思案していたのではないか。主観と客観でいうと、かずさは飯塚武也の後始末を自分で引き受けているつもり(主観)でステージ上に立ち、ヒラヒラのついた露出の多い衣装を着て春希を追っかけている(客観)状態であり部長の武也は全部わかっていてかずさにしっぽが隠し切れていないことを黙っているわけです。ライブが成功してほしいから。周りが望んでいることをかずさ本人はわかっていて引き受けていると自分で理解しているつもり、なのが不幸の始まりではあります。母の曜子のことも「ファンの期待に応えるコンサートを成功させてスゴイ!」と自慢に思っている可能性は高い。パト2風にいえば状況を開始しているのがかずさで行動を起こしているのが曜子。「状況?」「状況ってなんだ…」 らーめん再遊記の原田編で一番緊張を強いられたのはグルタが麺屋なでしこと東京ガストロノメンをウキウキで紹介した時でした。原田は「遊びでちゃちゃっと作った」ラーメンは価値がない(主観)と自分の価値観に束縛されている状態でしたのでラーメン業界でトップを並走する店舗のラーメンを食べることは屋台で怪しいふれこみで期待を抱かせて乾麺を高い値段で売りつけてるラーメン屋と違い、原田のプライドを大きく揺さぶる可能性があったからです。清潔で和やかな雰囲気でこなれた価格のおいしいラーメンを提供するのは原田のラーメン観では「ならラーメンでなくてもいい」「ファミレス最高」となるので、逃げ場のない状態で曇りのない眼で見られることは原田には崖っぷちに追い詰められることと同義なのです。塩匠堂万歳。ヒモ生活が長い、プロのヒモということは自立した女性の懐に入るのが上手いということ。冷蔵庫の中の余り物食材でちゃちゃっと料理してラップで包んで冷凍して調理の時間短縮ができるヒモは欲しい。「こんなの誰でもできるだろ…」 グルタが塩匠堂事件で感じた喜びは「いいものは絶対に認められる」という考えと「よくないものは地に落ちて死体となり年月をかけて養分となる」ことの欺瞞と不満(アク抜きや浮いた脂取りは化粧と同じで必要なことなのか、正気を疑ってよいのか、本当に死体はバクテリアによって分解され養分となり地に溶けたのか)を永遠に再確認する評論家の本分が抜け落ちている。表沙汰にするのではなく客観が主観に食われていないか、ミイラ取りがミイラになっていないか、何に筋を通そうとしているのか、美しさは主観ですが客観でもある。芹沢が本気になるのは保身と責任逃れのためのイベントを開くときだ。妥協はしない。本気でやらせてもらう(恥をかいたのは俺の責任だが恥をかかせたのはあいつらの無能さ故だ。良心の呵責はもちろんない)。巨神ゴーグを見て感動したのとワンコの散歩や昼寝姿を見て感動したのは実は近しいのではないか。再遊記の最新話第114杯で芹沢が「路頭に迷う恐怖」があってこその大人でありプロだと清流企画に入社したころの汐見を彷彿とさせる発言をしました。汐見ゆとりの場合は自分の手元に娘を引き留めておきたい汐見ようことその部下たちの前で「ママの料理はチャンとしている(立身)がラーメンと違って退屈で間違っている」そんな世の中は嫌だと駄々をこねていました。ラーメン発見伝で藤本が蕎麦屋で親に駄々をこねてラーメンを食べていたエピソードを思い出しますね。大学生の頃の芹沢も「皆殺しだ!」と脳内で叫びながらニンニクまみれの背脂ラーメン食べていました。人のことは言えない。評論家が馬鹿にされるのは金にならない仕事をして惨めに死んでいく連中だから馬鹿にしてもよい。つまりあのひどい罵倒は本人たちはいたって社会の常識だと思っていたわけか? いくら忠告しても『この世の正義に逆らうつもりはない』と。どうも『顔役』と自分たちの姿見との区別がついていないようでしたね。公正とは正しく管理することだと理解しているのかもしれません。タコツボ化し自給自足の深海熱水噴出孔の生態系を模せば我々と違う生き方が可能なのか…。ある意味、無敵の人ですね~~ 不死身で痛覚は人並みでまったく違う環境下で生きていくことになり、理屈ではなく体感でひどい目にあったとしても、そこで生活する人たちがいるのならやさぐれる理由にはならないはずです。巨神ゴーグ1話で田神悠宇はドクター・ウェイブに会いにニューヨークまで単身渡米するのですが、そのフットワークの軽さはそうそう真似できそうにありません。「ギトギトの背脂ラーメンにおいてスープは強すぎたり複雑であったりしては逆効果。しっかり塩の効いたシンプル味のスープのほうが、背脂のコッテリ感と甘味を引き立ててくれる・・・」「それはつまり、蕎麦つゆのような?」「ええ。下手に凝ったスープなどを使うより、蕎麦つゆに背脂を振りかけただけのほうが、ずっとハッキリした味のうまいものができるというわけです」「なるほど・・・」 のび太の海底鬼岩城でしずかがバギーの独断(主人であるドラの許可なしにジャイアンスネ夫を数万kmの海底ドライブに連れ出した事)を「機械に善悪の判断はできない。命令したジャイアンスネ夫が事故の責任を負うべき」とスパッと判断を下したのはシンプルかつ強力で、当時も今も、いまのぼくにはりかいできない。バトンリレーを無視すれば鉄人兵団でリルルが助手を務めた博士は人間に絶望してロボットの世界を創造したのに、ロボットの倫理をロボットにまかせる暴挙に出る(ロボットが自殺をして人間の親友を助けるのは間違ってはいない。人間はゴミではない。悔やんで反省しろ)と、ジャイアンスネ夫が死にかけたのは無駄ではなかった話へと繋がるのは冗談ではないのだ。バギーやドラが人間社会から与えられた役割を全うして健全に機能を果たすのは刃物や調理器具により食材が調理されて美味しく嚙み砕かれ体内で消化吸収されていくことと似ている。人間より信頼される調理器具とか、皮肉にもほどがあるだろう。鉄人兵団では文字通りキッチンが反乱を起こして人間を調理するストーリー(もとより鉄人は人間より幸福になるために生まれてきているので、反乱などと呼称される道理すらない)であり、まあとにかくリルルを殺す気かとしか思えない。バギーと違い、リルルは単一作戦行動のためのワンオフ品で人類はとっくに絶滅している(銀河系人類とは別)。鉄人兵団の最終盤はドラえもんのタイムマシンが時を超え時空を超え歴史をも超えていく(何万パーセク跳んだのか)のですが、鉄人の創造主である博士もなんの準備もなしに少女二人と一機が歴史を変える大ジャンプをしてきたのには驚いたことでしょう。マンガ原作ではリルルが超長距離ワープを「かんたんよ」で済ませたのですが、普通に考えれば予行練習なしの一発勝負なので成功はしません。「むちゃよ」「ただし・・・」 小説『三体』の第2巻はすごく面白いらしいですよ。小さい文字を目で見て追うのは疲れそうなので、流行りの朗読本でも探してみるかな。NHKのFM放送でラジオドラマにして放送してくれるのが最善かつ最高だと思える。外国の小説原作でラジオドラマの名作というと・・・知らない。新生メカトピアではしずかリルルみくろす(?)の三体学説の中で「みくろすいらねぇ」と思っている学派は過半数に達するという噂がある。旧世界のメカトピアではジュドこそがリルルの相棒であり正統主流のロボだったのでその噂が流布されるのはある意味当然。そもそもジュドもミクロスもほぼほぼ脚本から抹殺されやすい存在(創造主の御心を覗くことはできない)なのでため息しかない。ジュドは肉体を強奪され脳を改造されて、メカトピア世界住人から見れば貴種流離譚として幸福な結末がないのなら火をつけるぞ(何に?)と決起してもおかしくない。ミクロスがリルルに蹴りを入れた件はうやむやのまま。リルルが根に持っている可能性は低い(と思われる)はずですが、仲直りの握手とミクロスをすっきりさせるためのフランケンシュタイナーをカマしてほしい。スネ夫は失神する。のび太のパパとママはスネ夫のび太を馬鹿にしている現場を見たとして、ドラえもんのように「おのれ、ゆるさん」と悪・即・斬と行動するかといえばしない。海底鬼岩城のはじまりでドラえもんが母親たちから絶大な信頼を得ていてドラえもんが当然という顔をしているのは、のび太が内心で冗談じゃないだろと思ったように、ドラの倫理は狂っているのです。単行本を1巻から読んでいればそんなことは自明ではあるのですが。人間だってそうで、どんな人間にも触ってはいけない場所があり、多かれ少なかれ狂っているので冗談だろうと思っても周りの顔色を見て行動するのは当然のことなのです。理想のラーメンと現実のラーメンが同じである可能性は限りなく低い。エルもリルルもその臨界点に突っ込むので「無礼な!!」「法廷ぶじょく罪で逮捕するぞ!!」「反逆だ!!」「バラバラに分解してくれる!!」周りの大人を激怒させてしまいます。タイムマシンで闇を切り裂くのは禁じ手で代替行動として考えられるのは…(ここでシャーロック・ホームズが脳裏をよぎるのは毒を猛毒で制するのと同じ)。過去の事象の再確認が最低条件ではあります。人生で絶対にありえないことが起きてしまうともう訂正はできない。有栖が原田と出会い心酔した2年間がコナン・ドイルシャーロック・ホームズシリーズを発表した1891年~1893年に匹敵する時間だったと思われるように。かえすがえすも娘にラーメンを食べさせた元夫、橋爪亮二(ゆとりの父)は情状酌量の余地のない被告人です。ようこが用意したフランス留学の料理学校でフレンチを学ばせ、帰国した後に日本で上流階級の社交場に汐見の料理ありとブイブイ言わせるはずがラーメン屋の店主に娘がなってしまうとは。これで捕まえた男が同僚の須田なら「——ピントのズレたボケボケの男のどこがよかったのかしら」と橋爪のいる前でようこは言う。ってそりゃわたしか・・・。社会正義の実現の自負。要するにようこ先生はプロレスでいえば完全無敵のベビーフェイス(正義のマグニートーと思いねえ)なので人間社会の活動を妨げる要素には悪も正義もないのだ。武田のオヤジとカチ合うと皮肉がすべて誉め言葉として受け取られかねない、大は小を兼ねる、さすがゆとりちゃんの母ちゃんはいいコト言うぜっ! 発電所が各家庭のコンセントの電圧を管理しているかといえば、そんなことはない。組織末端までの大ざっぱな把握と組織の方向性の管理、ようこは各家庭の台所事情を把握し、食を制することで成り上がろうと画策(言い方はあれですが、時間短縮、栄養管理、余暇の生成、家庭団らん、と本当にチャンとしている)した傑物なのです。食事の内容までは面倒を見切れても頭の中までは知らない。自分の手で食材を調理して口の中に料理した食材を入れて咀嚼して飲み込む。まさかその過程を人のせいにするあんぽんたんはこの世にはいないはずです。『ふつうの軽音部』(原作:クワハリ 漫画:出内テツオ)の第62話「起き上がりまた進む」をジャンププラスで読みました。読んで一晩寝て起きて思ったことは、鷹見は七転八倒して高みを目指すタイプが好きなんだなということです。ここで鷹見が本当にしょーもないのは、演奏者の価値は仲間内で裁定してはならない、身内に甘いのは恥ずべきことだ、自分にダメだししてくる人間(自分ごときを理解ってるくらいでは鷹見は満足できない)がとても大好きだという拗らせ変人である、点です。はとっちは自分で勝手に転んで勝手に起き上がり勝手に怒っているからおもろい、と鷹見は思っている可能性があります。そして鳩野本人に言います。鳩野はキレます。好きになってくれる人を大事にできない奴は反省しろっ。え?言行一致が求められるはずだ? 男女関係で? バンドをやりながら? 高校生活で? バンド内不和は許さんと? そうだッ いや~攻撃的やわ はとっち 内田さんのことどう思ってる? 遠野はいい奴だと思わない? おれは二人とも尊敬しているよ。はとっちは内田さんにきちんと感謝している? おれは遠野に感謝している。(ジョジョではアウトローは必ず荒野で死体となり白骨化して死骸を晒す、という掟があり、どんなに善人でもその運命から逃れることはできない。ジャイロは遺体を父親の下へジョニィが送り届けてくれたが、それは例外中の例外であり、そんな僥倖は神にでも愛されていなければ起きない。日本で暮らしていると魚に骨があることを忘れるくらい、そんなことまで忘れてしまう遠野と内田桃は周囲のレベルが低い環境でのバンド活動に一家言あり、それはバンドリーダーとしての責任をどう果たすか、はーとぶれいくのような部活動お遊びバンドとprotocol.のような小学校からバンド活動をしているレベルのバンドが共存?する可能性を模索している。・・・というのは嘘で鷹見と鳩野のいざこざにバンドが巻き込まれただけだが。つまり内田桃は鳩野が買ったケンカにノシつけて遠野にプレゼントしただけ。本気でやれや。負けた時のいいわけ考えてるなら私らが勝つからハンカチでも用意しとけと無駄に戦闘意欲が高い。藤井彩目から見た「いい人」は近視眼的ではありますが内田桃、その人です。ただまあ、遠野も本当に余計なことを何も言わないドラムが恋人なのかこいつ?という謎人物で、よい音楽を演奏するために努力を惜しまない(よい演奏をすると「よかったぞ」と褒める。聞かないとどこがよかったかは説明しない。おそらく藤井彩目のギター人生でもっとも演奏しやすいドラマー)好人物ではある、はず。遠野の恋路の最善ルートは藤井彩目に相談することで間違いない。たぶんいいヤツ。カキフライエフェクトが邪魔だな…。グリーンデイってだれ? たぶん、はーとぶれいくの演奏前に田口と遠野が雑談をしていたのはグリーンデイがらみなのでしょうが、4人バンドと3人バンドの違いとはなんなのか。3人バンドのほうが実力がモロに出てしまうのでは・・・。カッキー、おまえら大丈夫か。あ、ブッキングした。カキフライがカキのフライだと誰がいったんだー。遠野から見れば、鳩野周辺のわちゃわちゃは高校生活の思い出作りをしてるんだろ・・・くらいの認識でしかない。特に同じバンドメンバーだった藤井の去就は考えれば考えるほど行動原理が謎すぎて意味がわからない。基本遠野の行動原理はバンドの完成度を上げることなので、神の降臨とか、ライバルバンドへの復讐とか、ゴリラはおとなしいけど本気をだしたら無敵なんだとか、到底理解できないし、する必要がない。聞く必要もない。チャド・スミスはそんなことはしない(はずだ・・・)。チャド・スミスの音楽性ってなんなんだ。レビューサイトでチャドの情報を漁るとレッチリメンバーの主張をまとめあげられるのは彼しかいない、繊細さと引き出しの多さであらゆる我儘にも対応できると、チャド・スミスは苦労性で真面目な大男らしいですよ。インディーズ時代の苦労話とメジャーへの希求は鷹見の兄が一身に背負う音楽の負の側面ですが、はとっちは将来に苦労話が漂っているとまず破壊活動に入るGGH(ぐれーとごっどはとっち)女なので鷹見は彼女を見ていて飽きないのでしょう。はとっちはメンバーの痴話話に全介入する気なのでしょうか。イギリスのロックバンドはクズしかいないが、アメリカはどうなんだ(偏見)。遠野の内田への慕情は、内田は恋愛感情はなくてもいい人生を送りたい、音楽に恋愛は必要か?自己の内面ではなく外側の環境からくるストレスへの意見表明となっているので、逆に言えばストレスのない環境下での内田の音楽性は魅力を失う可能性がある・・・え?遠野が内田にオラついているほうが内田の魅力は輝くの・・・か。ボーカルは花形だが屋台骨ではない。遠野は厘から神の世にいらざる夾雑物扱いされる可能性もある。もちろん理解不能な言動なので遠野は無視する。ガールズバンドの一般受けはふつうの軽音部の最初の最初の方でなにかいっていたような気が・・・。楽器とボーカルのバランス問題も遠野がはっきりと鷹見に意見する日がくるはず。もっとまわりを使って表現したらどうだ…。内田が自身を世の中の異物だから順当に考えて悪いのは私、と自分を納得させていた事件は、はとっちを神と奉じる団体の責任者である厘からすると背教者として処罰対象にもなる事件ではありました。みんなが望むお行儀のよいガールズバンドは、はとっちをボーカルに据えるバンドからすると存在の眩しさが痛し痒しであり、自分たちがメジャーになれるかというとしゃらくせえ美的センスは破壊する必要がある。目的があっての行動なわけです。イギリスの女性ロックバンド・・・。はとっちは自分の声で世界を変えたいという欲望を努力で達成する女(歌とギタークソうま女たらしクソ野郎が跋扈する世界を改革する)。鷹見がヨンス(田端)のことが割と好き、らしいことと、内田がろくに練習しないでダベってダラダラしてる軽音部の仲間のことが好きなことは遠野が鷹見と軽音部に抱いている疑問とたぶん繋がっていて、いってしまえばメジャー志向とマイナーの関係性、パン屋でいえばお店で売っているパンと自分で焼いたパンどちらが美味しいか問題、いい竈があればよりパンはより美味しく焼けるの~?と無駄に道具にお金をかけたがる問題(知らんで書いてる)と、ドラマーは必要に周りを見ているから音楽性とどこで演奏するかを考えてしまうのだろう。音楽もパンもある一定のラインまで上達していれば、現状以上のコストをかけることは自己満足に過ぎない。カタログを並べて見て満足するタイプ。好きなことに理由がいるのか?殺したくない相手を自由に殺さなくていい権利。そんな自由はない。狙いうち…。鳩野の文化祭中庭リサイタル事件のページは羞恥のあまり正視できなかったのですが、初めて読んでみるとかっこよかった兄貴がただのイカれたバンド野郎だったことが鷹見に露見した事件でもあったようで・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。くだらんプライドとやらで他人や家族に迷惑をかける(誰と仲良くするとか仲良くしないとか、好き嫌いの話でなければ、あとはプライドの話となる)のは本当にくだらない。大人になれば実利の話も当然入ってきますが、高校生や無職に等しいバンドマンの人間関係なんて全財産を騙し取られても七千円くらいだろう。アップデート堀井もそう言っている()。単行本3巻のヒキは、あれはあれでゴミのように捨てられた男が何事もなかったかのように軽音部に帰ってきているので、地味にヨンスは凄い。ふつうゴミのように捨てられたらゴミ以下の人間として捨てた相手を認識するのが自己防衛として普通ではなかろうか。厘のふつうではない鳩野への憧憬は、わたしを含むすべての人は社会を構成する部品の一つ、ただの歯車かネジでしかないが、はとちゃんは違う(じゃあ何なのか)。鷹見君も己を自覚するべきだ。歯車に感傷なんて必要がないということに。ここで唐突にジョジョをぶっこむと、ドラマーである内田桃がバンドの演奏とボーカルの歌声に一体感を感じて『カッチリ噛み合う』と表現したのはザ・ワールドっぽいのね。はとっちのなにが特別なのかといえば、時止めを行うことができる、任意ではもちろんないにせよ時止めを周囲に発生させつつその歌声を聞いた者に内省を促し感傷によって己の過ちを自覚させる。人間社会に感傷は必要ない。鳩野が父親に「お酒ばっかり飲んで仕事もしないでお母さんを悲しませてわたしの誕生日にケーキを買ってくるなんていい加減にして」と歯車の自覚はないのかと冷たい言葉を投げかけているが、極論すれば人間は役割を引き受けて演じている生き物なのだから、歯車でない人間は正真正銘のただのクズと見て間違いはない。・・・いや、極論が過ぎる。読んで不快になった方には大変申し訳ありません。ただ、マンガとしてはとっちがヒーローしているのは、どん底歯車人生を満喫している父親がいてこそ、なのだとはいえます。ヨンスのストロングポイントは女性に声をかけて全力で気味悪がられて走って逃げられ、歯車がボロボロに欠ける経験をしても自然回復を待ち、普段と同じように生活できる図太さにあります。ただーし!そもそもの原因が同じバンド内での男3女1(ドラムは時の人かっきーこと柿田駿)(ベースはサポートの田口)(あとの二人がヨンスと吉田)の環境で、全然楽しそうじゃない吉田を誰も気遣わないせいで厘に目をつけられ、その厘に積極的なアタックを繰り返すヨンスが文化祭前につい、かっきーに告白して玉砕した吉田をみつけて同じバンドのメンバーとして放ってはおけないと声をかけたことが理由なのですから・・・。いや、別にヨンスは悪くないな…。私は騙されていたのかもしれない。内田桃は暗躍する厘には思うところがあり、ヨンスのピエロぶりを知ればきっと同情をするし、打たれ強い人を内田は無条件で尊敬する男気があるのでヨンスと内田は意外と気が合うのではないか。基本ヨンスはなめられていても本気でまったく動じない、自分の良さを信じて行動できる、すぐ調子に乗っちゃうところもひとつの長所というか・・・。あと仲間からのダメ出しを素直に聞く度量もあるので、人の上に立つ資質を多く持っている、、、? 厘を100%受け入れることができる資質は内田を驚愕させるだろうし、男女分け隔てなく、仲良く騒ぐことができるのは(誰かが手綱を握りさえすれば)部長として理想的かもしれない。女どうしのドロドロ修羅場もヨンスがいると逆触媒として有効に働く可能性がある。天性の打たれ強さがボコボコにしても耐えてくれるのでないか(ない)と心理的負担の軽さにつながるはずだ。内田とジャイロの共通項である「他者に過去の自己を見て覚悟を決める」のは、内田は女子の恋愛事情(傷つかずに成就)であり、ジャイロはカトリックの教え(神の運命に殉じる)。それらに背を向けて独立を目指すのは、どマイナーへの道すなわち道なき荒野です。前者はヨンスがほぼほぼ体現している気がしなくもない。あいつ恥を恥と思わない(はとっちが恐怖したオタクの悪ノリは相当恥ずかしいらしい)からな。軽音部内片思いランキングで上位に位置していた亀屋算(現副部長)→喜田(イケメン)の成就はならなかったのですが、そんなことよりも長谷です。軽音部男子の特徴である軽くて薄いを3年が引退した直後の2年生という絶対的地理条件を彼が手に入れた今、長谷は無敵です。算は自分で他人の欲望をコントロールするというカイジの大槻みたいなことをやるはめになる、可能性がある。この世に男の欲望の種は尽きまじ。女性ロックバンドの成立の難しさ、見世物ではない自己表現は時と場合がカチ合うと命懸けになる。内田が見た傷つきたくない、という思いはどうしてみんな子供みたいなことを言っているのかさっぱりわからないと先祖返りを起こす事がある。しかし本当に喜田はイケメンだな。性カス結成の経緯ですが、かなりイケてるな・・・!(俺がおかしいのか・・・?) 原作カイジのシゴロ賽の場面をはじめて読んでみたのですが、アニメ版カイジしか見ていなかったので帝愛グループNo.2黒崎が大槻をきちんと評価していたのには驚きました。負け過ぎずに勝ちを大量に拾いきる作戦、大槻とやら、見事だ、感服したぞ…。まあ、詰めが甘かったがな。ピンゾロ対策を怠った報いは天運で挽回してみろ。わたしが見届けよう。ここだけ見ると裁定者として非の打ち所のない清廉な人物であると思えます。ピンゾロ対策に言及しているのは本当に驚きで、カイジにも大槻にも、ある種の敬意を持って黒崎は接しています。パチンコ編でクルーンの不備(正しい計測をしていない)をカイジに衝かれるのも黒崎は黙って見届けるのでしょうか。バカッ! 救いようのない大バカッ! おそらく黒崎が接待パチンコで人喰い沼を打っていれば、当然のように機械による休みなしの計測をするように指示を出したと思われます。当然過ぎるくらい当然なので、前任の利根川の評価が地に落ちたでしょう。法の届かない場所でも重力はあるだろう?利根川は宇宙にでもいたのかと皮肉抜きで心配したのではないでしょうか。そんなまさか、な…。カイジくん、きみはバカか利口かわからん男だな。・・・・・・・・・・まずい。黒崎にパワハラされたら周りに自慢したくなりそう。実写版カイジで黒崎は登場しているのか、いないのか。当然のように帝愛グループを大きくさせそうで大変によろしくない。大槻にあれだけバランスを持って接しているのは肌が粟立つほど恐ろしい。どうかしている。世間はおまえたちのお母さんではない。米澤穂信氷菓』もアニメだけを見て小説は読んでいないのすが、マヤカ(摩耶花)の存在は小説を読むと印象ががらりと変わりそうです。アニメ版を見てほんのちょっとだけ不快に感じたのは青少年の自意識をグッチャグチャにかき回すホータローの姉、折木供恵(おれき ともえ)です。都合のよすぎる性格最悪のワトソンとしてホームズ折木奉太郎を幸せな地獄に叩き込みます。うひょー青少年の生き血は新鮮でほかほかして最高だぜェ~ たぶんタイマンに持ち込んでもふざけろと言いたくなるほど強いでしょうね。おまえの徒名は兵藤和尊だ…。それを言うならワシズだっつーの・・・。ノーマージャン、ノーライフ。折木家には正月用の麻雀セットが棚の奥に眠っていそうだ。奉太郎にソフトアンドウェットをもたせたらすげー楽しそう。姉の報復が怖いが。クドリャフカの順番も折木供恵による他者報復の援護射撃(誰も頼んでいない)だったような…。なんでそんなことするんですか? 古典部にホータローが入るきっかけも姉の介入あっての話だったはずで、まあ、すべての謎を解け、という供恵の策略だよなあ・・・。主観と客観は大人になれば常識でも高校生には自意識の問題で認められない場合もある。トリックの謎解きが「全員が狂人だった」からロジックが成立していなかった、となれば、最初からルールなど設定されていなかったとなるのでノーカンとなりますが、黒幕が狂っていたとなるとすべての行動に合理性が生まれる。いやいや。いやいや・・・。神山高校の古参の教師で折木供恵を知らない者はいないだろう。パンドラボックス、メヒョウ、アナザーワン、いたけどいない生徒扱い。奉太郎としては、姉を知れば知るほど(なあ姉貴よ、あんたはだれかに気を遣ってもらったことが本当にあったのか? 社会は契約関係でのみ成立していると思ってはいやしなかったか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まさかおれに経験できなかった青春を履行させようとしてはいないか。)名作は読めば必ずどんな人の心にも届く、とすれば、駄作は必ずゴミとして人の俎上に上がる理屈になる、でしょ? 名作に出会い、相対するときに駄作の心配をするのは傲慢なんじゃない、イバラ。・・・イバラは作品を全身全霊で感じて読むべしと滝行でもしている気分でマンガを読んでいるので、まあ、先輩からすれば、死んだらどうするの?と意地悪な質問をしたくはなるでしょう。人の心がわからないやつはカスだ、というのは、はとっち⇔たかみーの根源的ゲラゲラ(馬鹿を馬鹿にして笑う。そんなことをするやつは人間ではない。やってやるぞ鷹見ィ~)そのもの。鳩野の思ういい人は鳩野の主観から見たいい人で、鷹見は鳩野の主観から見ていい人ではない。自分と同じギターを使っている鳩野に鷹見が興味を持ったのがきっかけで、鷹見が鳩野を主観で見ているかというと正直よくわからない。セミの幼虫は見ていた。ヨンス・吉田事件での吉田から見たヨンス像は多分に硬直した主観のフィルターを通して見ていたわけで、はとっちから見た鷹見像も十分にその可能性がある。その辺はモヤモヤしますね…。シャーロック・ホームズシリーズは読むに値しない凡作、いや駄作であると、なぜかこちらを見てアホなことを言っている人間がいたとして、それは国語が苦手な人が世の中にはいるのだ…いや、翻訳が信じられないレベルで個性的な本にたまたま出会ってしまった人なのかもしれないと、いやいや、コナン・ドイルの原作を英語でそのまま読んで、なんだよ時間の無駄だったと言っている可能性だってある。つまり無視するに限る。辿り着くところはフェアとはなにか?風刺とはなにか?人間とはなにか?と超メンドクサイ人間の肥やしにされる恐れがある。殴ろう。吉田がいうヨンスのすべてが無理。特に女子を見ている目は一般人でもタイホできるレベル(言ってない)だというのは、フェアと風刺と人間との三合合体を果たしているので強力。吉田に動じないヨンスは聖人と呼ばれていい。出番が待たれているアップデート堀井もただ者ではない雰囲気を感じます。鳩野の親友、矢賀緑が強く推しているので、きっと善性あふれる人物なのでしょう。鎌倉殿の13人もほぼまったく視聴していないのですが、矢賀と鳩野が絶賛する義時と仲章を見届けるために録画が溜まっているHDDを漁ってみるか・・・。この世は弱肉強食。食われるヤツが弱い。弥勒菩薩のご威光にひれ伏すがよい…。ほんのちょっぴりだけ鎌倉殿は見ていたはずで、頼朝が頼りなく、山本耕史がひたすら怒っていた印象。感謝返しという概念が鎌倉殿ほど意味不明な話もない。東国武士が全力で勝ち馬に乗る話だと思ったので胸やけしそうだから早々に視聴を切ったと記憶しています。自分より人格者で勢力が強い人に仕事をしてもらえばいいのでは・・・。え?勢力が強い人は人格者ではない? 胸やけするねぇ…。荘園管理の権限が権力に直結していたご時世、楽しみといえば他人の土地を自分のモノにすることと一族の勢力を大きくすること。つまりは鎌倉殿でのテロルに勝ち抜くことが人生の喜びなのだ。いやすぎる…。『虎に翼』で寅子が新潟地家裁三条支部に赴任した昭和27年の春は、明治時代の地租改正から戦後の市町村税の導入と、土地の管理権限が目まぐるしく変化した時代でもあったのですね。千反田家も例外なく大激動を経験しているはずです。奉太郎の鈍感さ、人の良さがかえって人の悪意を集める(人間関係の機微を見ていないと、なんとなくで決まっている多数決に異を唱えてしまう場面が小学校、中学校で発生するものだ…)のと、千反田えるが家の事情で周囲の人々の明文化されていない動きに敏感、かつシステムの一員であろうとする覚悟を幼少の頃から身につけているのはとても対称的です。通称、通り名なんてものはその最たるもので、文化の違う場所へ移動する時は細心の注意が必要です。もめ事には巻き込まれたくないものです。イバラはあまりにも境界線にモヤモヤする少女なので見ていてはらはらします。折木はバカ。高校を卒業すると無職の人生を皆が選択して歩むわけではない。手に職をつけるのなら、なるべく競争が少なくてすぐに現金化ができて一年を通して安定している技能がいい。勝てばすべてが手に入ると勘違いをするとろくなことにならない。勝利条件にケチをつけるのが探偵です。退役軍人で美人の奥さんがいて医者、と。できるものなら誰だってワトソンになりたい。ホームズが両手をわきわきさせている根源的恐怖に打ち勝てる強靭な精神の持ち主であることが必須条件です。まぁ、へっちゃらなのがワトソンですよ。シャーロック・ホームズシリーズでホームズに買収を持ちかける人物がいたかというと・・・いましたかね。ホームズはどんなに金欠でも謎の解明、真実への追求を切り売りしない(上流社会から謎の信頼があるのはホームズが札束で頬を殴ってもビクともしない変人だからいうのもある)人物で、ある種の恐怖と畏怖をホームズが体現しているのは人の世の価値基準で彼が行動していないからです。ホームズの常識は世間の非常識。生きていけるはずがないのだから、存在が恐怖であるのは筋が通る理屈です。イギリスではスポーツの野球は根付いていないと聞きますが、グラナダ版のドラマを視聴して私がもやもやしているのが第4話『美しき自転車乗り』であり、なんとなく畏れを感じているのが第5話『まがった男』です。4話の脚色はアラン・プレイター、監督はポール・アネット。5話の脚色はアルフレッド・ショウネシー、監督はアラン・グリントです。5話のドラマ構成は原作小説を読んでから視聴するといろいろと面食らいます。誰もが知る妻帯者ワトソンが実は独身だったとなんの説明もなしにはじまるので「知らないホームズがはじまった⁉」と椅子から腰を浮かしそうになりますし、深夜の友人宅にアポなしでやってくるはずのハイテンション探偵が終始不機嫌で嫌味たらたらに軍のスキャンダル事件の解決に手を貸す(世間ではバークレイ大佐は痴情のもつれから死んだのではと噂されている)話へと脚色されているので、どちらが本当のホームズなんだと外野で騒いでいる野次馬のわたしはウキウキして導入部を見ていました。4話、5話、と事件の核心は美女と金と地位をめぐる争いなのですが、ホームズは解けない謎に出会うと機嫌がよくなりますが、謎が解き明かされると途端に興味を失います。ジェレミー・ブレッドのホームズはWHY(なぜ)には最初からあまり感心がなく、HOW(どのように)が解き明かされると、WHAT(なにを)したかは警察と裁判所の仕事だと事件から身を引きます。なぜ、に興味がないので事件関係者たちの心の機微には冷笑をもって答えているようにもみえます。本当に興味がないので愛想笑いをして礼儀を示している可能性もあります。悲劇でも喜劇でもどっちでもいいと本気で思っているのなら、ワトソンを連れて劇場に足を運んだりはしないでしょう。人間が人間の真似事をしているのを大勢で見ることにどんな意味があるんだ?と真顔で聞かれたら、なんて答えればいいのか。『赤毛組合』事件で主犯のジョン・クレイをホームズは高く評価しているのですが、その流れでいうと『まがった男』事件の主犯格であるバークレイは(上流社会へ妻が自分をエスコートしてくれたことへの感謝と疑惑と劣等感に塗れた人物ではありますが)戦地で部隊が孤立し全滅の恐れがある中、自身の出世と欲望の成就を賭けて、すべてを投げ打って賭けに出ているあたりがホームズの関心をひく人物であるかもしれない・・・・・・・いや、意外とその辺にいるチンピラと大差ない気がしてきた。ユーモアのセンスが致命的に欠けている、張りぼてのクマさん人形と同僚から揶揄されていてもジョークで返せるほどの余裕がなさそうなんですよね、バークレイ大佐は。歌わずにいられないから歌う。飲まずにいられないから飲む。兵隊酒場でのワトソンとホームズ、デビッド・バークとジェレミー・ブレットが、ニコニコとムッツリで対照的なんですよね。とにかく男の欲望と弱音をぶっちゃけてよい(掃き溜めだから)酒場は飯炊き女にチップを渡せば一晩の逢瀬も楽しめるといいこと尽くめです。ワトソンも若い頃はお盛んだったそうで、匂い、喧噪、酔った笑い声に世間話に痴話げんかと、体力の余っていた頃を思い出したのでしょう。ボヘミアの醜聞を思い出すとワトソンがホームズの私的空間には立ち入らない男なのだと実感します。4話『美しき自転車乗り』ではワトソンの無能ぶりを扱き下ろすホームズがムカつくのなんの、おまえは一生出禁だボケがとホームズを見てて思いました。もう一度見よう。ホームズの一好事家としてどこまでも探索に乗り出す姿は見ていて本当に痛快なのですが、それもこれもデビッド・バーク演じるワトソンが一緒にいてくれるから楽しいのであって、ホームズだけで事件の捜索に出ていたらDVDの再生を止めますね。・・・歌唱力があっても客を馬鹿にする歌手は人間として尊敬することはできません。これもどれもなにもかも、イギリスでのジェントルマンの概念が強く人々に影響しているからです。アメリカで成功した成金でも、インド帝国で一旗揚げて帰国した地主や資本家たちも、本国での成功体験を夢見て一生懸命努力しているからこその大英帝国(真のジェントルマンによる治世)なわけです。ホームズが貴族やロンドン警視庁からの依頼を諮問して事件を解決するスタイルは、ジェントルマンが不労所得者であること、労働は卑しい行為(金を如才なく集める人間は低俗)だとする上流社会の常識に沿った、奇跡的なバランスで成り立っているように見えます。ホームズ(弟)は兄のマイクロフトにどんな顔をして会っているのでしょう。土地に立脚しているという点で、騎士と武士は似ているのですが、鎌倉時代末期のように王と貴族と騎士たちでぐっちゃぐちゃの乱世をイギリスでも繰り広げていたのでしょうか。産業革命と植民地支配、世界の金融都市ロンドンと国の外にステージが移行しているようにも思えます。コナン・ドイルから見て、そこにロマンはなかったのでしょう(ドイルの中でホームズシリーズ事実上の最終回である『最後の事件』の前日譚、『海軍条約事件』でホームズを褒めちぎり、ワトソンを万感胸に迫らせてペンを走らせていたドイルは確かな興奮状態であったのだと推測される…)。ジェントルマンは危険を顧みない。イギリスの少年向け偉人伝でネット検索するとエドワード・ジェンナーの名前が出てきます。バークレイの名がここで出てくるのでちょっと感動。イギリスに旅行に行く機会があれば、バークレイのエドワード・ジェンナー資料館を見学しよう。医師仲間で天然痘の種痘接種を広げていった過程はドラマか映画で見ることができるのだろうか。ジェンナーの恩師、ジョン・ハンターはド偉い変人だったようで、ジェンナーが記述したジョン・ハンター伝(活字化していない箇所も含む)があれば必ず読みたい。しかしSBRのジャイロはジョニィをリンゴォに半殺しにされた後で父親の幻影から「レースを辞退して帰ってこい!」と言われてるのスゴイな…。内田桃と遠野は悲劇的な破局(つき合ってすらない)を迎えそう。彩目から見ると「人の話をなにも聞かないくせに人の気持ちに寄り添おうとする変人」なので、いや、破局するのが当然か・・・。遠野の「もっと高いステージで(俺たちは活躍できる)」と内田の「情けない自分を大切にしながら(はとっちの光り輝く姿を送り届けたい)」では、どこになにを、で、一番大切な者は何かで、徹底的に破局しそう。この『対応者』め・・・汚らわしいぞッ!(どう考えても汚らわしいのはリンゴォである。)リンゴォの声は速水奨がよい。しげちーの声は山口勝平。速水との共演作はあったのか・・・。内田桃は川澄綾子で遠野は神谷浩史。徹底的に嫌われてほしいものだ。ジャイロが父親から嫌われていたなんてことは天地が逆さまになったとしてもない。父と息子はSBRでは分かちがたく、父と娘はスティールが命に代えて父親から奪い守り抜くと有言実行をしている。ジョニィはとんだピエロだよ。地球の裏の裏の裏の裏まで、移動できると自分を信じられるのは愚者だけ。結局同じ場所じゃんよと言ってはいけない。時間が永遠に与えられているのなら永遠にゲームをしているかもしれない。ヒーローは自身を高みに連れていく存在ではない。ホームズがそうであるように、ロマンを暴くのは猛獣の仕事だ。社会性などあるはずがない。・・・・・・・・・マイクロフトがイギリス政界でどれだけ顔が利いたのか、想像すると怖いくらいです。余裕がある状態でなければ演出をすることはできない。野生のパンダが絶滅しないで生きながらえたのは、ひとえに偏食の結果、他者の食い物にされなかったからで、生き残ったからといって特別賢い生き物であったとはいえない。遠野が内田に(キモい男だと思われてはならないと)生存戦略を練っているようにです。リンゴォが自身の生まれ持つ虚弱性と決別したのが公正なる果たし合いの結果の報酬だと信じている、どんな人間も急所に銃弾が当たれば死ぬ、その普遍性が神のいない世界の真実だとリンゴォは看破しマンダムの能力を駆使することでその普遍性の高み『光の道』『輝ける道』を進む。男なら誰しもそう生きたいと願うはずだから、です。 『マウンテン・ティム』はよォォ~~西部の男たちから尊敬されてイケメンで女にモテて馬から敬意を払われ保安官たちからは信任の厚い伝説のカウボーイとか、盛りすぎなんだよォォッ!! わたしが帰る場所にいるただひとりの女性はあなただ…… 遠野ッ 見習えッ 口が裂けても言えんぞこんな台詞。ヨンスの気持ちがよくわかる。女性陣に爆笑してもらえるだけで、ベッドの上で死ねなくても満足さ・・・。『納得するかしないかは己の中にある可変三角形(内角の和が180度にならない瞬間もある)に委ねる』、『対応者』……リンゴォを指針とすると「吉良吉影は汚らわしい」という命題(「素晴らしい町だ杜王町」と対になっている)とどう相対するかを問われる。なにもかもまっさらにしたい。リンゴォが「このオレを『殺し』にかかってほしいからだ」となにもかも正直に告白している(社会性はない)いや、脅迫しているのは、関わり合いにならなければよいだけの話ではある。呪術廻戦でいうところの「はじめ」に領域があるタイプの術式はジョジョ4部の小林玉美(20)のようにあとからいくらでも応用がきく。読み直してみると玉美のスタンド『ザ・ロック』は「社会のルールってもんだぜェ~~っ」と日車と同じようなこと言ってますな。日車は過去の判例と法は時代と場所でどこまで効果が及ぶのかを延々と吟味してから判決を出す(勝手に出る)のですが、玉美は「場のルールを当事者で決め、それを遵守させ」て破った場合は罰を与える、と宿儺への特効(長い さっさと終わらせろ)が刺さりやすい。ペナルティの種類も増やせたら超楽しそう。錠前はスタンド使いにしか見えないので嫌がらせに特化すれば七色の錠前を作れそう。暴力が嫌い、という玉美の魂(金は好きだが)が暴力による無法地帯にルールを敷くのは道理にかなう。多人数の同意によるスタンドパワーの補強もできるとあれば戦局すら左右できる。暴力が嫌いだから嫌がらせ特化であるにしてもね。遠隔で書き込めるヘブンズ・ドアーみたい。好きで好きでたまらないものをキライキライにできるかは露伴の魂の問題なのでまずできない。遠隔不特定多数爆殺(キラークイーン)も「穏やかに暮らしたい」という吉良の核心から外れているので無理かな…。衝動殺人は「高貴で犯しがたく人知れずにわたしだけが知って」いるのが醍醐味であろうから。下品(品がない)で無知(恥知らず)なのは無理(親の顔が見たい)。無理難題とは吉良吉影、おまえのことだよ・・・。魂とプライドの話となると6部までは法と罪と罰が黄金の精神を下支えしていたが、7部からは法よりも自己の魂の決定(ブチャラティの魂は父への愛と父系社会で引き裂かれた)、タフに生きることが重要視されている。僕のパパはパパじゃない。『虎に翼』の最終話の一話前の話で、寅子が桂場に「法律とは船のようなもの」と持論を話すと、最高裁判所長官であった桂場は「私は今でも ご婦人が法律を学ぶことも 職にすることも反対だ」と持論で返すのですが、桂場は酒を飲んで気の許す友と法律を語らえる機会はほぼ皆無な人生を送ってきたのですが、寅子と穂高には別格で気を許していたのです。桂場をべろんべろんに酔わせてから「法律とは船のようなものですね桂場さん?」と聞けば、『違うっッ!!!!』と絶叫すると思うのですよね、桂場は。寅子の母はると桂場はある種の同志なので、地獄の釜の中で人生を謳歌するのは本当に楽しいのか?と(自分の身は度外視して)常に疑問を抱えている。地獄の釜の外は四方八方が火炎の大海なので釜の中で生きるしかないのだが、じゃあ釜を船に見立て、船の中で人間社会を作ろうではないかと模索すると必然的に船の中と外を意識しなくてはならない。穂高と寅子が共謀して桂場を酔わせようとするのは、まず寅子が「悪趣味ですよ穂高先生」とクギを刺すはずなのでハードルが高い。なのでまずは穂高が寅子を酔わせようするのが基本戦術となる。すると男二人と若い女一人の構図なので寅子は警戒するが、そこは桂場が「先生からの酌を断るのは無礼だ」と佐田寅子をたしなめるので地獄への釜の口が開くという寸法だ。寅子が桂場の本音を聞きたいのは確実なので、穂高からすると共犯者を容易に用意できる完全犯罪の舞台は整うのだ。きれいよなぜおまえはじしんのよくぼうにしょうじきにならないのだ。法律が自己と他者を不幸にする、世の中も混乱し大勢の無辜の民を救えもしないのなら存在自体が悪だ。日本の場合は欧米列強国に日本が近代国家であると知らしめるための方便として法学が始まっている側面がある。なくてもよいが、あったほうが都合がよかった。音楽も似た所がある。往々にして外部からの刺激による人為的な操作での感情の高まりは気持ちがよいものだが、その高まりが引いた後には虚脱や虚無が待ち受けているものだ。歌手がお客に敬意を持てなくなったら(自己の肥大化した虚栄心にプライドが喰い尽くされたら)速やかに舞台から降りるべきだ。もう仲間たちも誰も残ってはいないだろう。『ふつうの軽音部』ではヨンスが謎のプライドを持っていてヨンス⇔かっきーは互いに尊敬し影響しあう関係で、見ていてとても微笑ましい。ラチッタデッラ初代メンバーは伊達じゃない。すぐに解散したけどね。定期的な現金収入の大切さ、勤め人と自営業者の最大の違いは定期的な給与のあるなしであり、鷹見の兄が路頭に迷うのも生活する手段が音楽では得られない、地元で就職する甲斐性もなかったから・・・。おそらくコピーバンドとして地元で名前が知られるようになり、次の段階としてオリジナル曲を作りライブ公開したところでファン離れを経験し、バンド内不和により解散する憂き目に鷹見(兄)はあっているのではないか。弟の方の鷹見はコミック1巻ではとっちから「不吉なオーラがただよう」と酷い形容をされていますが、その大元の原因はオーディエンスへの不信があるからではないでしょうか。口にしないだけでこの世でただ一人、はとっちの自意識過剰アニマルを鷹見は視認できているかもしれません。鷹だけに。バンドマンと結婚してあらゆる辛酸を舐めたのは鳩野の母親です。椎名林檎のファンなのだそうです。紅白でたまに見る歌手ですね椎名林檎。地元ラジオで曲が流れたことはわたしが知るかぎりではないです。鳩野たちが住む地域のFMラジオ局ではどんな楽曲を紹介する番組が放送されているのでしょう。女性歌手といえば天童よしみ・・・から紅白出場回数を検索すると、業界と視聴者たちの恩讐入り乱れる三面ネット記事が出て来て複雑な気分になりました。——ジョジョ6部ストーンオーシャンを読んでもいい機会がやってきた感じです。他者スタンドを引っこ抜くスタンド、かつ他者に装着できるスタンド(もはやスタンド本体から離れて別個の存在と化している)はいくらなんでもないだろうと拒絶していたのですが、アリかもしれない。プライドを根元からへし折るといえばダービー(兄)とホット・パンツ(聖職に就くまえ)ですか…。『ふつうの軽音部』では、鷹見のことを表面でしか見てない彩目は根元からプライドをバッキバキにへし折られるリスクがかつてなく高まっている。自信がなく他者からよく見られたい(悪魔)のはありふれた欲望ですが、欲望の充足を他者からの羨望に賭けるのは悪手なのよ。アニメ『氷菓』でホータローが女帝入須から味わされた苦味は純粋培養自家焙煎でさぞ美味しかったことだろう。苦虫を嚙み潰したようとは漫研の内紛に巻き込まれたマヤカ(アニメ化はされていない)のことだ。一定程度以上の実力…上澄みの一割とまでいっていいド変人なのに人が好いのは、マヤカとホータローは似た者同士のたいへんなお人好しだといえるだろう。省エネ主義は人を顎で使う(もちろんイリスのように社会的信用を得られる形で行う)パターンを複数用意することで効用が発揮される。最初から折木奉太郎は間違っていたのだ。古典部シリーズの短編集、「いまさら翼といわれても」は読んだあとにじわじわと面白さがやってくる。やってきている。まだ短編の一作である「長い休日」は未読なのでとても楽しみだ。しかし神山高校の漫研はおよそ男がいていいような雰囲気ではない。死ぬほど空気が読めない人間でもないかぎり、男子が在籍しようとは思わないだろう。ホテルのケーキバイキングに男ひとりで参加する福部里志を思いねえ。ふつうにいそう。80点以上は必ず獲る。神高カンヤ祭は無料、若しくは負債を抱えさせられた場合の身の処し方をやんわりと警告してくる。相手が善人なら世の常識や人情に訴えれば相手はこちらの好きなように踊ってくれるはずだ。大切なことは、あなたとわたしは同じ多数派に所属する人間だと理解してもらったあとで、「期待」していると伝えることだ。福部里志がなによりも、かの高名なネルソン提督だって「期待する」とは自らに期待していない人間がいう言葉だと知っていたと噛み締めて伊原に語ったように。笑いと恐怖は未知への好奇心が勝った場合に刺さる。小学生だったころの内田桃の名言、「誰が誰の味方とか、誰が誰を好きとか、ごめんやけど興味ないねん。私」(おろかなわたしをゆるして・・・)は、いってしまえば「だからなんなん?」とイキりまくっていた小学生時代(内田は体格、外見、他者観察眼、と同級生男子を含めて敵らしい敵はいなかった)の漏れ出た本音みたいなものです。遠野が内田と親友になれるとしたら、まあイキり恥ずかしテング同士の内情暴露会でもやればいいねん…。好きなバンドのマニアックな語りで盛り上がれば最高の思い出クロレキシとなることだろう。内田が幼少期の頃とはいえ、無意識で同学年の男女を問わずにナメていたのは事実。遠野にそのことを伝えれば、ただかわいいだけの内田さん・・・ではなかったと内田を見る目が変わることだろう。遠野もマイスマホに内田桃語録がみっしりと書き込まれていることを白状せい。きっと内田の遠野を見る目が変わることだろう。鷹見が鳩野から徹底的に嫌われている最大の理由は、「自分を好きになってくれた人を傷つけた」ことへの自覚のなさであり、ただしそれは、鷹見のように女性の方から付きあってほしいと接近してくる事情があるのなら情状酌量の余地はある。有罪ですけど。第66話「在りし日々を想う」でほぼすべての読者は鷹見は鳩野の「声が変」「真夏の公園で弾き語りをする」からダメ兄貴と鳩野を重ねていると連想していますが、根源で無意識の底にあるのは「大切なものを傷つけられ」てハトノは怒り、鷹見竜季は—— 怒りは人を傷つけるが、善人は自分まで傷つく。古典部シリーズでホータローは好奇心の怪物、千反田えるの内心を想像はしても、推測はしない。折木供恵から見た可愛い弟のまだ開花していない魅力の一つは、自分が侮辱された時のように、大切なものを傷つけられた時に全力で怒る男になるであろう(その為に自分が泥をかぶることも厭わない)、完璧な美しさであるバラ(海軍条約事件)よりも自身の半身たる存在を侮辱された時に理路整然と考えなしに復讐を実行する熱血ホームズに折木奉太郎は成長すると、期待している。と、思われる。ホームズの前でヴィクトリア女王を下衆呼ばわりするのは、この世のすべてを敵に回すことよりも危険なの。なんだっけ。つまりネットで可視化された悪ノリ(ハトノは大好きだ)は個人の良心や集団の自意識より勝ると意思表明をすると、時と場所によっては許されない、ののののののののの。折木供恵が折木奉太郎に「あんたはばかのくせに変なところで頭がいい」と頭を撫でながら伝えたのは、大切なものを馬鹿にされたら腹を立てていい。ただ、松の廊下はやめとけ。あんたには似合わないし、そもそもあまり大した場所でもない…。殿中でござるが内田桃なら浅野内匠頭は藤井彩目であろう。アヤメはいい女になる予感がするのですが、その理由として他者依存しようとして拒否られた場合、自分でなんとかしようとする(内田桃にも鷹見項希にも嫌みと殺意は向けるが粘着はしない)個性がある、からです。内田桃が上記セリフ(おろかなわたしを…)を口にして彩目に許しを乞おうとした時、1ミリも相手に付け入ろうとしなかったのはたいへんな美徳の持ち主であることを示しています。男でこれができる人は滅多にいない。バッサバッサとダサさを切り捨てるので自然と洗練されていく反面、まず孤立するので、内田が持つ天然の親分気質はアヤメにとって神の慈雨に等しいのでしょうね。お前らのが100倍キショいわボケ。藤井彩目の小・中・高校の生活は学業には微塵も興味がない(よう)なので、同年代の者たちとなるべく同じ価値観を持ち、なるべく多数派にいて、みんなと同じような青春を楽しむふつうの女子になりたかった。必死に笑顔を作って仲間とコミュニケーションをとる、好きになった男子と同じ趣味を持ち、より会話に加わって仲良くなる。していることは本当にいじらしい。高校デビューをして鷹見から同じバンドに入ってほしいと頼まれた時に、藤井が内心の喜びを顔に出さないで返事をしたことは想像に難しくない。今度こそ絶対に間違えない(正解を選び続ける自信?みたいなものが今のわたしにはあるはずだ…)。このへんが鷹見そっくり。いや、『彩目はくだらないことに縛られない人間なんだって、勝手に思い込んでいたけど』本当は必死に正解をみつけて選び続けようとする人間だったんだ・・・『その辺によくいるやつらと同じだったな』。鷹見ぃ・・・。つつつつつまり、みつけてほしい、という10代の繊細な神経がカモフラージュされて、剥き出しの状態になっているのではないか。危険過ぎる。関谷純が姪の千反田えるにみつけられて送られたのとは、違う。知ってほしい、見つけてほしい、感想がほしい、傍若無人に・・・。鷹見センサーが狂うのは必然だった。あいどんわなだい。たまきの舎弟になれよ鷹見。彩目は鳩野の全力で歌う姿を見てみんなにはウケないだろうがこいつはカッコいいと、外面だけの自由はダサイと自分の主義に白旗を掲げ、たまきが新入生歓迎会で歌ったおっぺけぺーはハトノと先生方に忘れられないダメージを与えた。鳩野の親友、矢賀が喝破した軽音部なんてのはあさましい欲望の受け皿…パリピの巣窟、狂った性欲の権化共のサバトやぞ・・・わかっとんのかハトノーーーッ!! こだわりのある人に「べつになんでもいいだろ」と生返事をして「ホータロー(奉太郎)は好きな歌とかはないのかい」と聞かれ十秒を経過しても答えがでてこない場合は呆れられるのだろう。「こいつはこういう男よ。ちーちゃんは折木みたいになったら・・・」(尊敬の眼差しで折木をみている千反田) 短編「連峰は晴れているか」で千反田は折木は考えなしに行動するように見えて、考えなしに行動する人間ではないと知った(伯父の関谷純のことで無意識にかまかけするくらいには千反田えるは用心深い)。千反田えるをこの世に生まれた時以来に号泣させたのが、伯父の関谷純である。理由があろうとなかろうと、号泣した時の記憶というのは思い出すとこっぱずかしいものだ。あと生まれてはじめて小説『氷菓』を読んでいるのだが、折木奉太郎が千反田えるをお嬢様呼ばわりするたびに背筋がザワつく。ページをつまみ食いしているので千反田家が特別に大きい家(アニメ見ているから)と折木が知ったのはどのへんだったか。福部里志以外に情報源はあり得ないのだが…。千反田が自己紹介でわたしの家は大きいです、と言った可能性も0ではない。——いやない。吹聴する類のことは千反田にはない、ような気がする。福部里志も器用に見えて、すでに体系づけられた物には食手を動かさない・・・ようなので、ケーキバイキングで払った金額の元手よりも、ケーキバランスの追求に情熱を傾けるのかもしれない。ケーキバランスとはなんだ。「折木さんは考えもなしに"なんでもいい"と言う人ではありません」「きっと"なんでもいい"と結論づけるほど、お好きな歌がないのではないでしょうか?」

 こそこそとGガンのミカムラ博士のことを書きたくなったので書いてみます。(そこっ!石を投げないで)

 小学館のマンガアプリ『マンガワン』をダウンロードし、初回ダウンロード特典の無料閲覧分でらーめん才遊記を第六十一杯まで読みました。あとは電子書籍で完結までの単行本を購入し、ゆとりと夏川の活躍を楽しんで見ています。とんだボーナス作品で夏川ファンを自認するわたしにはニヤニヤ顔が止まらない読書体験となっています。泣いて笑って忙しいな夏川・・・。

 ガンダムの本質は何か、と考えればロボットプロレスをして玩具を大量販売するための販促媒体として活躍することだと思います。恐ろしいことに「ガンダム」と言えば「ロボットのオモチャ」として一般常識で十分に通用します。しかもあまり恥ずかしくないようなイメージ作りにも成功している。わたしが一番すきなMSはゴッグ、次点でドムなのに……。ガンダムのどこがかっこいいのか。世の中間違っているな。いえ、決してゴッグが恥ずかしいと言っているわけではないのですが。世間の目を気にしなくていいのなら強くてかっこいいプラモを買いたいのは当然ですし、出来上がったプラモを自立させて全方位から眺めたいのもごく普通。いっちゃあなんですが、初代RX-78は自立させて惚れ惚れと眺めたいかと言われると別にそんなことはない、としか思えませんでした。まあ好みの問題なのでなにをいってもしかたがない。歴代のガンダムフェイスプラモで自立させたい、眺めたい、と欲望を刺激される機体は・・・・・・・・ないんですよね。サンライズの他作品プラモでなら(あとマクロスで)あるのですが。それでも生き残っているロボットアニメが実質ガンダムしかないのだからガンダムが正しいのでしょう。あと、2D媒体と3D媒体で人が受ける情報量に某かの変異が生まれていのは否定できないと思います。売れているプラモと2Dイラストの関係性といえば、プラモの箱イラストと実物完成品の展示、ならびに売り上げ、出荷本数と、バンダイガンダム博物館に行けばマニア垂涎の展示物があるのでしょうか。あ。グフは別格でかっこいいです。かっこよすぎて恐れ多いので手にしたこともジロジロ眺めたこともありません。

 ジオン系MSに偏重しているわたしの主観的感覚はさておき、ガンダムらしさとはなにか?と問われるとこれは難物だと思います。・・・・・・世界人口が半減しようが戦争を止めないのが宇宙世紀ですが、「これはガンダムだ」といえる要素は何かといえば、ガンダムファンには自明のことですが、補給がなければ戦えない、ということをきちんと描写することでしょう。ファーストガンダム第3話の『敵の補給艦を叩け!』は、ブライトの臨時艦長の一杯一杯ぶりを愛でる回ですが、戦場で補給を軽視する馬鹿はいないと教えられます(そして美人に冷たくされると変な快感を覚えると学習する)。あと、やはりガンダムで特筆すべき点は主人公が自身の思いとは別に、周囲の期待と、自身の生命を維持するために、殺戮マシーンと化していくことです。本来、軍と無関係だった主人公がガンダムに乗るということは、大量に人が死んだことの落とし前をつける側の人間になることを意味します。未視聴ですが、ガンダムXはこの点を真っ向からぶん殴ったと聞いています。噂だけで事実確認もせずに「そうらしい」とブログで書くのは卑怯で不誠実極まりない態度です。じゃ、じゃあ見るか。ガンダムX…。全39話。アマプラでは一話ごと(¥110)のレンタル商品、dアニメストアには在庫がないと、視聴するのに面倒が多いことが判明。数年来行ったことがないレンタルビデオ屋に行くか迷う。財布の中にあったTSUTAYAレンタルカードは有効期限切れと、そもそも店舗は存在しているのか。漫喫のカードも出てきた(同じ日に作っていた)が今これ役に立つのか? バンダイチャンネルで検索してみるか。初回登録無料特典とかないかな・・・。クレジットカードご登録案内お知らせの不備、と赤字でお詫びの文章がトップに掲載されている。ガンダムXはある。トロトロと情報だけを集めて行動できずにいます。アマプラの時代劇チャンネルを登録し、長七郎(里見浩太朗)と柳生宗冬(丹波哲郎)の長台詞シーンを見て満足して就寝したのは内緒です。

 作・久部緑郎、画・河合単、協力・石神秀幸、の布陣でビッグコミックスペリオールに連載されているらーめん再遊記(ならびに他2作品)は繰り返し読み返すたびに新しい発見があります。「ラーメンハゲ」のネットミームと化している芹沢のユカイツーカイなキャラは、登場人物たちに甚大な影響を与え続けています。わたしはプロレスにはほとんど興味はありませんが、ジャンルの栄枯盛衰にはかなり興味があります。わたしは馬鹿なのでひとつのことを延々と繰り返しニタニタしているといつの間にか流行が去っている(流行とは何ぞやとは今は考えない)ことがよくあります。らーめん再遊記を読んでいると流行り廃りの不思議さに思いを馳せずにはいられません。もし流行が波であるのなら、ショーハショーテン!のシュプレが立ち向かっている構図を想像します。第一波が最大というのは見た目だけの話で、単に知らなかったか目にしても気にもとめなかったか……。芹沢が忌み嫌う不倶戴天の敵、中華そば原理主義者も正直よく分からない存在(わたしは最初のシリーズであるラーメン発見伝はコミック3巻までのみ読了)で、芹沢がラーメン変人である最大の理由は「たかがラーメン」とラーメンを馬鹿にしながらその環境に(ある種の)特別感を持っている人間が世間で幅を利かせていることへの無計画なカウンターを人生を投げて始めてしまう馬鹿者だという点ですが、自分が頭に来ていると自覚し、抹殺対象を脳内で想定し、かつ自身の社会的成功を目論むというショッカーも真っ青な反社会的(非合法手段は取らない)人物なのが面白いところです。再遊記の4巻、第31杯を再読するとラーメン評論家・・・・・・というより病的なラオタである有栖氏がいい味を出していて、芹沢・宇崎の因縁を綺麗にまとめています。病的なほにゃにゃら、は最近のわたしの頭の中でリフレインしているワードで、大変な魅力を秘めているけど、近くには絶対にいてほしくない、こいつに見込まれたら人生終わりだ、という柳生宗冬みたいな存在です。捨て置くのは忍びないが、一線に出張るのは迷惑だから本当に勘弁してほしい。ジジイ同士で茶を啜ってあの世に行ってくれと願う存在(でも嫌いではない)。そして後世に爆弾を落としていく……。

 冬の寒さが和らぎスギ花粉と共に春がやってきました。好きな時に好きなだけ入浴ができたら(ピッカピカの浴場に張ったばかりのお湯がなみなみとたたえられていたら)大体の不平不満はお湯といっしょに流れていきそうです。もちろん花粉といっしょに。

 巷でアニメ映画『BLUE GIANT』が上映されているそうで、その販促か既刊コミックスが無料で読めるサービスが始まっています(全巻無料ではない)。寒い、ひもじい、眠い、と動かないと死ぬぞとせっつかれて行動を開始する人間からは、主人公の大は一言ではいえませんが、もてあます主人公ですね。間違いなくハングリーでありながら(世界一のジャズプレーヤーになりたいと単身行動している)芹沢と違ってヒネクレていないので・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 世界一はさておき、違いを認識できないのならあってもないのと同じことで、醤油・味噌・塩・トンコツといったラーメンの形式が理解できない、全部同じラーメンでしょ?と真顔で言われたら、ロボットはみんなガンダムだし、ちょんまげを付けていたら時代劇の人で、音楽が聞こえてきたらなんか音が鳴ってるね、と疲れている時の私みたいな人間になってしまう。ここで再遊記の1巻のことを思い返すと芹沢の無気力症候群の正体ですが、あれで「いまやラーメンの主流は何の枠にも囚われない自由な創作麺料理」だから、なんかつまらんな、となっていたら有栖さんだってハゲの首を絞めたくなるでしょう。踏み込むと、芹沢の言う「獅子身中の虫」発言も芹沢の立場を考えるとかなり危険なセリフで、「俺はそう思われている」と「奴らは正にそう」だ、では集団の中にいる個人として看過できる発言か判断が難しいところです。主流か傍流か、権威と実働力を鑑みて、普通は言わないですよね。

 踏み込んだついでにワクワクとはなんだ?と自問すると、それは何のためらいもなく娯楽を享受できる環境である、と思います。つまりラーメンを味わうことがワクワクなのではなく、味わう前の涎を垂れ流して(社会的自制心があれば脳内イメージで)いいの?いいの?オレ食べちゃうよ?がっついちゃうよ~と、脂・砂糖・苦味・ほっかほか・ビリビリ・しょっぱ!・なんじゃこれ?と混乱の極みにいる自分を誰に遠慮することもなく享受できる、許す好きにしろと誰憚らずに自分を好きにしてよいといえる環境(最終的なストッパーは人それぞれの心の中にいるはず)こそがワクワクなのではないかと。味覚の形成がされていく過程はとても想像することができないですが、期待値と絶望のy軸の落差は、自身の肉体的記憶に根差していることでしょう。さてどうするか。発見伝の4巻以降を読んでみるかな……。いやしかし、俺は、俺がおいしいと思う料理をお客がおいしいと思ってくれると、信じきることができなかった……。芹沢とゆとりの母、汐見ようこは境遇が少し似ているところがあって、それは芹沢が自身の渾身の作品である淡口らあめんをお客に理解してもらえなかったように、ようこの人生の結晶であろうヘルシーで美味しい料理(手間隙かけてます)をワクワクしない、間違っている!と娘のゆとりに言われてしまい、ショックを受け、少なからず頭に来た経験がある・・・ということです。まあ、汐見ようこ氏も目的のためには手段を選ばない(他人の行動を自発的に動いたように手練手管で仕向ける)のであまり同情はしません。

 シリーズ1作目である発見伝を購入して発刊された順番を無視して読んでいるのですが、芹沢の顔の血色が良さそうで登場するたびに笑えます。テキトーに読んでいるのでいつ芹沢が出てくるか(大体「クックックッ・・・・」と前コマでフリがくる)、わんこがご主人と散歩して幸せオーラを振りまいて、そのお裾分けをいただいている気分です。なんだとっ!

 根本的な話になるのですが、私はラーメンに大して興味はありません。だから発見伝、才遊記、再遊記、とラーメンの説明が入るページはふむふむなるほど「そうだったのか!」となにも分かっていないのに分かった気になっているだけです。つまり読んでいない。「実は(だから)こうだったんですよ」と言われて、えー本当ですかーすごいですー、とよいしょするのも真面目に考えれば何も聞いていないし何も考えていないのだから酷い話です。

 藤本が芹沢から受けた恩は、最終回を読み返すと(まあ人生は色々あるが)取りこぼさないようにしろ、チマチマした改良だけを見ていると本質を見失う。おまえは客にどんなラーメンを食ってもらいたいんだ、と大先輩風を吹かしているようにも見えます。そう考えるとラーメンハゲはかわい過ぎるんですけどね…。

 今日も今日とてらーめん再遊記の1巻を読んでいるのですが、今度はハイスペック醤油ラーメンが気になり始めました。いいなっ!ハイスペック醤油ラーメン。再遊記を既刊分まで読み、才遊記から発見伝へと話を遡って読んでみると、場末のラーメン屋で肉野菜炒めとギョーザで一杯やっていた芹沢がかなりどうかしていたとわかります。再遊記の4巻で板倉憎しから背脂チャッチャ系ラーメンも視界に入れる気がなかった芹沢が旨くも不味くもない醤油ラーメンを頻繁に食べに行くのは、どうにも理解できません。汐見説を取ると会社のお荷物になった現在の自分を直視しないために低レベル店で現実逃避をしていた……ことになります(その直後に有栖さんが言っていた必勝法を汐見がカマし芹沢の怒りは鎮火する)。汐見も、店の仕事で忙殺されている夏川も、芹沢がショボいラーメン屋でため息をついてビールを飲んでいる心境なんて想像する必要もないし、そもそもわかるはずがない。発見伝で繰り返し語られるラーメンスープの仕込みには手間がかかる、そして人手の足りない店舗では凝ったスープを作る余裕はない。小池さんと芹沢がニアミスするシーンは発見伝の中でもそうなかったと思いますが、小池さんがポカをやらかすのは自分の自信が揺らいでいる時で、逆に頼もしい時は藤本の相談に乗っている場合。これも発見伝で繰り返し言われることですが、ヒキの強いスープはお客を選ぶことがあるが店主がウマい思うラーメンを客は食べにきている。だから——だからなんだ。小池さんと芹沢の期せずしてのヘンテコ対決があればギャラリーの隅に私もいたいし、絶対にろくでもない感想を口走る自信が私にはあるので、逃げる足だけは常に用意しておきたいと思う。まあ、誤解しないでほしいんだが、私はあの二人の作るラーメンをバカにしてるわけじゃない。ただ自分が舌バカだとわかっているので、大量生産品であるスーパーの生ラーメン(二人分で200円くらいで売っているやつ)を自分で煮込んで満足して食べているから、きっとそれよりおいしいだろうなと真剣に考えているだけなんだ。で、私はどちらのラーメンを食べてよいのかな?

 先日、アマゾンで石神秀幸・著『ラーメン最強うんちく』(晋遊舎)を購入し時間が空いたときに読んでいます。初版発行は9年ほど前の本です。ラーメンを口にする機会は自主的にはスーパーでカップヌードル日清食品)を買って食べる以外はここ20年(もっとかもしれない)くらいなかったので、浦島太郎気分で読書しています。はじめてトンコツラーメンを食べたときの衝撃は脳髄に刻まれていますが、リピーターにはならなくとも、知人を連れて食べに行くくらいにはラーメンの存在を認識していました。25年くらい前のことです。本を購入したのは一週間ほど前でプライム店の新品本でした。・・・・・・・・・・・・いや、まてよ。仕事で都市圏に研修等で出かけた際に街の中華食堂でラーメンを注文したりした気もしてきた。ほとんど記憶に残っていない程度のことだけど。ああ。しょぼいラーメンを食べた記憶なら、わりと数珠繋ぎで思い出せる。なんでもよくなった。時間も惜しい。とりあえず何か口にしよう・・・という時に醤油ラーメンを注文したことはあった。化調とかなんにも知らずにモソモソ食べていました。「安上りで手っ取り早く」できるとはようこ先生の言ですが、それ以上でもそれ以下でもないだろうと食べていました。考えてみると、水や空気のように街中華が存在して、醤油ラーメンがある、それがどれだけ凄いことか普通すぎて考えられない。当たり前だと思っていることがそうではなかった、特に食に関してはここ最近から死ぬまでの間にちょっとした覚悟がいるのは不勉強と不健全のツケを払う形で確定している、のでしょう。漠然とは思っていましたが。

 芹沢を語る場合に外せるはずもないエピソード「スープが冷めた日」ですが、読んでいるとお寿司のネギトロで本物と偽物があり、偽物のほうが脂が乗ってうまい、と若い客が言うので本物の方が世間で肩身が狭くなっているんですよ…と寿司屋の大将がこぼす場面があります。お話としては本物志向を捨てない芹沢の理想論は敗北する、露骨なまでの振りですが私にはかなり耳の痛い話です。ここで城下ガレイなる魚を初めて知り、芹沢が白身魚に精通している(マニアである)と改めて知る怖い構成。ちなみに私はイカが大好きです。新鮮なイカを私に食わせろ。居酒屋でイカを注文して食べるとマスターに微妙な顔で見られていたことがありました。あれはなんだったんだ・・・。

 「食」は人間が生きていくうえで欠かすことのできない要素です。だから食に詳しいということは、それだけ生きていくことに幅ができるということです。芹沢が汐見ようこへ伝えた言葉、「ラーメンとは……」は、娘の生き方を他人に預ける母親として、敗北宣言としてこれ以上なかったんじゃないでしょうか。

 味覚のことを考えていると、甘味よりもしょっぱさ、醤油の味つけのことを考えるようになりました。納豆にかける調味料といえば、少し前までは100%醤油だったのですが今や納豆容器に入っている「たれ」ばかり使っています。醤油でもおいしく納豆をいただけるのですが、しょっぱさが勝ち過ぎるのであまり使わなくなりました。お刺身には醤油しか使いませんが、昔より食事の減塩を気にするようになったのでほんのちょっとだけつけて食べています。口の中に入れる食べ物に本物と偽物がある、などと考えたことは人生で一度もないですし、まして本物と偽物は何が違うのかと探求したいと思ったこともありません(傲慢だな)。再遊記1巻に深く強くかかってくる「本物」というワードは芹沢の喉に深く刺さった魚の骨みたいなもので、ある種の食べ物を本物のまがい物として認めなかったのは、1巻の芹沢の鬱屈していた気分の最たるものであり、広く人口に膾炙して親しまれた物を否定するのは、自分を根無し草と卑下する気にもなるでしょう。自信に溢れている時ならまだしも。

 ツイッターを眺めていると映画『天空の城ラピュタ』は公開当時はお客の入りがよくなかった・・・なぜか? という話題で盛り上がっていました。私の初見の感想は「音楽(劇伴)がメチャクチャスゴイ!!!」、でした。劇場ではなく、家の居間で録画した内容をステレオヘッドホンで何度も聞く、見るといった視聴です。ラピュタを体験する前にもそれなりに「ステレオスゴイ!」とおサルさんになっていましたが、ラピュタは別次元の凄さだったので相当に参っていました。敵要塞内でロボット兵が大暴れした挙句、パズーがシータを搔っ攫うシークエンスはあまりにイカれているので視聴中は人間を放棄していたでしょう。ドーラはアドレナリン出っぱなしですよね。奇襲作戦はゴリアテが動き出している時点でアウト。それでも作戦続行するのはパズーの妄想かもしれない塔のてっぺんにシータがいる!という情報だけが頼り・・・。全滅も想定できる作戦だというのに。

 ラピュタにたどり着き、シータとパズーが出会う園丁ロボットの歩く音にも心奪われました。むかーしのテレビのスピーカーでは高い音が再生されているのかよく聞こえなかったので、ヘッドホンで音を聞き取ろうとして美しい歩行音を発見したときは驚いたものです。友人に「知っているか」と鼻息あらく聞いてみたら「知ってる」と素っ気なく言われもしました。ラピュタを再視聴したいとネットで探してみると、ネット配信はなく、DVDソフトを買うか借りるかしないと視聴できないと判明。北斗の拳オープニング、ケンシロウの残像ダンスを椅子に座ったまま上半身で演じた後、映画館でD&Dの映画を見に行こうと思いました。前評判を聞く限りだとゲラゲラ笑えそうですからね。調べてみると最寄りの映画館では次の土日までに上映が終わることが判明。なら一番音響設備の良い映画館へ遠征してやるわいと今調べています・・・。

 (隣の県になら上映館はあったが、特に音響に凝った劇場ではないんだよなぁ・・・)

 まあ、映画『ダンジョンズ&ドラゴンズアウトローたちの誇り』ホームページにあるプロダクションノートを適当に読んで、ああこれは映画の前半部分はともかく、中盤からラストにかけては、名誉と金に目が眩んだ連中が自分の命を捨てる覚悟で冒険に挑む活劇物なんだなと思っちょります。ここで私的にひっかかるのが、おいそんなに簡単に一つしかない命を賭けの対象にしていいんか?という気持ちと、パーティーの中に最初から死にたがりがいたんじゃないの?という疑惑です(たぶん当たる)。こいつの出生と出自では希死念慮に囚われているだろ、というのと、太く短く生きると決めている連中がいて、楽しくやっていくためには目的が必要だから、先生の死にたい願望もセットで利用させてくれやという、寒いからそれも燃やそうという刹那主義で暖を取る連中の話ではないかと。「もったいぶる」を英語で訳すと何になるのか。そもそも日本語でもったいぶるといえば・・なんかヤンキーのイビリ台詞しか出てこないぞ。——映画を見てきました。素直に感想を書くならティーフリングのドリックはいいぞ。わたしも(あなたも)遠慮のない正論でズバッと切られましょう。領主に喧嘩を売る時点で(世間から見れば)札付きの悪ですが、パーティーに彼女がいると自分たちが良い冒険者だと思えます。まあ、1cp(銅貨)にもならない私怨による私闘なので、ドリックから見ればついでに一緒にいるだけのやさぐれパーティーでしかない。聖騎士の臨時加入がなければゼロに近い愛想値が下がり続けるのを止めることはできなかったでしょう。映画のプロダクションノートにもティーフリングは(基本)一匹狼と設定されているので、俗世間と隔絶している聖騎士とは互いに似た者同士で気にならない存在ではないでしょうか。ちなみにこの映画で知恵と勇気を振り絞って活躍しているのはフォージです(間違いない)。彼、エドと同じかそれ以下の戦闘力しかないのに、大してない胆力を奮い立たせて名誉と金と家族愛を手に入れようと奮戦しています。他人の迷惑を一切考慮しない悪党ですが、かつての仲間の死(に様)を悼む程度には共感する心性を持ち合わせており、まあ、ドリックと対面していたら「人間はクズ」と自説を強化し、ゼンクと相対すれば英雄の持つ道徳性を全開にする場面が見られ、エドガンは腰を抜かしたことでしょう。私の知っているアメリカのヒーローというとダイハードのジョン・マクレーンあたりなんですけど、これは脚本、監督つながりで『スパイダーマン ホームカミング』を見る流れだな・・・。

 悪役がいて、初めて主人公の善性が発揮される。とかく自分に都合の良い妄想しかしない私は、スカッとしたいという欲望を常に抱えています。そりゃヴィランだ。ここに大変な問題が存在し、それは悪役を設定すればするほど、そっちの方が魅力的になってしまい、主人公はただのボンクラではないかという事態が生まれるということです。能動的に己の欲望を自覚して、自身の幸せのために行動する。まあ、周囲の被害や迷惑は二の次なので必然的に悪役を担うことになるのですが、属する集団への利益貢献なぞ大して考えていない主人公では、ミニマムな善性しか発揮できません。鷹村と一歩をちょっと想像します。陣営の守護者・・・・・といえば聞こえはいいが、目的と手段がごっちゃになれば善性もなにもあったもんじゃあない。ヴィランの持つ攻性を主人公が受け持つ、(主人公は遅れてやってくる)ここでそこら中から構成を拾い集める動機と正義の味方が同族殺しを行う信念みたいなもの(トップ2の宇宙怪獣モドキがトップレスを叩くのと少し似ている)を足していくとひどい内輪もめのぐっだぐだなオチなしの陰惨な話が出来上がるという寸法です。

 『スパイダーマン:ホームカミング』はアマプラで視聴できます。ちびちびと見ています。スタークが美味しすぎるポジションにいますよね・・・。パーマンのバードマン的なとこにいる、でしょう? TRPGならGMです、よね? 笑いしかでない。

 映画D&Dのキモい感想を書けば当然ドリックの出番が、というよりパーティー内の男二人(残念ながらサイモンはカウントされない)の「何食えばこんな変人が出来るの?」とエドガンとゼンクを観察し、たまに噴き出しそうになるのをホルガに観察され、常にサイモンが気を揉んでいる場面を入れてほしい・・・というか、捏造して迂闊に口走りそうで怖い。観察による推論から作戦を考案し実行する。この映画での最終ミッションはエドガンの宿念である亡き妻を生き返らせることですが、考えるにホルガはこのダメ男のダメ願望になに一つ意見も注文もしている様子がないですね。なかったと思います。名誉・金・家族愛(?)。先立つものがあってこその立つ瀬だろう? とはエドガン、ホルガが共にパートナーに対してやらかしてしまった、離別のトリガーですが、おそらくエドガンはホルガに事情を話しているのでしょう。そう考えるとフォージの対エドガンへの心象が深淵の森すぎて意味不明です。近づきたくない。

 善い人が良い行いをするのは当たり前だろう? と、誰かが私に向かって話しかけてきたら、500億パーセントの確率でこいつ胡散臭え…と思うことでしょう。自分で書いた文章にツッコミを入れるのは野暮ですが、八方美人で口八丁手八丁のフォージと東京砂漠で残飯食べてそうなドリックだと好感度ゲージの下限突破は致死量のゲッター線を放出する勢いでフォージを嫌っていそうです。

 キモいキモいとキモいを連呼すれば、やたらとドリックのキャラクターを絡めて感想を書く私がキモい訳ですが、映画の後半、レッドウィザード戦を観ていたころはお尻が痛くなり集中力が本当に落ちていました。割と本気で休憩時間が欲しかった。

 我儘、我を通す、自分の都合を優先する、腕力でも知力でも道徳心でも発想力でも、他を圧倒できないのならそれ以外の方法を用いて目立つ。引け目と劣等感が心の友で常識の上に立っているのが自負であるのなら、それは常識を誰よりも把握し使役するのが最善と判断するのが妥当だろう・・・。

 ゴールデンウィークも終わりましたが、皆さんにひとつ考えてほしいお題があります。それは、かけがえのない体験と、ごくありふれた体験、の間にはなにか違いがあるのかということです。そりゃあるに決まっているだろう。近所のスーパーで買ったラーメンと、旅先で行列に並んで食べたラーメンとが同じであるはずがない。値段も違えば味も違う。食べる周囲の環境もまるで違うのだから、そもそも違いがあるのか? と疑問を持つ方がどうかしている。同じかどうか、違いがあるのか、普通か、特別か、大した価値はあるのかないのか。しかしこの疑問に答えなんてあるものなんですかね。

 アマゾンキンドルでダンドラ公式メイキングブックを購入しました(英語版です)。我がiPadの英和翻訳機能を駆使しての読書体験です。ありがとうアップル!便利なんてものじゃあない。スタッフインタビューをすらすら読めるなんて本当にうれしいよ!

 ゲッター線で人が殺せる、というのも面白い話で、そもそも観測できない電磁波なんて幽霊と同じで、居ると言えばいるし、居ないと言えばいない。納得できる殺陣とはなんだろうと、ここ数ヶ月ほどぼんやりしていましたが、幽霊が殺す武技、と書いて、存在しない機関による流体発電機による発現と読み、〇〇殺法てのはどうだろう(自重)。藤子・F・不二雄氏の『エスパー魔美』だと、主人公魔美のエスパー能力は相棒の高畑君のみぞ知る突然変異型能力で、学習や外部からの刺激によって得られる能力ではない。たま~に第三者に「こ、こいつエスパーだ!!」と魔美の秘密を知られそうになっても「人に言ったら(略)。また悪さをしたら(略)」とドスを効かせて恐怖体験を与えることで口を割らせないようにしている。ただし善人だと判断したときは「どうか体験したことは黙っていてください」とお願いしているので、すごいいい加減にやってますね。ここで映画D&Dエスパー魔美を俎上に載せると、私なんかだとキーラと高畑君を最重要人物だと思ってしまいますね。道理に外れた行いを良しとしない態度を持つ隣人、もちっと適当に言えば嫌われたくない好かれていたい相手。——なのに怠けていると小言を言われるのだから、ちょっと鬱陶しくもある。

 藤田和日郎先生のマンガ『うしおととら』に出てくる秋葉流というキャラクターは私も大好きなキャラで、その死にざまは単行本だったか、サンデー連載作だったか・・・Wikiで掲載~単行本発行年月を調べると、ほぼほぼサンデーの連載をリアルタイムで追っていました。読んでいた当時からやっぱりこうなったと思いました。意外だとは思いませんでした。秋葉流が所属する光覇明宗は彼自身の去就にほとんど影響を与えていないのが少し不満で(私が)、それは主人公のうしおが光覇明宗の歴史の中でも特殊な存在だと認めてしまっているようで、光覇明宗の歴史が軽い感じがします。そこまで特殊な人間っているものなのか?という秋葉流がヒネクレたど直球の疑問に、光覇はちっとも役に立っていません。猟師連中で狩りの段取りを相談しているのに皮算用の話を始めるアホは丁寧に退席してもらう他ない。もちろん狩りの対象は白面の者で皮算用は論功行賞のことです。全てを奪いきる(相手の子孫繁栄など微塵も許さない)根絶戦など正気の人間がやることではないし、相手の心情を少しでも想像すれば、自身にも多分にあるであろう同族嫌悪(陰の感情がやたらと濃いアレ)を克服するのは容易ではない。理解されないから後ろから刺されるパターンは消化不良になるので勘弁してほしい。まあ、知っているかうしお。オレは悪い人間なんだぜ!!、と啖呵を切られたら、とらでなくても呆れる。光覇明宗関係者でも呆れる。なにやってんだこいつ・・・。

 意外だと思う、という言い回しを、やっぱりこうならなかった、と口に出して言ってみると正直釈然とはしないのですが、物事の推移をなんとなく予想していて(こうなるといいなあと努力もしないで期待している場合に)思っていたフィナーレと違ったら、今までならなんかつまらん時間損したと思うだけでしたが、「やっぱりこうならなかった」を「ヘマした。スランプだぜ。でもまあいいか」と一人で言っていれば(変人だ)いいかもしれない。自分の欲望を隠し、世間には良心的な人物であると(己の正体を)隠し切る。悪役でこいつ救いようがないと呆れ、それでいて創作上の人物であれば、ある種の尊敬の念を抱いてしまうのが、欲望のスケールの大きさと自分を信じる度量の大きさ(この場合は世間から見られている己の人物像をそのまま自己の目指す姿と誤認できる正気ではないくせに正気を保持している面の皮の厚さのこと)が一般的な悪役と比べて一線を画している、物語の黒幕といえる人物です。ミカムラ博士とカッシュ博士が、辞書に載るくらいの典型例だと私は思っているのですけどね。私がミカムラ博士に惹かれて惹かれてどうしようもないのも、まあつまりそのあたりのどうしようもなさがホントにどうしようもないので、どうしようもなくいいよなあと悦にいっているだけなんです。なんのマンガだったか、己の悪行を棚に上げて「いいぞいいぞその通りだ。もっともっとがんばれもっと努力しろ。おまえの行く先には栄光が待っている」と若者をルンルン気分で煽りまくるアホがいたような…。

 マンガ『エスパー魔美』は再読すると思いがけない発見があるのですが、作中で散々擦られる佐倉十朗氏の絵画(まず誰も欲しがらない)を気にして読んでみると、これがまた最初に通読したときよりも面白く感じる要素があります。大前提として佐倉十朗は絵が売れることよりも絵を欲しいといってくれる人がいることが嬉しい!と娘の魔美に直言するような男で、もちろん金も欲しいのですが、一つの絵を複数人のバイヤーから欲しいと言われれば、相手の人となりをみて判断して売る(提示金額を度外視する傾向がある)、ロマンチストな本性をビジネスの鎧で守らない楽天家であるという、魔美の天真爛漫さは父親譲りなんだと読者に納得させる、作者からの提示が作品の冒頭からあるという点です。(ときに十朗は猛烈な片思いを独身時代の妻に寄せている。ついぞ想いは恐怖に打ち負けるかというその時、時空を超えた怪奇現象に襲われた。十朗も訳が分からなかったろうが、彼女の方がよっぽど意味不明であっただろう・・・)エスパー魔美1巻の作品構造として、エスパー能力で正義のヒロインとして大活躍し、周りからチヤホヤされたい魔美。もしもエスパーなんていたら気味が悪いという母。もしもエスパーだとしたら平穏な暮らしを守るためにひた隠すという父。そして勉強なんてしないで世の中の人々の役に立ちたいという魔美。このフォーマットは最終巻までずっと続きます。破綻することはありません。エスパー魔美は面白いですね。

 「チヤホヤされたい欲」はエスパー魔美全編を通じての裏テーマ・・・というか通奏低音として機能している感があります。魔美の愛犬コンポコ(合っているよなぁ…)がいじけるのは犬としての自尊心を傷つけられた場合であり、佐倉十朗が憤慨するのは自分が描いた絵を批判された場合。どちらにも共通しているのが、褒め讃えるならどうぞお構いなくやってくださいと、賞賛を受ける気は365日24時間いつでもいいですよと臨戦態勢であるということです。だからあんたらはヘコみやすいんだよ・・・。魔美で一番好きな話というと、ベタですが「サマードッグ」あたりかなと。この話とチヤホヤとはあまり関係がなさそうですが、まあ、犬をチヤホヤすると全力で愛情表現を返してくれるので犬っていいよね!という人間様のご都合と、高畑くんの理性でひねりだすクソ度胸にちょっと感激するので人間っていいよね!というその場の雰囲気でGO!みたいな痛快と感動に差はないという娯楽作品の醍醐味が味わえます。他者からの賞賛、他者からの評価を意識的に藤子氏が作中に描いているかを高畑和夫を中心に見てみると、学業の成績や趣味の野球、未知への探求である超能力への興味と、他人の目から見た高畑和夫の人物像にはあまり重きを置かない、第三者からの評価は参考程度にさせていただきますという態度が見てとれます。ゲームセンターに誘われた際に中学生だから入場できないと断るように、世間を斜めに見ているのではなく、世の中は優しく正しくあってほしいと真面目に考えているので暴力による言論封殺には身を挺して戦います。魔美がどじっ娘エスパーなのに対して高畑は非力凡人です。圧倒的ヒーロー性のなさは「学園暗黒地帯」の作中で遺憾なく発揮され、喧嘩自慢の応援団員に囲まれたときは魔美の助けがなければ無事では済まなかったでしょう。他者からの評価とは、平たく言えば多数からの理解、世間からの認知、権威からの賞賛と、なんと素晴らしいのでしょうというレッテルを貼られることです(逆もある)。エスパー魔美が雑誌掲載のマンガなので作中で魔美や高畑がベタベタに褒められるのは落とし穴に落とす前のフリでしかないと勘繰ってしまいますが、こと高畑は自己研磨の成果を他者評価に委ねない性格なので作中で褒められることは少ない。「学園暗黒地帯」では社会性のない暴力集団である応援団を糾弾し、暴力による報復弾圧を受けた後に学園教諭からの指導を仰ぐも隠ぺい工作により失敗し、最終的に高畑が一人で応援団を説得する…リンチの場に出向くというストーリーとなっています。オチはひょうろくだまな格好をした魔美が応援団の首魁をボコボコにして、面子丸潰れな応援団は瓦解するというものです。この首魁は後半のエピソードで再登場し、高畑の苦い独白を魔美は聞かされます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。自己の研鑽と他者からの評価。暴力が結果その人を良くしたかという高畑の苦い思い。ものすっごいきれいにお話が締まって終わるので、たいへん読後感のよいエピソードです。これは高畑の方が救われていますね。この善人め・・・。魔美が世界でただ一人のエスパー、かもしれないという孤独と恐怖に襲われないのも、いまさらですが高畑が身近にいてくれるからですよね。与太話として魔美の父親と母親もエスパーであり、実の娘にすらその事実を秘密にしている・・・と仮定すると、高畑は佐倉家に迷い込んだ(佐倉家の平穏を脅かす)反乱分子(仮)であり、常に監視対象となっているのですかね・・・・ってウソでーす。

 男には理屈抜きでかっこよさに平伏する状況というのがあり、もし異性のエロさと同時発生するという地獄極楽イベントがあれば、男ならプライドを取るはずだ。高畑でもきっとそうするだろう。ただし大衆性と嗜好は被ることもあれば外れることもあるので、時と場合による。日和るわけではない。本当に時と場合による。また、かっこよさは個人の持つ価値観だと思いたいが、現実では相対的な価値基準だと言わざるをえない。これはダサさ、醜さ、気持ち悪さで考えれば自明のことで、周りの人々が顔をしかめている中、平然と対応する人間は周りの人間の価値観を大きく揺さぶる。エスパー魔美のエピソード「凶銃ムラマサ」では精巧なモデルガンに魅了される高畑を見て、魔美はおもちゃの銃の何がよいのかと冷めた目で高畑を見る。外部からの視線で自己の価値観に羞恥を感じる高畑だが、なぜ銃が魅力的なのかを魔美に説明しようとはしなかった。もし、銃が持つ魅力を魔美に理解してもらおうとするなら高畑は何から説明を始めればよかったか。そして情理を尽くして説明し、やはり興味がないと言われた場合、高畑はどう思うだろうか。物事の一面だけから切り取ったかっこよさなど情報の一部でしかない。高畑がどうして銃はかっこよいのかを本気で説明をするには、銃の成り立ちや使用方法、改良の歴史、近代に入ってからの急激な進化と、魔美にとってゴミ同然の話を延々とすることになるだろう。他者の制圧をより効率的にこなすために進化した道具は、ある意味原始的な超能力者である魔美が超能力をより進化させるための試金石ともなるだろう。美しく魔を秘めているという点で両者は一致している。

 そういえば映画D&Dはいつごろネット配信が始まるのだろう。ブルーレイソフトもいいのだが、うちにはろくな再生機がないのでパッケージ作品を購入するのはためらいがある。DVDソフトなら適当に再生できるが、ならネット配信で十分だろうなあ。エスパー魔美のことばかり考えていると、あのお節介焼きのゼンクが脳裏をよぎる。ハーパーとして目を覚ましたようだな・・・。はあ。アニメ『アルドノア・ゼロ』のマグバレッジ艦長も相当にお人よしなので、溜めたストレスをゼンクに聞いてもらうといい……。

 物事に決着があるとして、それが人気の出ている連載マンガで一話完結型の日常ギャグマンガであるとすれば、決着とはどういったものだろうか。私は子供のころからマンガは小学館寄りの愛好者だったので、規定の枠内で始めて終えるという様式は比喩でもなんでもなく藤子氏のドラえもん単行本で訓練されたといえる。子供心にイカれたマンガだ。作者は頭のおかしい人なんだろうな。そしてこれを売っている小学館とこんな本を流通している大人の社会はだいぶ頭が狂っている。中学生になる前にはこんな世界から卒業しないと・・・と誰にも言わなかったが本気で思っていた。聞いてみたかった気はするが、頭のおかしい子供扱いをされるであろうと思ったので控えた。大人になった今になってもその考えは間違っていなかったと思うが、中学あたりから読んだ劇画調のマンガに対して心の防波堤として立派に機能した(頭のおかしい絵の主張に対しての心構えといった感じだ)。ちなみに少年サンデーは本屋に売っていたようだったが、買ったことはない。回し読みした記憶も今のところはない…。これは高校までの話です。

 考えてみると秋葉流にはごくわずかではありますが、生存ルートがあります。それは光覇明宗の頭であるお役目様と対談し、腹芸なしで白面を潰す方策を示す案です。ジエメイを名乗る白面の使いがいつ秋葉流と接触したかで無理筋となるのですが、生存ルートはこれしかないでしょう。理詰めで指し切りを回避する狂気の案なので乗る馬鹿はいないはずですが、藤田和日郎キャラだと狂気で理詰めは悪の華なので、ばえると思います。白面の持つ強大な妖気に流が個人で立ち向かえるはずもなく、光覇明宗の宗徒や修行僧からの支援が必須で、それはつまり、何百年も連綿と続けてきた対白面の者への対策を、オレが示した案の方がより効果的だからお前たちは(お役目様が口説き落とした)幹部たちの指示にしたがってくれ・・・という流れになるわけで、必然的に担ぎ上げられる杜綱、日輪、といった、まるで気の合わない同僚たちと白面とどう戦ってぶっ殺すかを議論して納得させる必要がある。まあ、つまり。誰よりもオレの攻撃は白面に通ると、実践と実証を兼ねたトンチキ道中編が始まるわけです。コミックは29巻~33巻まで所有しているのですが、残りの巻も手に入れてみようかのおう……。書くか。流が自分でも訳が分からないほど楽しくて楽しくて仕方がない、誰がなんと言ってもオレは楽しい。この楽しさをお前らにも分けてやりたいくらいだ。この尽きることのない楽しさを。もちろん白面、お前にもだ。遠慮なく食って死ね! と。ここでお役目様ですよ。唐突な回想場面が入り、流に真意を問いただすわけです。光覇明宗を裏切ると決心して、心変わりの後に白面を退治しようとここまで来た訳を。秋葉流生存ルートのキモは、なぜ生きたいのか、という秋葉流の人生観の決着(現時点での)の表明なので、なんとなく面白可笑しくつまらない人生を過ごしていればよかった自分の生き方を白面退治に捧げるのはなぜですか、という答えが知りたいわけです。ここですよ! 最高にうまいお茶と茶菓子を出すタイミングはッ!!! 喉のカラカラ具合は秋葉流の比ではないですからね。茶坊主の一世一代ですよ…。もしわたしが当番でたまたま二人いる茶坊主の一人だったら相方に盆を押し付けて逃亡しますね。そして後で謝る。いや~スマンあれはなかった許してくれ・・・

 (不躾ながら)対象に向かって「大して魅力的ではない」と念じてみると、意外と自分でも思ってもみなかった反応に気づくことがあります。わたしはアマノジャクなのでまあ大体は疑って物事を見ているのですが、最初から疑うまでもなくゴミカスだろこれは、とは思わずに「大して魅力的ではない」と自己に保留をかけて物事に接してみようとすると、意味もなく「いやそうとはいえない」と内なる声が発生するので結果的に「割と魅力的である。なぜならば・・・」と誉めモードに突入しやすいことにさっき気が付きました。また、大好きだった対象に上記の嫌がらせとしか思えない蔑侮の言葉を投げかけると、これまた不思議なのですが、まあそういう見方もあるかと胸に落ちるものがあります。人気がないから魅力がないのだという現実があったのだと納得できたのだと思います。

 田辺イエロウ氏の『BIRDMEN』を読んでいるのですが(なんとなく14巻から読み始めた)、氏の出世作である『結界師』は単行本の新刊が発売されるたびに買って読んでいました。今、ぼんやりと考えているのは結界が大切な物を守るために存在するのなら、他者がその大切な物になんら興味を示していない(別に害したいとも愛でたいとも思っていない)、本当に関心がない場合に結界による保護機能は働くのかという疑問です。『結界師』の作中でいえば、開祖間時守とその子供宙心丸、そしてなんとなく結界内にやってくる守美子の関係性ですね。嘘をついてでも守りたい対象と、我慢の限界まで耐え忍ぶ歯車としての人生・・・・を、渡すつもりはなくとも子子孫孫まで申し伝える伝言ゲームとしての緊張感。作中で割りを食うのは正守と時音か。身も蓋もない言い方をすれば『結界師』の作中では、人に好かれる人ほど苦労を背負い、人にあまり好かれない人ほど力を得てしまいやすい傾向があります。主人公の良守は人に好かれてパワー全開なのでズリィですよね。単純に考えれば、好きな人から期待される活躍をして喝采を浴びることは人生で最も幸福な瞬間のはずです。自分が望む活躍と、他者から期待される活躍に齟齬があればそう単純でもないかもですが。結界師の最終巻で良守は皆が望む活躍をして、結果、開祖時守をぶん殴るのですが、これはよくよく考えると結構な八つ当たり行為でして、真界と呼ばれる世界創造を果たした良守に母親の守美子も創造世界の主である宙心丸も「よくやった」と褒めているので、良守は「俺はよくやった」と自画自賛してよかったのですが、内心ではまったく面白くも可笑しくもなかったので、取りあえず時守を殴ったわけです。最終巻のひとつまえの巻の巻末読者コーナーのお題が笑顔であったように、終わりのころの話には笑顔が全般的に足りていないのですが私が言いたいことは良守は時音の自然な笑顔を引き出すには兄の正守にまだまだ及んでいないことに早く気がつけということです。足りないのは身長ではナイ…(ジャアナンダヨ)。時に良守がお役目を拒否した場合は守美子が独りで真界を創る予定でしたが、実力以前にお殿様のお好きなタイプを教えてくださいという時点で無理に決まっています。「大丈夫。なんでもおっしゃってください」と言われれば、じゃあ前と同じで・・・としか言えないでしょう。床屋か。妄想にツッコミを入れると真界の神髄は世界創造ではなく異界の遮断にあるので、例えば巨大隕石が地球を襲う場合に隕石に張り付いて真界を発動する(タイムリミットは考えない)と、隕石衝突による地球文明の滅亡を回避でき、かつ隕石の持つ質量と移動エネルギーを無尽蔵に術に回せるわけです(?)。まあとにかく、なかったことにできるという特大のメリットがあり、良守が術を日常生活で悪用しはじめると世界が終わってしまいます(精緻な分身が作れればいくらでもリスクを減らせる)。

 『溺れる者は藁をもつかむ』とはよく聞く成句ですが、これを対人関係で使われると、どんなに神妙で気の毒な様子だったとしても助けることはしないでしょう。藤子作品を読んで衝撃を受けたことは多々あるのですが、最近だとオバQことオバケのQ太郎を読んで驚きました。ここまで読者の気持ちに配慮して作品作りをしていたのか、と。わたしが海底鬼岩城で受けたショックは何だったんだよオイと、ちょっと指さして疑問を呈したい気分です。ゲラゲラ笑いたくてマンガを読んでいるので(本当は少し違う)アクセル踏みっぱなしなドラと比べると、Q太郎(新の方)はとんでもなく上品に感じます。ここで再遊記をひっぱり出して再読してみると、品とやらはともかく米倉、おまえ本当にかわいいなと再確認ができました。ジャマだからとオバQに邪険にされるドロンパですな。海底鬼岩城の序盤に挿入される母親たちのドラへの過剰な信頼はメタな話をすれば絶対に子供たちの日常は守られるという神話みたいなもので、まずのび太が疑問を呈し、そしてスネ夫が神話をぶっ壊すという暴挙に出ています。ひどい話だ。最近の藤子F作品のマイブームも、作品世界の崩壊の際(きわ)をウロウロする恐怖を感じて悦に入る私のひどい性癖の発露でしょう。

 『結界師』を最初から読み直してみると、本作のラスボスといえる裏会総帥の日永にわたしは肩入れをするタイプなのだと気が付きました。このキャラの解説をすると結界師本編のネタバレになるのですが、物語の縦軸は主人公良守と烏森との因縁の決着で、横軸は日永の超個人的な恨みによる復讐劇なんですね。前者にはヒロインの時音がすごい責任感で守ります!と無理をしまくり、後者には実質主人公の正守が最後まで面倒を見るという構成になっています。烏森の因縁も日永の復讐も、死にたいように死ねない奴が生きたいように生きようとする努力と達成感の物語となっており、主人公の良守は傍観者でしかありません。死にたいけど生きたいという人間(?)に結界師たちが寄り添う努力と根性の少年マンガなので、終わってみるとアレは一体なんだったんだ……と無道に愚痴をこぼす正守状態になります。若さが足りんよ。

 きっと誰かがどこかで書いているだろうことを私も書いてみますが、藤子F先生の作品群で主人公が明白な幸福への道筋を持っている場合(例。「大金が欲しい!」「美女と結婚したい!」「世界的な英雄になりたい!」等)と、そうでない場合(のび太を幸せにするにはどうすればよいのか 等)では、何かが決定的に違うはずです。Q太郎とドラえもんを並べて「おお。なんという感激!!」と・・・言わせてみれば、食い意地の張ったおばけとタヌキがいるだけですな。この二人は居候組なので大食漢でありながら常に家主に遠慮をしています。物語の主人公ではあるけれども異分子であることを常日頃から認識させられている存在で、たいへんな異能者ではあっても、日常を毀損する輩は放逐されると理解しています。ドモンとカッシュ博士の違いもそのへんで、ドモンは子供なのでいつも全力一生懸命ですが、カッシュ博士は遠慮は美徳だと理解しているので、興行と演技について一家言あるはずなんですよね。そんなカッシュに合いの手で皮肉の効いたジョークを(内心でビクビクしながら)ブッ刺してくるミカムラ博士を見てみたいです。私たちは対等な存在だとお互いを認め合うのは、Gガンの大切な魅力の一つですが時と場合によっては劇薬に転じます。ミカムラがカッシュにシャイニングの秘密を打ち明けたように。ルールのある見世物としての戦争にミカムラは真面目に取り組み、カッシュは巨体と耐久性が売りのゲテモノMFを作るわけですが、アルティメットガンダムは大会期間中に地球上を逃げ回り続け、本戦までサバイブできればいいコンセプトのMFです。戦って負けたら馬鹿をみるので敵が追ってこれない地中深くまで潜り高速移動でひたすら逃げる。誰からも嘲笑されるガンダムです。Gガン世界だとこれが正解なんだよと思ったりもしますけど。なおアルティメットGはロールアウト直前にミカムラ・ウルベ一派に急襲され正規の運用は一度として行われていないので、先に書いたGF大会期間中の運用方法はすべてわたしの妄想です。

 結界師、Gガン、らーめん再遊記(才遊記)と作品を斜め読みしていると、敵方の行く末に執着して作品を読んでいる気がしてきました。ドラゴンボールが顕著な例ですが敵方は手を替え品をかえ、読者が飽きないよう自在に変化して殺されます。ベジータの例だけでもクリリンが持つ日本刀で背後からグサリ(未遂)、恐怖と憎悪で錯乱しながら虫ケラだと思っていたカカロットに復讐の完遂を懇願して死亡、あれやこれやあって、最終ラスボスを道連れにして自害(失敗)、とバリエーションに富んでいます。楽しくなければ死ぬ価値はない、と贅沢な欲望を口にしてしまいそうです。結界師の笑顔が足りない問題も、根本の所はこの世に未練を残したまま死んでしまうとあの世で笑うことができないという問題にひっかかりそうで、無道がワキワキしながら笑顔満面(顔が多いと文句をいうな)で人々を悪の道に誘いそう。まあ、もっと人生を楽しめ、という先達のありがた~い教えを気軽に垂れる背後霊なので、害はあるはずもない。楽しさの共有という観点で少年マンガを読み直してみると、おそらく何もかもが上手くいかなくなると予想します。楽しさ、というものは一人でタオルケットにくるまって妄想している分には毒にも薬にもなりませんが、いざ現実に持ち込もうとすると様々な課題が見えてくるはずです。結界師ならケーキでできた城を作る! Gガンなら幸せな家族を取り戻す! らーめん再遊記シリーズ(少年マンガ?)ならすごいラーメンで世間をあっと言わせる! などです。ドモンの場合は楽しさの共有という他者視点はほぼないですね。正守が主人公であると仮定するのなら、「得体の知れないルールに縛られるのはまっぴらご免だ!!」ですかね(別に楽しくない)。端的に言って「独立したい」という野望なので、上の人間からやたら可愛がられるのは納得できます。そのくせルールを遵守することに実は愛着があるので、プロスポーツ団体の経営に適正があるはずです。ゴルフなんてどうですかね。

 競い合わなければ上達する必要もないのは真理で、より上手く、という手腕を平時において不満なく発揮し、有事において遺憾なく発揮できるのは理想です。訓練と練習で何が違うのかと考えると、辞書で言葉を引けば強制されるか自主的に始めるかの違いだと分かりますが、そもそも強制されなければ自主的に練習を始める人はそういないのではないか。なんだったか、オーダーメイドの商品に憧れを眩しさを感じてしまうと、マスプロ製品への愛着が薄れるのかという疑問と似ている。大量生産されていることに安心と信頼を感じているのに、職人の手間隙をかけた仕事に関心を持つのは矛盾した感情のような気がする。とまれこの話題は料理と相性がバツグンにいい。生きるか死ぬか、食うか喰われるか、塩とコショウで煮るか焼くか、野菜も摂取すると健康にいいぞと。そして火と水ですが、休日の朝というあっぱっぱーな精神状況では「きみィ火と水をガスコンロのつまみをひねるように、蛇口の取っ手を回せば水がジャージャーと出てくるように」と思っていないかい!!? 道具は貸しているのだからいつか必ず返せよ!無料じゃあないんだ。無料ではない。

 コナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズを読み始めたのですが、ページをめくる手が止まらないほど面白いです。ホームズは人格がちょっと破綻していて、紳士面をしていますが根っこの所は「この世から私の興味を引く事件がなくなるなら、そんな世界は滅んでしまえ」とワトソンに毒づく趣味人なのが面白い所です。ワトソンは妻帯者で常識人で名士であります。 考えてみるとホームズの怒りの沸点がどこにあるのかは興味ある命題である気がします。退屈を強制する輩は抹殺するに相応しい対象と思われますが、ここで退屈とはなんだ?と疑問を呈すれば、なかなか楽しいシンキングタイムになります。これは宿敵と設定されているモリアーティの人物評そのものに関わってくるはずで、ワトソンから見たホームズとモリアーティは宮崎駿が作るラピュタと唐傘連みたいな関係で、愉快な隣人と理解可能な本当につまらない組織(ただし怖い)といったところか。欲望を理詰めで煮詰めるのがモリアーティで、快楽を理詰めで構築したがるHENTAIがホームズ。湿気が多く温暖というより熱帯な日本では持て余す阿呆どもで、そのままでは日本上陸は遠慮してもらいたいですね…。まったく関係ない話ですが、人生で一度はアメリカで本物のショープロレスを見てみたいと思っています。イギリスに行ってみたいとは1ミリも思いませんが、イギリスイギリス・・・時計塔でも見て白身魚のフライでもパクつけば観光欲が満たされそう。油で揚げて閉じ込める。そして腹持ちはもちろん、長期の常温保存が可能となればインスタントラーメンも現地で食べてみたいものだ。UKロックスターはクズばかりとどこかで聞き及んでいますが、ボヘミアの醜聞を読んで一番引き込まれるのはホームズがガラの悪い知人友人を金で集めて人の家の前でケンカ騒ぎを起こし、その後に火のついた発炎筒を窓に投げ入れて火事騒ぎを起こす場面です。クズ過ぎるのですが、読んでいて本当に面白いのです。発案するホームズは弁護のしようがないですし、共犯関係を求められたワトソンも「大義名分があるならしよう」と、上流階級の人間が持つ鼻持ちならなさを感じます——が、面白いのですよね。ボヘミアの醜聞赤毛組合の短編二話を読んだだけですが、ホームズとワトソンのしようもない関係は十分に伝わりました。赤毛組合で依頼人の話を聞いて、我慢できずに爆笑する二人はなかなか酷く、そんな二人を好きになりました。写真を撮っておきたいくらいです。実は赤毛組合を読む前に本作の決定的なネタバレを踏んでしまい読書中は答え合わせをしているような気分だったのですが、読み終わって本を放っておくとこの短編がどんどん面白くなっていきました。劇中の登場人物である赤毛依頼人ことジェイベス・ウィルスン氏が天啓を引き連れてホームズのアパートにやってきたからです。シャーロックホームズシリーズの序盤の序盤で決めつけるのは良くないですが、ウィルスンさんほどユニークな依頼人はそういないでしょう? ホームズが日々求めている奇妙奇天烈な怪事件(とても笑える)を神がかり的タイミングで持ってくるのですから。ワトソン来いワトソン来いと、例の両手の指を山の様につき合わせるポーズでホームズが念じていたこと疑う余地がありません。ホームズは女嫌いで通っているとボヘミアの醜聞の冒頭でワトソンが書いていますが、人間関係のトラブルが事件の起因であり、それが母娘関係であった場合には目に見えてホームズのやる気がなくなることが予想されます。他所でやれよと言いそうになるのをワトソンが察してフォローしたことは何度かあったのではないでしょうか。与えられた能力(ギフテッド)を趣味的に使うのはワトソンから見たホームズの世界そのものといえるでしょう。好ましい世界というよりも美しい世界を彼は見据えているようだという珍獣を保護する観察人のようです。

 英国グラナダTV製作のシャーロックホームズのドラマの第一話をアマプラで観ました。何度か視聴して小説とドラマの違いで気になった点は大きく二つ。一つはアイリーン・アドラーとホームズの接点が丁寧に描写されていたこと。二つ目はホームズが急場をしのぐ為に用意した群衆が想像を超えていたことです。規模・質ともに私の想像を超えていました。用意できる時間を考えても、群衆に与えた役割を考えても、よくこの段取りを実行できたなと驚くほかありません。ホームズの茶目っ気は手の込んだ悪戯を正当に評価できる人物に対しての称賛とセットになっているようで、ワトソンにアイリーン・アドラーの話を振るのも遠回しに他者を誉めている(ホームズの機嫌がよい)のではないかと思います。ここで唐突にマンガのガイバーの話をしますが、この世に3つしか存在しないユニット・Gは物語の根幹です。熱心な読者なら一度は想像するであろう殖装者がユニットを重ねがけした場合はどうなるのか? という疑問を考えてみたいと思います。普通に考えればコントロールメタルが互いを感知して、強殖生物はユニットに戻される、何も起こらないはずです。制御装置は強殖生物を自在に制御し、強殖生物は欲望のまま捕食する行為を制御装置によって阻害されストレスを溜めつづけます。私は腰抜けなのでそのストレスとやらはガイバーの造形熱に転化されているとしてしまいますが、そもそもガイバーはなんの想定もなく生まれた規格外品なのでユニットの重ねがけが結果どうなるかなんて誰も知らないはずなのです。神も仏も畏れぬ不埒者がいるとすれば、己の興味を満たす為に苦労を厭わず行動し、対象に自分以上の趣味人としての矜持を見せつけてほしい欲望を隠し持っている人物ではないでしょうか。

 グラナダ版ホームズを連休中にゆっくり見ているのですが、ホームズを演じるジェレミー・ブレッドの奇人ぶりが見ていて新鮮で、小説を読む、グラナダ版ドラマを見る、また小説を読む、の幸せスパイラル状態となり、もっと窮地に追い込まれたホームズを持ってこいと末期のクズ人間になりつつあります。How absurdly simple! 今夜中にクモオーグ撃破で止まっているシン・仮面ライダーを最後まで観よう。緑川博士が死亡し彼の苦悩は奇麗さっぱり触れられない(触れるとたぶんルリ子が本郷にキレる)と確信していますが、迷惑過ぎる隣人は人生のエッセンスなので、燃やさずにバッグに叩き込んでいる父の日記をいつか本郷に投げつけてほしいですね。死にゲーと覚えゲーと忘れ得ぬ女性、ときて緑川博士の挙動不審っぷりにその娘ルリ子が言う仮想世界っぽい理想郷と面白ワードが揃ってしまったので、悪夢を見てうなされました。自分で想定した死亡ルールで何度も死んで、死んでやり直し生き抜くたびに世界ルールが追加公開される鬼畜仕様です。クローズドがオープンになっていくのが即死ルールのクリアといっしょなので(そしてわざと忘れやすいように邪魔くさいフローチャートになっている)麻薬的快感がセットという廃人育成ゲームです。マッドで天才で純情と三点揃った博士は封印するべき。ホームズのわざと危ない橋を渡りたがり芝居がかった演出を徹夜明けでも敢行する変人ぶりも改めて見直すとスゴイですね。付きあうハドソン夫人もなかなか堂に入っています(「海軍条約事件」)。この事件でホームズがワトソン、フェルプスにぼやいたのは深夜の屋外での見張りはほとほと疲れるということでした。ワトソンつっこめ。なんだ、膨大な手数を省くために君が疲れているじゃないか、と。伊達と酔狂を愛する友人だと知っているので野暮なことは言わないのかもしれません。

 そして急ぎ次の短編をほいほいと読み、グラナダ版ドラマを見ると問題作に突き当たりました。製作スタッフのワトソンへの人物評価が大きく揺らぎかねない「美しき自転車乗り」です。依頼人、ヴァイオレット・スミス嬢は正体不明のストーカーに悩まされており、そのストーカー男の正体と目的が知りたい(不快だが恐怖を感じているわけではない)。スミス嬢の変に凄いところは自分でストーカーの正体を暴けるならそれでいい(実際にストーカーを待ち伏せしたが失敗している)と達観していることです。また、25年間音信不通だった叔父の知り合いが急に現れ、急死した叔父から妹(?)とその家族の生活の面倒を見てほしいと頼まれたので、私たちを信用して頼ってくれないかと言われている(怪しい)。資産は人並み以上にあると言い、実際に立派な邸宅と申し分のない女性のハウスキーパー(イギリスでは良家で雇う家事手伝いは、その家の格に合うしかるべき良家から紹介された者を雇う。つまり自称叔父の知り合いは怪しいが信用できる紳士)がいて、10歳になる娘さんのピアノ教師を好条件で頼まれたので週一回でアルバイトをしている。ただしもう一人いる叔父の知り合いは下品で粗野な乱暴者で、恐怖と嫌悪を感じている。この奇妙な私の不安を解消してください、との依頼でした。ホームズは依頼を受け、依頼人の不安はそっちのけで疑問点だけをワトソンに告げ、独自の調査でよいので情報を集めてきてくれ、私は今、忙しいので全部まかせる。ただし、独自解決を図るのはNGだ。スマートにいこうと丸投げします。(※訂正あり。スミス嬢は邸宅に住み込みで働いており、週一回、母親の顔を見に家へ帰っている)毛が三本足りない、とは五ェ門がルパンを評して言った遠慮のない誉め言葉ですが、ルパンと五ェ門、ホームズとワトソン、この二組の決定的な違いは最終判断は己で決めるという決断能力の有無です。見放すかどうかは私が決めてお前次第だと、言えば喧嘩になるので言わないだけ(五ェ門は短気なので言ってそう)。

 「海軍条約事件」の名シーンは前述した事件解決パートの他に、薔薇の花を片手にホームズが神について語るシーン(後世でホームズの活躍を知る我々は、白目をむいて話を聞いていただろうワトソンにも感謝しなければならない)があります。この短編を読み終わった後にもう一度読み返すとこの場面のホームズは周囲の人間に対して韜晦をしていたと明らかになるのですが、問題なのは、己の有能さを押し隠すために神の名と全能への感謝を口にしながら、己に酔っているということです。最後のおいしい料理ですよバーン!まで、なんとなく絵図面を引いていた可能性があります。他者の苦悩は真実の追求の前には塵芥に等しい、とまではいえませんが、美の創造は神がこの世に与えたもうた最高の芸術だよワトソン、と本気で思っていますね。ロンドンへ帰る列車内でお世辞にも美しいと言えない街並みを「美しく、そして素晴らしい」とワトソンへ語るシャーロック・ホームズ(残念ながらドラマ化はない)は、他人に迷惑をかけないなら、いやそれでも、外に出しては駄目な人間だと思わずにはいられない。不衛生で汚れた街並みを見て、美の創造に思いを馳せる彼は同時に精神が泥沼に沈んだ依頼人おたまじゃくしのフェルプスを救い出そうと本気で考えている訳で・・・・・・・・・。さすがのジョン・H・ワトソンでもホームズを独りにはできない(もとより自分の同窓の友人の危機である)。微力ながら最大のサポートを尽くす覚悟だろうと思いますよ。そして実際フェルプスの体調を常に気遣い、フェルプスをロンドンまで連れ出そうとするホームズに対して医者としての意見も差し挟むことをしない。ホームズの言動に驚き、伝記作家としてイギリス中にその名を知られつつあるワトソンにフェルプスは質問をする。ホームズさんは何を考えているんだ、と。ワトソンは答える。

「ぼくはね、彼とのつきあいが長いからわかるんだ。——あの男がなにかれっきとした理由もなしに行動することなんて、ぜったいにないんだってことを」

創元推理文庫 深町眞理子訳 「回想のシャーロック・ホームズ」より)

 グラナダ版のドラマと、シャーロック・ホームズシリーズの原作短編が発表された順番は異なっており、当然ホームズが行方知れずとなる「最後の事件」までのシャッフル具合も異なっている。上記ワトソンのセリフも事実上の最終話だった(はずの)「最後の事件」の前日譚としてコナン・ドイルは執筆していたので、ホームズが薔薇を見て神の御業にうっとりするのも、ワトソンのホームズへの信頼度が上限まで達しているのも、なんら変なことではないのだ(無理だ)。ネットで検索をして調べてみると、「美しき自転車乗り」は放送順は4話目であるが、撮影に入ったのはこの話からなのだそうです。なんてこった。「ボヘミアの醜聞」ではジェレミーのホームズとデビッド・バーク演じるワトソンの関係にはほとんど関心が向かなかったのですが(二人の関係が自然であったし)、思えばアイリーン・アドラーがホームズに言った、

 Goodnight, Mr. Sherlock Holmes!

のシーンでワトソンの表情を追ってみようとも思わなかったが、あらためて視聴してみると・・・・・

 and  Watson.

アイリーンがワトソンにまで挨拶をしていた(小声で)。当のワトソンは聞こえていなかったようですが。ホームズには聞こえていたのでしょうか。美は与えられるものではなく、見出すものなのだ。我らが女王が世界にそのお姿を見せつけるのでなく、自らをお見つけになったように・・・。面倒くさい熱狂的な女王のファンより。

 ホームズの面倒くささは、動機の面では関心がうっすーいのに、なぜ誰にも(犯行の痕跡が)見つからないのか、いや、どうして誰の目にも入らないのか、という価値の分からん奴は紳士ではない(ほぼ人間ではない)という独断的で独善的なイカレ野郎だというところです。自覚はさすがにあるでしょう。

 「笑いには射程があり、その距離が近ければ近いほど、ネタの強度は身内に振ってよい」とはショーハショーテン1巻で畦道が言っていた、邪道な必勝法です。なぜ邪道かというとネタは苦労して産み出すのに対し、射程はある程度まで任意に設定が可能だからです。(ショーハショーテン最新刊の新ライバルキャラである絶サンはわざとその点を突いている。たぶん)これは英国紳士のジョークセンスにも懸かってくるであろう問題点で、そして畦道の果てしない物語の終着点でもあると思います。今のキャラ関係でいうと、ガラ靴はその射程の調整不利を承知で挑んでいるチャレンジャーであり、畦道と親和性がたいへん高く、すでにフラグが立っています。適当に書いたのですが、1巻を読み直してみると「足りないものを教えてください」とわざとやっているのかというくらい親子で似たことをしています。金を払ってプロに聞けば(養成学校に入学して卒業して事務所に所属する段取りを踏めば)いいのではないか? 親御さんもきっと安心するだろうと思います。畦道(父)の影響が、なんと大きいことか・・・。「背の曲がった男」はグラナダ版では第5話。小説発表順だと20番目。浮浪者の体でアジアから来た素性の分からぬ肢体不自由な男、と全部盛りの不審者が主人公ですがその彼を一目で見抜くのがヒロインのバークリー夫人、旧名ナンシー・デヴォイ。小説を読んでからグラナダ版を見るのですが、プロットは何一つ変えてなく、ワトソン周りが賑やかに変更されていました。女性の気配がこれでもかと剝ぎ取られ、陸軍連隊のスキャンダルに敢然と立ち向かうワトソン。ホームズが乗り気になる要素が一つもなく、連隊長の浮気による刃傷沙汰だろうと目されている事件の解決に乗り出します。結論から言えば事件ではなくただの事故だったというホームズの出番はほとんどない話なのですが、イギリスによるインド植民地支配とインド独立の騒乱のさなかに起きる男女三人の愛憎劇となっており、ホームズ番外編といえるお話です。連隊長バークリー大佐の邸宅内の様子、従卒やメイドの訓練された動き、教会での恵まれない人々への施し、兵隊酒場での喧噪、30年前の思い出だけを胸に故郷で死ぬために帰ってきた男、とホームズ譚である必然性はあまりないかもしれません。ホームズが言うところの、目的がない犯行ほど難しい事件はない、を体現しています。奪われたのだから取り戻せ自分の手で!とは私が中学生のころに刷り込まれた行動原理ですが、人間には都合というものがあるのだから核戦争後の無法地帯でもない限り、ある程度は分別が必要です。ワトソンも劇中で言っていました。戦争から帰ってきた兵士がなんの脈絡もなくふさぎ込む症例がある、と。

 身も蓋もない比喩だなとグラナダ版を見終わって思いました。愛しい女性を戦争(と同僚)から奪われた「背の曲がった男」と、ドラマ本編中では女性遍歴も愛しい妻とも会う機会を奪われた「背筋を伸ばした男」。あの酒場の喧噪は青年時のワトソンの記憶そのものでしょう。それとも軍医様はあんな酒場には出入りしないのでしょうか。ワトソンとその奥方に、遠慮をしているつもりでまったく遠慮していないホームズは見られないわけで、シャーロック・ホームズファンからすれば大変な損失です。What do you say,Holmes? 汎用性が高そうなセリフだな……。ちなみにグラナダ版、小説内でホームズに対しはっきりと侮り訝しむ態度をとった人物はスコットランドヤードの刑事フォーブズだけです。そのうちレストレード警部が出てくるのでしょう。デビッド・バークのワトソンとのツーショットが楽しみです。日本語字幕、英語音声で視聴した後に日本語吹き替えで聞いてみると驚きの展開が・・・! バークリー大佐の声に聞き覚えがありました。「茶? 茶だと? こんな時間に茶か!」(いぇ~ぃ)

 総じてバークリー邸の使用人たちはバークリー大佐よりもバークリー夫人、奥方を敬う傾向があります。単純に大佐が嫌われ者なのか、婿養子同然の結婚だったので下賤な生まれを内心で軽蔑されているのか、理由は不明です。短い登場シーンだけを見てもバークリー夫人の上流階級の女性としての立ち振る舞いは完璧で、大佐が自分の妻に憧れを抱き、同時に浮気を常に疑っているという態度があからさまで、そのあたりが女性たちから軽んじられる理由なのかもしれません。

 Jane,is that you?

 (Omitted)

 Am I a pathetic man?

 Ye… No,sir.

 Really??

 Not to my knowledge,sir.

 か~ら~の、

 Oh,how could you do such a thing,it was evil!

 愛する妻からのすっごい罵倒。メイドのジェーンは必死でドアをノックしていたので聞こえていなかったようだ(ホントに?)。いや、ホームズに説明していたか。臆病者(coward)と言っていました、と。彼女の発言に真意があるとすれば、夫のバークリー大佐を非難をした事実はあれ、否定はしていません、と女主人を守ろうとしたのでしょうか。吹き替えを担当した榊原良子さんがジェーンは何を思ってホームズに嘘をついていたのかを書いてあるインタビュー記事があればなあ。正直、この悪魔! からのデービット連呼は場合によってはホームズの聖書への連想を早めたかもしれず、いや、そこまで気を回すかはなんともいえないか・・・。まあこの話の感想をまとめれば、大木民夫さん声の館主人が部屋の呼び鈴を鳴らすとドアをノックしてから「なにかご用でしょうか?」とメイドが用を聞きにきてくれる環境だということです。意味もなく何度でも呼び鈴を鳴らすね、オレは! ブチ殺すぞ…とメイドから言われる直前までチャレンジするぜ!(従卒が付いているのだから、そちらに殺意が飛び火する可能性を忘れていた・・・)

 夫が妻の社会奉仕活動を煙たがるのはヴィクトリア朝時代の上流階級では普通のことだったのでしょうか。ナンシー(バークレー夫人)が夫に激昂した最大の理由はかつての恋人を罠にかけて殺そうとした事実もありますが、彼女の夫へ責め立てる様子を見ているとヘンリー・ウッドの名誉を任務の失敗という汚辱にまみれさせることで原隊への復帰を阻止する意図があったのではないかと想像します。紳士なんて冗談じゃない。裏切り者の卑怯者。彼の献身を己の欲で汚した背信者。それがあなただ、というナンシーの怒りです。

 女性の怒り、といえばホームズの無神経な一言でナンシーの友人であるモリスン嬢を怒らせていました。「背の曲がった男」とナンシーが出会ったことを秘密にするという約束を破らせるために、「このままではバークレー夫人は夫を殺害した重要容疑で被告席に立つことになる」「この事件の事実の一端をあなたが握っていると、ぼくは確信している。彼女のために事実を話してください」と友人の危機を救うために約束破りを唆したうえで、「——なるほど。お話いただきありがとうございます。このことは警察に話しましたか?」と言って、モリスン嬢を怒らせたのです。ワトソンが代わりに謝りましたが、海軍条約事件の薔薇の時といい、事件解決の謎解きに没入するとホームズは高い確率で依頼人周りの女性を怒らせますね。

 シャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルがゴリゴリの愛国者であったことは彼の伝記を調べるとすぐに記述が出てきますが、ではシャーロックが大英帝国に忠誠を誓う紳士であったかというと、相棒のワトソンから見ても国際政治には「きわめて薄弱」と太鼓判を押されているので、作者のドイルからすれば鼻で笑うほどの社会不適合者として彼の活躍を書いていたのかもしれません。これはワトソン≒ドイル説の亜流の端っこみたいな奴ですね。社会不適合者、稚気を感じる無職っぽい人間、エキセントリックなトリックスター。まだ未読ですが、「最後の事件」の展開はワトソンに心労からくる死を選ばせるほどワトソンいじめな話になりそうです。ガイバーにおける、瑞紀と哲郎が晶のことを死ぬほど心配している問題と構造はまったく一緒です。晶はいっちゃあなんですが村上が出てくると(晶のことを心配している)人の話を聞かないですよね。一方通行の関係でありながら互いに決着を望んでいるのは、推理小説の作家と読者、ロンドン悪の秘密結社のボスとホームズ、マーレ戦士団と調査兵団、アルカンフェル一党とガイバー一味といったところですか。一つめと最後は別に仲が悪いわけではない。腹の探り合いをして笑顔で接しているだけです。緊張関係が続くと疲れるのでアイドルはやっぱり必須であると思われます……。

 人の話を聞け、といえば『進撃の巨人』主人公エレンが一大決心をしたきっかけである「本当にガッカリした」事件ですが、そもそも親友アルミンがエレンを煽りまくった(「壁」を破壊することはエレンの持って生まれた衝動だが、壁の向こうにボーナスステージがあると煽ったのはアルミンである)結果、あの騒動が起きたので、エレンのあんまりな告白を聞いた後にアルミンは自分の夢をエレンに聞かせたことが「地鳴らし」が起きた要因だと知ったわけです。エレンは自分の発言がアルミンに地獄の覚悟を促すきっかけになることを自覚するべき。コミック最終巻はまだ読んでいないので、NHKのアニメを見てから読みたいと思います。ガイバーもそうですけど、あんな小さな身体に小型核攻撃なみのエネルギーを封じておく超大型はおかしい。咢と超大型と車力が悪魔合体すると永遠に破壊活動ができそう。ライナーは死ぬ。

 グラナダ版ホームズを見ていると、登場人物たちの行動が日本人であるわたしから見て「恥」についてどう考えているのだろうと疑問に思います。特にボヘミアの醜聞。形骸化している・・・というか、得体の知れないマナーとして英国紳士を支配している紳士らしさとは何かということです。マーレがイギリスでエレンがベイカー街をうろつき歩き悪ガキどもに因縁つけられて口を開くとよそ者とバレるのでコインでもぶん投げるかと思案しているところにホームズ&ワトソンが通りかかったとしましょう。ホームズに見つかるのは致命的な運の悪さですが、スタンド使いよろしく変人は変人を呼ぶので運命というやつでしょう。またその話か、もう飽きた、と言われるでしょうが、自身を見つめて自分を笑う時にその距離間をどう保つかは誰もが無意識に間合いを取っているはずです。普通、自分の努力したことを笑うことはしないはずですが、他人の努力は平気で笑ったりしますよね。自分の目で見た様子と、同じ場所同じ時間で写真を撮った映像では印象がガラリと変わるのはよくあることで、部屋が散らかっている整理整頓ができていないことを写真で見て教えられるのは、その典型的な例といえるでしょう。イタタ・・。よく探偵小説は人の暗部を白日の下に晒す悪趣味な作品だと陰口を言われますが、欲と使命感(と所属意識)でもはや立ち行かない状況を理路整然と説明する空気読めない奴は探偵をおいて他にいません。俺の近くに来るな。 こと殺人となると、それが犯罪なんだと社会が認めるのなら、見つめ解きほぐして元に戻してあげるのは社会の医者の仕事なんですかね。劣等感と欲にまみれた人間にはほとんど天敵なので、太っている人に「食べ過ぎですね。(以下親切な助言が続く)」と説明するのは危険だし、変えようのない事実にメスを入れようとするのは越権行為ですぜ。町奉行所の与力と同心が寺社奉行所の管轄に探りを入れるようなもので、譜代の殿様の顔に泥を塗る気があるのならやるのでしょうが、そんな馬鹿はいない。呪術廻戦で出てくる反転術式を無償の愛とするなら、「愛がただのはずがあるか」と宿儺に言わせるのは伏黒なんでしょうね。硝子の愛はお金で買えるの?と聞くのは五条悟。

 ホームズとワトソンの関係性は突出したアンバランスと、常識と良識の折衷関係がたいへん程よく気持ちがいいです。確固たる人間性ってなに?と自分に聞けば、いてもいなくてもいいが、いてくれるととても嬉しいと思える関係性ですかね…。自分につっこむとそれ相手の人間性じゃなくて自分の願望だよね?としか思えない。つまるところ、自身に揺るぎない人間性がないとその願望は維持できないので、自分が大好きで相手のことが大好き(東堂だ)な状態ですね。常にパーフェクトを維持する姿勢。アニメのエピソード19、「黒閃」をまた見るのだ。花御戦序盤での「コクセンッ!」空振りから悪態をつく悠仁。怒りで我を忘れる悠仁に平常心の大切さを説く東堂。感情で自分を持て余すのは未熟者のお前には使いこなせない。収めて戦え。東堂が視聴者に黒閃の解説役を買って出て、その心の内側にある退屈への憎悪を裏返すきっかけであった恩人を思い出すとき、虎杖は東堂の期待に応え、花御に四連続の黒閃を決める。ブラザー。お前からはいつだって予感がする。あの時と同じ、退屈が裏返る予感ッ!(花御はとても憎みきれない呪霊で、東堂のブギウギラッシュを喰らっても機嫌を悪くする様子がない。ブギウギの必中効果(効果が必中)に怒りを露わにするのでもなく、落ち着いて領域展開からの一撃必殺を狙うあたり真っ当な強者である。引き際の正直さは見習うべき美徳で、なんか今度のアニメ化で退場するらしいと聞いて少しがっかりしている。)

 東堂と虎杖悠仁は疑似的な師弟関係を結んでいるが、悠仁にとって本当に必要な師は宿儺の指をなぜ悠仁だけが自我を保ったまま体内に保持できるのかを悠仁の身を案じつつ解明できる人間であり、呪術廻戦の本編上では夜蛾がその任に相応しい人物であったと思われる。彼の名言、「呪術師に悔いのない死などない」は「結果に満足して死ぬことはない」とも言い換えられ、負の感情をエネルギーに転化する呪力操作は普通に考えて善人は使用できないはずなのに、七海と夜蛾は至って善人であり自分たちの後輩を教え導く責任感もある実はどうかしている人たちなのはなぜなのだろうか。そもそも最初から善人だったのか、悪性が転じて善人になったのか、善人のふりをしている悪党だったのか、この二人の人物評を五条悟から聞いてみたいものだ。ちなみに東堂の脳内妄想癖ですが、彼の脳内CPUは妄想を現実として認識しているので呪術関係者を含むほぼ全人類が東堂を気持ち悪い奴と認識しています。もし、東堂が領域展開を必要に迫られて発現する場合、正気を保っていれば(正常な正気の人間)それほど気持ち悪い現象は起きないはずですが正気でなければ死ぬほど気持ち悪い現象が発生するはずです。花御戦での悠仁は、なんとなーく東堂の漏れ出た領域に当てられたのではないかと推測します。「デリカシー」という言葉をネットで調べてみると、繊細・微妙と説明がなされています。原因があり結果があるのはとても分かりやすい話ですが、研究室の中で発生する現象と、日常生活で発生する事件とでは、結果を追い込む際に生じる不特定要素(の発生)がベテランであればあるほどいくらでも気を回す(一円にもならない)ので、遠回りをして結論にたどり着くこともあるでしょう。最短ルートをなぜ通らないのか、という失望と怒り。お金に換算できる説明は「なぜ最短ルートを通らないのか」と詰問されると、条件の発生は多岐にわたり、個別にあたるには時間をかけた観察が必要で、他と同一の環境に置かれていれば、結論を早めることは可能でしたと答えるのでしょう。よりよい状態を志向する考え方は、それを商売と考えないのなら、いくらでも自由に選べる。得体の知れないポリシーを行動の指針としているのなら、東堂が高田ちゃんの生放送番組を欠かさず視聴し録画も忘れないように、デリカシーのない発言は厳に慎むべきなのだ。(でも東堂に正論は言ってよい。「おまえはどうしてそんなにマヌケなんだ?」と心から心配されるので、一生ものの思い出ができるだろう)正しい呪術師の在り方は非術師を呪いから守ることだと夏油は言っていましたが、退屈から自分の身を守るには夢中になれるものをどこかから見つけるべきなのでしょう。要するに夏油はヒマだったんじゃないでしょうか。親友とつるんで怪物退治をする機会もなくなり、呪術師としての成長も頭打ちになった(ような気がしている)。食べる呪霊の味はクソ不味い。どうかんがえても生活環境を改善するべきで、ダメ元で硝子に自分の生活環境を変えたいので面倒をみてほしい。金は払うと言うべきでした。べきべきうるせー。映画、呪術廻戦0を改めて観ると真希がズケズケと自分家の内情を乙骨に話し出して禪院家をぶっ潰すと宣言しているので笑った。「なに笑ってんだ乙骨。御三家を潰したら次は特級(術師)だからな?」「え、僕も?」「全部潰しておかないと仕返しされるだろ。やるからには徹底的にだ」(なんとなく三位一体の話を寝て起きたら思いついたので適当に書く。伏黒と乙骨と虎杖の三人のうち、一番格が低いのは虎杖だということで間違いはないだろう。この場合の格は、寝て起きて生活してきて、周りの人々からどれだけ影響を受けてきたのかの総量みたいなもので、ひどい話、ATフィールドが強ければ強いほど、刺さる影響の質量は無限大に上がっていく(ATフィールドを突破されるとメチャクチャ刺さる)。悠仁が伏黒、乙骨と比べて社交的な性格をしているのは明らかで、これもまたひどい話虎杖は八方美人を地で行くところがあり、祖父の遺言「みんなから好かれろ。俺みたいになるな」は止めを刺していて、夜蛾が虎杖を心配するのは教育者としてまったく当然で、虎杖くんは自分で望んでもいないのに人から好かれたいと思っているのか?それは偽善で、君を好いてくれる人々を失望させている。亡くなった祖父を大切に思うなら、祖父の遺言を金科玉条にしてはいけない。その覚悟が出来てからもう一度ここに来るべきだ・・・。東堂の領域展開は自身の内側にへばり付いている愛が裏返って表に強制的に出てきてしまう地獄絵図で間違いはないと思いついた。東堂への殺意だけが無制限に上がっていく領域なので、術者にメリットはない)

 呪術廻戦0の冒頭シーンで乙骨憂太の処分について五条悟と呪術総監部が意見を交わしていますが、正体不明の過呪怨霊・折本里香を祓う手段は見つかっていないことから、乙骨を死ぬまで収監するか、呪術師の監督の下で乙骨本人に折本里香を祓わせるかを決めているのです。呪術総監部を頂点とする呪術師の世界は人の世に仇なす怨霊や呪霊を実力で排除するので国から権威を与えられているのですが、特級呪霊という別格に強い怪物たちにはほとんど無力であり、天元という結界術師の補助を得て、一般人の生活エリアに被害を及ばないように努力するのが組織の力としての限度になっています。ただし、この世に4人しかいない特級を冠された呪術師は特級の怪物を祓えるので、呪術界が組織の体を成しているのは、4人の特級呪術師の中で唯一、呪術総監部と連絡が取れる五条悟が気まぐれで仕事を請け負っているからです。と、ここまで書くと呪術廻戦の登場人物の一人、秤金次がおいしいキャラだと気づくようになっていました。見世物バトルで興行を行い、興行主として独り立ちしているキャラです。幽遊白書でいえば幻海と戸愚呂が参加したトーナメントバトルの"最強"が興行主だったというオチを秤が仕込んでいるわけです。観客は非術師(の金持ち)なので現在進行形で呪術師の掟第8条「呪術の存在は非術師には内緒」を破っています。呪力で体力を底上げした人間同士の殴り合いの賭け試合ですが、真希が使っている呪力の付与された眼鏡があれば術式を使用した演出も見れるので、成功待ったなしのブルーオーシャン市場といえるでしょう。領域のバーゲンセールだぜ・・・()。領域の始まりは空間内に強制ルールを敷く「だけ」だったと作中だれかが言っていました。ルールを破った場合のペナルティの開示も最初期はもの凄く軽い(「負ける」≒「ルールに抵触する」≒「恥をかく」ぐらいのもの)ので、花御と漏瑚が苦労して領域展延を仕掛けるよりも、トランプを指し示して「ポーカーやらんか?」と本人がポーカー狂なのが前提ですが、トランプ勝負を申し出るくらいでちょうどいいのかもしれません。呪いもバクチも、面白いか、笑えるか、熱くなれるか、ぐらいがちょうどよく、金次の「“熱”に嘘はつけねぇ!!」は本当にいいセリフで「オイオイオイマジかオマエ」「超つまんねぇじゃん」からの心の中からのギクッ——!は、呪術廻戦の本編をすべて総ざらいしても、真希の「聞けよ。なぜわたしが落ちこぼれなのか」の心情を想像するのと同じくらい、イイですね。呪術廻戦0は「呪術師とはなにか」という呪いの話でもあり、らーめん再遊記がラーメンとはなにかを始めてしまう憎悪と解呪のお話なのと少しだけ似ている。らーめん再遊記の1巻は何度読んでもいいお話で、業界の生けるカリスマであり、業界の中では醜い自己顕示欲の権化としても知られる芹沢の黄昏モード(バーでの有栖との会話は憎まれ口に覇気がなく、後進の暴走に対し制裁する気力もない)がイカれたラーメン馬鹿の本性を取り戻すまでのブッ殺しストーリーなので、いつ読んでもイイですね。2巻、3巻、と続きを読んでいくと、どちらかというと芹沢が呪いをかけているほうで呪術廻戦の乙骨と違って自分の醜さに絶望したりはしないで、いかにマウントを取るかに自然にシフトしていきます。藤本(1作目の主人公)や汐見(2作目)は芹沢の薫陶を強く受けていますが、藤本には小池さん、汐見には夏川が身近にいてくれるのでマウントを取って愉悦に浸る悪癖は最小限に抑えられているはずです。五条と夏油のどちらが魅力的かと考えれば、3:7で夏油が魅力的だと言えます。呪術廻戦を読んでいると、呪術廻戦0を見ていると、いかに夏油が自分に嘘をついて頑張ってしまうお話を見せられているか、違和感が真面目に頑張る姿を見せられることで化学反応を起こし、相当に滑稽で笑ってしまいます。最強でいたかったけど最強ではいられなかったことの照れ笑いを大義とかで覆い隠そうとする真面目君のストーリーなので、身近な動機すぎて過呼吸になってしまいそう。夜蛾にぜひ聞いてみたいものだが、黒閃と反転術式の存在と習得を高専で教えているのだろうか? 若者が呪術師として人生をよろしくやっていくうえで、偶然でもいいから黒閃を経験することと、反転術式の存在を知っていることは生存率を撥ね上げる要因となる。真希が特級呪術師を「冗談でしか聞かない存在だろ」と言っていたように、あるのは知っているが、一般人から見たイーロン・マスクか宝くじ5億円みたいなものなのかもしれない。昭和の時代から何も変わっていないような古臭いラーメンを食べるとホッとする。芹沢の心の中では古臭いラーメンと革新的なラーメンが同居していて、ある日、ニューウェイブ系の頭目としての自分が裏返ってしまい自分のしてきたことの意味・価値に理由がつけられなくなってしまった。とりあえず昭和の遺物みたいなラーメンを食べてボーとしているのが再遊記1巻の芹沢なわけです。チャルメラの鍋から匂い立つスープの香りこそがラーメンの神髄だッ!(読み直すとそこまでは言ってない)いったいあの頃はなにを考えて生きていたんだろうな、と。

 アムロガンダムのコックピットに座らなければ有名人にならずにすみ、乙骨は真希に発破をかけられなければ夏油を圧倒せずにすみ、虎杖悠仁は祖父の遺言を聞かなければ、宿儺の指を飲まずにすんだかといえばNo!でしょう。飲みましたよね。死に直面するなら正しい死がいいと本人が決めたことで、祖父の遺言はきっかけの一つに過ぎない。名探偵を誕生させるには地獄の一丁目一番地であるガンダムのコックピットに座らせる必要があり、成りたくて成るのではなく、成させるために成させる必要がある。ザクを殺すためにガンダムが造られ、特級呪物の完成形として乗員が必要であったように。必要に迫られて誕生するというのは、いかにも呪術師らしい。おそらく夜蛾は生徒たちを戦場へ送り出す立場と責任から呪霊の発生原因の追究をやらかしているはずで、当然九十九の異端研究にも触れた可能性があり、呪いとの戦いと並行して生徒たちが無事に成人し(御三家管理での呪術界の元で)子をなし親として成長し、死ぬことを望んでもいたはずで、五条の「学長ー!!」「呪術師に悔いのない死なんてないんじゃなかったんですかあ⁉」は、学長の心、生徒知らずにもほどがある。七海の毒舌が冴えわたるのも道理で、夜蛾の五条を半殺しにしたいけど大人だから我慢する心情は七海が空港に併設されたバーで聞かされることになるのでしょう。もっと言ってやっていいぞ。人を呪わば穴二つ、といいますが、宿儺の五条殺しを見ているとせっせと自分の墓穴を掘っているように見えなくもなかったり・・・。宿儺の天敵は呪い返しに特化している呪術師で、愛はいらないから金をくれを四の五の言わずに徹底している術式であると推測します。世界一の我儘はすべての我儘が通ることであり、金と時間に換算できないものはいらないと縛りを設けることですべての呪いを返す術式・・・・・・五条に与えられた最強を無碍に返す無責任術式。考えてみると乙骨の術式のコピー能力は相当に人外の能力ですが、飛んでくる術式を見て理解して無効化して再構築して送り返すのは、ほぼほぼ無理な芸当で、五条悟の目とリカの消化能力(無理がある)と乙骨の再現能力と石流の放出がきちんと順を追って出来て、はじめて可能となる。どんな脳内CPUを積んでもできるわけはないのだ。いきなりは。五条家の生得術式はこちら側にむこう側から辿り着くことが(永遠に)できない術式となっていて、術式を定着前に調べて境界の境目がどう構築されるのかを延々延々延々と調べて、表面と裏面の構成オタクと化せば最低限の呪力で領域の生成と必中の反対である必ず外れる領域効果を付与できたりするのでしょうか。必ず中らない領域。別の言い方をすれば見つからない領域ともいえるので、諸処で上前を撥ね放題にできる(バレっこない)スーパー省エネな術式運用が可能になるかもしれない。泥棒だが。悪いことしたなあ、と、すまないことしたなあ、は同じようで全然違う。悪いは善悪の彼岸だが、すまないはあり得たかもしれない未来に対しての謝罪だと思っている。つまり、すまないと思ってないと判断した時は、もっと笑える未来があると判断している。五条家が謎なのは誰に対して六眼&無下限呪術セットの当主を望んでいるのかがさっぱり見えてこないことで、いくらでも砂金が湧き出るツボがあり、蝶よ花よとおだてないと機嫌を損ねて役に立たないとすれば、じゃあそのツボを地面に叩きつけて割ってしまおうか(駆け引きはしない)という話で、花はさておきツボの価値は砂金を吐き出すから価値があるのかツボそのものが大切だから大切なのかはツボにとっては一大事なわけです。当たりと外れがあるんだよー。その違いは望まれた通りの姿で生まれてくるかどうかだよ。まさか生まれてくる前からえり好みできる人間だと思っているのか自分のこと、と。五条の家では一族あげてがんばっていたのではないかという疑惑ですね。東堂は金・権力・名誉よりも高田ちゃんの愛を欲していますが、身内である京都校の仲間全員からも気持ち悪がれ嫌われています。まあ当然の話なので今更なにいってるんだという話ですが、場違いである、身分違いである、いくら金を積んでも届かない高みにいる、月は美しいが手に取ることはできない(個握、全握は別)。と、本当に東堂は気持ちが悪いですね。東堂の術式、不義遊戯を使って全力で攻める場合、相手の攻撃の「起こり」に合わせて入れ替えをするのが最善で、領域展開を空振りさせて帰ってきたところを集団でボコるのがベストな使い方です。ブギウギの射程にもよりますが、東堂は存在を隠している方が(潜んでいる東堂がどこかにいるかもしれないと思わせる方が)余計な思考を強制できるので嫌らしい攻め方ができるはずです。無下限呪術と同等のパフォーマンスを見せつつ、まったく別種の術式を使用している呪術があったとして、情報の伝達手段を無限の容量を持つ記憶媒体を通すことで何もかもが理解できる(はずの)領域を作成し、分解と再構築をフルオートで(独り相撲で最も効率的な規格があるはずだと延々と同じことを繰り返し)作動させる術式。無下限呪術から逃げ切ることを主題としてとしているので、もし対峙した場合は「洗練などクソだ!」と叫んで(死亡フラグ)情報を手当たり次第ぶちまける。肝心なのは逃げ切ることなので、少しでも気を引くような情報をメッタメタに放出する。「VHSとベータの違いはご存じかな?」「呪力を電気、術式を家電に例えようか」「自分たちを取り巻く世界を映画館だとするなら、呪力は信号であり術式はその再生機となる」「音の良さは一定以上の品質まで上がるとほとんどの人間はそれ以上関心がなくなるのに対し、世界の視覚化は圧倒的情報量をいかに高速に処理するかで皆が目を回してしまう。おかしいとは思わないか。その映像を早送りにすると、もう視覚からの情報に意味を感じなくなりただエンディングまで見届ければいい心境になる。目を皿のようにしてコストをかけ、ようやく情報を得ようとするのに、そのせいで疲れ果ててどうでもよくなってしまうんだ。呪術師がこの稼業から足を洗いたくなる理由なんて身内の死を除けばほとんどこれだよ。犠牲と得る物のバランスが釣り合っていないんだ。ほっとけという話(逃げる)」領域そのものをテープとカメラと機材一式に見立てて撮影し、後で自身の領域内で再生するってーのはどうか。最初期はなにもかもがデカくて重い。これはつくづく秤の野望と相性が良く、「今のシーンをもう一度見てみましょう」と感動の名シーンを様々な角度から振り返ることができ(試合が早く終わり過ぎた時は過去の名場面プレイバック集をBGMと解説付きで流すこともできる)呪術ビデオが実用化されるまでは小遣いが稼ぎ放題ではないか…。他者の思念を読み取ってテープに保存し規格が合えば家のテレビで再生して見れるサービスも始めれば引く手あまただ。(殺されそうだが)宿儺退治はどうせ誰が戦っても負けるのだから、負けるのが怖いのか?と宿儺を煽りこちらの土俵で戦わせるのが最善にして唯一の方法だろう。ルールの勉強から始めるので「こんなこともわからないの!?」と宿儺に指導ができるので、勝とうが負けようが悔いなどあるはずがない。勝ち負けではなく、ピースのばらけたパズルを前にして、

 「このパズルを完成させた時に見える図柄は何かを当てるゲーム!」

とかを始めても、そもそも図柄などは最初からない可能性もあるのだ。インチキゲームというか規格のない状態での退屈しのぎの遊びなどすぐに飽きるし、子供の外でやる遊びなんて即興でルールが変わるものだ。雲の形を見て動物に似ているといって笑っても正直そんなに似ているか?と思う子供もいるだろう。ほとんどの場合、遊びに誘うのは仲のよい友達なので(そしていっしょに空を見上げようなどと、気難しい相手を誘う人間は子供・大人問わずいない)遊びたいと思ったときにすでにルールは本人の中で(ほぼ)完成されているといっていい。宿儺がユージのマヌケ顔を見て可笑しみを感じ、裏梅といっしょに笑う場面など、なんのてらいもない、いい笑顔だといえるだろう。「なんで!」「おまえは!」「人によって!!」「そんなに態度を変えるんだ!!!」

 呪術廻戦0での真希ならびに本編での秤金次ですが、彼ら二人は根っこの所で似た所がありそれは御三家が仕切る呪術界の在り方に不満を持っているということです。真希は乙骨に全部話してしまいましたが、自分と妹を見下している家と家族とついでに呪術界もまとめて痛い目に合わせて泡を吹かしてやろうと思っています。秤は旧態依然の呪術界に何一つ面白みを感じないので、面白れー祭りを起こすべく勝手に喧嘩賭博場(呪術規定に違反した一般人に呪力の存在を明かす犯罪も犯している)を開いています。呪術廻戦の世界では、日本国の法規が適用されない犯罪の一部を呪術界が勝手に裁いて断罪しています。伊地知さんたち黒服組は警察組織との折衝も担当せざるを得ず、本当に苦労のわりに見返りがないというか、大変な仕事ですね。秤は他人から協力を頼まれた場合は相手がどれだけ自分に"熱"を伝えてくるかを最重要視する男で、日車と相性最悪だよと思わせて、実はその人の人格や能力や来歴にほとんど興味がなく(言い過ぎ)、一発逆転を狙う熱量に惹かれているという点で、日車と秤は同じ穴のムジナと言えます。低俗、高尚をバクチで例えてしまうと大変危険な香りしかしないので絶対にしない。低俗、高尚でいえば、伏黒と真希の「呪術師としてどんな人達を助けたいですか?」問題(コミック2巻、第12話「邁進」に収録)も味わい深く、性格悪い人間が己の主義主張を通すために呪術師をやっている(と乙骨に言ってた)真希は「誰が助かろうと私の知ったこっちゃないね」とロクデナシ呪術師の本懐を述べていました。乙骨が聞いたら「真希さんはみんなのことを勝手に助けちゃうから答えようがないんだよ」と絶賛するのでしょう。しゃけ。一発逆転を明らかに欲している人間は周知の醜悪、知った上でその醜悪な人間としての人生を選択をしてきたはずだ。夏油の苦悩は与えられた役割を果たすのは強者に生まれた人間の責務と自分の可能性の限界まで自分を信じる高貴な人間としての役割を信じたことにあります。月が欠けていないのなら望月としての役割を果たすべきだという傲慢な考え方ですね。呪術廻戦0では七海の出番はほとんどなく、原作コミックではヒトコマも描かれず、映画ではなぜか高専にいる。七海はコミック4巻で真人の領域展開を喰らい、死に際の走馬灯で脱サラの経緯を振り返るのですが、夏油が起こした京都百鬼夜行時の前の出来事だったのですね。京都校の生徒たちの苦境に黒閃テーマソングとともに颯爽と現れ4連続黒閃をキメる七海。京都校二年の東堂たちも参戦していたので、グラサンの七海さんの4連続黒閃は京都校では語り草になっていることでしょう。強くて驕らないので(東堂…)京都校関係者からの好感度数は誰よりも高いのではないでしょうか。五条悟の人格批判を公言していそうな所もポイントが高いはず。東京にもまともな呪術師はいる(みんな視線だけ東堂の方を見る)。七海一級術師の推薦が欲しい術師は隠れファンも含めるとかなりの数がいそう。御三家と接点がなく発言力がある術師は極少でしょうし、黒閃連続発生タイトルホルダーの肩書(かなり恥ずかしい)も知名度上昇に一役買っているでしょう。つまり、真希が七海と師弟関係を結ぶことはメリットしかない。そしてそんな展開はない。虎杖が自由時間にパチンコを打つように、真希は禪院家を壊滅させますが(自分で書いてパチンコの代打ちと真依のお願いを一緒にすんなと思う)必ずしもそうしなければいけなかったわけではない。秤の術式は博打からの由来ですが、昔からそうであったようにこれからもそうであろうというのは術式の縛りに転用できそうな要素で、呪術廻戦の本編で「時間の未来視」、「時間の分割による強制早送り」、「時間内における運の総量を偏らせ爆発させる」等の、過去は未来へと繋がっていることを利用した術式が多数登場しています。皆、息をするように自然に移ろうので当たり前すぎて忘れてしまったことをほんのちょっとだけ思い出し、加工することで術式効果を得ています。東堂の師匠は特級呪術師の九十九由基ですが、東堂の独特な呪術師観は九十九との修行で得たものであり平安からの由緒正しい呪術師の家系である加茂家や禪院家の思想とは富士山とエベレストくらい違うはずです。高田ちゃんを例に出すまでもなく、その違いは秘匿するか広く布教するかの違いが大きく、まあもし東堂のベストマイ歌姫が高田ちゃん以外の他の誰かであったらと仮定すると、この世の地獄の釜の蓋を開けた状態が現出することになります。マイブラザーが虎杖ではなく、他の人物であったらと仮定すればその地獄味が想像できるはずです。京都校の引率教師である歌姫も東堂は何を考えているかわからない生徒で扱いに困っていると思いますが、暴力沙汰を非術師には起こさないという一点(のみ)は信頼しているはず。術師の最低遵守ラインなので、年長、上役の言うことを聞かない点は見えないし聞こえていないふりをしている。どのみち東堂の面倒を歌姫がカバーしないなんてことは絶対にないのだが・・・(他に誰もしないから)。呪術廻戦0で七海が出て来ると違和感を覚えるのは、闇落ちした夏油を見て七海がどう思うのだろうと余計な気を回してしまうからです。「私は弱者を見捨てて逃げたりはしない」「私は仲間が任務で死ぬのを見て逃げ出した」「ですが私はあなたと違い、私を承認してもらうために力に理由や責任を求めたりはしません」「——私が酒宴で飲酒を強制するような昭和のダメ上司とでもいいたいのか」「そうは言っていません。ただ上司の気に入る歌を暗に歌えと、距離感のおかしい態度を取る人間だけにはなりたくないものです」「悟を反面教師にしろというのか!」「誰も距離感のおかしい人が五条さんだとは言ってません。若者に慕われるのも結構ですが、ああはなりたくないと後輩を教え導く方が教師として、人間として正しいのではないでしょうか。現状に満足してはなにも変えることはできませんから」呪術廻戦では主人公の虎杖悠仁が正しい死を志向しているために作品全体で間違った死は嫌だというメッセージがどうしても横溢している謎の少年マンガでもあります。真希がダイレクトカウンターになっていて、間違っている生の方がよほど始末に悪いだろ、正しい生に宗旨替えしろよと今の真希なら悠仁に言っちゃいそうです。血も涙もない鬼みたいな台詞ですけど。東堂の「俺達はあらゆる仲間全員で呪術師なんだ!!」と、Mr.七海の「あの人一人でいい」は強烈な対比になっています。ただの妄想ですが伏黒の十種影法術が呪術師全般に及ぶとしたら確かに術師の死はありとあらゆる意味で無駄ではなくなるのですが、そんな薄気味悪い術式を誰が使いたがるのか。イマジナリー高田ちゃんの使い手である東堂にはそんなに煙たい術式でもないかもしれませんが。振られる前提で高田ちゃんを慕っているくせに自分の愛は高田ちゃんに必ず届くと信じているのは真偽が同一線上に存在してしまうので矛盾している。宝くじが外れると思って買う馬鹿がいるかと、かのアン・サリバンはヘレン・ケラーにそう説いた。「勝つ前に負けることを考える馬鹿がいるか」と。いるよ。普通はみんな考えるよ。だから負けた時に後悔するわけで。敗北の味を噛み締めるのは勝者なくしてはできない。七海が生前に残した心残りは、おそらく「こんな所に連れて来てしまって申し訳ない」だろうと推測しています。七海を知っている人間は全員が「わたしが勝手に付いてきました」と答えるのでまったく嚙み合わない心のやり取りが発生します。真希も同上であると確信がありますが、「ただし!」と叫んでから爆散するので、死を悼むよりもそのタイミングで他界する間の悪さを恨む傾向が強かろうと思います。七海は他人から尊敬を受けやすい(言い方がヘンですが)所があり、この文章を読んでいるあなたの胸の中に尊敬する人物がいて、なぜ尊敬できるのかと考えれば、その理由の大きな部分は苦労を買ってでる所があるからではないでしょうか。血も涙もない言い方をすると、危険な所へ任務として身を投げ出すのは人間のすることではありません。機械のすることです。組織の中で社会人として自分を律して現場に即して行動するのはクレバーですが、大体の人間は自分の主義主張を通して行動するので、変えるのはお前らだと主張します。ナナミンが偉いのはそんな人が上司だとしても、彼らは人間ではなく組織の歯車だと己を律して事実に即して行動できるからです。信頼と信用が第一であり、尊敬はどうでもいい。金さえあれば嫌なことを見聞きしないで暮らしていける。金 金 金 金 金 金 金…… 東堂が自分が嫌われていることに自覚を持ち、Mr.七海が多くの人から尊敬を受けている事実を見て、京都校(の女子)に「俺とMr.七海とでは、どこが違うのだろうか?」と己を虚心にして質問をすれば現実という名のナイフを目一杯投げられるのでしょう。俺の術式を解禁する!! じゅじゅさんぽでのメカ丸の頼られっぷりはオタク用語でいう解釈一致というものでしょうか。真依と西宮が心の中でノリトシと東堂を面倒くさがっている(面倒くさいから)のも、三輪が二人を怖がっているのも、よく分かります。面倒くさくなく、警戒しないで接することができるメカ丸は貴重です。三輪がメカ丸へのリトマス試験紙として真依、西宮に利用されている可能性は否定できませんが、ごく普通に親切なロボット人間なので利用しない手はありません。人型呪霊の真人との連携が可能であれば超特級術師(呪詛師)に化ける可能性も大いにありました。真人は生まれたばかりの呪霊で自分探しの真っ最中なので、義体に魂を載せられるメカ丸は世界唯一の宝であったことに気が付かなかったのですね。羂索には興味をそそる題材ではなかったよう。わたしが今、呪術廻戦に惹かれる点は真希の行く末なのですが、真依が全部持って行ったものの中に(置いていったものの中に)自分にとって都合のよいものがどれだけ残っているか、我儘がどれだけ残っているか、我儘がどれだけ残っているかが気になります。我儘といえば禪院直哉。全方位、全圧力、全領域を支配する王者。真希を全力で爆笑させる男は実はこいつしかいない。夫婦漫才をこの二人でさせて禪院一族を笑い死にさせることは可能。組織末端の人員ほどよく笑う。真希真依の母親まで笑っていたら本当に一族滅亡するので直哉がお笑いに目覚めたら(テレビでお笑い番組を見始めたら)禪院家は滅ぶ。笑わせてやっとるという意識が見え見えの直哉と、素が一番笑えるのに変に構えるから笑えないんだよとツッコむ真希。お客は直哉の大ボケと真希がツッコみ大人しくなる直哉を笑いたくて見に来ているのに直哉には永遠に解らない。逃げるように領域を展開して客席一同を震撼させ、なぜか動ける真希が手印を力技で解除して抱いてやる。——と、ここまでがワンセンテンス。直哉は全力で客を笑わせようとしているのに対して、真希は1ミリくらいしかそんな気がない。飲み会に母親が同席する感じかもしれない。パンダがいればこれ以上なく的確な人情味あふれる真希評を聞かせてくれる。「憂太が見たら嫉妬するな、こりゃ」 (パンダで言って自分で震える。嫉妬ではなく死ッと。この場にいる全員死ぬ)死滅回游が非術師の飼い慣らしと殺戮を目的としている(その結果人類が進化する)なら、お笑いは日常の浸食と破壊を目的としていもおかしくはない。過激すぎると判断した場合は何を置いても逃げますけどね。非境界型、外殻のない領域展開は羂索が使用しましたが、互いに領域を展開して必殺必中ではない閉じない結界を広げるとどうなるのか。互いに相手が意味不明過ぎて馬鹿じゃないのかこいつと呆れるでしょうが、領域には術式が発動しているので相手の狙いはほぼほぼ相手に伝わるので、必殺はともかく必中ではない領域は自身の生活が空っぽであると言っているようなもの。生得領域で逃げ回っているのだからよほど欲しいものがないつまらない人生を送ってきたのに、他には譲れない信念だけはあるという、無害の有害というか、辿り着いているくせに中身がない、なにが楽しくて生きてきたのかつまらない映画を強制的に見せる退屈拷問領域といえる。(生得領域そのものと断言できそう)勝手に席を立てることが縛りになっていて内容の面白さの無さが強力に担保されている。出入り自由な領域。インターネットなんかは正しくそんな感じですね。不味い料理を楽しく食事する映像を延々と見させられる映画があるとすれば、それはホラー映画なのですが、よくよく見て研究すると不味い料理なんだけれども真剣に食材に向き合っていることが途中から発見でき、最初から見返すと調理技術が明らかに進化していることがわかる映画。どうみても不味いはずなのに技術だけは進化していくので不思議な感動があるかもしれない。つまり王道ではないが主役を食う意思だけは感じる作品、呪術廻戦でいえばなぜ伏黒が主人公ではないのか、なぜ虎杖はやたらめったらと伏黒に気を使うのか、虎杖は誰から気にかけてもらっているのか、本質的に食うか食われるかの関係を別の関係に置き換えていることへのフィジカルギフテッドが出す回答(フィジギフは絶対的捕食者だから)の結末。お笑いに関してはピンとコンビの違いをバトル展開でギャフンと言わせてほしい。お笑いの世界では独り立ちできるまでは成功して余裕のある者が未成功者の生活を庇護してあげるのが美徳とされているとマンガで見たことがありますが、そういう意味では羂索は弟子を取らない(いい物件があれば引っ越しをする術式のせいもあるだろう)ので、お笑いの世界ではつまはじき者といえるでしょう。真希が禪院家の当主になったとしても、妹はともかく他の面々を幸せにできるかと考えれば相当に難しい。単純にいって「術師でない者は人間ではない。術師であっても御三家でない者は生きる資格がない」くらいに驕っているので性根を叩き直すのは容易ではない。ハレの場で当主として家の者には落ちるところまで落ちてもらう荒療治が必要で、真希ならさらっと実行しかねない(悩むはずだが)。禪院家と羂索が相対しても、お互い本気で争うかといえば、お互いどうでもいい態度をとりそうなくらいには外の世界に関心がない。集金と集票が数値として永続的に上がっていれば何もかもがどうでもいい(どうでもいいわけがない。人間ではない。それは)と先祖代々から教えてもらってきたのだから、過去の人間たちも否定するつもりかと恫喝されれば、自分の脳みそで考えてみろとしか言えない(爆笑される)。呪力は非術師の数の力の総体なのだから、非術師さえいなくなれば呪霊は生まれない。大雑把に言ってしまうと、全人類が呪力に対する徳性を身に付ければ呪霊は生まれない。術師って道徳心があるの?と最大級の疑問が発生するが、自身の可能性を信じて無理なく効率的に使うのが術師だとすれば、生まれ持った術式(才能)の差を無視すれば、誰でも術師になれる道理となる。九十九が提案したケース2ですね。真希と真依を見れば一目瞭然で、呪術廻戦の世界では必要のない物を見極めて手放し、欲しい物を手に入れる過程を経て、全人類の術師化が完了するわけです。"熱"?そんなものは知らないね。東堂の呪術師観は単行本を読み直してみると再発見があり、姉妹校交流戦でのデッドボール事件は「みんな東堂が大嫌い」という総意の確認と術師同士の結束を高める副次効果を生みいいこと尽くしでした。東堂は人のいうことを聞かない(なぜ聞かないか説明はする)し、他人に暴力を振るう(なぜ殴るか説明はする)男で人から好かれる要素は皆無ですが呪術師として発する言葉にはなぜか説得力がある不思議な人間です。真希が男を連れて実家に帰ってきて、私の彼氏だと東堂を紹介(高専在学中に一級になった逸材)すると禪院家の人間がどう反応するかは見てみたい気もする。真希と東堂では常識と非常識のギャップがあり、周りが自分を見てどう思うか、呪術師とは何か(0のテーマ)のギャップ戦争が勃発する。周りから認められるのが呪術師なら、俺たち全員で呪術師なんだ、という東堂の信念は真希から見れば怠惰の言い訳でしかない。おまえみたいなのが呪術師なんていい迷惑だから口を閉じろと言ってしまえば、禪院家に戻った際に自分を認めさせるために高専で箔をつけに来た自分と東堂を比較すれば、とんでもない惨めさが真希を襲う。恥だ! 本編では漏瑚によって一時退場させられるので、七海や夏油といった諸先輩の憂き目をなぞることはない。なぜなら生まれた時にすでに決まっていたからだ。欲しいものは最初から手に入らないことが。(直毘人は解っていたでしょう。)直哉は直毘人の息子なんでしたっけ? 術師が持つ戦闘での最大優位性は勝つ結果に執着し疑わず、その自信に根拠があり、根拠とは過去の積み重ねなので、自身で予想する勝利時の倍率値が自信の源だといってよい(独り競馬ごっこ)。未来視の術式使いと精度の高いオッズ表示使い(自分では表が見えない)のコンビが最強だな!(七海が自分の身を窮地に投げ入れるのは勝利の倍率に賭けているからではない。直哉が東京に来るのは伏黒恵に全取りされた遺産の奪取のためで、必ず勝ってきた自信と、自分が持っている側の人間だと勘違いできるアホであるために嫌われ者だか本当におもろい。孤独を知ってからが勝負だ!)五条悟は常時倍率1倍の男なのでクソつまらん男ですよ。そのクソつまらん男と十年以上腐れ縁の歌姫は(同じ境遇の伊地知さんも)十代の高専生徒たちとの間でどうやってバランスを取っているのでしょうね。雑にいうと呪術師として世の中を上手く生きている者は、社会人として終わっている人間が多く、曲がりなりにも「都立」高専を謳っている学校で学園生活を送るにはまともな大人の教師がいてくれるかが人生の岐路だといえる。伏黒恵は連載が終盤に入った今となると、血筋家柄術式師匠そして階級と、同期でもタメ口をきいていいのか悩むくらいにスーパーエリートでしたが、誰を尊敬しているかというと二年の乙骨で他の生徒と教師陣には期待していませんでした。馬鹿馬鹿しいからです。自分が人助けをするイメージが湧かないのに人を害する呪霊を退治する人生に偽善を感じ、五条が引いたレールの上を歩く人生に意味があるか分からなかったから。姉の津美紀が成人して独り立ちするまでの生活費を稼ぐ以外に呪術師をやっていく理由が伏黒にはなかった。だから呪術師として助ける人間は選別する(人助け行為に意味が強制的に発生する)。真希が乙骨に言った「助けた後に生きる意味が発生する」のと違って、「助けることによって生きてきた意味が発生する(助けなかったことで、これから生きていく意味が追加される)」。伏黒の領域展開「嵌合暗翳庭」は結界が不十分な泥の庭を展開する技ですが、乙骨は殺す人間を大切な友達を自分で大切だと言える人間であるために殺すのに対して、伏黒は大切な人を訳の分からない呪いで害されないように殺す。無差別に呪いを撒く阿呆を同じように無差別に殺し返す。だから伏黒にとっての天啓は相手の尊厳を絶対に脅かさない善人との出会い(津美紀)であり、自分の尊厳を大切な人の尊厳を守るために使う人間(乙骨)であるのでしょう。(その理屈でいうと虎杖を邪険に扱う伏黒は(なぜ邪険に扱うかというと虎杖は自分の身体と命の重さを大切にしないからで)伏黒自身で虎杖が自分の生を全うできない理由を作ってしまったと認識している(宿儺の器である可能性があったにせよ、その場で殺したほうが虎杖の人間性は守られた可能性がある)から、虎杖が無差別に人を殺さないよう宿儺(の指)から虎杖を守る必要がある。虎杖が善人でいられるために)本誌連載の最新話を読みました。髙羽がピンチですが、どっちかというと日下部の方が気になります。髙羽は純粋な奴なので殺す殺されるの修羅場にポーンと送り込むのはいくらなんでも酷いのですが、味方陣営の背中と尻に火がついている状態なのでアリか?とも思えます。「つまり髙羽が笑えるイメージが現実に起き……代わる?術式・・・?」「そうだ」「俺、トイレ行ってくる」日下部が髙羽に直言。「俺の先入観だけで言うがおまえはつまらないと思う」「だからダメージを受ける前に言っておく。お前の相手は人類史上最悪に性根の曲がった悪人なので絶対におまえを嘲り笑う」(今オレの目の前にオレをあざ笑う悪人がいるじゃん……)「だからそんな時はここはお笑いステージじゃない。俺を笑うな!!」と言ってやれ。俺は人からバカにされる度にそうやって生きてきた。幸運を祈る。髙羽から笑えばつまらない悪事は頭から吹っ飛ぶぞと羂索を煽りはじめたので全部おかしいのですが、みんなが仕事を放りだしてひょっとこ踊りでも始めたら爆笑モノなのでは?とか言い出す羂索に遠慮はいらないでしょう。相撲は土俵がなくてもできるのだから、お笑いだってステージもテレビもいらないはずです。なにをいっているんだ。羂索は私的に笑える世界を求めているので、公的な和を成したいわけではない。善人で真面目な髙羽は羂索のトラップにきれいに嵌りそうです。羂索は髙羽が思っているような、結構お笑いが好きなヤツではない。虎杖の歯車理論を日下部が聞いたらどう思うか。劇場版0、夏油対策会議での「俺はやる気はありません」アピールと、夜蛾学長の準一級以上の術師を正面ロータリーに集めろ命令で日下部はどこにいたのか(いなかった気がする)。ゾクゾクするほどやる気がないですよね(新宿の百鬼夜行には出動していた。手は抜くが首にはされたくないらしい)。夜蛾から見ると日下部は実力はあるがやる気のない部下なので気安い間柄のはずです。誰かさんと違って役職をいじってもこないのでストレスも溜まらない。糊口をしのいで(高給取りでしょうが)自分のしたいことをして生活できればいいやと、虎杖がそうあればノンストレスの生活ができたでしょうに。遊び相手が欲しいと強制必中の領域を展開できるまで自分勝手になれば呪術師としては一人前になれます。領域を展開できる度胸があれば、ですけどね。(東堂が全方位から嫌われているのに一顧だにしないのは呪術師として全く正しい。髙羽の善人性と良識は結局のところ、他人に喜んでもらえることと、自分の人生の価値を秤に掛けてしまう小市民的善性からきている。ウケないのはおまえらが悪いというのは、過去の出来事からの幸せをギャンブルのチップに両替するが如き悪行といえる……)乙骨の領域展開ですが、おそらく里香か真希との思い出を再現する領域であると推測します。里香なら病院、真希なら学校ですかね。もう問答無用で助けまくる善意という名の暴力だろうと。烏鷺の言っていた、「圧倒的な自己」「他を顧みない」を完全に兼ねるので、里香がいれば絶頂、真希なら憤死。いずれにせよイカレている領域であると思います。グダグダゴチャゴチャうるせぇ!(CV 誰?ロックオンと同じ人か・・・って日下部を担当していた・笑)故人の願いの再現まで行き着くと乙骨は人間ではいられなくなるかも。天元という先例もいますからね。死者と生者の願いを兼ねるのは人類最悪の悪行に直結してしまうが、わりと呪術師はその線を踏み越えるので日下部の命の使いどころはその辺りかもしれない。ちなみに烏鷺と日下部は相性が良さそうですな。金 金 金 金……。(「贅沢するのが堕落とかいう呪術師なんて始めて見た」「おもしれー女」) 本末転倒を考えてみると、やはり退屈で退屈で仕方がないのなら、退屈ではない物を探し求める為に行動をするべきなのですが、では何が楽しいのかを経験しなければ、何が退屈を発生させているのかが分からない。ドラゴンボール孫悟空はこの辺りが壊れていて、ベジータとの邂逅でクリリンから正気を疑われ、正論で諭されたにもかかわらず、「もったいないから殺さないでくれ」と生涯一度の願いを親友に託すわけで、ベジータには聞こえていたんですかね、そいつ殺すのはもったいないから殺さないでくれっ……という悟空の切なる願いが。真希真依も本末転倒、本末転倒でいえば、真依の初恋の相手はどうなったという謎が残されていて、真希を駆り立てる動機は禪院家の壊滅を除くと真依のお願いしか残っていない(あの姉妹はお互いに自分が自分であることを譲る気は本当はない。二人ともなかったことにされるくらいなら——一本化してやるという妥協の上で怪物真希は成立している)ので、いわば他人の債権の回収義務を付与されたうえでのフィジカルギフテッド(笑える)である為、現在進行形で進む、宿儺・羂索討伐は本当の意味ではどうでもよく、クソ生意気な後輩の面倒を見ているにすぎない。乙骨が憧れるわけだ。笑笑笑。(この“笑”マークのせいで私の性格が悪いように感じられるかもしれないので言い訳をすると、「僕は(私は)性格が悪い」と本編で「聞いて(聞けよ)」からヌケヌケと言ったのは五条と真希で、その後に続く文句も、「リセットする(ブッ潰す)」と似たことを言っていたのがおかしくて笑ったわけです。決して真希のことを軽んじたり乙骨を馬鹿にしたりしたいわけではありません。五条は真希からバカ扱いされている) 今、期せずして呪術廻戦とショーハショーテン!がお笑いで盛り上がっているのですが、ガラ靴の出番が終わったことをネットの書き込みで散見できるものの、なんか単行本でまとめ読みしたいなあと思い、雑誌掲載の本編は読まない状態でいます。相方がいる以上、必ず賞レースで勝つ!というモチベーションは必須でガラ靴はショーハショーテン!の1巻から延々延々延々と引っ張っている「身内を笑わせる」「不特定多数を笑わせる」「ただ一人に笑ってほしい」というネタを擦っているので燃えるキャラとなっています。青い春です。

 アマゾンでネット購入したプライムビデオの『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』をようやく見終わりました。長かった!(買ってからエンドロールの最後まで見届けた時間が) 映画館まで見に行った作品なのですが、映画を視聴する集中力が途中で尽きたのでレッドウィザード戦はがんばれーと心の中で応援していました。私の心の中では映画を見た後に革命が起きたのですが、世間では特に盛り上がっていないようなので、せこせこと私が書こう。権力者に取り入るキャラの有用性を、です。

 今作の悪役であるフォージは映画を見る前にホームページにアップされている情報で下調べをしておきました。かなり理解困難な立ち位置にいるキャラで、ヒュー・グラントが映画のスクリーンに登場するまでは、実像があやふやで適当に既存のキャラを当てはめて理解しようにもほぼイメージを持ってこれず、白旗を上げていました。少しムカつきもしました。これでつまらなかったらどうしよう、金と時間を返せ、といった不安です。圧倒的強者であるレッドウィザードと手を組み、主人公たちと袂を分かった仲であり、地方領主。誰だよおまえは、と。主人公の娘を庇護して愛情をかけて育てているという背景もあり、本当になんなのと不安しかありませんでした。地方領主、というのは最大のひっかけポイントで、「なんで?」とはエドガンもホルガもフォージの性格から掴めないでいる様子でしたし、金はともかく、あいつ権力なんて欲しがっていたか?詐欺師が金持ちを騙して大金をせしめるのが生きがいみたいな男がどうして、と関わらない方が絶対に賢明な人物であると強調したうえで、刑務所に入れられて生き別れてしまった娘との再会と、エドガンの人生を賭けたマジックアイテムの入手には避けて通れない人物であるために会いに行くしかないと、物語は前へ前へと押し出されていきます。(朝起きて呪術廻戦の直哉のことを考えると、あいつのいじらしさにちょっと泣ける気がしてきた。目の前にいたら顔面を陥没させて殴るのですが、ひざ抱えて泣いていたら頭を撫でてやってもいい。まあ殴るのですが)フォージから見れば、娘のキーラに会いたいエドガンの心情は手に取るようにわかるし、マジックアイテムの重要性も痛いほど理解している。その上で罠にかけようとする悪辣さがフォージにはある。エドガンはなんとなくフォージに親しみを感じているっぽいが、ホルガにはジャガイモ一個分の価値もない(キーラに悪影響を与えたら鉄拳制裁も辞さないだろう。というかやる)。呪術廻戦の髙羽史彦も笑わせる相手は絶対に選んだ方がいい。自分を肯定するなら全てを受け入れる必要はない。子供時代の自分に友達は選べと言えるはずもないが、寂しくない(大切なものを大切だと思えるように)人生がほしいのなら、大切な人を大切にするべきなのだ。羂索じゃあないはずだ。捨て犬が優しいご主人を欲するようで見ていて切ないが、ケンさんは「俺はオマエのネタ嫌いやない」と言いたかっただけで、前半部分は「え? 俺なんか言った?」ぐらいの比重である可能性があるのではないか。わからないけど。フォージの内面を探っていく作業はただの変態であるフォージを喜ばせるだけなので作業用ゴム手袋を何重にしても気色悪くて触りたくもないのですが、フォージ的なるモノを分解・発展させていくことは、私の性癖に合う確信があるので大変悩ましい問題です。要は余り余ったリビドーを分解して再構成するだけなんですが、社会的なるもの(領域外)との親和性が欠かせないので、じゃあ自分でやれという話になります。動物は偉い。人に噛みつく癖のある飼い犬はその飼い主が100%悪いのですが、不用意に犬の顔の前に手を出す人も何割かは悪い。領域必中でいえば犬のテリトリーに侵入した時点でアウトなのだ。ダンドラのメイキングブックを改めて読んでみると、ハーパーの聖域にエドガンが足を踏み入れるのが物語の転機だったのだと実感する。エドガンは仲間は売っていないが、ハーパーの秘宝は手に入れようとした。レッドウィザードの財宝を盗み取ることで失った幸せを取り戻すために。ハーパーの矜持と家庭人としての幸せと義賊(?)としての中途半端さ。高名なハーパーであるゼンクと会うのは亡き妻と出会った時以上にエドガンは緊張したはずだ。なに一つ自分を大きくみせる材料がないから。メイキングブックの記事には共同監督の一人ジョン・フランシス・デイリーの言葉で「冒険者たちは悪の心と戦い、自分たちの気高さと名誉を守り抜く。泥棒稼業に身を落とすが、最終的にはサーイの侵略からネヴァーウィンターを救うんだ」とあり、エドガンがゼンクと会わないと何一つ始まらず、終わらない物語であったと説明がある。ゼンクは(笑ってはいけないが)完全無欠のヒーローで、ぜんまい仕掛けで動いているのかと疑うくらい神出鬼没に日夜、人助けに奔走している。冗談が通じないのが唯一の欠点だが、エドガンをからかって笑うという趣味があるのでエドガンさえいればパーティーがギクシャクすることはない。もしゼンクが身近にいたらと思うと、おちおちカップ麺も啜ることができない。酒を飲んだ後に食べる緑のたぬきは最高だぜぇと人生を満喫していたら、「アルコールと油分と塩の高濃度の摂取は身体に悪影響を与える。理解しているのなら止めはしないが、可能ならこれを最後にしたらどうだろうか」と説教してくるかもしれない。酔いが醒めるしメシが不味くなるので黙っててくんない? ゼンクは方々で英雄活動をしているので名前が知れ渡っています。パーティー内でゼンクとの絡みが多い順で名前を挙げると、エドガン、サイモン、ホルガ、ドリックの順になるはずです。私はドリックのファンなので改めてゼンク登場シーンからドリックがどこにいてどこを見ていたのかが気になります。(ドリックの食事シーンがあったかどうか、今のところ記憶にありません。ドリックがどんな顔をして食事をするのか、見たくて見たくて仕方がない。たぶん目の前にいてもガン見すると思うので、「3秒以内に視線を外さないと目を潰すけどいい?」と言われてしまうアホ冒険者がいたら私だ。)映画本編を通して見ると圧倒的に気の毒な登場人物はソフィーナ(二年間フォージとコンビを組んでいる)なのですが、霊的に満たされた真のユートピアを建国するザス・タムの理想を実現するためにフォージの傀儡となって働いています。大規模死霊術を行使する決起日まで辛抱に辛抱を重ねているので、フォージがしこたま集めた財宝のせいで計画が台無しになった時はたまらなかったことでしょう。アート&メイキングブックは英語のキンドル版を購入しているので、iPadの英和翻訳機能を介して読んでいます。なので訳文には首をかしげる文章も出てくるのですが、英文がすらすら読める体験は何ものにも代えがたい経験で本当にアップルとiPadには感謝しています。以下の文章は謎訳の例ですが、

 「(中略)彼は物事に絶対に怯えており、大きな赤ちゃんで利己的で失礼なことができますが、彼は努力しています。」松の発言。

——とあり、なんとなく意味は察することができるのですが、松って何?プロデューサーの隠語かなにかですか。・・・エドガンを演じるクリス・パイン(Pine)の名前を松(植物のマツ)と訳していました。自信満々で訳してくるので圧倒されます。主演男優の名を平然と誤訳してくるのは翻訳ソフトならではですね。使っている人間の感性が試されます。呪術廻戦では夏油が「術師というマラソンゲームその果てのビジョンがあまりに曖昧で・・・」と九十九に弱音を吐いている(コミック9巻P138)のですが、機械ほどに振り切れていれば悩みなんてなかったはずです。九十九⇔五条の間には大した因縁はないだろうと思っていましたが、親友だと思っていた人間から悩みの一つも相談されない五条悟という、九十九由基から見るとアオ春サイコーという爆弾がありました。いくらでも引っ掻き回せるジョーカーじゃあないですか。私が性格悪かったらとんでもないことになっていたよ。 フォージが絶対的に救えない悪党なのは、人が大切にしている宝物を誰よりも理解した上で、その宝物を我が物にする非人間性にあると思いますが、夏油は誰よりも非術師を守りたいという気持ちを大切にしたい(動機、きっかけが今日に至るまで不明ではある)が、なぜその為に辛い思いをしなければならないのか(悟はイカレバンバンにサイコーをキメているのに)まるで分からないわけで、ロクデナシの特級術師に弱音を吐いても親友には皮肉を言うのが精一杯な自分を強者としての才能と大義でごまかす道を選んだわけです。九十九もアオ春爆弾が怖すぎてどっかに捨てちゃおうと思いますよ。五条はあれで高専からの依頼を受けて、仕事をして伊地知さんたちに後処理を丸投げするというお勤めをこなしているので、九十九と比べれば健全な社会人です。九十九には変な魅力があり、夏油と、あと脹相ですか。まず他人に弱音を見せない地頭がガッチガチの偏屈な人間(葵もそうだ)がフランクに話しかけ(られ)る魅力があります。D&Dでいえば魅力値が人間の上限ギリギリか、なにかの間違いで勝負する瞬間にブーストできる特異体質なのかもしれません。悪役フォージはネヴァーウィンターの港で「欲しい物は恥も外聞もなく手に入れる。それが私なんだ!」と勝利宣言をするところがショボいピークとなっており、後は坂道を転げ落ちるように地位も財産も失います。小悪党の俗物臭を極めた男の末路には大して興味もありませんが、映画を見終わってフォージが今日も極寒の刑務所で0円スマイルをふりまいていると思うと、ハーパーの慎ましい四季のある暮らしが羨ましく思えてきます。映画『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』は、エドガンの持つ喪失感がすべての始まりとなっており、ホルガがエドガンを放っておけないのも、サイモンがエドに文句たらたらなのも、ドリックが見下げ果てた嘘つきだなこいつは(と途中まで思っていた)のも、ゼンクがなんだかんだでエドガンにハーパーとして返り咲いてほしいのも、結局は見込みのある奴なのではないかとエドガンに期待させる徳性があるからです。小悪党でも救いはある。しかしサイモンはなんだかんだで愛すべきダメリーダーの弱虫の原因を熟知していましたね。ドリックに「あの人なに怒っているの?」「サーイと因縁があってね…」「今度は何怒っているの?」「ハーパーとも因縁があって・・・」 苦笑いしているホルガが止めを刺す構図も美しい。ゼンクは有名人すぎるだろう。ヒュー・グラントの愛嬌のある悪役ぶりはこの映画の中で一番忘れられない印象的な記憶となりました。フォージは死ななくて本当によかった。ダンドラ映画と呪術廻戦との感想を混ぜて書き連ねているのでだらだらと五条悟、空港関連のことを書きますが、悟と傑の3年間の青い春で黒井さんが五条の空港にいてくれたのは、取りも直さず「ああ、これ。僕の妄想だ」と今際の際で五条は悟ったはずだと思います。理由を述べるまでもなく、五条は黒井さんに顔向けできる人間ではないし、黒井さんは死んでも五条と夏油に非難めいたことを言わない人なので、理子と黒井さんが笑顔で空港にいてくれることは100%の善意であっても、五条悟の心象風景の中ではいられないはず(いくら五条悟でもない)で、となると悟の妄想でしかないと結論付けることができます。そも、人助けは学習して覚えるものなのか、できるからすることなのか、助けを求める人がいるからするものなのか、高専では教えない。過度な利益を貪れば、それは報いとなって返ってくる。宿儺は気に入った人間に「お願い」と「約束」を使い分けてもてあそんでいる(前者はハイタッチを交わしたい気分で、後者は目を見た相手と握手。相手に土下座強要は通常運行仕様)。~してもらいたい、~したい、を概念上の考えまで持っていくと、身に余る贅沢とはなんだろうかという所にたどり着く。"呪い"の完璧な運用とは、そこの厳格な定義なくしては何も始まらないからだ。いきてかえりし——。際の際で決断するには、この幸せが自分の身に余るかを考えていなければ、できるはずはない。ヒュー・グラントが演じるフォージの奇跡的なバランスは、周りから迷惑がられても居てくれることで安定感が増す(ソフィーナの計画成就までのピエロとしての役割、映画内演者ともいえる)舞台装置としての希少性と堅牢性を兼ねている点が素晴らしい。他の役者では、フォージの持つジメっとした嫌らしさと突きぬけた陽気な性格、深い知性を感じさせて何も考えていない悪辣さを持つ人物を表現するのは難しいのではないか。コーヒーにコクがあるのはフォージのおかげと言われたらもちろん否定するが、案外その通りかもと言い分を飲んでしまいそうになるくらい、映画D&Dでのフォージの役割は大きい。権力者に取り入るキャラを説明しようとすると、もちろん権力機構の総体図があれば便利なのですが、どちらかといえばエログロナンセンスから見ていったほうが楽しいし分かりやすいというか、無意味に大勢死ぬからこその権力だろう(健全に皆が生活できるのなら統治機構など別にいらない)と思いますので、となると大人の社会人が電車の中で読む下らないエロだらけ(バンバン死ぬ)の雑誌がちょうどよいテキストだろうと漫画雑誌でも漁りにいくか・・・。(酒、アブラ、女、とくれば、まあ早死にするでしょうが、酔っぱらった勢いの妄言は嫌いではないです。才遊記3巻の武田のオヤジと芹沢の変な信頼関係は好きなんですが、武田のオヤジの健康がいつまで続くかはわからないですよね。)呪術廻戦の髙羽と羂索ですが、真希とカッパ&サムライでの意趣返しだとすると(心の中のモヤモヤを晴らすために戦っている)不殺を貫くのが己の欲望を満たす筋道となっている(結果的に)場合、その縛りが領域の強度を上げ、五条ですら叶わない領域の底上げが可能となるのではないでしょうか。対戦相手に「俺は味方(どこが!?)」とアピールをする狂人はなかなか理解し難いのですが、いや、やはり理解はできないでしょう。外堀を埋める、というイメージから漏瑚を見ていくと彼の目指した立ち位置は城の天守で沸かした茶を飲む数寄人というわけではなく、それなりの地位に自分たちと志を同じくした同士たちを導くために行動するテロリスト、といった感じになります。作中で五条と宿儺に弱いだの負け犬だのと扱き下ろされるので負のイメージが強いキャラですが、己の主義主張に殉ずるのは実際のところ呪術廻戦の世界ではイケている(宿儺が大好きそうな)人物であり、さっき書いた“ミニアマル私益”をほぼ完遂しているので最イケキャラの筆頭にいます。バランスの悪さを必死に矯正する髙羽(100人中100人に当てる気でいる)と比べると漏瑚はクソ真面目に必死(1人1人に純度100%で当てる気でいる)で、なんでおまえはそんなに純粋で真面目なんだ。真に純粋なサッカー小僧人間は我々なのだ。急に空気が冷えてきて漏瑚の人間ストーブが恋しい季節となってきました。屋外じゃないと火事になるし、火力調整ダイヤルがいい加減で人間火だるまが常態化しているので世紀末氷河期でもないと使えない欠陥品ですが、「寒い」「温まりたい」「ストーブ」「酒」「ゲラゲラ」と、漏瑚を肴に爆笑するには本当にいい季節です(2回目)。ジョジョ3部からの伝統ですが、炎熱使いはシンプルに強い(だいたいみんな熱いのが苦手だから)ので、熱がそう簡単には伝わらない世界(呪霊だと月の化身あたりが超寒そう)が欲しいですね。特級呪霊を創造でき、本人には別段変わった能力はない、あたりが舞台装置の座長としてちょうどいいかもしれません。迷惑過ぎるが嫌われてはいない、のバランスが取れている状態がほしいのです。殺したいが本当に殺したいわけではない。五条の登場で呪霊の存在が斜陽化するのと似ているように新しい娯楽に遊興産業が取って代わられる時、ベテランとルーキーのゴリゴリの摩擦は外から見ている分には腹を抱えて笑える出来事となります。斜陽と爆発とくると不穏でしかありませんが、自分が未熟者だと知っているキャラクターは本当に魅力的です。ロジックでなぜ自分が未熟なのかを第三者に説明できるキャラは愛せる。自分の爆発力のなさを露呈できるのは将来的に勝つ自信があるからです。少年マンガの場合では主人公が意味不明に基礎体力お化けだったりするので、ロジックで超えてくるキャラは基本いません。斜陽化とロジックは相性が良すぎるので、落ち目の産業にやり手が参入すること自体がおかしい。それでは理屈に合わない。のび太がキーくやしい!とかキーうらやましい!とか毎日毎日飽きもせずに他人の良い所を見ては楽してうまい汁を吸いたがるのには閉口しますが、最近はこの手のキャラクターは見なくなりました。NHKのブギウギで見た気もしますが、あれは夢は買ってでもつかみ取れ的な流れだったので少し違うか。唐変木とは変な漢字の言葉ですが、他人を罵る時に使います。エスパー魔美ではひょうろく玉という時代がかった罵倒語を使っていました。女子中学生が友人(の知り合い)に対して使っていて、意味は通用していたようなので高畑くんも驚くほど魔美の世界ではクソミソに人を貶す際の言葉が豊富に使われているようです。すごいな魔美くんは。一種の傑物だよ。エスパー魔美は第三話で母親からエスパーは気味が悪いと釘を刺されるのですが、高畑くんは魔美も呆れるほど超能力に前のめりに夢中となり、父親は人と違う個性を持つと平穏には生活できないと持論を述べるので、魔美はかっこよく正義を愛し私益に走らないエスパーを目指します。父の絵画が魔美の正義のエスパーとしての精神の根本なのだ。・・・・・・・・・・・・・・かっこ悪いのは愛嬌ですよ。チヤホヤ熱と興味、関心のバロメーターは魔美の世界では画面奥の神のサイコロステージで密接に関係しているはずで、圧倒的な関心の無さは暴力による支配を受け入れる下地となるので、徹底的に抵抗します。「もう飽きたよ」「馬鹿馬鹿しい。そんなことはしないよ」時間のむだむだ。魔美の前でそんな振りをするとおせっかい魔女の本領が発揮され、無血暴力魔女が破壊活動を開始します。高畑の情緒は誰が守るんだ。チヤホヤ熱は相互に与え、与えられる、一筋縄ではいかない関係性であり、スネ夫のび太の関係性がただ単に金持ちと貧乏人の関係かというと絶対にそれだけではない。スネ夫の持つ劣等感と自尊心はかなり複雑なので、与える側の人間が実は与えられる側の人間に少なからず嫉妬している(自分の持っていない物を持っていることが見えるからこその)いじらしさは私の情緒を激しく揺さぶる。時代劇のヒーローは基本的に何者でもなく何も持っていないが、誰もそんなことは気にしない。深く気にしたら負けである。何者でもないのに皆から慕われていることを疑問視することは怪獣や特撮ヒーローの存在を頭ごなしに否定することと似ている。理解できないから否定するのはTPOを選ばないと総スカンを食らう。わたしだけが笑えない世界があるとすれば、わたしが笑えるように君たちが努力してくれないかとスネ夫が祈る世界があってもいいはずです。それすらも他者からの押し付けの結果にすぎないとすると、そもそもおまえ、人生に笑いを求めていたのか?と思ってしまう。スネ夫ジャイアンを心の中でバカにしていますが、ジャイアンの個性である破滅的に下手くそな歌唱力を揶揄するかというと作中で逃亡や中止に動いたことはあれ、あんな歌をよく人前で歌えるものだと馬鹿にしたことはないはずです。スネ夫の美意識は父親と母親から与えられた本物の芸術を幼児期から大量に接することと、本物と接する機会が極端に少ない友人たちを見渡すことで生成されたといってよく、美の真贋を見抜くことはスネ夫の自分自身の自信の源といえます。鉄人兵団のミクロスはスネ夫の分身みたいな存在で、しずかから若干の信頼とほぼないに等しい腕っぷしの強さを見込まれています。つまり期待されていないのですが、やる時はやります。スネ夫と違ってしずかの決定的な危機に最短で行動できる短絡性があり、大物ロボットの予感があります。怖がりな気分にプライドがほとんど載っていない(恥ずかしいという感情がスネ夫と違ってほとんどない)ので、死活問題が発生しない。間違いを恥と思わないスネ夫は興味深い観察対象となることでしょう。自分と同じ種のアダムとイブの脳みそ改造を目の前で見せられて卒倒せずに「始めた仕事をやり遂げないなんて無責任だ!」と言えるスネ夫スネ夫じゃない。ラーメン発見伝の入口に来ている感じがしますね…。因果応報は全自動ではない。では、それをある程度まで人が任意にできるようになればいいのではないか。自分の罪が巡り巡って自分に返ってくる(自業自得?)のをほんのちょっとだけ手助けする形ですね。シン・陰の発案の原点はここらあたりではないかと推測する。領域があまりに無法過ぎるので弱者は身を守らなければ、逃げるまでの時間を稼がなければ全滅するしかないのでライフジャケットは装着しろという話。どのみち低体温症で死ぬが溺れ死ぬよりかは時間を稼げる。罪と罰の話ではないんだ。どちらかというと主題歌と戦闘BGMのせめぎあい。黒閃・・・。鬼タイミングの目押しでキメると気持ちいいとくれば、周回行動からの最効率の追求ときて、レースゲームのタイムアタック格闘ゲームCPU戦の打撃音が最も乗れる戦い方を延々と試す不毛なゲーミングを想像する。正月休みに発生します。お休みであったり休暇であったり息抜きであったり、誰に気兼ねすることなくのんびりしたいものです。ただしエスパーとスーパーマンに休日はない。映画を見たことはないですが、バットマンみたいな自警団は実生活に影響は出ないものなのでしょうか。金持ちの道楽でしかバットマン活動は成しえないのであれば、貧乏人がバットマンの真似事を始めるのは子供のうちから親に叱られるのが道理となるのでしょう。別に切り込む必要もないのに死地に足を踏み入れるのは狂人のすることなのですが、魔美の能天気さと劇光仮面の実相寺の切実さには近しいものを感じます。まあ、美しくて素晴らしいものに惹かれている点が似ているのですが、ここにスネ夫がいるとビビってビビって話にならないと思います。いつどんな場所でも常識と共にあるのがスネ夫ですから。実生活での経済力と社会人としての責任感と自負。スネ夫が魔美、実相寺と渡り合うには、そういった常識に囚われない連中に警告カードを見せる必要があります。エスパー魔美では魔美の母親が、劇光仮面では警察官の中野が、やりたくもないクギを刺す役を引き受けています。大好きな連中とつるむ楽しさと、社会のルールを逸脱しないストッパー役を兼ねるキャラはいいですよね。ワトソンがめっちゃ張り切る回は異色作になる(ホームズのやる気が微塵もないのに話が進むのは犯人の動機なんてどうだっていいんだよというホームズの非人間性、スターターモーターのポンコツ具合を無視しているので他の話と比べるとそれがどうしたとホームズが言いたいのを脚本で我慢させている、ワトソンの面子をホームズが気にしていることが変な緊張感を生む)のでレギュラーよりも脇役が光る。予算が潤沢で有名役者を長時間拘束できる環境は狙って作れるものではないので、時が来たと判断して動けるのは、動けない人と比べて何が違うのでしょう。(今、劇光仮面の無料閲覧期間となっていて2巻分を読んでいるのですが、中野が実相寺のおもちゃにされそうで見ていて怖い。「おもちゃじゃない。ヒーローの手足だ」とか言ったらゲンコツの刑ですよ)魔美、実相寺、スネ夫と、美的センスが狂っているのか、独特で理解に苦しむのか、自信があるのかないのか、スネ夫が恥も外聞もなく喚き散らす時はこの世の終わりだと常識的な判断のうえで行動する無意味さを嘆いているのですが、ドラえもんが唯一無二の異物のくせに、役立たずであることをスネ夫だけは諦めきれない。いつか説明してほしいものだ。特美研の劇光服付帯装備の訓練を見てなんとも思わなかった私ですが、冷静に変だという指摘を聞くと、確かに変でしたわ。割と常識人の切通が見たら正義の味方は変態しかいないと指摘をしようとして怪人側から言うのも変かと思いとどまるのでしょう。怪人が日常に侵蝕している、これは特撮に限らず刑事探偵時代劇すべてにわたって共通する下地だ。だから大概のやつらはしっぽがあってでっかいのは「怪獣」、人間サイズの異形が「怪人」だってことで納得しているんだ。が、もちろんそれじゃあ不満だよな。こんなのはどうだ? 寒い夜空の下で震えている子供にろうそくの火を届けるのがヒーローで、暖房器具を届けるのがサンタ。やけどするほど熱い缶コーヒーを持ってくるのが怪人だ。ヒーローは単独では状況を改善できないし、サンタは善意の大人だが正直扱いに困る。怪人は子供の状況は理解できても、状況の改善策を具体的には提示できない。人間じゃないからな。人間の真似事を繰り返すのが怪人だ。怪獣は街ごと焼き払うんだろうな。最初から無かったことにするのだから、怪獣が一番人間らしいといえるかも。怪異に出会った際に心がどう反応するかは誰にも分からないし、決めることもできない。恐怖を感じるべきだと理性が叫んでも、こころが歓喜に打ちふるえるかもしれない。絶対に出会いたくないものに出会った時に自分がどう対処するかは準備できても、自分が幼稚な人間だということを変えることはできない。守るべきものを自分でしっかり持っている中野の心構えは強固でかっこいいよな。(ヒーロー性と怪人性、劇しい光による覚醒ときて、自分しかいない世界での他者観察。どうしようもなく他者に関心がない状態での世界との関わり合い方。怪人が実在する世界なら、ヒーローが実在すると仮定できてしまう)そもそもの発端がバーン!と登場してドーン!と活躍してドカーン!と爆発して散る怪人は美しい、とうかシンパシーを感じるという切通のホビー魂から特美研は始まっているので、ゼノパドンを廻る一連の出来事で切通の魂の半分くらいは危なっかしい子供みたいな実相寺とその仲間たちの将来の心配に取って代わられたのかも。一巻のシャゴラス造形エピソードは切通と実相寺のイチャイチャエピソードに見えなくもなく、シャゴラスと伏龍はごく狭いフォーマットの中で生まれた既定期間内でのヒーローといってよく、設定された環境での最大の効果を狙って生まれてきた。ただし、シャゴラスはともかく伏龍の最大戦果は敵小型艇の沈没が精々で、大型艦の接岸に対抗するには何もかもが不足している。既定された枠と期待される戦果、それによって得られる肉親たちの平穏な生活。実相寺はシャゴラスに憎しみや怨念を感じておいて、造形の先祖的存在である伏龍を美しいと言っていますが、ここにははっきりと飛躍があります。切通のいう通り、いくら形式の要請があったとしても、それに殉じるのは哀しい。ここらへんが私の大好きな延々と擦れるストロングポイントとなっていて、他者からの強制は悲劇で、自分からの志願は美談(とはならない)というエセ道徳の匂いがぷんぷんしています。強制ではないから、熱望か希望か拒否か一つを選べと言われたら普通は逃げる。よほど絶海の孤島で嵐の中、定期便もない別荘内での殺人事件でもない限りは。特美研の日本刀の刃の上を歩くような仲間内で嘘をつかない情報交換は初代劇光仮面の相棒だった狭山章の嘘をつかない秘密主義に通じるものがある気がします。状況の設定、ガンギマリの登場人物、風評被害が甚だしい一ノ谷特技監督(5%必中、実話なの…?)、初代ゴジラを思わずにはいられないし、キボーガーエピソードの真ん中に特美は現実を凌駕する可能性を持っていると挟んでくるのは、いろいろと覚悟が決まり過ぎている。キボーガーの最終回ですが、本来の用途である民主化デモ鎮圧ロボとしてのあるべき姿と、キボーガーと鈴木少年との絆を見た大人たちの話になっていたのではないでしょうか。キボーガーが対人制圧、対人蹂躙を拒否するのは電子頭脳の故障でも、個性でもなく、日本国内で生産された電脳部品が子供の前では暴力行為はしないと最初からプログラムされていたからで、つまり、そもそも重大な依頼主からの契約違反を犯して生まれていたロボットだった。初期設定が狂った原因はなんであれ、キボーガーが無力化できるとわかれば、研究者の拉致か、鈴木少年とキボーガーを連れ去り、その関係を暴くしかない。キボーガーの世界設定はたぶんヴルードがそうであるように戦後日本であると思われますが、一ノ谷監督の作中の言である「Gはピカの災いをもたらすらしいけど焼夷弾10万発くらいの被災で充分だと思うよ」のセリフの怖さが後々効いてきそう。一ノ谷とGを実装し演じた島村との、Gってなんなんですかねというシーンは切通と実相寺の関係につい結び付けてしまいそうになる。逃げる準備は万端だぜ。Gがピカの化身であるなら、我々はGを躾けなければならない。現実の模倣が模倣たりえない現象(当たらない必中)、真なる宝が偽物にことごとく潰される現象、意味のない人助けが忌みもなく助けられる現象、すべて理に適っていない。悪しき前例はこの世から滅ぼすべきだ・・・。ウルトラの星、もっと高く!、暗黒の支配者、輝けるものたちへ、の連チャン視聴は確定だな。はぁー。切通はシャゴラスの造形から狭山の過去話を聞いた時に、星をつなぐ神聖さとその怨念の合体に多少は思いを馳せたのではないか。劇光仮面1945の劇しい光に目が眩んでいたにせよ、ね。実相寺のただのバカっぷりを見届けたのは切通と狭山だけで、ある意味、この二人は伏龍式呼吸法で先端に爆弾が付いた竹やりで怪人に特攻しそうな若者の後見人に為らざるを得ない。死んだら夢見が悪すぎるからです。実相寺の部屋に狭山からの手紙が置いていないようですから、切通宛てに狭山が手紙を書いて送っていたと考えられます。だいたい夏の雨でびしょ濡れになり、人の家の一番風呂を一回も断らないで「すみません」と受ける実相寺を見て狭山がどう思ったか、いや全然わかりませんけどね。正月三が日も終わり予想通りにぐーたらし過ぎて身体が重い、鈍い、切れもなんにもないと申し訳ない年明けとなりました。働いて結果を出している人を見ていると、とりあえず起きて布団を畳んで朝飯食って身体を動かすかという気分になります。腰を痛めないように気をつけよう。呪術廻戦の最新コミック25巻を読んだのですが、これは万を好きになってしまう。なんでも構築できるのに画一的な運用ばかりとなっているので予習大好き人間から見ると全部進〇ゼミでやったとこと娯楽の一環にされてしまった。ひたすら宿儺を求めているので多種多様な味付けがお好みの宿儺様から見るとすぐに飽きるのが致命的でしたな。追いかけても追いかけても捕まらない鬼ごっこ(気色悪い)の状態がデフォルトならやりようはいくらでもあったでしょうに。秤の、俺は"熱"を愛している、のセリフもそう考えるとすげーキモいセリフのような気がしてきた。領域展開とそれに付随する効果の必中は呪術廻戦のリアリティを底上げしていますが、必中の条件をイジり始めると作中最高の解説役の人をイジめる結果となりそう。正確な計測によるデータの蓄積と、出力される結果との因果関係を説明できることは、ハズレを可能な限り減らす生産安定性の責任者の大事な仕事の一つですが、結局は過去の経験から推測される可能性の話なので、私としては正確なデータを集める方法に注視して、あとは誰かがなんかやってくれるのではないかなぁと、羂索がゴミ以下の嫌悪しか抱かない行動しない人間を演じようとしています。弥勒菩薩と観音さまは違う存在なんでしたっけ? スペリオールの最新号を購入して、劇光仮面、らーめん再遊記、の順で読みました。私の情緒がかなり攪乱されましたが、やはり夏川新情報はかなり衝撃的で、そのうえ『麺屋なでしこ』について原田の忌憚ないコメントが聞けるとくれば、和文は逃げたほうがいいのではないでしょうか。あんなぼろ雑巾に「私」「俺」が、負けるわけないだろう! お得に生き抜こうとすることと、祭りの熱に後ろ髪を引かれている状態は基本的に両立しない。自分の幸せは熱狂の中にこそあると頭がおかしい状況を自身で設定できる人間がヒーロー足りうるのでしょう。他人の権勢と財力を当てにするのはゴミカスです。祭りと訓練は近しい関係にあると思われ、非日常を受け入れるには事前の訓練が必要です。非日常とはなにかといえば、普通ではない状況です。事前に準備できる非日常はお湯のないカップ麺に納得できることを指すのでしょうか。劇光仮面の最新話を読んで怪人である亜門に少なからず感情移入をしました。必ず死ぬと書いて必死。対して実相寺は万に一つの命中、劇光のかがやきを受け継ぐことに使命を感じているのですね。これは茶化せない。間違った信念だろうと思いますが、本物の怪人と対峙してしまった実相寺に言葉は意味を持たない。切通がいればなあ。ただの勘違いで済ませればいいんじゃないか。それを亜門に聞かれたら本気で殺されるのですが。あいつ今までどうやって生きてきたんだ……。亜門を笑わせる大喜利でも考えてみるか。万に一つ…。映画好きで甘いもの好きときて変身願望がある青年。プロパガンダ映画にノリノリで乗っちゃうところが怖いよなあ。感動と恐怖のごちゃまぜ状態で時間が止まっている怪人。偽物だと分かっているのに本物だと思った感情の更新を期待しているようにも見える。映画を見る目的も娯楽というより、映画を作る人間への理解を深めるための努力だったのではないでしょうか。実相寺の特美への心酔ぶりは鼻についたでしょう。実生活で他人の溢れ出た感情に共感できない場合、ほぼすべての人はその人への態度を保留するはずですが、人の作った"万に一つ"に感情を揺さぶられ人生が決まった亜門の独白を聞かされた、その相手が実相寺とは・・・・・・・・・・・・・。仮面そのものが現実を覆い隠す脅威であった場合に二矢はどう行動するのか。誰に対して恥じない行動を取るかは仮面は教えてくれない。組織末端の兵士は仮面に殉じたとしても、組織の頭が仮面の物語に良心を預けるのは人間を辞めるに等しい。見て見ぬふりなんかできないのは仮面のせいだったんです。すべては仮面のせいですと、教科書を墨で黒塗りにすれば仮面の呪縛は解けるのか。そん時は"本物"にしか見えんかったが、今観りゃどうなんだという話です。劇光仮面世界に亜門たち人龍を解体、あるいは人間に戻そうとする勢力があったとして、果たしてその欲望が、善なる性質で満たされているか。まず、100%、やりたいからやっているだけだと思うのですよね。そのうえで、人龍の心のメンテナンスをする部署が途中から生まれてくるかもしれません。物語の補填、作中の一ノ谷も青年から大人になるにつれ、大スターへの憧れに屈折した心情を感じていたはずで、より精緻な本物と見紛うばかりの特美は、少年たちがそしゃくできないような憎しみや怨念を孕んでいても不思議ではないでしょう。ただ、実相寺がそれを見てどう思いどう感じるかは実相寺二矢の話になるので、能面の上に実用性しかないヘルメットを装着する伏龍は美しいと2段構えの自己否定、後戻りなしの変身に固執する実相寺は・・・ある意味では、確かにヒーローです。狭山先生・・・・。魔美の父親、佐倉十朗にとってヒーローとはなんなのか、魔美から十朗に聞いてほしいし、巻き込まれる高畑が「お言葉ですがそれは違うと思います」と形だけの反省を言い訳の道具に使う大人に欺瞞があることを口にしてほしいとも思う。こいつ危険な男だな、と十朗からマークされることに高畑は不義理は感じても魔美に恥ずかしい男だと思われる筋合いはないと判断すると思います。こう、高畑が自分のことで激高する場面は、なかなか想像できない。他人から低く見られても高く見られても、他人の評価は参考程度にさせてくださいと自分自身に強い芯を持っているのが高畑です。山口貴由氏も劇光仮面1巻のあとがきで書いていましたが、仮面は臆病者の発露でもあります。エスパー魔美の物語フォーマットが強固なのはひとえに魔美の生存を優先する意思があるからで、仮面をつけた悪党がのさばる余地はない。ここで「魔美はエスパーという正体を隠して世を欺く魔女ではないか」と指摘されると少し弱い。高畑はあまり目立ちたくないという歪んだ性癖の持ち主なので、本人の意思とは関係なく意外性を発揮する。黒雪妙子は高畑のどこに惚れたんだ。(たぶん、無実の罪を妙子から着せられ、解決し、恩着せがましいことを言わなかったのではないか)高畑は嘘がつけない人間だと指摘したのは、作中で妙子だけかもしれない。評価されないことと対象への思い入れと世間とのギャップ。高畑が自分の意志で魔美から距離を取りたい(「友情はクシャミで消えた」)と伝え、また魔美が周りの人々から距離を取られた際に、その噂の根拠の不確実性を暴く高畑(「魔女・魔美?」)と、自分が傷つくことと他人が傷つくことの勘定を高畑は中学生離れした冷静さでこなしてみせる。他人の一生を誰かが背負う必要はないと狭山が切通に伝えたとして、ヒーローの活躍は異質すぎてその範疇に収まらない。そもそも託されていない(委託と受諾が発生していない)のだから、夜空の星を見上げて神託を受け取るヤバい人と差はないのだ。ヒーローは。妄想は自分に都合よく始めると歯止めがきかない。今際の際にナウシカに登場するクシャナに歌ってもらいながら看取られたら最高と妄想したら、自分でも過去最高にひくほど妄想が悪化した。最新号のスペリオールの劇光仮面を読んで思うことは、りまが劇光仮面1945の話を切通からはじめて聞いた時、紙面の上には出てこなかったが、[生き残ったのに何をやってるんだその男は][実相寺くんが影響されるね。仮装した正義の味方、彼にぴったりだ]と呆れていたのではないかということです。一生、可能な限り、グダグダしていたいという強い願望があったとして、その願望に対するアンサーがヒーローだとすると、折衷案を提出するなら——。一巻でりまが言っていた、「尖りまくりのメッセージをスポンサーと大衆は嫌うので、広く作品が受けた後は皆大人になっていく」現象は刑事ものと時代劇にはピンポイントで急所を撃ち抜いていて、悪党に人権はないし、そもそもミカドヴェヒターは死体をベースにした人造兵士なので基本使い捨てなのだ。ヴェヒターの停止は肉体の損壊ではなく、生まれた意味を死体の持ち主に再確認させる信号を打ち込むことで果たせる。やはり狭山章の心象は気になる。結局すべては消耗品だったとして、なにをしたかったのか、初代劇光のすぐそばで将来に一切の希望を持たず生きることに執着がないアホんだらの相棒として昭和平成令和まで生き抜いた狭山の実相寺評ですよね。明確な敵意と悪意が存在しない、ピクニックにいくような気分で凶行に及ぶ輩に法を説くのは徒労であるし、自分の身を守らない人間に危険な仕事をさせるのは社会人として容認できない。陶淵明の詩で「時に及んでまさに勉励すべし、歳月、人を待たず」とあるそうですが、狭山の若者への思いはこの詩と同じで若い頃にこそ遊べ、であると私は思います。俳優・監督のクリント・イーストウッド氏はまだご存命だったでしょうか?暴力の適正運用はマグニチュード9の地震を拳で殴って止めるのが理想なんですが、往々にしてしょっぱい悪党を毎週成敗するのがせいぜいです。形にならなくてもよいのですが、一ノ谷と実相寺の関係性は興味をそそられます。実相寺がちょっとどうしようもないバカなのは脇に置いておいて、物語の実質的な太陽と雲である一ノ谷の予測不可能性、単純にいえば、どこを目指しているのかがよくわからない偉人の迷惑っぷりが気になります。一ノ谷のヒーローが一ノ谷を都合のいい映画技術師として見ていたのか、水野ユミが真理りまを自分を窮地から救うヒーローとして見ていたのか、真理りまが実相寺を現実が見えていない痛いヒーローとして見ていたのか、この手の話では物語の構造上、誰がどれだけ我慢しているのか、実相寺がりまを見る目のやる気のなさ(なんじゃこいつ)は最高と、物語上もっとも無慈悲で平等なのはおそらくB29から見た都市上空からの視線であると思われます。大量の視線と爆弾(or焼夷弾)。得体の知れない力の使い道の話となると、田辺イエロウの『結界師』がほぼほぼ道しるべとなっていて、ゴジラが誰かのために熱線を吐きたいとか言い出したら魅力減だからヤメロとノータイムで言ってしまいそう。実相寺の信念である仮面の物語によって人並みの良心を得ることができるという考え方は、中身が空っぽの人間は仮面の力で何者にもなれる可能性があると宣言できる狂信性を持っています。ほぼ皆、実相寺を誤解していますが、彼はミカドヴェヒターを裏切れない共に心中する覚悟がある人間なのであって、急迫不正の侵害を見て、見て見ぬふりができない人間ではない。そういう時は警察に通報するのが最善です。暴力を肯定する権力の背景がヴェヒターにはあったはずなのに、映画『空気軍神』ではその背景は剥ぎ取られ力のみがヴェヒターに与えられている。ただし彼の仮面の物語は失われていない。そこにヒーロー性があると実相寺は見たのでしょう。ドラえもんのび太のように、ヴェヒターと実相寺は、人が悲しい時に自分も悲しいと感じて人が幸せだと感じる時に自分も幸せだと感じることができる人間らしさを手に入れるのでしょうか。ネズミを殺すにはまず地球からダ・・・。真なる狂気に仏性が宿ると説けば迫害待ったなしだな……。ただの狂気ならその辺に溢れているのに。何事もそうですが、一見して似ている二つの建物があり、規模、構造、目的、収容人数、建築年数、日々の運用方法と、なぜかわからないが惹かれる存在があれば、どうして惹かれるのか(割と碌な思い出がないのに)を箇条書きにして比べてみるのも楽しいのではないでしょうか。人ならぬ身でヒーローと化す。実相寺がそうであり、りまが実相寺を見て呆れ惹かれたように、オリジンの敗北性を複製が覆すことはない。あれば混乱が起きる。劇光の特徴の一つに持続性の短さがあり、また、声を大にして言わなければならないことは当事者から他者への伝わり方がほぼ期待できない絶縁性があるということです。私も劇光仮面を最初読んだ時は、ちょっと気持ち悪いマンガだなと思いました。『スチールレイヤーたちは、これをエクゾスケレットの反転と呼ぶ。』と話しかけられた時はマジで聞こえなかったふりをしようと思ったものです。考えてみれば私たちがスフィンクスと呼ぶ建造物も建造当時の人々がどのように呼んで、どんな気持ちで見上げていたかなんてわかるはずがない。劇光もその心情に似ているのではないかと少し思う。だからスフィンクスになりきるのだ、とか魔美みたいなことを言い出したら絶交です。粗雑さの対極にある自然環境の中で原型を保てない造形がそこにあるとして、実相寺のヒーローの実在を求める心性は極限状態での実存を追求する劇(はげ)しさであるといえます。熱したフライパンの上に水滴を垂らすと踊るように水滴が跳ねる現象、ライデンフロスト現象を思わせる。消滅するのが大前提です。「子供だまし」と「嘘」を手のひらに乗せてエスパー魔美を読書してみると、やはり高畑が気になってしまう。嘘といえば高畑の嫌いな物、堂々の第一位で、子供だましといえば『スズメのお宿』事件で高畑とお宿の老主人の趣味が完全に合致しそうな予感があります。老主人は大会社のオーナーで大地主なのですが人付き合いを嫌い会社の経営権を譲渡して、大邸宅の離れ小屋に引きこもって生活しています。そこに魔美が闖入してお節介を焼くのですが悲劇は置いておいて老主人の質素な生活のなかの趣味がことごとく高畑の感性に衝撃を与えそうです。魔美のつくった食事を残らず食べる老人、文句もいわず美味しいといってくれた、とくれば誰だってその老人に好感を持ちます。物語では魔美の同級生のお母さんの友人が、その老主人の息子と駆け落ちをして十年ぶりに再会するお話となっており、高畑はいてもいなくてもいいお話なのですが、老主人から見れば会ったばかりの青年(高畑)から敬意と尊敬を受けて大事にされることが嫌なわけがない。そしてそう遠くないうちに十朗の個展を見に行き、魔美よりも高畑に興味を持つだろうと思います。魔美は純真な乙女(高畑談)ですが変人でもあるのでそういうこともあるのかと自分を納得できても、高畑の性格からいってこの状況に平静でいられる君の考え方を聞きたいと、魔美のいない所で真面目な顔をして聞いてくるだろうと。「なぜだ?」 実相寺がヒーローに持つイメージはあくまでも“ヒーローは実在する”ことの証明であって、自分がヒーローになりきることが目的ではない。切通は自分の身体が病気におかされて長くは生きられないと実相寺に告げているので、なんとなくですが、だから実相寺には(無理そうな気もするけど)長生きしてほしいが、こいつ仮面を被ると人格が変わるからナーと、諦めと願いを実相寺に託しているような気がします。(※ スズメのお宿を読み返してみると「うまそうに食った」は魔美からみた主観であり、老人は「是非もない、覚悟を決めて食べよう!!」と魔美の前で言っているので、わたしは嘘をついていましたね。いかんいかん)最近、藤子・F・不二雄大全集のページをまじまじと見てペン入れの強弱にはっきりと筆圧を感じることができる鑑賞法を知り、ちょっと愕然とした思いです。言葉を選ばないでいえば、本当に信じられない。驚天動地の大事件であるといって過言ではないです。子供だましといえば刃のない軽い素材でできた模造刀でちゃんばらごっこをして斬られたふりをする時代劇は、ただひたすら嘘をつくフェイクニュースであるともいえます。ドラえもんひみつ道具のび太の夢をかなえることと少し似ている。昔の時代劇はオープニング曲が始まる前に口上を述べる様式があったのですが、あれ、これから大嘘をつくけど野暮なツッコミはするなよ、内容によってはそちらの命に懸かってくるので努々忘れてはいけない(シリーズものだと口上が洗練されてくる場合がある)と親切でいっているのかもしれないですね。実相寺に毒されてきた人間の台詞。劇光仮面と時代劇(マンガ)は庶民の哀しさが強調される傾向があり、実相寺の悲哀は人間なのに人間らしい幸せを求めようとしない、周りの人間も実相寺に気を使って幸せになれと世話を焼いたりしない、中野がかつての相棒だった実相寺の孤独をすこしでも和らげようと奮戦しても実相寺はまったく乗ってこない。この世の中には捨てられた子犬にも自分だけのプライドがあるんだと僕は知っているとか言い出しそうな実相寺を特美研のメンバーは見守っている。境界での誇りの話となっていて、実相寺と魔美の類似点はその現実と主観世界の垣根を軽々と越えてしまう非現実性にあります。ルールの逸脱と表裏一体なので、嘘が嫌いな人間にはなかなかできることではない。いかに社会適合性を学ぶか。その必死さを(現代日本では中学、高校時代に、命がけで学ぶはずだ)思い出す。藤子作品なんてどうでもいい、それどころではない(10代の友人たち。私もそうだ)と、とにかく大変だった(そして周りの人間と比べて私はボンヤリしていた)。劇光仮面の中野は本当にやさしい男で、怪人化した藍羽ユヒトとの出会いを神の祝福と受け止めた実相寺にヒーローならそう思う、現実と戦う人間なら病原による症状と判断するだろうと、同じ物を見ても見る人間が違えば見方が変わることを当たり前のこととしている。エスパー魔美でわたしがこだわるチヤホヤされることの処し方として、一つの理想形であると思います。暴力と生活苦の怯えがない暮らしがあって人は礼節を知る。実相寺のアメイジング・グレイスの件は劇光仮面本編中でもかなり常軌を逸している場面で、スペリオール最新号掲載の第42話「怪獣モルグ」を読んで、成田いちるもその劇光に列する人物であると認識しました。正気じゃない人間は怖いよ、とも思うのですが、いちるは祖父の特美造形への思いに強い憧れがあるのでしょう。ここでなんとなく気が付く。劇光仮面の作中ではっきりと怒りを露わにする場面があまりないのではないかということに(結界師の正守の顔が浮かんだのは内緒)。アモンもイリスも戦っている理由は自衛ではなく自分たちの大切な人たちを守るための他者防衛が暴走した結果であると思われ、ネビュラブッディから見ると、アモンとイリスは自分と同類の存在だと判断できるのではないでしょうか。また、ネビュラブッディ本編で彼(彼女?)が怒りに我を忘れるエピソードがあったとして、プッツンしたブッディを抑止する仲間はいるのか。犬の十戒のように自分を飼うための戒律のようなものです。人類のために生み出された利器が必要なくなれば宇宙に捨てられ、ひょんな理由で地球に帰ってきてしまった場合のように。ゴミだと思っていた物が人間のなれの果てだったのは、くり二号受容体として劇光仮面作中で登場していました。二矢工房とその一味がくり二号正常受容体を秘密裡で拡張する計画の障害と判断したからこその、奥多摩ロープウェイ廃駅ソロキャンプ襲撃事件だったわけです。第42話を読み返してみると「まってユーリー。」からの展開が熱い。いちるの「今の私は劇光仮面ネビュラブッディ。」のキマり具合も凄いのですが、ページをめくると実相寺のネビュラブッディ解説がごく自然に始まり、きっとネビュラブッディならそうするだろうけど、自分らは現代人ですから警察に引き渡しましょうと実相寺も正気発言をするなか、実装を解いたいちるがブッディに成り代わりブッディの慈愛をアモンとイリスに指ししめす。さらーっと流しているのですが、ブッディの銀色と金色がイリスの中で変換されていて、この世ならざるブッディをイリスは観測している模様です。怪人が現れるのは劇光と関係があるのか。本当に実相寺たちはヒーローなのか。私たちが立っている地面そのものが消えてなくなってしまうような熱いストーリー展開を期待します。ままよ、映像ソフト化がされていないキボーガーと誰よりも速く劇光を浴びた中野は、劇光仮面世界でのイレギュラーである、“在って”ほしいと私は願っています。劇光、劇光、と書いていたらターンAを視聴したくなり、最終話をまた見てしまいました。ギンガナムにまともな副官っていなかったんですか? 身近には絶対にいてほしくないギムですが、火の扱いに関しては誰よりも真摯で限界を知っていそうなので暴走さえしなければ(我慢を知る紳士であれば)男でも女でも惚れるナイスガイだったでしょうに……。副官は死ぬ。ディアナ・ソレルへの思いは、もう少し詳しく言ってから退場してほしかった。あれではロランが話題にすることもないだろう。責任と立場の鬱陶しさからの解放は、同じ立場の人間にしか話す意味がないはずでロランという当たりくじを引いたディアナには、ギムに外れくじを引かせた負い目をちょっとでいいから持っていてほしいと思う。ターンエー小説版はいくらぐらいだったかな・・・。(対等だと思っていた相手からただの飼い犬だと思われていた、餌を与えなければ餓死するだろうと思っていたら首輪の鎖を自分で外して暴れ出したので別の犬を飼って共倒れを狙った、飼い犬から主人への愛情は変わってはいけない、オリジンの不可逆性、一ノ谷の筋の通し方。見られていることの安心感・・・。)フケイもブケイもコッケイもない。劇光仮面の主人公として私が実相寺に惹かれてしまう理由の一つに行動原理の入れ子構造があります。なんてことはなく、一ノ谷がそうであったように他者の理想を糧にその理想を実現させるために行動することです。これはとてもグロテスクな様式なのですが、種々様々な形で現出します。犬が持つ主人への愛情と、愛情を与えられる飼い主という関係も、穿った目で見れば犬が持つ主人へ仕える心情を人間が勝手に犬の愛情と思い込んで、飼い主がその心情に応えてあげようという構造になっているといえます。赤穂浪士の吉良邸討ち入りがそうであるように、亡き人へのおもいを成就させる(どっちが主人で飼い犬か)構造です。劇光仮面では「主人と奴隷の関係」と、りまが中野に言っていたかな・・・。劇光仮面は星々の光を劇的に見る人の物語なので、時代劇は娯楽だと割り切っている人間(食事は娯楽。「ワクワク」なんです。)からは相性が悪い。まさか才遊記の第二杯をひっぱり出してまた読むことになるとは。ラーメンの再定義を迫ると有栖に言わしめた原田の作品も、フムフムとワクワクの本質から外れた、孤高に触った故の袋小路状態だと推測します。タイガーⅡは至高。 ワクワクの先に黒歴史があると仮定すると、この話題は一気に身近になります。欲望の解放を他人のせいにしないディアナにはまだ理性と羞恥があります(悪くないとは言わない)が、先祖代々が積み立てた保険の履行を忠実に実行する気満々のギンガナム(王家を守るのか、月面人類の守護者なのか。黒歴史アーカイブを見てしまった後のギンガナム艦隊の役割。副官が重要なのは月面人類の行く末をギンガナム艦隊が掌握する未来予測が容易だということ。比較対象がないのは恐怖でしかない)は墓荒らしを食い殺すつもりでも、ただ立ち上がって歩き出したいだけなのかもしれず、赤ん坊と老人の世話を根性と愛情で実行するパワー介護者がロランであるといえるだろう。再遊記の単行本9巻はインスタントラーメン編となっていて、最初に読んだときは芹沢のインスタントラーメン愛はチョロイぐらいにしか思わなかったのですが、今、スペリオール本誌で連載中の原田編を見た後に9巻を読み返すと印象がガラリと変わります。芹沢が有栖と和文たちと一緒に日本各地を巡った即席乾麺の旅が本当に楽しそうで、見ている読者の私たちも笑顔になってしまいます。瓶ビールと缶ビールが袋麺とカップ麺の関係と似ている、というのは意外な発見でした。ご当地袋麺にはニューウェイブ系に通じる自由奔放さがある、という有栖の発言にはニヤリとさせられます。偽物と本物に垣根はあるかという話題にもちょっと絡んできていますね。才遊記の第二杯で有栖が言った「多少の荒削り」と「洗練」の間にはワクワクとフムフムが潜んでいる、ラーメンはワクワクしていてほしい・・・って、有栖はいつも同じことを言っていますな。ワクワクしないは、殺し文句として二流ですが有栖が言うと説得力がありますね。塩匠堂事件もかなり辛抱強くお話を引っ張った印象がありましたが、スペリオール掲載の最新話でハイスペック醤油ラーメンの上っ面だけを真似た安易な偽物が登場して、「悪貨が良貨を駆逐する末路」と芹沢が危惧するのも、なんちゃってヒーローコスプレが世間に蔓延する劇光仮面の世界と重なる所があります。塩匠堂事件は本人が意図せずに羊頭狗肉の状態に陥る悲劇を、耄碌した本物では見抜いて戦うことができない、と示しました。今、東大の令和五年二月二十五日、午前九時三十分から開始したはずの試験問題を読んでいるのですが、月光仮面に言及しましたね。『そして、テレビの画面のなかで繰り広げられる現代の仮面のヒーローたちの活躍もまた、それと同じ欲求に根ざしているのである。』ひょー。『暴れん坊将軍』以降、若き吉宗の後継をついに創造できなかった苦っーい時代劇ファンの深淵を衝く発言。もちろん仮面ヒーローの話をしているのだから、私のただの言いがかりなんですけどね。清潔な寝床、豊かな量の飲み水、その水をお湯に変える豊富な熱量、栄養バランスが整っている食事、そして避妊。ナイチンゲールは病床を清潔にすることで死亡率を減らし、死亡に至る経緯とその対策のために統計を取り資料を作成し傷痍者を減らす活動をしたそうです。クリミア戦争の名は知っていても、時代と場所については何も知りません。ネット検索してみますと、1853年から1856年にかけて起きた戦争であり、日本でいえばペリーが浦賀沖に来航した年が1853年で、立て続けに米蘭露英と条約を結びハリスが下田にやってくるのが1856年。ハリスの身の回りの世話をしたのが下田の人々だったようです。ときにシャーロックホームズシリーズの作者、コナン・ドイルはその3年後に生まれていますね。シャーロックホームズシリーズ当初の最終話前日譚である『海軍条約事件』は私の大好きな話で、ホームズの対人情緒スキルがかなり壊れている名作です。ホームズは胡散臭い男ですが、スコットランドヤードに貸しを作ることで社会的信用を得てきた唯一無二の変人です。ワトソンの存在がどれだけホームズのトランキライザーになっているか、ちょっと想像するだけでも怖い。グラナダ版ホームズを小説を読んだ後にみて自分の視覚イメージを再確認する視聴方法をとっているのですが、街並みと生活する建物内部の様子が次々と映像で表現され、シドニー・パジェットが描いた登場人物たちが動いて会話しているドラマを見ていると不思議な気持ちになります。海軍条約事件ではロンドン行き列車内でのやり取りは残念ながら再現されなかったのですが、私はてっきり冗談かと思った——、というワトソンのデビッド・バークの演技はぜひ見たかったですね。そして最新話の劇光仮面です。心身共に傷ついた真理を元気づけようと気合の入った劇光服のデザインをりまに語る実相寺。中野には空気読まないくせに、りま相手には実相寺なりの気遣い(ベーアサーダの戦闘力強化を提案)をするのですが、まったく相手にされません。存在しないはずだった怪人と戦い無力化するための機電、ミカドヴェヒターがそうであるように、存在が秘匿され恐怖を流布する兵器こそが威力。鉄仮面少女は恐ろしい奴だったけど、次に会敵する時は真理が衝撃を与える側になればいい。その戦果で失われた視力も取り戻せるはずだ。僕は協力を惜しまない。喜んで真理の新兵器の実験台になるよ・・・。誰だよおまえは。動機が不明過ぎる。単純に考えれば、九千九百九十九の実験失敗を経て、限りなく必中に近づけようとする実相寺の意志なのですが、本当におまえはいつの時代の青年なんだと言いたくもなります。実相寺には常識がないのですが、常識とは好きか嫌いかで語られる要素なのか。呪術廻戦の五条は皆が知る「正論が嫌い」派の人間ですが、宿儺はあれで正論が大好きなのではないかと私は疑っています。呪術廻戦世界での正論中の正論は、「特級は術師の格付けの中でななめにハズれた位置づけ」「1級こそ他の術師、延いては呪術界を牽引していく存在」「危険・機密・俸給、準1級以下とは比べものにならない」「それを踏まえて言わせてもらうと、最初から特級に勝つ気のない1級など鼻くそ以下の価値しかない」「みんな日下部が大好きなのは、五条に対抗し得る可能性のある唯一の1級術師であるから」「それはそれとして、まず五条には勝てないだろう」五条対策をシン・陰一派が布瑠部由良由良の他に見つけようとしていたのか。弱者を守るのが、シン・陰の真骨頂であるなら、五条と禪院にスパイがいるのも道理にかなう理屈になります。真希も宿儺戦から一時退場しましたが、私が真希で気になるのは呪術廻戦0での「聞けよ。なんで私が落ちこぼれか」と憂太に問いかけたシーンの前後で、そこには真希から見た世界からの視線が、ダセェ落ちこぼれ、恥ずかしー奴、あんな人間はいらない、と蝶よ花よと育てられることには無縁だった子供時代の面影があります。東堂の少年時代はケンカ、ボコる、つまらん奴をボコってもつまらないだけ。退屈が世界を覆っているなか、ファイトの中身を評価する美女が唐突に現れ世界が裏返ったわけで、顔面死球を東堂に投げつけるだけの理由が真希にはありました。今気が付いた。チヤホヤ熱。ううん、むずかしい問題だ……。私はまっさらにしてやりたい欲望が対象への大小の差はあれ存在していますね。イデオンの主題歌がよく心情に合う日だ。呪術廻戦の新刊は買って読んでいるのですが、現時点で日下部のキャラクターに過大な期待を持ってしまいました。コンピューターが弾道の計算をするために生まれて成長したように、呪術のうんちくを当代一流の呪術師がありえねーことに解説をして周りがつっこみ宿儺の術式が五条につられて成長するという現象に別ベクトルでも使えるのではないか、呪うことは相手に禍根を残すことででも達成できるので、日下部には最後の最後まで生き残ってくそだせぇ呪いの解説役を全うしてほしい。五条悟にあまり興味がないからとはいえ、私は日下部に本当に酷いことを言っていますね。肩代わりできないと分かっていることに代役を当てはめたらどうなるか意見を言ってみてくれと九十九由基に聞けたら人でなしの称号をもらえそうです。アップルの創業者の一人スティーブ・ジョブズは学生時代にタダで長距離電話がかけられる違法装置を作って販売し荒稼ぎをしていたそうですが、彼は身近な情報機器が世界と繋がっていて人々の生活と密接に関わっていることに心震わせていたのでしょうか。エスパー魔美のチヤホヤもサービス精神とかっこをつける心構えの相互作用であるのだろうとなんとなく思う。魔美の父親、佐倉十朗が誰に対してかっこをつけているかは、読者なら一目瞭然であるだろう。もしエスパー魔美に続編の製作が発表されるのなら、十朗の連作『少女』の完結への意気込みが主体になるのでしょう。物量と熱量が十朗に求められるので、まず十朗の妻が止めるはずです。エスパー魔美をほんの少しだけ再読する。サマードッグの余韻に浸る間もなく名犬コンポコポンを読むと、「しかし、念波もクソもなかった」と酷い解説文が挿入されていて苦笑。ここだけパーマンやないか。無事、コンポコは泥棒をつかまえるのであった。アマプラでこの話のアニメを視聴すると泥棒役の声優が千葉繁さんだったようでコンポコにがぶがぶ噛まれていました。がぶっと噛まれるといえばレジィ・スターですが、千葉繁さんの声で聴いてみたいですね。レシート内容の再現をする際の嫌みったらしい声を誰が演じるか、興味があります。今際の際の善行だぜ? 術師が持つ己の死の概念に最も近い要素を摘出してプログラム化したものが術式だとすると、虎杖の術式は宿儺に準じた術式になるのは避けられないだろう。虎杖が人生で初めて死の恐怖に泣いた時、なんの興味もなく助けてくれたのは宿儺でした。社会通念上の檻、刑務所の中の秩序、火影の統治下における里内忍者の安全と、なんの疑問もなくヒルゼンが大蛇丸を含む里の子供たちを守り育てること、崇め奉り退屈の檻の中に封じる行為の動機、収拾がつかなくなるであろう次期火影のスタンス。呪術廻戦で宿儺を20分割して封印する案を考え実行したのが誰なのかは明言されていませんが、羂索と天元が一枚以上噛んでいるのではないかと思っています。長生きしているキャラだからということ以外に大した理由もありませんが。呪術にあまり興味のない私は真希の行く末がどうなるのだろうと思って本誌を追いかけていますが、宿儺の分割・合体について日下部も交えて解説が始まったら、本誌、Twitter(X)、ネット上の解説、知り合い・他人の与太話でもなんでもいいから知りたい。本作一番の激甘ポイントであると勝手に思って巨大スプーンで掬って独り占めにしたい。もちろん誰にも言わない。ジョジョ第6部でスタンド能力の奪取ができると知った時は少なからず落胆をしたのですが、次のスティール・ボール・ランで、鉄球回転の能力は固有能力であると知った時は興奮しました。迷惑な力を得てバランスを逸している(常時不安定な状態にいる)のに飄々としている人物はカッコいいですからね。プッツンした時は素数を数えるのではなく、時を止めてから広瀬康一に敬意を持とう。自然に怒りが収まります。集英社のコミック半額セールを利用してスティール・ボール・ランを一気読みしているのですが、荒木先生はとんでもないサディストですね。リンゴォ・ロードアゲインのエピソードはなんとなく知っていたのですが、ここまで用意周到にジャイロを追い詰めるとは思いませんでした。穏やかな生活は光の道ではない。 ようこそ・・・『男の世界』へ・・・・・。……第四部の重ちーが今になりどんどん大きく感じられる。仗助の対由花子ゲンメツ作戦はしょうもないなこいつらと読み始めると、ホラー味がどんどん増してくる。人の話を聞いてくれない。受け身の『対応者』はここでは必要なし。このあたしを摑まえてみせなさい。卑劣さはどこにもなく…漆黒なる意志による監禁は人として未熟なあなたを聖なる領域へと高めてくれる。乗り越えなくてはならないものがあるの。神聖さは修行よ。だからあなたには全てを隠さずに話している……。よろしくお願い申し上げます。こんなジョースター卿に見込まれてしまうディオだったら嫌だ。連休でもあるし、承太郎の俺のスタンドが裁く、発言でも考えながらぼけーとしていよう。ゆっくりとスティール・ボール・ランを完走して一晩ぐっすりと寝てから感想を述べてみると、遺体の無法さにおよそ現実味がないことと、ジャイロの黄金長方形の軌跡による回転に奇妙な説得力があることにひっかかりを感じる。特に遺体。信仰による奇跡の実現だからなのか、終盤のヴァレンタインの出鱈目さには唖然としました。誰かに不幸をおっかぶせるというシンプルな邪悪(と言い切れるかどうか)は、犯罪者に罰を与え刑を執行するツェペリ一族の人間(特にジャイロの父親)なら神の御業による自動安定平和マシーンに見えるかもしれません。SBRと第4部を重ねて見てしまうとマンダムはバイツァ・ダストの亜種ではないかと思いつき、朝から気圧が低いせいか頭が重いのですが、精神的にはルンルン気分になりつつあります。フフフ ハハハハ 誰かにしゃべってもかまわないよ…(ところで今何時ですかね?) ズキズキ・ワクワク。ジャイロの父親グレゴリオ・ツェペリは、証拠さえ残らなければ、安定平和のために、ネットにひっかかってはじかれたボールを、人の手で納得がいくまで、何度もネット上に放り上げる人間ではない。そんなことをしていたら神は人間を見放してしまう。敬虔さと特権の継承はツェペリ一族では長兄のみに託される役割で、グレゴリオは全てをジャイロに伝えた。・・・・・コミックを読み返してみると、ジャイロに国王から恩赦を得て少年を無罪にするのだと入れ知恵をする親戚の爺さんは何者なんですかね。オエコモバなど国王反逆派のあぶり出しを狙った親国王派の策士にも見えます。そしてジャイロは若い! 少年マルコの死刑判決に地位も名誉もあるツェペリ法務官が異議を唱え(新聞記事になった)、父の教えを無視してSBRレースに参加するのだから、その無鉄砲さと甘さは感傷どころではありません。親のスネかじりの根性なしのジャイロ、くそっくらえッ!バーーーカ!(ホット・パンツのようなクールに去るぜ系女子はジャイロと相性が悪そう・・・というか悪い。ルールの分からないバカは木に吊るす主義(裁判はいらない)の女。ただし善人は例外だ。バカでも善人でよかったな・・・) 人間は考える葦である、の言葉で有名なパスカルはいつの時代の人なのでしょうか。グーグルで検索すると・・・、1662年に没していました。意外です。1750年くらいの人かと思っていました。フランスの人だったのですね。いやホントに何も知らないな。バイツァ・ダストが吉良の絶望(殺したい人間を殺してきたのに、殺してはいけない人間を殺してしまったことの絶望)から生まれた設定は考えれば考えるほど楽しくて大好きなのですが、ジャイロの葛藤(殺したくもない人間を殺さなくてはいけないのに、殺そうとしている父の教えを殺さなくてはいけないのかという葛藤)も同じくらい好きなのです。父グレゴリオの家族への愛と、神への信仰は、一点の曇りもないことをジャイロは101%信じているにもかかわらずです。そしてジャイロは自分と父親しか知らない本名をジョニィへ伝えているので、ジャイロの父親は(本当は)どうかしていることをこの世でジョニィだけは知っている。重いな…。グレゴリオがジョニィに会って話をすれば当然聞くだろう「最後になんと言っていましたか」という質問にジョニィはどう答えるのだろう。100万匹のディエゴがこの世に跋扈しているとして、もう当たり前すぎて誰も気に留めない状況があるとしよう。本来ディエゴのような飢えた獣は人間社会からはみ出される(社会安定を損なうから)のだが、また逆に人間社会の上位の階級も飢えていなければ自分たちの生活がなぜ飢えと無縁なのか(生活が安定しているのか)を自覚することがない。人間社会に絶対的な階級を与える意味不明な聖人の遺体。ジャイロはもともと興味がない(飢えとは無縁な生活をしてきたから)が、肉体的に飢えていないのなら精神的に飢えていなければならない。SBR序盤でジョニィがしつっこくジャイロに絡む、お願いだから飢えてくれッ 祖国? 親? 死刑? 鉄球? 君は全てを持っているじゃあないか! 汚らわしいぞッ!(それはリンゴォ) ジュリアス・シーザーの名を冠する国家処刑執行官とか正気ではない。これであの爺さんの名がカーズならふふっと笑う。太陽を克服したいとは思わんのか? うさんくせーとは思っていたが、法は絶対だったんじゃないのか? 刑執行を生業にするなら、あの少年の一族もまた、誇りを持って仕事をしてきたはずだ。少年を無罪にするということは、ツェペリ家の誇りだけでなく、あの少年の誇りまで汚すことだぜ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。グレゴリオがジャイロに繰り返し諭すのは、鉄球は国王から与えられた責務を果たすための技術。人を穏やかな心に導くための道具だ。対人戦闘のための技術ではない。テニスは別だが。黄金の精神。穏やかな心。漆黒の意志。4部~ッ!! ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド ド(25回)。4部は不良とヤンキーと犯罪者のバリエーションが豊富で、億泰の兄貴、虹村形兆もその一人ですがコミック2巻を読んでみると、「躾が厳しい父親」「家は裕福」「世間に顔向けできない一面がある」「男には安心が必要」「父親のことで悩んでいる」「馬鹿げている悩みを解決して納得したい(自分の人生を生きたい)」家族を大切にしたいし、不意に大切にされると恐ろしく動揺する、と無理に探すと形兆とジャイロはちょっと似ています。形兆にとっての百害は家族との思い出となっていて、ジャイロの百害は罪を裁くのが国家と法であること。大切にしたいが今のままではできない。SBRの実質的なボスキャラであるヴァレンタインは家族と国家の両輪を挟んで射出されるスタンド能力であり、最終的にラブトレインで神の加護まで受けるので天下無敵と化している。真のアウトローではないジャイロでは運命が味方しなかったのはやむを得なかったのかもしれない。ただ、ヴァレンタインがそうしたようにジャイロも大人しくナプキンを取っていれば円卓に着座することが許された可能性があり、ただナプキンを取るだけでその後の人生が安楽に過ごせる可能性があった。ただナプキンを取るだけの動作とヴァレンタインへの敬意を払うだけで・・・。ご馳走を目の前にして『悪いもの』を指し示すという悪趣味ここに極まれりという惨状になっている。場の雰囲気を味方につけた者こそが運命を手に入れるのだ。フフッ いやヴァレンタイン、おまえ父親に顔向けできるのかよ・・・。ジョニィへの『父の愛』と『愛国心』にかけて誓う、報復はしない、は裏を返すと父が愛した私と、父が属した陸軍の帰属にかけて誓う、報復はしない、となりさらに裏を返すと愛された私が愛する国を守るために愛を損なわない行動を心と共に示す、報復はしない、全てが『正義』だ——(なんのこっちゃ)テロリストに交渉なんてするわけがないだろう。荒木先生がお勧めのヒッチコック映画うんちく本、『定本 映画術』(晶文社)を読み始めたのですが、今、特に気になることは、気に入った主人公をいかに追い詰めるかということです。リンゴォ戦までの道のりと決着は少年マルコのように生きられないジャイロが、生きられないことを受け入れて心の中のイエス様とどう二人三脚していくか、無宿人と無法者が健全なキリスト者になれないならどうすればいいかと自問自答することから始めるはずだったのでしょう(リンゴォが心底軽蔑しそうな考え方)。法に納得できないのなら無法者になるしかない。でなければ、自分が法になるかです。ルビコン川を渡ったり、サイコロを投げたり、絨毯にくるまった美女と一夜を共にしたり、するかという話です。ジョジョリオンも読み始めました。犬猿の仲だった定助と常秀が高校への通学路案内で(カツアゲを通じて)急速に親しくなる展開に杜王町に帰ってきたぜと強く実感しました。健全で健康的なベッドタウンに見えてなんじゃこの犯罪都市、お巡りさん仕事してますかと言いたくなる不穏な気配。ウヒヒヒ。定助は基本、礼儀正しい男なのですが、常秀には内心の見下し方がヒドイ。お互いに犬っぽい性格なので身内のランキング付けを覆すのは容易ではないでしょう。領域を重ねて展開すれば術者に無限のバフがかかるので究極までやりきれば五条と握手ができるはずです。焼き切れる術式と脳をなんとかして、普通に日常生活を送れれば完成。ジョジョリオンは解呪の物語だと康穂が一巻のはじめにモノローグで語りかけるので、素直に読めば4部仗助の優しさが吉良吉影の呪いを解く物語なんだと思います。無茶言うな。快楽殺人者を充分満足させて幸せ一杯とかありえないし、この幸せを人々に教え伝え導こうと信仰に目覚めたら責任が取れない。平穏な生活から最も遠い闘争はきりがなくムナしい行為だ。今週の少年ジャンプで乙骨がぷんぷん怒ったとSNS上で見て知ったのですが、日下部がその場にいたら複雑な心境になったのではないでしょうか。天元様の結界術で日本の均衡が保たれている以上、六眼と無下限呪術の所有者は無所属の新人ではいられないでしょ!と乙骨に言ったら目で殺されるから言わない…。闘争は勝利して美酒を得るための行為ですが、防衛は勝利して得た報酬を外敵から守るための行動となり、街のゴミ掃除をするのは快適な環境で生活するための行為であり美化保全のための行動といえます。アメリカから見るとヨーロッパ・イタリア地方から国王の恩赦を得る目的で来米したジャイロこそが異物であり、SBRレース優勝の栄誉と賞金を欲する参加走者こそが正当な勇者といえます。若い国家は成長と繁栄を欲しているのです。日本の新田開発が江戸時代で一気に進んだのが、家光、家綱の時代で、綱吉の頃は大規模新田開発は頭打ちとなっていたようです。昔の稲作の様子を撮った白黒写真を見ると、いかに農耕馬や牛たちが大活躍して貴重な労働力だったか、その大変さを想像するだけで足が震えます。天元は人間が生活しやすいよう環境を整えてくれているはずで、天元が現れる前と後では、おそらく領域の概念そのものが変わったのではないでしょうか。生まれる前と後くらいには違う。日本の出生データは厚生省のホームページに載っているのですかね・・・。1966年から1975年までの死産率の低下具合は一目で違いが認識できます。未熟児の生存を促す環境が急速に整った時期だったのでしょう。わたしも大病院で生まれたそうですから、案外・・・・・・・生き延びられたのかもしれません。7部を貫く「納得」も、億泰が形兆に「親父が生きているだけでいいじゃねえですか。三人で仲良く暮らそうぜ兄貴……」とふっかけ(納得なんて価値観は家族の平穏な生活の前ではどうでもいいものだ)れば、形兆大激怒は避けられなかったでしょう。最初期の投資で将来に充分な見返りを得る行為は最初のボタンの掛け違いが発生すれば取り返しのつかない事態に発展する恐れがあります。つまり玉美の話なのですが、形兆のウィークポイントは崖っぷちギリギリで家族の平穏を望んでいることで、その状態自体が形兆の精神を弱くしています。バッド・カンパニーは見掛け倒しで弱いとの評を見かけますが、もし虹村家が盤石な家庭環境であれば冗談みたいな師団を展開できたのではないかと思います。玉美もどんな格上の相手にもハマれば勝つスタンド能力(その人の大事な物に錠をかけるというシンプルな戦法)なので、磨きをかけていけばいくらでも強くなる素質がありました。本体が殺されるとスタンド能力は解除されるというルールがあるので、いかに本体を介さずに対象までスタンドを接触させるか、憑依型スタンドが好ましい。グレート。面白くなってきました。本当に興味はないのですが、これは面白くて仕方がない。アンジェロに指さされて気分が悪いのでへし折るぐらいの倫理観しかなくても、意味もなく架空のスタンド戦を想像するのは楽しいことです。ちくしょおおお~~~っ いい気になりやがってよお~~~っ この俺を制裁していいと思ってんじゃねえ~~~っ もし仗助が「おれも、この承太郎さんも日本の法律も もうおめーを死刑にはしない」と言わなかったら、承太郎がどう動いたかは興味がありますね。仗助は音信不通だった父親(ジョセフ)から隠し子(仗助)がいたと正妻(スージーQ)にバレたことの法務上の手続きに来た承太郎に礼を失さない青年で、「父さんに、おれと母は納得しているので気をつかわなくていいといってください」と言える人間です。わたしは言いたい。承太郎は目上の人間も気に食わなければ殴る男で、ジョセフの息子がじじいの身の回りの生活の心配をすること自体がカルチャーショックだったはずです。ジョセフ・ジョースターの心配をする人間。仗助の母、朋子がいう「あいつは心の底の底ではやさしさがある」との言葉は、対アンジェロ、対露伴、対吉良吉影、戦と4部を通じてひたすら試される(特に露伴)のですが、そういった視線でヒッチコック本と合わせてジョジョを読んでみるとこいつらこの人たちは悪ノリを圧倒的リアリティでやり遂げようとしていると理解できます。『マンガ』とは想像や空想で描かれていると思われがちだが実は違う! 自分の見た事や体験した事、感動した事を描いてこそおもしろくなるんだ!(露伴・談) エニグマの少年と小林玉美の類似点というか、仗助と康一の母親の相違点なのか、黄金の精神と漆黒の意志が杜王町に同居しているというか、4部5部と来て7部でなんの遠慮もなく叩き込むというのか、仗助のおじいちゃんには悪いのですが「お互い様」と口にする輩は総じて悪なのではないか(おいしい食事をみんなとする際にマナーのなっていない人を注意して、相手から「お互い様ですね」と言われるような)、システムの維持には犠牲がつきものと、ブチャラティの父とジャイロの父は総じて似ている(家族をとても大切にしている)、運命の奴隷とは家族を大切にする人に犠牲を強いるのなら、それを破壊すればいいのではないかと思わなくもない。仗助のヒーローは無言で現れ無言で立ち去りますが、リンゴォのヒーローは遂に現われない。総じて生き方の指針を邪魔する奴には無言で鉄拳を献上するのがクレイジー・ダイヤモンドで、リンゴォは自らの手で運命を切り開く眠れる奴隷であるといえます。おまえをうらやましいとは決して思わない。露伴に偽物だと理解しているのに高揚が抑えられないと相談をすれば、その偽物が本当に本物ではないのか、本当に偽物なのかを自分自身で納得がいくまで理解したのかと(興味が向けば)興味なさげに言われそう。「偽物かどうか一目で見てわからないのに本物かどうかを熱心に調べるなんて詐欺師に騙されそうですね」とゴミカスみたいな返事を私なら言います。すっとこどっこいに用はない・・・。露伴も自分の作品の雑誌掲載順序に気を遣うのでしょうか。強力なライバルが現れた時、一瞬でも「負けた」と心の中で敗北を認めたのなら、露伴はどこに立ち返るのか。(そこまで遡(さかのぼ)ります!?というくらい屈辱体験を反芻しそう) テレビ時代劇が毎週、曜日ごとに違う番組で夜8時から放送されていた時代は、気に入った番組ならほぼすべてを、病気で寝込んでもいなければ毎週見ていたはずなのですが、原作のある時代劇ではない、テレビオリジナルの脚本では放送期間が長くなればなるほど、ドラマの内容は類型化していき、私はテレビの物語進行と壁掛け時計を見比べながら見るのが癖になっていました。印籠が出る時間の確認は本当によくしました。あと劇中の音楽もここではこの曲がかかる、主人公が怒り、胸に秘めて、バーンッ!と敵中に乗り込むまでの溜めの時間の区切りが、時計で見ていてだいたいどのあたりかは必ず気にするようにしていました。安心、安定を求めていたのかもしれないですね。だから類型化ができないドラマにぶち当たると、心臓のバクバクさと必ず理解してやると無駄に脳に血液を送ってテレビにかじりついて見ていました。スペシャル特番は天敵です。たまーにしかやらないし、いつ放送するかもよくわからないし、実は見逃していたかもしれないし、特別出演があったりして誰だおまえ知らんぞと混乱に拍車がかかります。ジョジョの奇妙な冒険の登場人物で悪役キャラであるディオ・ブランドーですが、初めて読んだころから30年以上の時間を経て、わたしの中に彼への感謝の気持ちが芽生えつつあります。おそらくリンゴォから見た果樹園に迷い込んだ決闘への対決予備者への感情と似ているのだろうと思うので、かなり失礼だなと自覚はあるのですがジョナサンからボコボコに殴られない限りは訂正しなくてもいいかと判断します。とにかく感謝しかない。意地汚い性格の7部のディエゴ・ブランドーですが、5歳のころまでは馬の世話が好きでちょっとヌケている性格の見た目が可愛らしい普通の少年でした。転機はディエゴの母親に愛人関係を迫った職場の上司からのセクハラを母親が毅然と拒否したことです。日々の食事配給に母子は嫌がらせを受け、わざと壊された食器の代わりに自分の靴の中にシチューを入れてもらおうとしたディエゴを、母親は平手打ちして咎めます。「どんなに貧しくても気高さだけは忘れてはいけない」(正当な報酬は毅然として受けとらなくてはいけない)食べて大きくなって成長したら、母さんを守ってね……。このエピソードをヴァレンタイン大統領が(どうやってか)知ることができているのであれば、遺体の所有権をDioに譲渡するのも分からなくもない・・・かなぁ。Dioは普通に意地汚い男なので、「ナプキンをクソ野郎に決して渡してはならないのだ!」「わたしも君を信用してるわけではないが」のコンボはギャグでやっているのかと最初読んだ時は思ったものです。4部でディエゴに相当するキャラクターというと、エニグマとハイウェイ・スターを足して悪意を混ぜてから3倍に濃縮して康一くんにやってもらう感じでしょうか。一生、相手にしたくない悪意まみれの人間です。「オレに用があり報酬があるというなら話を聞いてやる」「オレに見合う価値のある話なら、な・・・」(一応、本当。ただし彼はすべての人間は有罪だと思っているので手渡される物がなんであれ、相手を地べたにはいつくばらせるのは既定路線である) 理不尽な困難に見舞われたブランドー母子に自分の分のシチューを何とはなしに分けてくれる奇特な人物がいたらどうなっていたのだろう。その時点では食い物にできるいいカモがいたとディエゴが即断するとは思えない。4部重ちーなら鈍くさい正義感で王様の耳はロバの耳(裸の王様では…)だど、と言って助けてくれそうな気がします。母ビンタに言動意味不明の兄貴分とディエゴには前途多難な並行世界。7部アニメ化ではヴァレンタインの冒険で・・・。ヴァレンタインの並行世界、ディエゴの信念、リンゴォのスタンド能力と、ゲゲゲの三位一体が姿を現したとわたしは誤認していましたが、バイツァ・ダストの直訳が「また誰かが地面に這いつくばる」(ピクシブ百科事典「バイツァ・ダスト」の項より)と教えられると『スタンド攻撃』を受けている、何十日間も前からわたしは攻撃されていた、と思わざるを得ません。リンゴォが反吐が出るほど嫌いな「対応してから反撃する」人間ではバイツァ・ダストに勝つことはできません。考えなしに理知的に行動しろとリンゴォにせっつかれているようで、なんでお前にそんなことを言われなくてはいけないのかと僅かな社会性も放り出して未来を手に入れる為に銃を取ってしまいそうです。バイツァ・ダストへの必勝法はない(4部では玉美からはじまる遠距離搦め手型スタンドの極北。本体の安全ではなく尊厳を死守する能力で、争いのない安心な人生を実現するために生まれた)ので、本体への偶然の事故を装うのがスタンダード戦法のはずですが、何の情報もなければ本体に手が打てるはずもなく最初から詰んでいる戦局です。公正な盤上では最初からない。アバッキオが恥知らずな奴であればムーディー・ブルースに未来視再生の裏テクを実装して、死ぬ時間と場所と様相をつぶさに観察して推察し、バイツァ・ダストのスタンド本体にまで辿り着けるかもしれない。複数話の続き物を最終話から読み始める鑑賞はゴミ感性が過ぎるのですが、たまーにやりたくなります。ネット上ではクソカスはおまえだと言われがちな吉良吉影ですが自分の幸せを手に入れてから他人に興味を持つ・・・のは自然なことです。自分のことでそれどころではないのに他人に興味を持ち世話を焼くのは地獄まで善意舗装する人間であり、やる気と能力が高次元で両立していればジョジョのラスボス候補として立候補できます。リンゴォはどっちだ。荒木飛呂彦氏が常秀を贔屓するのもスーパーお荷物であろう常秀を背負ってあげるとなぜか幸せがより増すような気がするからではないでしょうか。常人では到達しえない高みでしょうから、もしかしたらそうなのかもしれないと思うと思うくらいの与太話です。NHKのドラマ『虎に翼』ですが、穂高が「社会の良薬でいてあってほしい。劇薬は論外。毒まんじゅうでなら良しとしよう」と寅子に話しかけたとすると(ない)、「はて・・・?」「もしかして今のお話はユーモアあふれる社会生活を生き抜くための知恵をご教授いただけたのでしょうか」「わたしの感想が真であるのなら論外ですし、先生を一生軽蔑するに値するだけの材料をいただきました。わたしの雑感が間違いであることを祈るだけです。失礼いたします」社会は敵ではない、その信念がなければ法曹の世界に身を置くのは命に関わる。桂場とよねは、ほとんど絡みがないと記憶していますが、あの二人が酔っぱらって寅子が面倒をみる飲み会があれば、8メートル以上離れていればぜひ観戦したいものです。虎は自由であるべきだッ! ——悪党なんてものは湧いて出てくる雑草みたいなものだとすれば、それは疑う余地がなく社会が悪い。こどもの日の隠れたヒーローである鍾馗さまの冗談としか思えないヒーロー立志伝を『虎に翼』の寅子周辺の法曹男子関係者に感じる。桂場は危うい。おまえ友達いないからなあ~? この俺の愛を受け入れる度量もないのに法の下での平等・独立とか穂高先生が見たら不出来な教え子よと悲しくて泣いちゃうんじゃないか?(ぐびー)アメリカ大好きライアンの、ここだけは譲れないというポイントが桂場の理想と衝突する日は来てしまうのか。ライアンと多岐川は穂高イズムを受けていても本当にやりたいことは明確にある変人で、司法の独立とか法の下での平等とか、かなり上滑り気味な桂場の理想は、ライアン・多岐川のみんなを笑顔にする!そのために人生を使う!そのための裁判所だ!という欲望ときれいに混ざって溶けるか、まったくわかりません。寅子の人生の幸せが法の下での平等だとすると、法曹界への出発地点が、ちょっとだけ、いやかなーり歪であると言わざるを得ない。桂場も自分が理念だけが先行し過ぎていると自覚があるはずですが、佐田君ほどではないと思っていそう。寅子と母親のはるがお互いに相手の立場を尊重していたか(君たち女性は男と同じ土俵に上がることすらできない。できたとしても泣いて逃げ出すのがオチだ・・・)、あのあたり、ものすっごい勢いで桂場がスケープゴートにされた感があり、人生の岐路を決定づけたのが桂場への怒声(娘をバカにされた事実よりも、女は戦力にはならないと言われたことへの反発)であることが気になります。母はわたしが地獄へ行くのには反対していましたが、桂場さんの他意のない意見を聞き、あんな若造に馬鹿にされるくらいなら望み得る最高の装備で娘を地獄に送り込むと申しておりました。今日、わたしがここで仕事をしているのは生存可能性を極限まで上げて応援してくれた家族の支援と母の背中——かどこかを押してくれた桂場さんのおかげです。感謝の言葉もありません。純度を上げた正論(怒り)は雨垂れとなり大岩に穴を穿つ。その気持ちを大切に日々、精進してまいります。これは私の独り言だが、穂高先生でさえ自分の中にある公と私の使い分けに苦慮されていた。特に佐田君への態度について、だ。その苦しみを先生は私に(だけ)相談されていたが正直、妬ましく、羨ましいと思った。もし私が君に便宜を図るとすればその動機はごく個人的な感情からなんだろう。つまり穂高先生への当て付けみたいなものだ。公平公正を旨とする裁判官の人事にいたずらをしてやったぞ・・・みたいにな。…はて? 桂場さんは穂高先生を尊敬する一方で私を贔屓する先生には煙たさを感じていたということですか。——立派な出がらしとは何なのでしょう。(・・・・・・手前みそなことを言えば、公人である裁判官は世の流れに迎合せず法律に則り公平公正に判決を下さなければならない、そのためには私人としての幸福を犠牲にしなければならないこともある。どんなに優良な茶葉も出涸らしとなれば生ごみとして捨てられるようにちやほやされなくなるものだ。けど最後くらい大好きな人からちやほやされたいよね桂場くん!!)もし、佐田君が出席しないとなれば——「まさか『私の人生に大きな悔いとして残るだろう』とおっしゃいませんよ、ね?」「言うよ私は!!」 (桂場の私生活が鉄壁のガードで見えない点と、寅子の母はるの穂高への深淵部の感情は秘匿されている点は、利口な人間は馬鹿のふりをしないと幸せになれない、賢人はインフラに徹しスーパーに与してはならないという処世術に基づいている。寅子の夫であった優三は両者の危険性に誰よりも早く気が付いていたはずだ。はるの牙が世にでることはなかったのは、本当に運がよく、周囲の人間にとって幸いだった) 優三の優しさは寅子の父、直言からもらった愛情でまっすぐに育っている。優三の実父も依頼人のために身を粉にして働く人物であったと思われ、佐田家と猪爪家と穂高教授は法律と生業と学業とで物語開始前から濃い関係性にあった。つまり優三を語るのなら優三本人よりも優三の父(穂高教授の教え子であり直言の親友。はるの友人。)のことを思い出し、優三が亡き父を慕い勉学に励み、直言には甘え、はるには頭が上がらなかったことを優未に話せばよいのではないだろうか。「じゃあなんでお父さんはお母さんと結婚したの?」「私、猪爪寅子が結婚制度を利用することで社会的地位を得て弁護士として仕事をするためよ。もちろんお父さんとも合意の上で。公正公平な取引で恥ずべきことは何一つなかったわ」「・・・じゃあなんで子供を作ったの」「それは…」 ほいほいと話を音速で飛ばせば、時代劇のヒーローが悪党を成敗できない大きな理由の一つに、刑罰の執行は本来可能な限り公開しなければならない(私刑と刑は厳格に区別しなければならない)のに対して、時代劇ヒーローは最終的に法によらず自らの正義と信念(と幕府の権威)の下に悪を斬って捨てるヴィランとしての役割を担うからです。本当は前段階として(桂場のように)純度の高い正論は狂気と見分けがつかないと世間に対して威力を示さなければなりません。結婚しないと社会的地位は得られないと周知するようにです。「威」力には「女」の字が入っているのですな。猪爪はるでさえ、結婚制度を利用しなければ実家の呪縛からは自由になれず、盾と矛、鞘と剣、絆と持ちつ持たれつ、と、今になって猪爪直言の人物の大きさが実感できるようになってきました。はるの旦那ですよ。寅子は俺の宝、誇りだよ!と今際の際に言えるのだから、あの世で優三も号泣していたことでしょう。火消は火事が起きなければ無職と同じと言えるのは頭のおかみさんだけなのです。何も知らない相手から一方的に好意を伝えられ、海の物とも山の物ともつかない人でも、帝大の偉い先生が彼の人品の良さを強調してくる(法学生としての本分には触れてこない)のなら乗るしかないでしょう、この縁談に。——穂高の退任祝賀会での寅子のやらかしはいろいろと本当にひどいのですが、自分がやられたことを忘れずに、他人が同じようにやられている現場で法の番人として声を上げることができる寅子(身体の自由)は最高にイカしている。まあ、どんな人生経験を積めばこんなに堂々としていられるのかと、私がそこにいれば結構、遠慮なく、寅子を見て引いているかもしれません。koredakarahakoiriozyousamaha........ 今になって退任祝賀会花束事件を桂場のいる前で寅子が話題にした瞬間、光の速さで「面倒はご免だ」と席を立つ桂場が想像できました。逃げるんですか桂場さん。『俺には佐田君から逃げる自由がある』 この男の口から”自由”などという言葉が飛び出るとは・・・!(声:尾野真千子) あと私のことなんだと思っているんだと寅子は思いました。(声:同じ) タイバニ一期15話の『The sky's the limit…』の脚本が吉田恵里香西田征史の連名となっており、今そのことを知りました。たしかにあの脚本はちょっと気持ち悪く、心穏やかではいられないものがありました。サブタイトルを意訳すれば、『どこまでも一人で飛べ』と言われているようで、おまえスカイハイに恨みでもあるのかスカイハイにも両親はいるだろう・・・と、なんか寂しい気持ちになったことを思い出したよ。阿鼻叫喚の地獄絵図の中にも生き物がいるのなら水源がきっとあるだろうと幼き日の桂場が彷徨していたと想像すると胃がギュっと縮みます。権力好きのジジイども、と、共同体の中での自治は、近代の法律なんてものは無用の長物でお題目として唱えていればいいのに「組織は法に従う」と六法全書を開示するのだから、いかに司法の独立が孤立無援か、おまえ一人でやってろ親が泣くぞと道徳を盾に司法に毒づく気持ちになってしまいます。穂高重親が死ぬ前に日和ったように、満足して死ぬことと満足気に死ぬことは違う。それを同性の志を同じくする者に託すのは冗談でも止めたほうがいいと私は思いますね。はるの場合は地獄の中で傷つき悶え苦しむとしても、その中で自分の能力を全開で生き抜けるなら、生の実感と彼我の能力差も実感できてダブルでお得と娘が腰振ってダンスを踊っているのだから肚も決まるというものです。直言のせいで間違いありません。『かぐや様は告らせたい』の石上と直言はちょっとキャラクターが似ていますね。世のほぼすべての女性から引かれている(恋愛マスターとしての自負を隠さず、常に臆病である)あたりが。怯える子猫を見つけた石上と直言を発見した場合は至急の避難が必要です。もっともドス黒い悪を見てしまえば人生は一変してしまうでしょう。米谷花江(旧姓)もその系譜にあるといえばあるキャラクターですが、直言や直道と同じねと(寅から)言われたら鼻で笑う非礼を隠すことはできないでしょう。え。寅ちゃんもしかしてわたしのことばかにしてる?いちおう聞くけどどの辺がお義父さんと直道さんに似ていると思うの?(怖)「え。わたしのことお子ちゃま扱いしてなんでも分かっているふうなことを言うあたりが」よし表に出ましょう寅ちゃん…。わたしが麻雀を教えてあげる。まずは安パイと危険牌の見分け方からいきましょうか。「役のあがり方も教えずに捨て牌の読み方からはじめるなんてど素人以下なんじゃ…」寅ちゃんはなにもわかっていません。普通の幸せが欲しい人は最高のあがりなんて欲しがらないの。ドベになりたくないからみんな必死に勉強をして家族関係を大切にして生きていくの。麻雀の最強の攻略法は自分より下手な人と卓を囲むことだけど、人生で大切なことは自分をカモにしない人と同じ席につくことなの。つまり幸せになりたいのなら危険牌を見分ける目を養うことが大切だとわたしは言いたいわけ。地獄で輝きたい寅ちゃんには理解できないかもしれないけど。寅ちゃんは変わっているから変わっている男性から目を付けられる可能性が大だから気を付けなきゃダメよ。「君のようなお嬢さんは——」とか言い出す反社会的分子がいたら超危険牌だから絶対に放出しては駄目。寅ちゃんの胸の中にしまっておく分にはいいけどその胸の内を放銃したらラスを引くのは確定だから黙っていなさい。「言いたい放題よね」そりゃ言うわよ。子供だと思っていた相手にど素人以下と煽られてスンとしていたら甘~いお菓子をその子にあげた後に奥歯をガタガタいわさなきゃ腹の虫がおさまらないでしょ。「え。待って花江。今、子供扱いされて頭に来たので(そいつを子供扱いしてから)ぶん殴ったうえで禍根を残す」と言わなかった? 絶対に言ってません。錬金術が金以外の鉱物から金を精製する技術なら、天元の結界術は結界を別の物から生成する技術でもいいのではないか。時限立法が急場の利害を調整する言い訳もコミの法律であるように質の悪い実力者の擬似水源が生成できるのなら得体の知れないコロニーを精製できるかもしれない…。劇光が発する体験が神秘体験であったとしても、その過程の気持ち悪さがいくらなんでも釣り合いが取れていない(夜な夜な悪党退治に嬉々として出かけていく身内の心配を察し)。劇光仮面は戦時と戦後の劇しさは現代と地続きである、と実相寺が(切通が)明言しているので、日本国憲法の骨子は劇光世界では劇しい愛に包まれているの・・・・・・か。「虎に翼」の第5週の頃の話(朝女は女の腕まくり? 共亜事件の辺り)を見返してみると、権力者に楯突くと理不尽な暴力による口封じを受けると、新聞記者の竹中が寅子に現実を教えていました。タバコに火を付けたかったようですが切れていたようです(まず上着の左内ポケット。次にズボンの前左右ポケット。最後に上着の右内ポケット。ゴミを街中に捨ててはいけない)。桂場はへーこらへーこらと私が尻尾を振るとでも思っているのか猪爪家の小娘は…と恩師穂高の前でゲロっていました。悪態をつく桂場は珍しい。そして穂高はいーぞいーぞと酒が入って饒舌になった桂場を誉めて(?)います。あ。小娘、馬鹿にするなと桂場が毒づく所はスルーして、検察側の証拠捏造を司法の独立の意義も分からない馬鹿どもがッ!と飲んだくれているタイミングで言っていました。あ、ごめん。寅子への毒づきにも穂高先生は合いの手を入れていました。桂場満足。猪爪はるの目から見た、桂場等一郎という人物の印象は地獄の関守、あるいは悪鬼(たまたま善性に目覚めたが本性は鬼)といったところか。第5週、共亜事件裁判での桂場との再会は、弱り目に祟り目とはこういうことかと、はるは自分の軽率さを呪ったはずです。実家に置いてきたはずの悪鬼羅刹が竹もとから裁判所を経て、猪爪家に襲い来るとは・・・! 第17週までの寅子の言動にはいちいち鼻につくことが多いのですが(ツイッター、Xでの寅子評には、それらの煩わしさへの嫌悪感が多く示されている)、桂場から言わせれば、佐田寅子という裁判官が成長するための必要経費なのでどんどん言ってほしい、大丈夫、それで潰れるようなら最初から期待はしていないと先輩風を吹かすのではないか。記者竹中の直言への発破のかけ方、偉くなった寅子への「俺が死ぬ前に頼む」というおどけ方も、格好良くていいですね。体張る奴には優しくなる好漢に見えます。体を張るといえば寅子の兄、猪爪直道が妹の弁当を届けに女学校に来た際に2階からの放水で頭からずぶ濡れになる事件がありました。寅子の親友であり義理の姉でもある花江が直道に一目惚れする大事件だったのですが、なぜ花江が一目惚れしたのか、その理由は本編では語られていません。察しなさいよトラちゃん、と投げっぱなしになっています。トラの恋愛不感症は10代のころからヒドイのですが、おそらく生涯にわたって兄直道の花江を惹き付けた魅力については理解をしていないし、聞いていないし、あまり興味がないと思われます。父、直言の悪い影響(男は無力)と、母、はるの男には期待をしない(女は無能ではない)面を寅子が受け継いだのでしょう。寅子の弟、直明は・・・・・・。はるが亡くなったころの話数は録画機の調子悪く録っていないので見直すことができません。猪爪家に戻っていたのか、全然憶えていません。直明のキャラクターは「逡巡」するという、虎に翼、全登場人物の中でも抜きんでて鈍くさい一面があります。姉弟の末っ子の特性なのか、基本的に待っていれば誰かが何とかしてくれる、甘ったれで自主性に欠けている、でも人のことを良く見ていて善良であると、お姉ちゃんの初恋の人である花岡とどこか似ているところがありますね。猪爪家の小僧、あるいは坊主(ぼん)。桂場の怖い一面は「司法の独立」は威力により示されることを辞さない、自己と他者で主張を分け隔てることをしない、人類普遍の原理は皆で共有するべきだという主張を一貫しているところです。主人公っぽく、悪役くさいというか、誰の為にもやっていない、主義主張に殉じることを是としている超変人と、テレビに向かって桂場を指さして笑っているアホがいたら私ですね。指(か首)を折られないように用心して生きていかねばならない…。軽率さが人生に益することなど基本ない。(ある、という人間は後ろ手に人売り用の首輪を持っている場合が多い。よくいる)優秀な人間は努力に見合った報酬を受け取るべきだ。その(能力に見合った仕事をする)時は自分で決めるものではない。利益を最大に。閥の中で法を駆使して立身出世をしていく者が近代、そして現代の成功する日本人だといえるだろう。二つしかない目玉がどこを見てなにを認識しているか、よく考えて行動してみたまえ。人は殺されるために生かされているともいえるだろう。いや、今のは失言だった、忘れてくれ。可能性を限界まで引き出して自分が世の中でどこまで成長して通用するか、本の虫が学友を得て学び舎で将来を語り合う青春を、猪爪直言は手に入れて、はるは直言の身近で見ていたのか。第1週の放送は、明律大学法学部周辺の街並みと生活する人々の様子がワンカット毎にかなりの情報量で攻めて来るので、わたしは半笑いでテレビを見ていました。はるの心情が波打って襲ってくるゾーという(哀れな桂場)軽い恐怖に打ち震えながら。大丈夫。まだ死んでない。寝ているだけ。直言の欲望の話は興味があります。ほんのちょっと歪んでいて、「トラ、おれの話を信じてくれなくてありがとう」と娘に言える性格は、とかく頭を下げ続ける人生だった直言の、なかったことをあったかのように嘘をつくことへの、穂高門下の学生だったころの気持ちを裏切らずにすんだ、安堵と感謝の気持ちがあったのではないか。自分の気持ちに蓋をして、嘘をついて幸せに生きていくのは法学を学んだ者の自虐としては出来が良すぎる。娘のことが大切で大切で仕方がない(のに)地獄行きの片道切符をぽんと娘に渡してしまう直言。うちの寅子はそんじょそこらの才女とは違うんです、帝大にだって寅なら入学できる(なぜなら私より頭がいいから)、法学徒として引く手あまたで輝かしい未来がトラには待っているに決まっていますよ先生。——無礼をお許しくださいお父様!これは奥様と一度ご相談なさったほうがよろしいのではないでしょうか?!(最低でも6年は法学生として勉強するということは寅子さんが社会に出るときはもう20代も半ば過ぎ…。お嫁のもらい手が果たしているかどうか・・・)考えただけでも恐ろしいはずなのにこの父娘ときたら。ドラマ第1週の4話で、寅子の親友、花江と兄直道との結婚披露宴は盛大にとり行われ、直言は両家の親族、主賓、上司たち列席者の前で愛娘の紹介も兼ねて寅子に余興で歌を歌わせるのですが、この時の直言のおどけた様子は何回見ても幸せそうで憎めないですね。寅子は父を一顧だにしていませんが、この時の寅子は女性たちが着飾って最強のスンッとした目線を独り占めしているのですからそれどころではないのです。松山ケンイチさんがいう「目線を」「ちょっとくらい」直言にあげてあげればよかったのにと、すこーし思います。虎に翼、序盤の週(優三が亡くなり日本国憲法が公布される昭和21年11月3日まで)は、おそらく社会を生き抜く人間には二枚舌であることは憲法で保障された当然の権利であったのだろうと思われます。桂場が女学生だったころの寅子に警告した「穂高先生のお考えは先進的で素晴らしい。だが、騙されてはいけない」という真意も、人の二枚舌を強制的に取り上げると社会に大変な混乱が起こり、法の支配などただのお題目にすぎなくなる。明文化すればすべてが変わるなどというのは夢想家の甘い戯言にすぎない。自他ともに死をも前提とした法の施行など人間のすることではない、それは相手の心情に寄り添っていないからこそできる所業ではないかと私は思っている・・・。直言の二枚舌は娘の幸せ、女性の社会的成功と家庭的幸福は、寅子なら両立可能であると吹聴していたことだともいえる。妻、はるが直言の戯言を完全に把握していたように、最低限の人権の保障がない今の世の中で仕事を失い、家庭すら持てない女がどれだけ惨めか、夫直言の恩師穂高が娘に無責任にもいった「君のような優秀な女性が学ぶにふさわしい場所だ」との誘い文句は、仕事と家庭の両立がほんの少しでも可能な世の中になってから言いなさいよ、あんた私に「君のような優秀な女性は直言君のような男性を支える奥方として東京まで出て来てほしい・・・云々(まずは私の家の女中として働かないか、等々)」と言ってたじゃない。女を自分の理想の実験台にするな。(私の娘に幸せの形を定義してプレゼントするな。母が私にしようとしたように! 与えられた幸せなんてまっぴら) 穂高と桂場がドラマの中で似ているのは、穂高は寅子に、桂場ははるに、ビビビビビビビビと心象的ビンタを喰らっても反撃を試みないところ、かもしれません。立場の弱い人間が決死の覚悟で反撃に出ている(恥はかかせるが社会的に死ぬまでには至らない)と理解できるから、ですかね。穂高は星と盟友となったことがとんでもない重しになっているようですが(あれは軽率だった、と桂場に言っていたら学閥の長がそこまで弱音を見せていいのですか、と桂場を吃驚させるだろう「まさかまさか。そんなそんな…」)、桂場の場合はタッキー&ライアンに死ぬまで付きまとわれそうで、見ている分にはめっちゃ楽しそうです。特に頼安。桂場の心情を勝手に解説しそうで、いつかライアンを殴るでしょう。桂場がね。小林薫繋がりでいうと、映画『もののけ姫』でのジコ坊とアシタカを思い出したり。ほう雅な椀だな、はシーン、セリフともに一番好きな場面です。欲望剥き出しが人の世の習いとジコ坊なら言いますし、法科大学院教授穂高重親なら・・・国は法によって形作られ、人は法によって生活を送り、欲望は法によって支配されなくてはならない、それが近代国家だ、というのでしょうか。小林薫さんの『虎に翼』ムック本でのインタビューで、NHKドラマ『気骨の判決』の吉田久役について触れているので、これはなんとかして見てみよう。グーグルで「NHK 気骨の判決」と検索しても番組紹介だけで動画配信はやっていないようです。NHKオンデマンドで探しても出てこないので、これは無理っぽいな…。穂高の退任祝賀会の翌日に、寅子と穂高は二人きりで話し合いをしますが、穂高がいきなり謝るので寅子は毒気を抜かれます。尾野真千子さんの語りもここはなかったように思います。どうかお許しを・・・。規律と恐怖の権化というと、小学校か中学校の殴る教師、理不尽の権化といえる。子供も大概、理不尽ではありますが。星朋彦(初代最高裁長官)を演じた役者さんのお名前は平田満。今までの出演作品リストを拝見しましたが残念ながらすぐに思い出せる作品はありませんでした。桂場から見ると星朋彦は(実在した役モデルの三淵忠彦の経歴から察すると)閑職に甘んじていた身を引き立ててくれた恩人であるといえるでしょう。そして穂高最高裁判事就任の人事に手を回しているので、出番はとても短いのですが、虎に翼、中盤の要といえる人物です。星航一と寅子が父親のことを話題にすれば、思わぬエピソードが出てきそうです。ジコ坊はもののけ姫の登場人物の中でもトップクラスに人望と知略と血まみれの手垢に溢れた人物で、ヒロインのサンからは人間はゴミだが、こいつはゴミの中のゴミと、アシタカに人を見る目が無さすぎだろと呆れられています。権力者に取り入り甘い汁を吸うために深謀遠慮を駆使する悪人ですが、礼儀正しい悪人なので私は好きなキャラクターです。殺したくはない。そして便利に使われるのも人望のうち。虎つばの森口美佐江ですが、美佐江の父、森口は筋金入りの女性平等主義者ではないかと疑います。家を出た梅子の前例もあるので、男が己の信念に凝り固まり、地元の有力者として太郎次郎兄弟も全面バックアップ中と、信念を貫き通す男の一念は誰の意見も聞くことができないのではないでしょうか。女性の自由を最大限に尊重しているのは先生ではなく私です。寅子がスタンドを発動するには十分すぎる台詞。強者が弱者を保護し幸せを与えるという作中トップクラスの花岡系キャラ(すまん花岡)。法がなければ道徳はこの世に存在しえないと振り切りそうだ。はるが my favorite を娘に告白していたかというと、「正直、あの時は誰でもよかったのだけど…」「今は後悔はないわ」の流れだったので言ってないでしょう。花江が(酔っぱらって)はるに直道の大好きな所を連打連打連打とかましまくる過去話でも始まらないと寅子はドツボにはまるのではないでしょうか。弟、直明の人生相談がはじまる・・・。はるの人生ままならなさは妄想をかきたてるのですが、はるの人生の熱量はちょっとだけ熱すぎるので猪木よろしく遠くから見ている分にはとても楽しいのです。トラちゃんは何もわかっていません。直言から花岡への身辺調査の気配がある以上、花江・はる組が無関心であると決めつける根拠はない。身辺調査のタイミングは普通に考えれば「男には家庭の外で息抜きも必要」「傲慢!分からず屋には実力行使あるのみ」からの花岡への見舞いに行く寅子を気になって調べてみたら同級生の男子に恋をしているらしい・・・ではなく、共亜事件での弁護を引き受けてくれた穂高のことを優三に聞いてみたら、花岡という青年が無私の助け舟を出してくれたらしい。なんの得があってそんなことをしてくれたのだろう?気になるから優三くんからもっと聞こう、優三くん、寅から聞いてきて。といったところではないだろうか。この説が当たってしまうと、直言の末期のだだ漏れの酷さがより増すので、当たらないほうがいい。思えば花岡の「ちょっとカフェーでちやほやされたことぐらいでいい気になり、きみたち女性をぞんざいに扱おうなどと思ってしまった。僕はつまらない卑小な人間だ。許してほ——」「ほら!そうやって苦しいから許してもらおうと、相手から能動的に許しを引き出して自分からは行動も起こさずに楽になろうとする! 卑怯! 謝罪だけですむと思うな! 責任を取れ!!」と花岡には言わずに(直言にも言わない)、穂高にはそのへんに落ちている小岩を持ち出してガンガン頭を(イメージ的に)殴りつける凶行に及ぶのが寅子だともいえる。ちなみに桂場はその言葉が正論であると判断できる場合は、原告の言葉を遮ることはしない。ここが桂場と寅子が魂の兄妹であると、正論をかますレスラーだと、わたしが二人を畏怖する理由になるだろう。人を殴る行為に快楽ではなく、嫌悪しか感じない人間だけが、二人に石を投げることができる。そんな人間は存在しないと思う。だけど制度としては万人が石を投げられるようにしておくのが公平だといえる。穂高や桂場が反撃しないのは公人としての役割を全うする責務からで、穂高が寅子からボコられたのはその責任の覚悟が老齢からくる油断により綻んだ所を抉られた形となっている。ボスは逃げることを許されないのだ。まったくもって星(父)は無責任野郎だといえる。桂場にも穂高から置き土産があったことは想像に難くなく、作中の花岡⇔轟、穂高⇔星、の関係性からいうと、対等ではない非対称性の関係ではあるが、一人の漢・・・いや人間として君に託す。嫌なことがあっても酒に逃げるな。わたしはそうした、とかなんとか言っているかもしれない。穂高イズム改め、穂高スピリットと言いふらしますよ先生・・・。ライアンには桂場君のよい飲み友達であってくれと希少な洋酒を置いていったらいいですね。 え、多岐川君? 彼には飲ませなくてもいいかな…。ルッキズムというか、小動物の愛らしさというか、上に立つ者の公平公正さを西洋の価値観から外れて260年間続いた江戸時代の規範からも自由に自身の攻撃性を持ちたいと希求すると、おそらく現実的には乞食になるしかない。それでも社会規範の網に必ず囚われるので、一般社会規範から逸脱しているというお墨付きが必要になる。テレビ時代劇のヒーローたちに肉薄するには、この道すじ以外に手段はないはずだ。虎に翼でいうと寅子の父、直言が天から罪と罰を与えられていて、長子の直道と花江との結婚式で仲人を引き受けた高井から、ありもしない罪を認めて(上の方々の名誉を守るために)我々が潔く罰を受けようじゃないかと、君の家族の幸せにも繋がるはずだと、金と人事の悪行を、親(に相当する人物)から頼まれたことがあります。この場合のお墨付きとは社会悪であるという、国家からの罪状の確定になります。検察畑出身の貴族院議員水沼淳三郎あたりと、記者竹中は共亜事件主犯の目星をつけますが、作中で犯罪をでっち上げた者に裁きが下ったかどうかは示されていません。岡部たかしさん繋がりでNHKを調べてみると、新一万円札の肖像画にもなった渋沢栄一と親交があった岡倉喜八郎役で大河ドラマに出演されていました。過去録画を漁ったら番組後半で出演されていました。何回オープニングの出演者名を早送りしたことか。ドラマ後半は海運業の過当競争、日清、日露戦争と暗い話題がつづき、青天は陰り暗雲が日本を覆います。主人公栄一の人生の張り合いが若き日の主君だった徳川慶喜へと向かい、息子の篤二は…。ドラマの中で登場人物が心配と不安に苛まれている時、その不安が本物であるのなら、誰か助け船を出してあげてほしい。轟は毒饅頭劇のあの混乱のさ中、どこにいたのだ。佐田君と桂場がケンカをしていれば、漢、多岐川は常に佐田君の味方をする。理由は面白いからだ。そして桂場を信用している。

 共亜事件の際の猪爪はるの心情を、第20週「稼ぎ男に繰り女?」の花江のいじらしい対応ぶりから感じることがありました。家族裁判・・・、たしか共亜事件のさ中にはるは直道と花江に世間から蔑視を受けないよう、猪爪家から籍を抜きなさいと、猪爪家と無関係だと世間に言えるようにした方があなたたちの幸せになるでしょう、と提案したことがありました。その前日に、香川の丸亀、はるの実家から「身内に犯罪者がいる」なんて知られたくないから縁を切ると手紙が来ていたのです。花江が第20週の金曜日放送話で「ぜいたくな話よ」ね、と口にした言葉は一地方のしょーもないドラマ視聴者である私から見ても、決して軽い言葉ではないはずなのです。見たくも聞きたくも感じたくもないから(みんなもいらないと言っているから)なかったことにしよう、縁を切ってすっきりしよう、虎に翼だぜ! とはなってたまるか。直道も・・・猪爪家の男には自滅願望はないので、強者に間違いを指摘する独立性もなく、よほどのバランス感覚がないと有言実行はできない。あと、ずっと気になっていた共亜事件の被告人弁護団の一人錦田は、タイガー&バニー虎徹宇宙兄弟の六太の声を当てた役者さんだったのですね。平田広明さん。メイドインアビスのワズキャンもそうらしいです。えーそうなんだ。見返していないからよく憶えていませんが、そうだったんですねー。烈日の黄金郷は最後まで見ていられなかったので、ネットのワズキャン評を読んでおります。ファプタは原作コミックではどうなっているのだろう。穂高と錦田の「ない前例は自分たちで作ればいい(予審の結果を覆すことは至難。だが、検察が虚構犯罪を立証しようとしているなら茶番を詳らかにするのは弁護士の仕事)」と不可能性に挑むのはアビスに囚われた探窟家の精神に似ているかも。ちなみにドラマでは錦田が(声が男前なせいもあり)かっこよく見えていますが穂高が焚きつける前は担当依頼人減刑を得るために寅子の父親とその上司に責を負わせるつもりでいたので、割とブラックよりのグレーな人物です。再登場があるかもしれません。 否。調べ直してみたら私の勘違いでありました。平田広明氏が『虎に翼』で演じた役は共亜事件裁判で裁判長を務めた武井判事、です。(第24回のオープニングの出演者を確認しました)また、錦田力太郎弁護士を演じたのは磯部勉さんです。(第23回のオープニングの出演者を確認しました)言い訳をしますとNHK出版のドラマガイド本Part1には、武井判事役も錦田弁護士役も紹介枠がないのです。いえ、ちゃんと確認をしなかった私の過失です。申し訳ありませんでした。(寝る前に気が付いて本当によかった・・・!!) ベテラン声優のインタビュー記事を読むと、高い頻度で「アテレコ業をする役者は二流」と言われてきたとあります。ステレオカセットテープのマイケル・ジャクソンの曲を聴き音楽のかっこよさに目覚め、ロッキーのテレビ吹き替え版を見て大興奮し、その後吹き替え版には幾つもの種類があると知り、刷り込みとは恐ろしいもので初体験を超える興奮はないと学習したものです。ドルアーガの塔の移植版、と、ファミコンスターフォース(からアーケード)あたりを思い出すと、初体験の興奮は実は上下ではなく、多面的だったのだと確認させられました。特にドルアーガは機種間の特徴を単なる出来不出来で見てしまう人間がいると知り、世の中の奥深さの一端を覗いた経験となっています。友人と仲良くするのは人の家に上がり込んで多機種間チェックをしたいがためだったと指摘されずにすんでよかったなぁ。人様の家のPCで夢幻の心臓Ⅱの経験値稼ぎ(スペースキー押しっぱ)を許してもらい、そのへんで遊んでいたのだからご両親にはバレバレであったことでしょう。プロレスとは筋書きのあるドラマだと聞いたことがありますが、演者は生身の人間であり先陣を切る者は加減もわからず大ケガをして何の報いもないかもしれない。『虎に翼』は私の目から見ると、第1週に始まり第20週の今に至るまで、はるの因縁の成仏への道筋となっていて、桂場ははるの咆哮に形を与える前座兼宿敵となっています。ゴジラでいえばゴジラキングギドラです。怪獣に人権はない。これまでのお話から寅子周りエピソードの取捨選択に、必要なものと必要でないものの見せ方の違い(特に見せると雑音になるであろう法曹界の事件)に俄然興味が出てきたり。観光案内マップを地方の観光協会から送ってもらうと、自治体の商工観光課のお仕事を知りたいという欲がむくむくと出てきます。観光をして、その町を好きになって帰ってこれるのはとても幸せなことです。タイガー&バニー15話を思い返すと、痛みの可視化を娯楽性を持って再現しようとしていた(スカイハイははるに迎撃される桂場よろしくきれいに撃墜された)と今になり確認できます。不可視の可視化。他人の感情を自分の欲望の成就に利用する行動を道徳と称するのなら、そのための道筋の整備を法と名付けるのはどうだろう。桂場とはるが似ているのは、一番好きなものは独占したいが実行には移さない。後に続く者たちがいるのなら応援はするが相応の覚悟を持ってもらい、陰になり日向になり支援する。穂高重親の考え方には桂場もはるも懐疑的な態度を取っている(重要)が逡巡したうえで否定していない。

 呪術廻戦の五条悟から無下限呪術と六眼を取り上げても五条悟でいられるかと考えてみると、おそらく五条悟ではいられなくなると推測します。夏油傑から呪力術式を取り上げても、五条悟さえ最初からいなければ別段困ることはないでしょう。真希に最初から呪力術式があったらと考えるとキャラが崩壊しますが、真希の凄い所は思い切りのよさと明け透けな性格なので(……)無下限と六眼が装備された真希か、虎杖悠二の代わりに宿儺を受肉した真希を想像すると、かなり笑えるかもしれません。真希は人前でおいしい物を食べて喜ぶことに抵抗がありそうなので、「美食を喜ぶことに抵抗がある?退屈な人生を送っているな、お前は」と宿儺にケンカを売られてほしい。わたしが呪術廻戦にハマったのはテレビアニメの呪術甲子園の回を見て、野球歴2リットルで吹き、東堂の皆からの嫌われ具合を見て笑ったところから始まっています。黒閃のアニメのノリと七海の回想と余裕の花御を見て一気にファンになり、既刊コミックスを一気買いしました。一の累乗は一。ピアノのアレンジ曲が聞こえてきたら、電子音源のピーピー音が聞こえてきたら、ノリで殴るか肚に呪力を溜めるのだ。真希の禪院家への愛着は99.9%、妹真依の保護を目的としていて、残り0.1%は禪院の血筋である弱さへの侮蔑から来ていると思われます。だからこそ呪術廻戦0での憂太を推す真希は、心情✖0.001の休日校舎イベント発生値を超えてきたので意外でした。68ページの「もう一本、お願いします!!」が効いています。「痛みに慣れていないから優しくしてください」とか「暴力的な女の子は好きじゃないな…」を選んでいたら呪いの女王ENDへ一直線でした。(誘惑に負けて最初はBADENDを選ぶな。わたしは)呪術廻戦コミック18巻の「俺は部品だ」の前振りである虎杖の述懐「言わば儀式だ」を引き出したのが・・・(コミックを調べる)伏黒の「俺を助けろ 虎杖」(17巻22ページ)であり、その前振りである「ただひたすら人を助けるんだ」のセリフは2巻第12話「邁進」の中の「禪院先輩は呪術師としてどんな人達を助けたいですか?」(⇒知ったこっちゃねぇよ)「聞かなきゃよかった」の流れとして感じるのが読後感が大変ひどくてよいです。虎杖の部品発言は秤の根っこである"熱"(うなされているのは序の口。居ても立ってもいられなくなってからが本番)へと繋がっていくので、最終回までにカッパが心満足するまで相撲の取組を楽しめればいいですね(対野薔薇戦は見てみたい)。この世にずっといられるのかわからないけど。簡易領域のことは、ずぅーーーーーーーーーーーーっと気になっていて、三代の相撲を取ることに特化した領域と、日下部の縛りなしで領域内に相手を引き入れそのまま手数をお互いに散々出したうえで嫌気が差した相手からダブルKOの承認を得る戦法(シューティングゲームなら互いの弾幕で攻防を兼ねて千日手に至るような。ディグダグが対戦ゲームなら銛の打ち合いだが、刺さって膨らんで死ぬとか平静ではいられなさそう)は対照的な感じがします。日下部の場合、宿儺がノーガードで斬撃を受ける横綱戦法で来たせいでプランがすべて狂い、刀身が折れてから近接カラテ戦へと移行したせいで呪力刀身の「朧月」を使った中・遠距離戦がどこまで宿儺に有効だったか不明なままなのが残念です。三代の相撲愛が簡易領域をおかしくしているのは明らかで、生得領域ではない気色悪さを相撲結界は放っています。日下部が三代から学べる点があるとすれば、教職である自分の本分を簡易領域内で実現する可能性(高専日記)の追求なのでしょうが、東堂を師として仰ぐ脳内妄想修行が必要なので信用と信頼をドブに捨てる勇気が必要です。誰がやるか。 読書が止まっているジョジョリオンも東方憲助の「フルーツとは特別だ」の、どやっぷり(たっぷりっ)「形」だよッ!を聞かされてから唸りっぱなしです。つまりオレが「何が」言いたいかと言うと・・・(祝祭の「場」としてのみかじめ料の話が近いだろう、とは思う。居てくれるだけで精神が落ち着くホームズへのワトソンのように。)(スティール・ボール・ランの男の価値も社会的な価値観と同列に並べているので、実は近い話題を扱っているのかもしれない。リンゴォは自身が傷つくことに感傷を持たない。ジャイロの父親が感傷から徹底的に目を背け、存在しない物として息子に伝えようとしたのは、少年マンガ文脈からいうと冒険の否定であり、ワトソンなど必要としない家庭を持ったホームズであるともいえるだろう…)「流れ」「形」「超一流フルーツを(駅からのリゾート杜王町の入口すべてを使い)心ゆくまで楽しみ、驚いてもらい、そして家族や友達を連れてまて来てもらう。商店街の店主たちからはオレのフルーツパーラーの集客力のお陰でショッピング客の足も途絶えることがないと感謝される。これがオレが作った商売の「流れ」なんだよッ!(どやっ!!) 杜王町の住人のガラが4部のころから継続していて、金と権力を持っている相手には卑屈に接し隙あらば奪う(奪われるマヌケが悪い)。だけどみんな杜王町が大好きで、正直に言えば西部劇かヤンキー漫画みたいな街の治安の悪さには辟易しているけど、なんとなく黄金の精神がしみわたってなんとかなるのではないかと思っている。SBRでヴァレンタイン大統領の父親が敵軍の捕虜となり拷問を受けて黙って死んだことと、円卓のナプキンをどんな状況でも最初に取れる者は万人から尊敬されていなくてはならないという理屈は、今思うと憲助の行動理念と似ているところがあります。真の力の安心の下に子孫は繁栄する。その黄金の精神がジョニィ・ジョースターを精神的に敗北させ、漆黒の意思による完遂、それでもやるを促しています。家族愛、国家愛、を敬いながら目的を達成するために愛を無碍に扱う悪党。ジョジョリオン8巻は常敏が登場してからアクセルを踏みすぎです。定助は9歳の子供を脅迫するな。誓え!約束しろと子供に言わせて、わかった約束すると言う定助。「東方家の血統に敬意を表して誓おう」と言ったので定助は約束を守る気はありません。そしてクワガタ相撲が始まってしまいそう。クワガタ戦ってこの巻のエピソードだったんかい。クワガタバトルが始まるまでの雰囲気作りに常秀がいちいち優れた対応とコメント力を発揮するので、私の常秀への好感度が上がりっぱなしです。お兄ちゃん大好きで、急にできた末弟(年齢不詳)への嫉妬に身を悶えることに抵抗がないので(そして恐怖には悲鳴をあげる・笑)うざすぎる身内ですが得体の知れない期待を常秀には持ってしまいます。なんだ、この気持ちは・・・。(たぶん二匹目の犬を飼ったときの飼い主の気持ちであろう) 常秀にはプライドはあっても見栄はあまりない。その匂いは、我が友、常秀ではないか…? なんだこの気持ちは・・・ (えぇ…。ヴァレンタイン大統領をよいしょした感じになっているせいでジャイロをなぜ好きか書かなければならない流れになっている気がする。悪いがジョニィへの好感度はジャイロと比べると2、3段は落ちるし、常秀と比べると確実に下になってしまうのは如何ともしがたい。ヴァレンタインは欄外なので全然マシなのだが、ごく個人的な好みの話になるとジャイロの相棒にはジャイロよりも精神的に大人の人物であってほしかったのね。ただしそうなるとゼロからマイナスなんて世の中にゴロゴロしているし、マイナスからゼロに向かいたいのなら自分と家族とその属する団体の犯した悪事も数えてプラマイ計算してから口にしろよと凄惨な清算を要求するので内ゲバ合戦となり、ジョニィの父親は泣いて息子に詫びたけどその前に詫びなければならない相手がいるのではないかと口にしてしまいそうになり、そのあたりの清算を家の稼業で常時精算しなければならないツェペリ家には、私は死ぬほど甘いのだ。同じ理由で吉良吉影も殺人を犯さないと生きていけないサガなので甘い。アルカリ粉末洗剤と粉末漂白剤で湯温洗濯してからよく濯いで天日干ししたパンツを穿くのと、だれに気兼ねなく長風呂をしてからキンキンに冷えたビールを飲むのは格別に気持ちがいいが、同じではないのだ。禪院甚爾が汚物処理役しか仕事がなく、その役目は真希へとバトンが渡されることと、五条悟がその血統と術式から呪術界の事実上の盟主となっていることは同じ世界での出来事であるし、なんか知らないが直哉がメチャクチャ人気があるのはその辺りの認識がスーパーお子ちゃまムーヴを放っているからではないか。マンガだとキャラの外観は人気と直結している要素でセリフも読まずにページをめくり、PCゲームならテキストを強制スキップしまくりで進行させても、気になる表情で語りかけるシーンがあれば手を止めてそこだけ見て満足し、時間があれば紹介記事やファンブック、オフィシャル本を経由して、元に戻ってから過去映像、既刊コミックスを見たり読んだりするものです。東堂への顔面死球から真希へのナイスピーコールは効きましたね。誰も、東堂の名誉を回復させてあげようという人間がこの世にいないことも含めて…。え、九十九?いやぁ・・・涙を流しながらわははははは!!と腹抱えて笑うでしょあの人。 東方つるぎ(9歳)が叔父の常秀をなめているのは、石化病という運命と無縁に生活している、男女イデオロギー、寿命、将来への不安、といった諸問題に「うぷぷぷ!ウハハハハ オレもうッ!ガマンできないッ!」といったノリで日常を送っていることへの侮蔑も含まれているはずです。つるぎのスタンド能力が他者の認識能力を均一化してしまう超一級の呪いであることと、祖父の憲助がフルーツを特別視し人間の嗅覚をスタンドで視える化するスタンドであることは、8部の根幹にかかわってくる屋台骨であると私は睨みます。石化病とフルーツを繋ぐ奇形イチジクが裏社会への入口となっており、生まれ育った街に薄ら寒い秘密があったことを暴いていく冒険譚となっています。呪術廻戦の乙骨が五条が受け持つ呪術界の重責にキレ散らかす事件がありましたが、あれ、真希の禪院家を内部からブッ潰す宣言とは対になっていて、クソどうでもいい実家にわざわざ出戻って禪院の家を継ぐのは私だと真希が言っているのは呪術界の血統と術式の不文律を暴力で書き換えてすっきりはっきり見える化してやんよ、ついでに真依を禪院家から自由にする革命もすっか、という話で、真希の指導と五条の肉体とで、乙骨レボリューションの下地は出来上がっている状態です。でも"熱"が足りないかな・・・。SBR21巻でジャイロが言った「遠回りこそが」「俺の」「————だった」と、SBR道中で一番どーでもいいエピソードだと思っていたシュガー・マウンテンの等価交換、ミニアマル幸運は使い切るが吉、ただしインチキだと見破っているのに見て見ぬふりをしたらお仕置きが待っている…とか、読んでいた時はそんなことは知ったこっちゃねえよ!と思っていましたが、ジョジョリオンを読み進めて11巻の頃になるとそんなこともいっていられなくなってきました。まだまだ引っ張るんだ、この話⁉と正直呆れています。第二次リンゴォ戦を始める気じゃないですよね。見破っているのに自分で皮を被り続けることは悪だと糾弾したいのかと、遠回りだろうと近道だろうと、おまえの罪はそこじゃないとマルコに見つめられているジャイロを延々と27巻までやり続けるのではないかと、恐怖しています。マルコは一族の仕事に誇りを持っている、感傷なんて浮ついた気分で仕事をしたりしない、自分が父や祖父や曾祖父の誰よりも納得できる仕事をして一族の誇りを体現してみせると、ジャイロに懇願してみせるのですよね。どうかぼくに誇りを受け継がせてくださいってね。許せるか、許せないか。4部吉良の杜王町から逃げ出すことと、ジャイロがマルコを助命することは、吉良にとってはキラークイーンの絶対的秘匿性(=安心)の敗北であるし、ジャイロにとっては鉄球技術の完全敗北(鉄球で安心を与えることができない)となり、ツェペリ家が何百年にも渡って守ってきた社会的安心の陰の守護者としての役割を放棄することになる。まあつまり、吉良とジャイロのどちらが誇り高いかと聞かれれば、やはり吉良であろうと思う。7部の悪党の中でも悪の格が高いであろうリンゴォが、吉良とジャイロに対峙したと仮定すると、公正な決闘よりも高潔な果し合いの方法があり、そのルールの下でリンゴォを納得させ勝負させることができた者が実質的な勝者であると私は思う。男の安心とは何か、不公正な殺人であるはずもない。天元の安心が星漿体の最適化、既存システムの保安、保全であるのに対して、九十九の考えは天元登場前から存在していた呪力の無価値化…野良呪詛・呪術師が跋扈していた時代の落とし前を天元とは違う形(党派性を持たせない形)でつけて自分好みのファイトを実現させたかったようです。ジャンプ掲載最新話でシン・陰の現当主が簡易領域の技術を解放することで、人体から漏れ出る呪力の不活性化、活力のない呪力化へと道がひらかれるのかもしれません。石原都知事時代に人体に有害な黒煙を垂れ流すディーゼル車を都内から駆逐したように。簡易領域も薄く軽く広く展開させて(両国国技館に相撲を見に来る観客を収容するように)自身で消化できない欲望の垂れ流しを健全に消化、ろ過できればよい。三代は稀代の不審者ですが、相手を招いても強制は絶対にしない紳士であることだけは確か。最終週を迎える虎に翼も、男だけの世界に女が乱入してくる構図で始まり、その無礼を最初から最後まで寅子は疑問としか思っていない。大した理由もないのに男だけで盛り上がっている、女は皆スンとしている、なんでだ? それは男は女から値踏みをされることに慣れていないからだ。いや、子供から小学生の頃にかけては情け容赦ない女子の侮蔑に晒されていたと思うが、やはり実社会で働くという視野が入ってくると、いかに人間社会でうまくやりくりしていくかという視座が嫌でも人には装備されるので、人間の価値を推しはかることはバカと利口を見分けることでもあり、誰になにをやらせると都合がいいかと皆で推測しあうことでもある。死んで仏になれば忖度の地獄から解放されるので桂場のように理想主義者かつ潔癖なまでの正論主義者でもないかぎりは、死ぬ時にお世話になった人たち(迷惑をかけた人たちではない)に礼を言ってこの世から去るものだ。ドラえもんジャイアンなら自分の歌を主旋律にファンからの熱烈な声援をバックして意識が混濁したまま死ぬようなものです。死ぬ時まで人からの見た目を気にしているのだから、律義というか、マヌケというか、幸せ者というか・・・。穂高は死ぬ直前に詐欺師に騙されて清廉潔白の委任状に実印を押した男ですが、弟子の桂場は頼まれてもいないのにその後任を自負しているので、可笑しみが倍増しています。桂場等一郎を送る会を開くからと本人に出席を依頼しても桂場は首を縦にふらないでしょうが、穂高先生の代理として出席していただかないと、会の面目(明律大学女子部法科の集い)が立ちませんと小狡い言い方をすれば、桂場は出席せざるを得ないはずです。「穂高先生に恥をかかせるわけにはいかないからな」「はい。まったくその通りです」「君が言うな」 桂場等一郎を演じた松山ケンイチのインタビューが9月20日付けでNHKステラnetに掲載されています。桂場の生真面目さは久藤が指摘する通り、中立(誰の味方もしない)と公平(誰の言い分も必ず聞く)なので、時間が限られれば必然的に聞く時間が削られ、最終的に中立という名の孤独だけが桂場の友となってしまったわけです。おまえ友達いないからなぁ・・・。はると桂場は同類だとすると、そのこころは権力者に媚びない、そして保守である(矛盾している)ということでしょうか。革命予備軍といってよい。星長官(航一の父)が物語からすぐに退場せず、久藤と桂場が日本法曹界で地位を確立していけば、久藤と桂場の立ち位置の断絶(日本国憲法すら桂場には不満しかない)は誰も目にも明らかとなった・・・かもしれません。純度の高い正論を求めているだけじゃ何もできない。サディの七転八倒を見習うといいかも。それを言うなら"しちてんはっき"・・・だ。わざと言っているだろう。ドラマでは1973年4月とテロップが出て、国外ではアメリカのブレトンウッズ体制が1971年に崩壊し、1973年の10月にはオイルショックが起き、戦後成長してきた日本経済も前例のない実質GDP成長率の下げ幅を記録する。尊属殺重罰規定をめぐる最高裁大法廷判決が出るころは、ニクソンショックの痛手が列島改造ブームで景気が上向いたかに見えている小康状態であり、楽観していられるのではないか・・・と油断していた時期でもあります。桂場も裁判官を退官した後はすることなんてないのでしょうから、久藤を頼ってアメリカの家裁事情を見て回りに渡米すればいいんですよ。ぶっちゃけアメリカ司法が尊属殺重罰規定の最高裁判決を出した桂場を家裁視察だけで帰すはずがないのでライアンが好き放題に布石を打てばいい。僕の大親友なんだと言ってまわれば家裁ではジャパニーズサムライよく来てくれましたと歓迎されるし、後は芋づる式にイェール法科大学院まで連れていかれるって算段です。桂場の、ご婦人が司法に参加することには反対だ、を勝手に推測すると、きれいな水が湧き出る水源のようなものを強靭で威力のある正論で運用・管理するのが司法ではあるが、法と話が通じない賊は正論を無視して町や家畜を襲う。虎(司法)は無敵だが翼を奪われれば満足に働けない。私は自分がおこがましいと自覚しているが、君たちご婦人がたには・・・ 「自分たち男性を陰で支える後方支援係として、私たち女性にはその身分を保障する代わりに前線には出ずに、夫や子供、共同体を守れと、そうおっしゃいたいのですか?」「——そうだ。私は今もそう思っている」 桂場の心情的障壁に少なからず穴を開けたのは、序盤でははるですが、最終週に至るまでに開門せざるをえないきっかけを与えたのは航一であると私は見ます。誰も特別ではない、ただ、水源からの距離と利便性があるだけ、そこに法的な根拠はいらないとアホみたいに素直なことを桂場は航一に言っていたような・・・。見返してみよう。公害訴訟は学校の授業で必ず習う学習項目ですが、原告側の奪われた物を被告側が法に則り賠償する…と、書けばそれだけですが、航一は桂場が性急に訴訟を結審させたがっているのではないかと、気がかりだったようです。第24週を見返してみると、航一よりも寅子のほうが桂場らしくないと心配していますね。 「桂場さんらしくない、とは?」「え? 原理原則主義のクソ野郎なのに、巧遅でいれば被害者救済が遠のくと拙速を選ぶあたりかな。私の知る桂場さんは時間がないからといって手抜きの餡子を出されたらこの世の終わりみたいな顔をする人なのよね。今度、桂場さんに会ったら"手抜きの餡子を出されても長官は納得されるのでしょうか"と聞いてみて」「・・・ご自分でどうぞ」 はるが自身の自由を得るために穂高の甘言に乗り直言と結婚し、桂場は自身の法曹としての理想を実現するために穂高門下生として実力を養ってきました。両者ともに自分の力を拡大して社会と対峙する野心を持っていたわけですが、はるの持つ自立への野心は明治時代の民法が定める「婚姻状態にある女性は無能力者」(旧民法、第1編総則第14条)によって阻まれます。女性は結婚すると成人であっても社会的活動をするにあたっての責任能力がなくなり無能力者となる、と国が法で定めているため、女性個人による能動的な活動は大きく封じられるからです。ちなみに結婚していない成人女性は社会から一人前とはみなされない(責任以前に信用がない)ので、社会的に個人として見られることがありません。寅子が独身時代に弁護士資格を得ても仕事がなかったのは、法曹関係者には分かり切ったことだったのです。はるも、結婚すると女性が無能力者になることを、夫の直言から聞いて知ったことでしょう。直言とはるのキューピッド役を任じていた穂高は、その説明の必要性を感じていなかったと思います。桂場が竹もとで寅子を案じるあまり「泣いて逃げ出す」と法曹への道を断とうとしたのは、はるからしてみれば、①法曹関係の男は総じて女に対等な関係を求めていない(断言)くせに、その道を開けておく。信用ならない奴とはおまえたちのことだ。②言うまでもなく現民法下では女性は健全な信用による契約など結べるはずがない。なのに司法による平等な社会の実現と穂高先生は言っている。論外である。③とにかく女性が自分自身で仕事を持ち、定収入が得られる世の中にならなければ男性と対等な関係になれるはずがない。 以上のことから私の娘を穂高先生の下へ預けて法律家にさせるなど狂気の沙汰である。そこの団子を食べ損ねている若造の言うことは概ね正しい・・・が、戦って血を流し、結果を見るまでもなく女性は逃げ出すという挑発を受けておめおめと逃げるのであれば、挑戦の権利まで失うことと同義である。死んでも認めるわけにはいかない。 最終回のよねと桂場の貴重な対話ですが、よねと花岡との「どうせおまえなど、あいつと到底釣り合わない」という赤面ストップ高セリフを思い出すと平静ではいられません。最終回ははるが寅子に微笑むシーンくらいしかまだ見ていないので、轟がよねのセリフの後に何かを思い出すような表情をしていないか、気になりますね。よねは轟を信頼し尊敬していると思いますが言われたくない事柄は当然あるので、よね⇔寅子⇔桂場の「おまえ(君)が一方的について(言って)きただけ」と、寅子の法曹としての精神的な支柱なのだと轟(や航一)には指摘されたくはないでしょう。家裁なら多岐川ですね。ひでえトライアングル…。轟とよねのコンビは、轟の悪意ない純度の高い善意からくる不用意な発言に私は期待してます。轟を酔わせてよねへの心理的ハードルを下げさせてからが勝負だ。轟をボロ雑巾のように使い捨てるなんて許せない!!(加害性の自覚な) 善意と真心からの幸せのお裾分けには全編を通して細心の注意を払うべきだと(チョコ周辺は激甘)メッセージがちりばめられています。多岐川さんはブレーキの壊れた男なので除外ね。久藤が登場人物中で一番、自覚的に自分が特権を持つ幸福者だと理解し、抑制していたことでしょう。GHQの政策で久藤ほど便利に使われた男はいない。穂高の退任祝賀会で冷静でいられたのも特権を持つ者は法で求められる要求(轟は「約束」と言ったそう)に敏感でいないといけないから。雨垂れは無数の死者ともとれます。アメリカの最高裁判事は大統領が指名できるらしい(トランプは中絶の最高裁判断に人事権で介入した)。日本では・・・14人いる最高裁判事には過去の経歴による区分けが事実上存在していて、内閣は任命権を保持しているものの、司法の最高機関である最高裁には口出ししないのが慣行となっているようです(奥歯に物が挟まったような言い方)。仇討ち許可状なしに城下で敵打ちをするのは駄目だよね、常識ないよね、といったところでしょうか。いや、かたき討ちに将来の人事へ影響を与える可能性があるかというと、そんなことがあってはならないのは自明なので、例えとして不適ですね。反省します。松ケンが自分の出演したドラマを見て、花岡が寅に突き落とされたように、寅も落ちろとXでいっていました。それはフリですね。寅子たち女性弁護士誕生祝賀会で寅がぶち上げた「生い立ち、格好、信念、で切り捨てられない、男か女かでふるいにかけられない世の中で私は何かの一番になりたい!」「みなさんといっしょに!」と司法改革を一方的に叫んで会場を白けさせ、沈黙させた中で桂場を笑わせたことへの責任を取れという。穂高の退任祝賀会で寅子がぶち切れた理由の一つは、あなたは女子法曹を誕生させた責任者の一人なのに一兵卒気取りは冗談でも笑えない、人の上に立つ気概はなかったのか、同志ではなかったのかと、女性弁護士の祝賀会とほぼ同じ理由(怒りの感情が奥底に沈んでいたが、堰が切れた)で廊下で叫んでいたのでしょう。羂索が行った死滅回游は永続するゲームを謳いつつ強制的に終わらせることを目的としていました。素直に受け取ると友人である天元が実行していた、太陽の浮き沈みを観測するゲームをもっとエキサイティングにして観測者ごと世界を変えようとしていたのですが、そもそも天元は平穏な日常の永続を目的としていたのであれば、観測者の日常よりも観測される天体の恒常性に疑問をもつべきだったのではないかと思います。つまり、太陽のスペアを作成する(万が一に備えて)か、太陽に依らない日常の過ごし方の提案(十中八九、人類の総呪霊化となるであろうが)などです。また三代の簡易結界がそうであるように意味不明なルールの必中と、ルールの守る気がある、なしの表明の別も、結界術の基本にして神髄であるといえます。結局のところ、大勢の人が何を信じて生きているかを明文化して結界術に応用するのは呪霊の確保と操霊の基礎ともいえそうで、天災や疫病は神仏からの天罰であると信じられた時代では天皇の権威をバックに呪術を行使する能率性(天皇家の永続性だけは特別であると、信じられればられるほど強くなる)は驚異的だったのではないでしょうか。宿儺には歯が立たなかったみたいですが。逆に言えば特別であるという包装、外面、のし、を必要としない世の中では、三代のように身体一つで自己を主張し、己に恥じることのない主張が堂々とできる者(相撲が好き、おしゃれが好き、ギャンブルが大好き、等々…)は、人生を謳歌し、破滅することができます。考えてもみましょう。真希は己の心情の奥の奥の奥底まで三代に見せて、三代はそれに相撲で応えていますが、普通に考えて真希は死にたいという衝動を常に抱えている状態です。虎杖の言う「正しい死」、伏黒の言う「最低限のルール」、野薔薇が言った「他人の人生に土足で入ってくる奴」、真希はそれらの戒律を破ってのうのうと生活し、妹にぬるま湯生活から叩き出され、そんな真希をヒーローとして乙骨は憧れて目標としている。宿儺からはすべての呪術師を代表して言わせてもらうが、おまえを見ていると腹が立つ、と宇佐美認定されていました。包装も外面ものしも、ある大きさの枠を意識しての行動なので、呪術全盛の平安の世で埒外認定された宿儺から見るとわざわざ呪術パッケージ内に収まる(ように見える)真希の宿儺討伐への態度は美味しい刺身盛り合わせの中にいる極上餡子みたいなもので、ちょっと許しがたいのかもしれません。げらげら笑ってもいますね。「初めてだ」「「この俺に黒閃を出させたいと思った奴は」」「オマエに食ってほしいのはそこじゃない」 もし色鮮やかな刺身が地面にべとっと落ちていれば普通は口の中にいれない(アマゾンのジャングル奥地だって葉っぱの上にくらいには並べるだろう)ものですが、お魚だってきっと美しく食べられたいと思っているはずです。サカナはぼくらを待っている!Oh!(なんど聞いてもここの歌詞の振り切りが凄い。いや、ビタミンB1を摂ると夏バテや二日酔いによく効くのでお魚サイコーなのですが。ああ、夏が終わってしまう)個人の怨念が死者を蘇らせてはいけないと、強く思います。最近はスペリオールの購読も間が空いてしまいました。虎翼の星朋彦は今でも詐欺師だと私は思っていますが、穂高を戦前と戦後の楔として利用し、桂場と久藤を起用した覚悟と先見性には舌を巻きます。スト2にDJが生まれなかったらどんなによかっただろうと過去に囚われている私では、星に悪口を言う資格はありません。本田の立ち小パンがバイソンの立ち大パンチのリーチ(かつ手にやられ判定はない)で必殺技キャンセルが可能だったら・・・斜め下タメ、立ち上がり立ち小パン(キャンセル)必殺技と、三次元殺法で早々と4000ドルをいただきよ。灰皿が飛んでくる前におさらばしようぜ。くわばらくわばら、といったところでしょうか。ロングレンジでは死が待っていますが、ラウンド開始直後の間合いで飛び道具を不用意に撃つと刺さる通常技が本田にあればよかったのですが。歩き小パンで昇竜やサマーや熾炎脚(攻撃判定が前に出るらしい)をぺちぺちと潰せれば、一人プレイ用横スクロールアクションゲームとして遊びたくなりそうです。悪魔城ドラキュラシリーズでも物色してみますか。虎に翼で穂高が先鞭をつけた無自覚の加害性ですが、Gガンのミカムラ博士に私が惹かれて惹かれてどうしようもないのも、まあ、そういう所なのでしょう。ガンダム祭りに気取ったガンダムを出品する空気の読めなさや、一方的にカッシュを慕い同じネオジャパンの人間でもトップシークレットであるはずのガンダムの基幹技術をぺらぺらとしゃべり(言ってないかも)そしてあっさりと逆上する情緒が瞬間湯沸かし器なところも、愛する娘に正直に謝れば(謝ってはいない)許してもらえると思っている自分第一主義なところも、死ぬ直前にカッシュの心情に自分の存在がある程度のウェイトを占めていると信じて疑っていない(いえい!)ところも、全部が好きですね。恥ずかしくないのか、おまえは。死んだら死んだで、ドモンにずっと気を使わせることになるでしょう。朝起きて、Gガンダム後期OP主題歌『Trust You Forever』を聞くと心にしみるしみる。サイ・サイシーは元気でやっているのだろうか。立場的にやりたくもないネオチャイナの軍幹部の育成機関の責任者を押し付けられてはいないだろうか。ドモンは楽隠居の身分なら笑う。国家間戦争をするくらいなら国家代表ガンダムコロシアムで決着をつけよう(地球がリングだ)と、放っておくと資源や資産を食い潰すから男だけではなく、女も参加させて司法で決着をつけようは同じくらい乱暴な論法ですが、DG細胞があるとおおよそすべての垣根は取り払え(死者と生者の垣根もかなり怪しくなる)てしまい、DG細胞は制御できないので感染者の精神力で決着をつけるサイコフレーム万能主義へと天秤が傾くことになります。使い捨てサイコフレーム弾となる。カッシュ博士の身の安全はレイン・ミカムラ被験体の人権と共にガンダムファイト国際条約の枠外に位置付けられないと本当にどうしようもない。レインはDG細胞の遠隔操作の疑いを払拭できないと(できないことを証明するのは困難)特殊な環境下で暮らしてもらうほかない。独善をみんなで薄めよう。ただ、立身は独善が糧となっている面があるので、多数の幸福と混じり合わない。ドジャースパドレス、両方の応援をしづらかったですね。東方不敗ビームライフルのロングレンジ射撃が全盛の時代に飛んでくるビームを避けて敵ガンダムに接近し徒手空拳で破壊する戦法でガンダムファイトを制しました。決勝トーナメントでは一対一のロボットプロレス対決となるので、予選期間中に全ガンダムから集中砲火を受けたはずなのですが、生き残り、倒し切ったようです。Gガン世界の破滅の象徴はDGレインであると思われますが、一部の人々には東方不敗である。DG細胞の侵食に単一の精神力で食い返した逸話は武侠小説を地でいくエピソードであり大変によい。ディズニープラスを契約すると見られるドラマ『SHOGUN 将軍』のように、D&Dの映画の続きか前日譚をフォージ役のヒュー・グラント主演でどなたか製作していただけないだろうか。私が死ぬまでに一回でいいからフォージとドリックとのロール合戦を見せてください。フォージの化けの皮が剥がれる(ことはない)か無理やりむしり取られるシーンを見たいのです。フォージが都会の喧騒を志向するのには十分すぎる理由があり、ドリックがエルフの森に居づらいのは、ウッドエルフの誇りは人の役に立つことではないことに起因している。エメラルド同胞団から「自分のために生きなさい」と言われるとドリックには足場がなくなってしまう。なんの因果か、フォージのモットーは誰よりも自分が幸せになることなので、偶然にもドリックの道先案内人としての素質がある。ホルガとフォージは犬猿の仲だが、自分の幸せを手に入れるために正直に生きている点で似た者同士であり、他人の顔色を気にしない悪癖まで似ている。アンダーダークでホルガが言った「あいつが敵でなくてよかった」はフォージに言わせれば「なんでそんな都合のいい助っ人が君たちにいるんだ」「どんな汚い手を使った」とホルガを見て言いそう。ホルガ、ホルガ、ホォールガぁ! 映画の副題である Honor Among Thieves は、面子、仁義、名誉、とホルガに最も強くかかる言葉になっていますね。甘い恋人がいないのなら名誉ある死を、愛しい娘に悪意と危害を与える者に汚辱に塗れた死を。イモを食うわたしを邪魔する奴には鉄拳を。情けない顔をするエドには優しい言葉をかけてやんな…。英語の慣用句は何一つ知りませんが、 Honor Among Thieves 一つを取っても映画の中でフォージの役割がいかに大きかったか、人間不信の真っ最中であるドリックにとっての劇薬なので、劇中に対話がなかったのは当然といえば当然ではありました。思い返すとドリックがエドガン一行についていくと決めた時に、サイモンが余計なことを言わなかった(自分たちはフォージと同じパーティで活動していた)のは実によかった。言ったら終わっていたでしょう。「ほら、干し草のいい匂い」と一発ギャグをドリックに見せて致命的な一言を言われたのではないか。

It’s better than nothing.

(覚えてもらえないよりは、干し草男として記憶されるほうがマシ)

虎に翼で星長官の動向が気になったほどには、家裁誕生のエピソードは頭に入ってこなかったのですが、最終回の寅子vs桂場のエピソードをゆっくりと考えて他の方々の感想を読んでみると、女性法曹の誕生と家裁が成立するまでの顛末は誰もが特別で特別ではない(多岐川の得意満面が現れるよう)のだと、狷介固陋な桂場を納得させるだけの説得力がありました。お湯をかけても出汁ひとつ取れない昆布かワカメではなかったのです、桂場は。第一週で寅子は母はるが娘に望む幸せな女の生き方を「地獄としか思えない」と拒絶をして、女が資格を得て社会で独り立ちをする生き方も「また地獄」と言って母を泣かせるのですが、ピンポイントで要点をつまむと「地獄」≒「くだらないこだわり」に「こだわる」ことがその人の生き方なのではないですかと寅子は言いたかったのだろうと私は思います。寝食住が人並み以上に満たされている寅子の傲慢極まる放言ですが、はるの自省である「娘の幸せを望むことは、娘の不幸を取り除くことではない」スンっとした幸せな未来を娘には与えたくない(やはり地獄)と桂場に導かれた結果の地獄ロードなので、地獄ついでに桂場から「どうしてそんなくだらないことにこだわるんだ」(第21週103回)と面向かって言われたら戦争が始まるしかなかった。桂場さんにはないんですか!くだらないこだわり。それをくだらないと他人から言われたら戦うしかありません。だってくだらないんですから!! はるのお見合い結婚は地獄だからと娘に言われてよよと泣くのも、穂高の愛弟子からの花束贈呈を来客の面前で断られ赤っ恥をかいて一時的に権威が失墜するのも、自分のこだわりにこだわることを他者に強制、その他者にはその人のこだわりがあろうとなかろうと、そのこだわりを尊重するのがコミュニティ内のマナーであると知らしめる、祝賀会や結婚式は正にそういった周知イベントでもあるのですが、虎に翼では(寅子にとって)大いに鬼門となっています。明律大学の学祭イベントだった法廷劇も女子部生徒の集客を狙った(女性を仮装させて)流行りと恋愛と虚実を織り交ぜたサスペンスドラマだったので、大いに寅子の見えない怒りゲージを上げていました。「くだらない」論争もよねが発起人となり女子部全員に問いかけていたようです。桂場と論調が合いそう。「ここは法廷ですよ。慎みなさい」と寅子が小橋たちに言った直後にネコ科の殺意で襲い掛かっている寅子(よねが小橋に突き倒されたのを見て切れた)が不問に付され、ネコパンチを見て感化されたよねの金的蹴りのみが罪に問われているのは疑問でした。先に手を出したのは小橋で報復に出たのが寅子。優三が身体を張って法廷内暴力の行使を阻止して(?)そのままでは収まりがつかぬと小橋を蹴ったのがよねなのですが、明律大、学長の裁定は小橋は不問、女子の暴力沙汰は体裁が悪いから再発防止の意味を込めてしばらくの休学ではどうか、君たちを揶揄した男子学生と学内で顔を合わせるのも気まずいだろうと、そんな感じになりそうでした。一番奇人変人な見た目の生徒、写真付きの新聞記事、喜ぶ直言。どうなっているんだ。猪爪家では優三と寅子が三面記事に写真まで載ってしまい、はると花江を落ち込ませたのですが女子部総出で毒饅頭を猪爪家で作ることで、はるは娘に学友ができてなんでも話せていることに安心し、花江はさみしくてつらい感情の堰がきれいにとれて直道との夫婦仲は深まると、よいこと尽くしとなりました。毒が薬に化けました。俺にはわかる。よねと花江は初対面で「衣食住に恵まれた女が甘えたこと言うな」と印象最悪で、姑との仲ぐらいで弱音を吐きやがってと毒吐きまくりでしたが猪爪家の人々の浄化触媒に感化されてかなり無力化されて帰っていきました。誰も気が付いていませんが猪爪家の直言は布袋様の分身の一体(かなり薄い)なので家庭円満に関しては一家言あります。うそです。ただ、はるの完璧主義と相対して破綻しない感性の男性は珍しいはずなので寅子はもうちょっと直言のことを許してください。35%くらいの許容なら、47%くらいまでは許して。小橋の女への嘲笑バロメーターは法廷劇のやじでピークに達した(第3週)かと思うと、懲りずに共亜事件のさ中に明律大に籍を置く寅子を親が犯罪者なのに娘が法律家を目指すなんて俺なら恥ずかしくて退学するねと教室内で言いふらし(第5週)今度は轟に正拳で殴られました。小橋が小心者で他人の顔色を窺い嘲笑する時は相手に反論ができない環境と確認をしたうえで周りに聞こえるように声を大きくして嘲り笑うと全法曹の敵みたいなことを堂々としていましたが、よねの「なめ腐った奴らを叩きのめすことができる力が欲しい」と実は五十歩百歩の違いしかありません。単独での攻勢では逆襲される恐れがあるので反撃される間を与えずに倒し切る、もし逆襲する気でいるなら世間から(国家から)(組織内から)哄笑と罰と与えてやるぞと自己の矮小さを社会の仕組みで大きくする気でいるという点で、です。寝ること食べること運動することは自分の代わりに誰かにやってもらってもあまり意味はない。ただし弱音を吐かないという意地を示す場合には、時と場合と距離感に応じて意味が生じる場合がある。小橋の意地は寅子の見えないパゥワァーに絶えず脅かされ痩せ細っているのですが、日本国憲法のいう平等という概念からは、特に困っているようには見えない。機会均等は能力の高い者を愛するけれど、落ちこぼれない程度の人間にはありがたみが薄い。穂高重親の晩年は星朋彦の策略によって強く輝いたのですが、小橋の裁判官としてのキャリアは地味であればあるほど輝きそう。頑張っている人がいるから俺の人生は輝かないが、頑張っている人がいるからこそ世の中はよくなっていく。汐見さんのように逃げられたイマジナリー奥さんに励まされて暗黒面を出さないように頑張っている人もいるのだから・・・と思っていたら実在してた。俺よりもかわいそうな努力家は他にいないのか。虎に翼本編でパロディを考えると、穂高重親の生真面目さと星朋彦の勝負師としての一面を取り上げたい。具体的にいえば日本国憲法に対しての両者のスタンスを滑稽化・風刺化して、残りの人生を笑わせてほしいということです。両者ともに明治時代に制定された法律に言いたいことは山のようにあったはずで、GHQの指令があったにせよ、識者の議論も碌に経ない法改正など本意であるはずがなく残りの人生もあと持って数年と自覚すれば良識も少しは投げ捨てようという気になります。せっかく明治維新から苦労に苦労を重ねて太平洋戦争まで法解釈を積み上げてきたのにぽっと出の学者に意見されるなんてい・や・だ!とすれば知見があり学識のある中堅を見つけて引っ張ってくるしかありません。GHQに目の敵にされない範囲で。法曹人材の枯渇は桂場等一郎の最高裁長官在任時の最大の汚点で、司法の独立と弱者救済は、同胞の保護にはあたらないと強い態度をとりました。桂場は冗談ひとつ言わない堅物なので星朋彦の軽い性格と合わない面があったでしょう。寅子の淡い思い人であった花岡は東京地裁判事としてヤミ市の違法食糧の事案を担当し、配給の食事だけを口にして餓死しました。東京地裁で人事担当官だった桂場にも痛恨事であり、都市部食糧難を法整備で買い上げた食料で配給する制度が破綻している現実(金がある者はヤミ物資、ヤミ食料を求めた)がありました。花岡が栄養盛り盛りの状態でもこの時代の食糧管理法違反の事案を担当するのは死期を早めたはずです。ドラマ本編では主人公寅子が恩師穂高から「こんな大変な仕事を女性にさせるのは・・・」「この道に君を引きずり込み、不幸にしてしまったのは私だ……」そのお詫びといってはなんだが、「よい家庭教師の職を見つけてきた」と花束拒否事件の前振りを重ねていきます。「道徳の名の下に『国民がみな平等である』ことを否定している」と尊属を特別扱いすることに穂高最高裁判事として反対意見を出しているのですが、愛弟子の寅子には誰よりも幸せになってほしいと特別扱いすることを隠そうともしない。穂高は寅子に名誉や栄光を与えるつもりで転職を勧めているのではない。ただ、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・結果的に甘味処「竹もと」で桂場が寅子に忠告した「甘やかされて育ったお嬢さんは土俵にあがるまでもなく血をみるまでもなく、傷ついて泣いて逃げ出すのがオチだろう」を実践しなさいと言っているに等しい。女性が土俵にあがる理由は最初からなかったのかもしれないと穂高が言ったら目潰し攻撃が寅子からきます。爆弾に手をかけている自覚が穂高には薄すぎるのです。目をかけて引き立てた者への期待と警戒のバランス(星朋彦は初代最高裁長官。その就任は司法省と他派閥とでバチバチに遣りあった、らしい)が穂高重親にはありません。桂場は星に引き立てられ司法の中央への階段を上がりつつ、穂高の持つコネクションを退任祝賀会の幹事としてすべてを把握するという、幕末の土佐藩で活躍した武市半平太も羨むほどの権力闘争の為の基盤を手に入れます。穂高自身は育ちがいいせいか他者を押しのける学閥の長としての威圧感がかけらもありませんが、虎に翼の劇中では、寅子の母である猪爪はるの人生に陰になり日向になり関わり、猪爪家の凋落に誰よりも気にかける人格者でありました。みんな大好き穂高先生。岡部たかし演じる猪爪直言も息子直道と花江との結婚披露宴で我が世の春を謳歌していました。大学のゼミで世話になった穂高との邂逅、意気投合(?)して飲み歩きに出発(紋付羽織袴姿のまま)と最高に楽しい酒席となったことでしょう。泣きながら娘の将来を穂高に託したこと疑う余地はありません。はるの顔を見るのが怖いから穂高から言い訳の材料をもらいたい一心で拝み倒した可能性もあります。大学入学時の保証人制度はこの時代どうなっていたのだろう。女子法曹が生まれるなら諸大学に先駆けて我が明律が先陣を切る!と、かなりリスキーな校風なので、保証人の契約内容もよく読むと危険な一文があったのではないか。女子法曹の世間一般に与える心証を著しく害した者は我が大学への加害行為とみなし、相応の賠償金を請求する。といったような。そもそもの人生を賭けた法曹への道が女性には一部門徒としての扉を開けておいてあげます(虎に翼、第30回(第6週)「女の一念、岩をも通す?」)と、女性なのにスゴイ、おめでとう!と祝福される世の中であることに寅子のはてはてメーターは大分に振り切れていて、寅子が持つ桂場への意味不明な信頼感の正体は虚飾をすべて剥ぎ取れば、法の番人としての孤高さに惹かれているのだと推測します。え?穂高もそうだろうって? 共亜事件で穂高は弁護士、桂場は裁判官として猪爪家と関わり、寅子は当代一流の弁護士たちを目の当たりにして肌身で国家権力による人権蹂躙の被害を知ることになります。明律の校風は(モデルとなった明治大学のHPを見た)フランス法学を源流とする国家が殴ってきたら法の力を利用して個人で殴り返せ(意訳)という「権利自由、独立自治」と想像通りだったのですが、穂高の人物造形のモデルである穂積重遠は戦中戦後と皇太子の最側近の一人であった(猪爪の弁護を頼んだ花岡は怖いもの知らず)ので、晩年に最高裁判事を引き受ける心境(星め…)と共亜事件当時の穂高では野心という点でまったくの別人であったことでしょう。尊属殺重罰規定の違憲性の指摘と、共亜事件での検察側証拠捏造の指摘は、権力を持つ人間に人の平等意識を説き、権力の濫用は法規範から許されないと自己のエゴと対決せざるをえない(ひりつくような法廷の緊張感にエクスタシーを感じるような)領域に足をつっこみ、桂場、寅子たちに感銘を与えています。猪爪はるの、娘は母親の所有物ではないとギリギリで踏みとどまった第1週を思い返します。桂場の余計なお世話(そちらから聞いてきたのでは…)が触媒になっているのが笑える。最終回も寅子からの「法とは何か?」の問いかけから桂場の「私は今でもご婦人が法律を学ぶことも職にすることも反対だ」と引き出して、明律大同志一同から「おまえの偏見的な法曹像のおかげでどれだけの人が迷惑を受けたと思っている」と触発状態になりかけました。航一は迷惑を受けた当事者の一人ですが、ニコニコしていましたね。穂高を激高させ意気消沈させた花束拒否事件と違い、寅子は仲間たちと共に桂場を納得させています。桂場の絶対に譲れない信条である司法の独立は、裁判官の職務職権は何人たりとも侵せず、ただ裁判官は己の良心にのみ従う…とロマンチシズムが炸裂しているのですが、それは、裁判官は誰にも飼い慣らされない鉄の良心を持てと言外で意味しているので普通の人ではとても付き合いきれません。新潟編で地元の有力者であった森口は桂場と少し似ている所があります。人の気持ちを考えずに全体のあるべき姿を想像して、住人一人一人に理想を押し付けて、それが皆の幸せになると信じていることです。はると桂場が似ている(桂場の私生活と背景はさっぱり不明ではありますが)(はるも私生活のほぼすべてが謎ではある)のは、誰かが何かを変えても結局世の中は何も変わらないと諦観しているのに、そういう態度の人間に対して煮え切らない怒りを持っていて、いつか爆発するであろう不活性タイプ(のクセに同じ元素同士で活性化する)の人間である、ことです。爆発さえしなければ粛々と黙々と働くので身近にいてくれたら助かるかもしれません。新潟編の曲者、杉田太郎もお節介で人を搦め捕ろうとする難敵でしたが、自分本位なだけではない地域の人々の為に身を粉にして働く弁護士でもありました。地元の有力者である森口と弁護士の杉田は懇意な間柄であり、新潟地・家裁三条支部で事件を担当できる弁護士は杉田太郎とその弟次郎の二人だけで、裁判官は民事刑事家事少年と寅子一人が担当(支部長でもある)すると、杉田兄弟と仲良くしなければ実務がこなせない状況かつ、任地に連れてきた娘の身の回りの世話も寅子一人でやり遂げるつもりでいるとまあ、花江の苦労をまったく何一つ理解していない佐田寅子でありました。私はできる! 杉田太郎の寅子への懐柔策は太郎が主宰した親睦麻雀大会から風向きが少しずつ変わります。過剰に懐柔しようとするのは田舎の習わしや人間関係を無視して、新支部長が法に則って四角四面に行動する人間なのではないかと警戒したからでもあります。憲法が変わったから以前の考え方は間違いで、これからは新しくなりましょうと錦の御旗を掲げられてはたまらないと、日本初の女性判事が支部長に赴任してくると知れば(GHQもちょうど寅子が三条支部に来た頃に占領統治を終了している。沖縄は20年後に本土へ復帰した)何事も変わらずいなくなってほしいと思うのは無理からぬことです。権力を濫用していないと無自覚に信じている人間の戯言かもしれませんが。呪術廻戦の乙骨憂太は無自覚の女誑し。 ドラマをリアルタイム視聴していた時は「早く終わらんかな新潟編…」と思っていましたが、いざ東京へ帰ってみると前半戦で感じていた心地よいプレッシャーはかなり減じていました。その理由は主に猪爪はるがいない(この世は地獄だとニコニコしながらプレッシャーをかけてくる鬼がいない)ことと、寅子自身に事件が起きる可能性はもはや限りなく減った(寅子自身の私生活はすでに幸福で満たされている。その結果、事件や問題は同僚や家族に発生する段階に入っていた)ことの二点が大きい。前半戦で寅子は傲慢だ恩知らずだと外野が騒いでいましたが、後半戦は実際にあった裁判をモデルにした法の下の平等憲法が保障する基本的人権の世の中への浸透ぶりをホームドラマ、ホームコメディ形式で再現していくようになりました。猪爪はると猪爪直言が他界して、明治大正昭和と民法が体現していた堅っ苦しさ(第1週での結婚披露宴は遠くなりにけり)はなくなり、いかに与えられた自由を体現するか、それはそれで堅っ苦しくはありますが、権利の濫用は権力の濫用と共に許されないと自縄自縛のプレッシャーが世の中に蔓延るようになっていました。轟が裏主人公といってよい。桂場と轟のコンビでアメリカ旅行にいけば、見ているほうはとんでもなく楽しいことだろう。とんでもなく楽しいといえば、アニメ『ルックバック』のアマプラ副音声はかなり笑えます。天狗になっている遊真にレプリカがツッコミを入れるという漫才が見れるので大変にお得です(幻聴)。序盤も序盤、藤野のクラスの担任が「おまえの描いている学年新聞のマンガ、不登校の京本って子にも描かせてやっていいか?」と悪魔の提案をしてくるのですが、この時点で藤野は気が付くべきだったのです。京本は学年新聞に連載されている藤野のマンガの愛読者であり熱烈なファンである可能性に。藤野のマンガ家としての才能に恐れおののく子なら藤野のマンガのとなりに自分のマンガを掲載して藤野先生に見てほしいと行動を起こすはずはないのだと。保身に走るマンガ家に未来はない、違うか? お腹のすいた小学生の目の前にごはん抜きのあぶらあげだけをぶら下げた大人は犯罪者じゃないんですかね。・・・ってどうしようもないだろう。役割の悪魔。呪術廻戦でいうと夏油が五条に言った「君は五条悟だから」「君にならできるだろ」「好きにさせよう」「アナタが家族だ」(後ろ一つは黒井への言葉)と、夏油は(あんの糞真面目は…)どうしようもない馬鹿です。10代だったころの五条に人の道を教えたのは夏油だったのですが、大ざっぱに人の道とは何かとすれば、それは秩序だといえます。五条の本音は力のある者は好きに生きればいい(空港で七海があきれた「戦国時代の人間ですか」がそれ)なので、夏油が地域の結束を否定し、血の結束を大切にしようとした(夏油の石頭内では疑似家族では好きに生きていい(≒エントロピーが増大してよい)のだ)のは、自分を大切にして生きようとした夏油なりの誠実な回答だったのです。人間だって目障りな虫はなんの感情もなく殺すのだがら、夏油はおサルを殺すのです。真希の存在は形而上学的に目障りだったはずです。なにも考えないで人を助けるのはこの世の理を破壊する行為に他ならないからです。三代の相撲の様に、夏油が呪霊操術が大好きでスーパー究めんと欲するバカならなにも考えずに呪霊ゲットの旅を続けて神霊まで集めきったかもしれません。収集が目的で生き方が手段。真希が心の底から馬鹿にしたことだろう。呪霊操術の術式は術者が死ぬと収集した呪霊が一斉に暴走を始めるバグがあるので本当は成長させてはいけない術式なのですが、人が生み出す漏れ出した呪力を再利用するには(信じられないほど)効率がよい術式なので、大勢の非術師が暴走した呪霊に殺されることを無視すれば全人類が待望する術式であるのです。役割を演じて、死ぬときは跡を濁さずに奇麗に死ぬ。た・だ・し、極ノ番うずまきで呪霊の術式をこしとり、人気のない所でぶっぱすればリスクらしいリスクは消滅し、呪力総量に応じた万能型術師として立ち回れる。夏油の悩みは人の世でどう立ち回るかではなく、人の純粋な思いを金に換算しない呪力社会の実現(なにいってんだテメー)なので、目指す所は個々の簡易領域内で自己の修身を高める教養主義といったところか。非術師が結界術を修められるのかは日下部に聞こう。暴力によらない真希の禪院家統治が可能であれば、この方向性となるのだろう。星漿体まわりのお話は五条が軽く考えて夏油が深く悩むと、普通逆だろうという図式でした。夜蛾先生もこの辺りはボケています。夏油一人に五条家の坊の面倒を見させる、数日中に現世と別れる少女の護衛(天元、星漿体、六眼、の因果があるので必ず少女は天元と同化)をして、六眼は役割を果たす(抹消)。難易度は軽く気分は最悪となるはずでした。夜蛾は夏油なら、不貞腐れる五条を説得し人間として成長させられると期待したのでしょうか。七海の呪術師はクソの結構な割合は夜蛾への失望が入っていそう。夜蛾一人によりも呪術高専全体の、事実から発生する組織としての対処方法への期待と失望が大きかったかと。五条に相談しないのは仕方がない。ぶっちゃけ五条が高専時代にゴネてゴネてゴネまくれば高専生の地位、労働環境、福利厚生(サラリーマンか)が劇的に改善した可能性は高い。七海の恨みは深い。ただ考えなしに行動することの大切さを灰原や冥や夏油から教えてもらっていたので、言うだけ言ってから五条に同情していました。偽夏油改め羂索への同情は限りなく不可能ですが、見た事のない景色を見たい、「みんなチョケてる俺が見たい」はずで「みんなに俺を知って欲しい」から「お笑いを始めた」髙羽は、寂しくて相方が欲しくて仕方がないという超個人的な理由で羂索にツッコンでいく気合の入った芸人でした。週間連載を読んでいた時は私は髙羽にあまり興味がなかったのですが、今になると呪術廻戦の登場人物で髙羽ほど術師に真剣に向かい合った人間はいなかったと気づきます。100人中100人というのは言葉の綾で、1分の1を羂索にぶつけて胃袋吐くまで笑わせる、言うなればダブル領域展開(テレビのお笑いを見て胃液吐くほど笑うアレ)を実現していたので羂索も本望を遂げたことでしょう。同情はしない。驕る平家は久しからず。ペットを愛でるように。九十九由基が夏油から提案された呪力からの脱却案にはある程度の理解を示したことと、羂索の呪力の最適化案(一年中夜通し盆踊りをして新曲・新踊りの発芽を待つ狂気の案)には難色を示したことは、九十九が元星漿体であることと関係がある、はずです。この世にいなくなった人の気持ちを推察するのは邪悪なことなのではないか、頑張って生きていた人の気持ちを邪推するのは悪なのではないか。三代も見たことも感じた事もない相撲の新しい地平を自分が用意した土俵の中で相手と共に見たい(取組相手が相撲を愛していない可能性は度外視している)わけで、連綿と続いてきた相撲の歴史に敬意を払いつつ、退屈で退屈で仕方がない己の心の中の空虚さ(現代の相撲を感じて三代が満足できたかは不明である)を抱えた生ける呪霊ともいえる三代は超ミニ版の死滅回游型術式所持者であるともいえる。真希が羂索と戦う理由は特にないように、三代と相撲を取る理由も特になかった。三代の簡易領域結界に出たり入ったりすることは、真希なら任意でできるだろう。ババを踏みババを任意で引いたといえる。腕が4本ある宿儺は三代の希望の星になりえたはずで、現世に生き残った(らしい)三代に真希と宿儺との対決を話して聞かせるのは危険です。四本の腕を交互に繰り出して黒閃ラッシュをキメにくる宿儺を夢想しては冥冥から小出しにされる対戦動画を金がないので依頼を受けては見る欲求不満の日々となることでしょう。宿儺の代わりに三代の相手となるのは虎杖、乙骨、真希の三人か。伏黒は…。宿儺との最終決戦で伏黒が宿儺の支配から脱することができたのか。好きと嫌いと"嫌だ"とはまったく別種の感情で、嫌だの強制ほど頭にくる事案はこの世の中にはない。伏黒は好きだという感情ほど嫌だは強くない。だから五条に手玉にされているんだぞ。別に嫌いではないです。借金は信用がないとできないと聞きますが、呪術師は社会的に信用があるんですか? 答え。もちろんない。ただし呪術界の中では結構な金が出回っているので一部の人間に気に入られるとブラックカードすら持てる。信用とは何か、と考えるような人間は術師に向いていない。釘崎「アンタ真希さんのことどう思う?」「五条先生と比べて」。虎杖「と…とても…素敵な…女性かと…」「違う。五条先生に聞かれたの。僕と真希、どっちが頭がいいと思うって」「・・・えー」「後で考えておきますっていって別れたんだけど、アンタ先生と仲よさそうだから聞いておこうと思って」 五条のモットーは若人の青春を垢まみれの手で他人が触るな、なので禪院家の真希はかつて五条が伏黒恵に言った100%幸せになれない女(真希は禪院家に君臨する気でいる)そのものですが、呪術廻戦の五条悟は高専時代の夏油に生涯影響を受け続け、その死体を凌辱している羂索を殺す気でいますが、五条が高専生の夏油の悩みに気が付かずに青春を謳歌し思い出の中の夏油は奇麗なままだったことは特大の地雷であり、羂索や真希が持つ現状打破の気概を五条悟は持ち合わせていません。真希が乙骨に自分の弱音を吐いて聞かせて気に入らない連中の首を絞めて言うことを聞かせる計画を真希さんらしいと乙骨に肯定されたことは大きい。わ り と、"思い出は奇麗なまま"は呪いに転じ易い要素となっており、虎杖の「誰も傷つけない」という縛りに自分自身を入れていない!!(宿儺・談)は先生である五条とよく似ている。最強最強と五条は自分で嘯いていますが、五条悟だから最強と夏油から言われたことを大切にしている事実を都合よく解釈して他人には説明しない(脳みそを反転術式で治癒してブラック労働に勤しむ最強)のは、やはり呪いでしょう。呪術の最終巻が今月末に発売される予定ですが、最終話掲載のジャンプだけは買って手元に置いてあるんですぅ。宿儺の己の身の丈は自身の中の呪詛を吐き出す、その為に呪物に堕ちて未来にまで呪いを撒き散らす人生を選んだのだけれども、次の人生があれば別の生き方もいいかもしれない、と言外に裏梅と小料理屋をやってみたいものだと言っていましたね。

 マスプロダクション、英語で書くとmass production、規格に沿った製品を大量生産することです。ショーハーショーテン!の最新話では椚と泥谷との確執が主題となっているので気にも留めなかったのですが、椚が太陽に説明した「芯を食わないレッテル」貼りは笑いを生まない、なぜならお笑いはどこまで行っても共同作業だから・・・という内容は、読んで数日が経ったいまになって気になり始めています。

 芯を食う、と言ってもこれは言葉の単純さから感じるよりも非常に厄介そうな話題で先に書いておきますが、上手く説明できる自信はありません。とてもナイーヴな所を突きそうで、・・・・泥谷は椚から傷つけられたと認識しているはずですが、同じように自分が椚を傷つけてしまっていたと自認していると思います。コミック第1巻で畦道の家族(特に父親)を描写することで他人から軽んじられる、笑われ者になることは決して良いことではないと読者に提示していますので、・・・・・・・人前で笑いを取りに行く気恥ずかしさと自負心はとても傷つきやすく、自分で前に進む動機を他人のせいにすることは本当に醜悪なのですが、それで人を笑わせるのは心に澱を溜めていく行為にほかならず、とても健康にいいとはいえません。笑いを生むために自分以外の人に某かを要求し、笑いという形で吐き出すことで対価を要求する。おれをみて笑ったのだからおまえは———

 (くどいくらいに注釈がひしめいている十五少年漂流記サクラ大戦の解説本、特に世界観に病的なまでの追い込みをかけている本が売っていないものか……)

 手軽に安く、サクラ大戦の3と4を遊ぶにはどうすればよいのか。ヤフオクドリームキャストを買えばいいのか・・・? 中古ゲームソフトは高騰していそうだしなあ。PC版があるのなら、我が家には古いノートパソコン(ウインドウズ7)があるので動くならコレが最善だと思われる。ダウンロード販売がきっとあるだろう……と思っていたらなかった。だめだこれ。ドリキャス本体と中古ソフトを探してみるか。そして十五少年漂流記、話全体の五分の一ほどしか読んでいない。誰に共感して読むかも決まってなく俺は温い人間です。

 話が変わりますが、ストリートファイターⅡ´(ダッシュ)でベガを画面端に追い詰め、本田がベガの目前に大百裂の壁を置くと簡易詰め状態となります。ベガの地上技は(必殺技も)立ち位置から数ドット前のめりに喰らい判定が出てから攻撃判定が発生するため、大百裂を目前に置かれると一方的に百裂のビンタを喰らい間合いが離れても本田がジリジリ前進してくると振出しに戻る、という戦法があります。間合いが少し離れていればベガの立ち大パンチで百裂を一方的に潰せます。ベガがジャンプを試みてもやはり喰らい判定が数ドット前に出るせいで百裂ビンタの餌食になります。おそらく百裂を喰らった直後にベガ側がきちんと対処すれば簡単に反撃できるだろうと思いますが。

 自分がベガを操作していて画面端で大百裂を目前に置かれた場合、一番スマートな対処方法はしゃがみガードをすることです。しゃがむと喰らい判定が前にでるので100%ガードが成功し、必殺技をガードすることで間合いが大幅に開くのでベガのターンとなります。

 スト2のキャラで基本技(コマンドとタメ、連打系を介さない技)のみでケンカを始めると、まず必殺技のケズリが発生しないのでジャンプ攻撃をしてきた相手を対空基本技で落とす行為が基本となる…? 従って強い対空技のないキャラは防戦一方となり、投げor下段攻撃の地味~な攻防になりそう。ダッシュのシステムで妄想しているので投げ受け身はない。よって投げ間合いの広さが決戦要素となり、本田は相当に有利なキャラとなるだろう。楽しくはないが。

 本田の楽しさはしゃがみ中パンチがギリギリ当たる距離(≒リュウケン波動拳の出かかる所を止められる、ザンギの大足払いを一方的に潰せる、ダルシムのスライディングを止めてしまう、ガイルの中足払いに反撃しオカマキックで転ばせる、等々)からの立ち小・中パンチから小百裂、つかみ技への移行、投げて大百裂でケズる……と、単純に前進して端に追い詰めてケズって殺す(or投げて殺す)が完遂できたときが楽しかったです。小百裂の発生速度とリーチが反撃能力を上げる(ジャンプ逃げ阻止)ので対戦相手には悪いことしたなと思いますが、おとなしく観念して画面端で沈んでくれるとやったぜと思いました。ザンギにはしませんでしたけど。大百裂とベガの立ち大パンチキックの相打ちほど気分爽快、ストレス解消、かつ笑いがでる効果音はない…。

 そしてまたらーめん再遊記の話になります。一人のラーメン馬鹿に戻った芹沢は気の赴くまま行動していますが芯はなにかというと、ラーメンの形式、流行っている店の盛者必衰を見てまわって、自分でも知らなかった強いラーメンに出会いたいという欲望を心に飼っている、ということです。全盛期の幕之内一歩と出会ってトレーナーに転身した沢村みたいな奴ですね。常識がなさそうであるので千堂っぽくもある。一歩沢村千堂とくるとヴォルグを出せ(ザンギ繋がり…)と俺の中で誰かが叫ぶ。

 納得感のある敗北、負けて尚得るものがあったと思える対戦。

 一歩は被弾しまくる主人公だったので沢村戦は完全に終わっているカードでした。幕之内一歩の突進を止めるジャブ、ジャブのみでKOを奪える拳質、相手のパンチを見てから先当てできるハンドスピードと、100回戦って100回幕之内が負けるダイアグラムです。よしアニメを見よう。アマプラだと第3期の一話のみ無料視聴なのでかえって欲求不満が高まるという罠。

 話がグダってしまい、どうしようもなくどうでもいい気分になった際に最も良い解決方法は最初からすべては解決していたと他人に言ってもらうことです。考えてみれば物事には必ず始まりと終わりがあるので終わんねえぞこれと観念したら、「馬鹿野郎、はじまってもいねえよ」と誰かに言ってもらえば万事解決します。

 手を動かして料理(材料の下ごしらえから始める料理)をしたことは家庭科のカレー作り以来ないような気がします。一人暮らしをしていた時は焼きそばをフライパンで調理して食べていましたが、同僚からは「それ料理?」と言われてショックを受けたので包丁を使えど皮をむかない炒め物は料理ではないのです…。(豚肉とキャベツと焼きそばのもとを炒めるだけで、多少のトッピングがあろうがなかろうが明日の生活の活力になるならなんだっていいわいと食っていたのだから、律義にショックを受けるほうがどうかしているなと今なら思いますね)

 ラーメン再遊記の新刊が明日28日に出ると聞いて電子書籍版を購入しようと思っています。雑誌の掲載作品は追っていないのでとても楽しみです。再遊記の1巻はかなり読み返しているのですが、読んでぼけーとしていると米倉が面白い奴だなと最近思うようになりました。芹沢をして「今の俺じゃあとても勝てる気がしないな…」と素直に言わせる実力者で、食材の良さを生かし抑制した味付けで細部が磨き抜かれたラーメンを創ると評されています。再遊記の1巻は芹沢が主人公ではあるのですが、芹沢の反骨心は見る影もなく衰えており米倉の登場がなければ落ちぶれたラーメン屋で瓶ビールをすする中年男の話がはじまって終わらないマンガとなっていました。昔はあれだけかっこよかったのに本当につまらない人になってしまってがっかりですよぉ~。これってニューウェイブではなくてオールドウェイブではないですか?

(この場面を読み返してみると、「オールドウェイブ」発言の前に酒の力を借りようと、若しくは酒の席の発言と予防線を張るためにアルコールが入ったグラスを手に取る米倉はすこしかわいいですね。そして汐見は決してかわいくはない……)

 はじめの一歩の単行本51巻を購入してあらためて読んでいるのですが、本当にこのマンガは読んでいて楽しいです。キャラのヒエラルキーでいえば鷹村が理不尽大王なのは誰もが知るところですが、この巻で一歩も大概だと皆が認めたうえで、どこまで行く気でなんで前に進むのかと小橋に問われるシーンは忘れることができない名シーンだと思います。その直前に地球上最強を達成してしまったオレ様(鷹村)もボクシングを引退するべきか(モチベーション的に)限界なのではないか…と悩みを吐露する場面があって、本当にどうでもいいですね。

 ゲーム攻略本の中古を買い集めるのが好きで、東日本大震災が起きる前くらいまでは中古ゲームショップの攻略本コーナーで立ち読みをしては、値札シールの価格と相談して本を購入していました。定価よりも格安で、カラーをふんだんに使った本を好きに買えるのは快感で、プレイしたことのないゲームを想像してその攻略内容をレイアウトして本にまとめるという妄想を楽しんだうえで本を選んで買えるのは禁断の喜びでした。商業性を無視した市販されている攻略本は存在しえない、というのもポイントが高く間違って世に出たゲームがあったとしても、クソオブクソな攻略本は出版されるものなのでしょうか。

 当事者でしか分からない、当事者すぎて判らない……

 らーめん再遊記で一番好きなキャラクターは夏川なんですが(書いてしまった)、思えば彼女は他者への憧れの感情がピンボケしていないという稀有な美点があります。この文章の最初に書いた「大量生産」はこの文章を書いているわたしが一、二を争うほど好きな言葉で、大量に生産するに至ったからには、大量に生産する背景が必ずあり、まあ楽してぼけーと生きたいと日々願っている私にとって、材料と生産プラント、需要と供給、一気にガッと儲けたいと野心を燃やしている投機家がいればおこぼれにあずかって楽したいと思っているわけです。夜、布団のなかに入って温い体勢でなにをするかといえば妄想をするわけですが、楽してぼけーとしていい目をみたいと思えば、それは勝ち馬に乗る過程をリアル(夢の中……)に想像しようと努力するわけです。つまり、皆が懸命に努力して幸せになろうとしているなか、渋滞していない幸せルートがないか考えて、かつ面倒なことは他人にやらせることで最短ルートでウホウホのガハガハな未来が手に入らないか想像するのです。

 はじめの一歩でリング上で罵声を浴びるキャラといえば鷹村ですが、他人からほぼ際限なく罵声を受け続けるという環境は想像しにくいものがあります。よほどの変人でない限り、その場から離れますからね。

 これは想像なのですが、十万回学業をやり直す機会が与えられたとして、卒業する度に学習成果を持ち越したまま小学生からリスタートすることできれば学問をよりよく修めることができるのでしょうか。チート能力として学業道具一式もなぜか持ち越せる(ある程度の分量までノートの内容を時空を超えて持ってこれる)おまけつきで。

 ドラえもんの登場キャラで感情移入しやすく、一番ノリノリで書けそうなキャラはスネ夫です。スネ夫のいい所は自分をよく見せようと外見をやたらと気にする所だと思います。まあキザで嫌味で自慢ったらしいので、よほど周りの人たちの心が広くないと集団でボコられそうですが、外面をよく見せようと神経と頭を使って自分を主役にしようと演出するのは頭がよく常識がないと成功しませんから、あれは大した男だと思います。私自身はこれっぽっちも衣服に気を回さないので、フォーマルな場で場違いな恰好をしないか数年に一度は冷や汗をかいて早々に逃げ出しています。理想をいえば汚れてもいい格好で仕事をして、お湯の心配がいらない環境で風呂と洗濯を楽しんで酒を飲んで寝れたら最高です。お湯といえば瞬間湯沸かし器を初めて見たのは中学か高校のころで、住んでいた場所の気象観測データを調べても中学のころの年平均気温がちょうど最高、最低ともにV字グラフの谷間だったようで、そりゃあ寒かったはずですよ。スイッチを押すとすぐにお湯が出る経験は、子供のころ冷え性でしもやけだらけだった自分にはかなり衝撃的でした。

 なんとなく格好よさについてぼさぼさと書いていますが、世間一般では芸能人や一流スポーツマンがかっこいい人物のフォーマット像といえるでしょう。わたしもそう思います。自分とは縁がないと割り切れるので、すげーなあかっこいいなあとテレビを見ながら煎餅をかじって見ていられます。ここで格好良さの価値化、数値化、格付け化と他人の異論は認めないと光の速さで事を進めればしかないな、とぼけーと思います。見られる側の短命と長命の差は、見ていて飽きない・・・・・・・・・・・・ラーメンハゲの言うところの万人の形式、飽きのこない存在と、他と差異が明白であるという自明性をバランスよく持っているかが重要なのではないでしょうか。型を重視しつつマンネリはイカンと好きなことを言っています。おそらく誰にでもある経験だと思いますが、映画やマンガ、アニメ作品などで作品全体の感想としては「凡庸」の一言で終わってしまうのに、ある一場面の絵面が忘れられず、何十年も経ってから見直したらストーリーは忘れていたのにそのシーンだけはしっかり覚えていた、なんてことはないでしょうか。わたしは思うのです。奇跡が起きて忘れられないシーン(その人の感性に焼き付くほど価値がある構成の絵)が開幕から終わりまで続いたとして、その作品は名作とたりえるかと。わたしは「たりえる!!」と断じたいのですが、経験上からいえばそれはファンサービス、ろうそくが燃え尽きる前の最後の炎であって、そんなものがメラメラ燃えていたら現場はヤケクソなのではないかと疑います。価値はある。だが普通ではない。

 勝手に盛り上がってきたぁ~ッ!!

 TBS系で毎週放送されている『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』、面白いですね。YouTubeで散々ハサウェイのPVを見て「眼鏡のそばかすの娘は可愛いなあ」と思ってましたが、TV版2話を見て『なんでそっちに逃げるんだよ!!』の名言を大音量で喰らったので鞍替えしました。背のでかい姉ちゃんはいい!ヒュー

 かっこよさ、と大の男がたじろぐ場面。雰囲気とこいつアホなんじゃないかと諦観が混じる感情。特に衝撃的なのが結局は雰囲気・・・・・・騙されているだけなんじゃないかと正気に戻った時におまえどうすんの?と。

 いつも心に武田のオヤジを。さっき頭の中に浮かんだフレーズですが、0コンマ3秒後に『Dead or alive!!』と心が叫んだのでそんなもの飼うくらいなら死を選ぶわと即断しました。閃光のハサウェイの3話の放送は本当に楽しみなんですが、同じくらい心情的に警戒しています。私はザンボット3をリアルタイムで見たことはなく、なぜか子供向け絵本でファーストコンタクトをした口なんですが(主題歌のソノシートが付いてきたのでオープニングソングはクッソ繰り返し聞いた)成人してからザンボットをビデオで見たときはオープニングの『ザンボット3!!』連呼にはっきりと恐怖を感じたので、あ、これはきちんと見てはいけないアニメだとカッコで括っています。ガンダム作品全般もだいたいその口で、富野監督の成分が濃さそうな場合は心情的にかなり遠ざけて視聴しています。

 アマゾンから注文していた本が届き、ペラペラとめくって読んでいます。逆シャア友の会なんですが。恐ろしすぎてチラっとページを見ては本を閉じ、各界の著名人が富野監督のことを好き放題言っています。令和の世に一人の人間をサカナにここまで言いたい放題なのは許されるのでしょうか。

 で、このブログを書くのも終わりにしようと思います。読んでいてくれた方がいたのかほぼ分かりませんが、やるべきことは見つかったので手に入れようと思います。

 ご自愛ください。失礼します。

 

 ドラえもんで麻雀に平和しか役のない状態でゲームをする話があるとどうなるのだろうか。単行本収録作品でのび太が正月の遊び(凧あげと羽根つき)のルールをひみつ道具で改変するお話があるのですが、考えてみれば正月に麻雀をするのも全然ありなので負けが込んだのび太が(満貫や役満を憎むあまりに)「平和だけでしかあがれない麻雀」を思いつくという流れで。

 まあ最速の平和あがりを目指すゲームと化すはずですが、おそらく面子に出木杉がいればのび太は臆面もなく聞くと思うのですよね。「どうすれば早くあがることができるのか」と。そして出木杉はフラットに平和の作り方を教えるはずで、のび太の興味ある分野ではあきれるほど速く学習する特性が発揮され、すぐに追いつき、そして麻雀に貪欲になるであろうと思うのです。あがり効率と得点のリスク配分を自分で管理してゲームを進めるという麻雀沼の入口に手をかけてしまうことで。

 連休があると愚にもつかないほら話を書いていられるのでやっぱりいい。今気になることはワートリの遊真の父親が言っていた「強者を足止めできている時点で立派な戦果」といったところで、麻雀でもテンパイしている人のあがり牌をひたすら放銃しない打ち方ができればかっこいいなあと妄想しています。ワートリのトリガーで妄想すれば、ランバネインを一人で足止めできるトリガーはあるのか?という方向性となり、奴さんの総トリオン量がケタ違いなのでまあ無理なのですが、弓場というキャラが「よーいドン」で始まるタイマンなら最強だと言われるように特定の状況下において強者に我慢戦という無理強いを強いるという超限定トリガーならイケるんじゃね?などとウキウキしながら妄想しております。相手におもちゃを使わせず、逆に雑用を押し付けて、その雑用に大した意味はなく、そして自分は意味のない雑用が大好きならカンペキ。鼻歌歌いながら意味のない雑用をこなして相手の仕事の粗を(悪気なく)指摘して「お互いがんばろ!」と時間を潰せるなら平和でいいのではないでしょうか。トリガー始動条件はさておき、終了条件は指定した相手が心の底から自分のすべてをなげうってでも雑用辞めたいと念じた時。使用者側のリスクは全部忘れるってことでしょうか。上記の言質に説明責任を与えるのなら、特定の状況下とは「相手の大砲をまともに喰らったはずなのにピンピンしている」状態で、そのあとは付かず離れずの距離でウロウロしまくりベタオリに徹する。その後にガードが甘くなり大物手が育ったことを暗に示して相打ち上等の瞬間を待つ。という流れ。使用者側のリスクは大砲を受け損なうとそれで終わるのに受ける面積と出せるタイミングが高難易度で、実質見てからでは間に合わない仕様だということ。大砲待ちとばれたら速射砲で削られて終わる。大砲を見てから対応しても普通に終わる。それを全部忘れて実戦で使うのはナンセンスだ。

 表面的には遊真のブラックトリガーと同じ他者トリガーのコピーを行う能力に見えるが、やっていることはレプリカ先生の解析能力を自分の脳みそで行い、ブラックトリガーを生成する時のように他者トリガーをその場の即興で生成する。付かず離れずの距離は解析の必要条件(データ送信の安定度みたいなもの)で、ベタオリは相手のトリガーと紐づける十分条件(ルールを破ると最初からやり直し)となる。そう考えると味方から希少トリガーを融通してもらうほうが冴えたやり方となるが、ボーダーのトリガー量産技術は高いので、なら最初からトリガーの複数所持を選べという話になる。どん詰まりのトリガーだが、ブラックトリガーの複製が可能なら評価は一変する。だが無理だろう。使用者が発狂する未来しか見えない。オペレーターとチームでの並列処理を考えて実装したら黒トリガー適応が実現するのか。ここまで妄想してトリガーネーミングもこれしかない、と思い至ります。名称はMZX1(エムゼットエックスワン)。SHARP謹製ですな(笑い)。

 あとは妄想の垂れ流しで……。

 湯水のようにボーダーの開発予算を使えるはずもなく、鬼怒田さんの目を欺けるはずもなく、城戸さんの目にかなうかも怪しい。人と違うことをなんのプレッシャーもなくする人間は要注意人物に決まっている。設定の必然としてボーダースポンサー関係者となり、2社以上の巨大資金源は暗躍舞台装置となり気持ち悪いので、必然の必然として唯我の関係者であり唯我尊とはほぼ親和性はない、と考えると、唯我の社長の養子で(実質は産業スパイの)唯我尊の弟……にでもなるのか。しょっちゅう頭の中の記憶をいじられていそうだ。

 先日、ついにワートリを全巻購入してしまいまして、頭に入ってくる情報量が一気に増えました。誰が一番気になるかというと、今のところは東さんです。人物評がいちいち気になります。瞬間最大風速的に東さんが唯我尊をどう評しているのかが気になっています。主人公の修を東(以下「さん」は略)はアンバランスと評しましたが唯我はどう思われているのだろうと。ランク戦の話ではなく、あの隊の中で息が詰まらずにマイペースでいられる人物像はちょっと読めないですから。そして一番好きなキャラは唯我とからみが多い出水なんですよね。アフト戦の戦功褒賞でも彼は上位だったはずで、トリオン切れを心配しないで様々な弾種を使い分ける弾バカと、家庭用ゲームで使えるキャラになったら、対CPU戦でどんな手を使ってでもコントローラーに合成弾マクロを組んで暴れまくりたい。敵の出現パターンと攻撃アルゴリズムを読み切って(というか学習して)好きなように弾幕を張りたい!Q!

 わたしの脳内で明け方に木虎と迅と東による唯我座談会が開かれたのですが、結論から言うと「関わりたくない」「わからない」「知らない」と、とっちらけた印象となりました。

 コミックをぼけーと読んでいると陽太郎まわりも面白いことに気がつく。あのお子様は作中屈指のエリートなんです。でかい口を叩くだけの明白なバックボーンがあります。林藤支部長が激あまやかした結果の「世のなかのきれいとおいしいはおれのもの」状態な子供ですが、かわいい顔をして護衛の巨大ロボと化す愛玩動物もお傍にいるので、唯我尊と同列の本作での最上位キャラでしょう。代わってくれ。

 短期間でワートリ成分を摂取したせいで、少し平静でいられない気分です。唯我の立ち位置は将棋でいえば奨励会を経ないでリーグ戦に参加(しかもA級)という針の筵にいるわけで、よっぽど本人が特殊でなければ自分を保つことはできません。なんでお前弱いのにA級にいるんだよと、誰だって思います。その疑問への答えは一つしかありません。誰がどう言おうと、わたしはA級に相応しい人間だと自負自尊しているからだ、です。唯我が増長するたびに太刀川が精神攻撃をしかけ、出水が物理でショックを与え、国近がとどめを刺……さずに無視する流れですね。太刀川隊は。こう書くと国近のランク戦での指示ぶりを見てみたくなります。

 段々と唯我のことが好きになってきたので、一見では嫌な奴としか思えないが話してみると割といいやつだった、という小話を藤子先生の過去作でも読みながら考えてみよう……。

 ヤフーの電子書籍サービスで『ラーメン発見伝』の無料閲覧が巻数限定で公開されています。ラーメンハゲこと芹沢さんの活躍を読みたくなり2巻の途中まで読みました。私は作品が発表された順番を無視して、最新作の『ラーメン再遊記』のみ拝読していて野生の芹沢さんを見るのは初めてなんですよね……。思ったよりずっと紳士でした(まだわからんが)。

 作中におそらくずっと通底するであろうコストとうまさの関係の片鱗(あるいはど直球)が塩ラーメン対決で来そうな感じです。これを「リスク」と「リターン」の関係と捉えると、店と客の関係、己と敵との関係、と人の心がない話になりそうで怖い。(実は最終話の噂はネットで散々みてしまっているので芹沢が大敗北する師弟対決の結果は知っているのですが)——そして2巻の最後で小池さんに人の心で情報に殴られる。つれー。

 なんとなく気づきを得ると同じ物語の展開が別の理解へと変わる瞬間があります。なんの話かというと『ラーメン再遊記』3巻のベジシャキ豚麺堂の社長と、かつての人気店長だった加納との、左遷させられた(と思い込んでいる)過去のいきさつを読んだときの話です。

 最初にこの話を読んだときは「あー加納はバカだなぁ。社内メニューコンテストで一位常連だからってチェーン店の看板メニューをひっこめて新メニューで勝負するべきだ、なんて吹聴しちゃって……」くらいにしか思わず、ベジシャキ社長の言い分はほぼスルーしていました。なんか言っているな。けど話の展開的には加納の店を立て直す流れにいくに決まっているのだから……おお、ほらみろ。社長が閑古鳥バスターとか言い出したぞ。と、一人ほくそ笑んで読書していたわけです。周りに誰もいなくて本当によかった。きちんと話を作って作劇しているのだから、芹沢が跡を濁さないようにいなくなるのは当たり前で、ベジシャキの社長が自分の言葉足らずで前途有望な若手社員を迷わせてしまったことの心の清算を丁寧に描き、加納が自惚れていた自分には社長の言葉は(言ってもらったとしても)理解できなかったと思いますと、バカにしていた上司の心情を汲み精神的に成長するシーンが話のきもであったのだろうと、明日が休日なので缶ビールを片手にブログを書いている自分には思ったりします。(自分でとどめを刺すと、芹沢は「自惚れた勇者よりも賢い臆病者のほうが強い」と加納に助言しており、気づきを得た、とかぬかすノータリンは臆病者に淘汰されるのであります)

 

 芹沢のキャラ造形に関心があります。かつての失敗や敗北により拭えない思いを抱えつつ立身を成し得たキャラ、というとスポーツでもビジネスでも権謀術数の戦国ものでもいろいろありそうです。書いていて自分で思いますが、これは大好物ですね。立身を果たしているのにそもそもの根源に立ち入っていない自覚を持ったままというのは、本人の価値観が他者や他所に支配されたままともいえる。先日にアニメ最終回が放送された『ダイの大冒険』では、わたしはご多分に漏れずクロコダインが大好きなんですが、別の意味でアバンも大好きなんです。これにバーンが加わってハドラーを題材に好き勝手言ってくれないかなあ・・・と想像します。バーンは聞き手にまわり、アバンとクロコダインのハドラー評を楽しく拝聴する。そんな集まりですかね。

 『ダイの大冒険』(以下『ダイ大』と略す)のクロコダインはハドラーを王と仰ぐ武人キャラとして登場し、強敵との戦闘で何度となく死にかけ、斧を捧げる相手をハドラーからポップたち人間へと変え、最後まで生き延びた男です。ポップと出会うまでは己の地位(ハドラーの下での将軍の地位)可愛さに武人の誇りをベットした卑劣漢でもあります。クロコダイン好きなわたしが強調したいことは、初回登場時のクロコダインの己の誇りとはハドラーの下で戦功を挙げ将軍まで上り詰めた己の生き様だということです。(かっこいい!!) 

 深夜3時に布団から這い出てキーボードをたたいていますが、dアニメストアで『ダイ大』をつまみ見していると、なんとも思っていなかったフレイザー(の声)がやたらかっこいいことに気がつきました。わたしは今までフレイザードを舐めていました。悪い癖でどうせ絶対にダイの新技の餌食になる運命の、ポッと出のキャラだろうと。炎と氷の二属性でメラゾーマ五発同時発射で俺様強ェ!!とムーヴをかますのだから、ああこいつ死ぬなと普通思いますよ。でもかっこいいのです、フレイザードは。

 昨日の夜はかなり夢見が悪く、細切れの夢を飛ばし飛ばし見るようで眠りが浅い状態でした。ワートリの唯我を周りがどう評価しているかの興味が一段落すると、今度はハドラーが周りからどう評価されていたかと気になりはじめ、正直あまりよく言われていなかった(アバンからは大魔王の使い魔呼ばわりされていたような……)かなと、安眠できない夜でした。寝る前に100話もあるアニメをスワイプしまくって見るのはよくないと知見を得ました。

 ピクシブ百科事典でフレイザードの項を読ませてもらいました。とてもすっきりするまとめで、もう書くことなんてないな……と思いますが、わたしが感じたフレイザードのかっこよさはクロコダインが捨てきれなかった過去の栄光を躊躇なく捨てる即断性と、バクチに勝利することで得られるであろう己の快感に全ベットする狂気性です。いさぎよい。『ダイ大』コミックスは全巻所持していて、ある日すべてを廃棄して手元にないのですが、バクチは(外れたら)痛い目をみるから面白い、のページを見るために単行本を買おうと思います。クロコダインは気絶していたか、それとも意識はあったのだろうか。

 近所の本屋に新装版の大ダイを注文(バルジ島決戦編だけ)し、表紙の青エクに釣られて購入したジャンプSQ.を読むと気になるマンガが連載されていました。こちらは電子書籍で既刊本を購入。『ショーハショーテン!』という作品です。私が初めて読んだ第13話は主人公の一人、東片太陽が相方の畦道に大切な人の笑顔を「お笑い」で目にすることができたと過去話をする回だったのですが、・・・・・・・。第1話を読んでから第13話を読み返して、そしてまた第1話を読むというループに入りました。「面白い」「かっこいい」「煽られてるみたいだ…」「君の方が(中略)プンプンしてる」と、子供のころからの悪い癖で、何度でも読めてしまう。そして思う。

 太陽、おまえ。値千金のプラチナチケットをもらってくれと言われて、「お笑いに興味はありません(意訳)」「芸人さんとお友達なんですね(よくわかりました)」と出したチケットを財布にしまった朔太郎の残念ぶりを、よくよく胸に嚙み締めろ。

——と。

 

 将棋とお笑いは似ていると仮定して、将棋が対戦相手に「まいった」と言わせるゲームなら、お笑いは観客席の人々に「まいった。もう降参だ。これ以上笑わせないでくれ…」と懇願させるゲームといえるかもしれません。

 お笑い、を副業にして興行を見て渡り歩き、あるステージを見て「つまらん!」と言って演者から顰蹙を買い「同じ構成でもっと笑えるステージにできます」とのぼせ上った素人発言をして……

 『ラーメン発見伝』でラーメンの代わりにお笑いを副業とする藤本がいたらどうなるのだろうと与太を飛ばしてみました。ラーメンとお笑いが一緒に語れるかというと、無理でしょ!としか思えませんが、第一話ではまずいと言われたラーメンを10年前に同じ材料、同じ味付けで学生時代の藤本が食していたことが明らかとなり(ただし今よりも高級な食材、3倍のスープ煮込み時間をかけていた)ラーメンを再現して店主を黙らせるという筋書きでした。お笑いでこの構成を真似するのなら、ステージに立つ人物の再現となるのでしょうが、独演の芸人を素人が再現するのってどうなのと冷や汗がでるので、ショーハショーテン!よろしく畦道のように素人ながらツッコミが誠実で聞き取りやすい、高慢さを感じずにガラガラ声ではない(……)漫才の再現となるのでしょうか。俺がつっこみてえー-。

 明日が休日で与太話をブログに書いていると意味もなく楽しい。

 ジャンププラスで掲載されているダイ大の外伝作品『勇者アバンと獄炎の魔王』の25話目が数日前から見られるようになっています。いまはお笑いに興味が傾いているので、私がひっかかるなあと感じるのはクロコダインとザボエラの「笑い」についてです。可笑しいから笑う、面白いから笑う、と、なぜあの人たちは笑っているのだろうとぼんやりと考えています。作品内のキャラに感情移入するのなら、ガンガディア配下のビビっている魔導士の一人の気持ちです。「え。なにがおかしいの? ガンガディア様はブチ切れているし……。よくあの人たち(クロコとザボエラ)この空気で笑えるよなぁ」きっとハドラー様が帰ってきてくれたらもとの居心地のいい職場に戻るに違いない。それまでの辛抱だ……。

 現在、わたしはお笑いの内容にはほとんど興味がないと思います。極論を言えば、楽にボーとしていられるのなら、それがいいなあと思っています。クロコダインの大笑いもザボエラの高笑いも本当はどうでもいい。ただ、ああもエネルギーに溢れていると、どうして彼らはあのような形態になるのか、どのようにすればその形態に移行できるのかと疑問に思う。楽にボーとして楽しく笑って生活できるのなら、それに越したことはない。それができているのなら、なぜそうなったのかを考え、適時再現できるように理論化するべきだ。楽に越したことはないから。

 ショーハショーテン!で何度も登場人物が口にする「笑う場として温まって」いたという理屈は本当に謎で、人は笑うときに笑うのではないか。場が重要だという理屈は————甘えなのではないかと一人でいると考えたりもします。他人の顔色に影響されて笑ったり笑わなかったりするのであれば、ほぼ必然として、周囲の影響を受けて怒ったり怒鳴ったりするのではないか。呆れて話にもならない。みんなそう思っているぞと場に重要性を持たせるのであれば、そもそも何かに順位をつける格付け行為は明確なルールがない場合、場の雰囲気で決まってしまうのではないか。そうに決まっているだろうと自分で思ったりもします。こう書いているとショーハショーテン!の主人公、四十万畦道と東片太陽のキャラ造形は少し寒気がしてきます。コミックス3巻で前演者が異様すぎて客席から笑いたいという気持ちが飛んでしまい、どう演じても笑いを起こすのが困難な危機に際して、太陽の異様な一人舞台で場の異質さを中和し、畦道のツッコミで笑いを起こす。優勝を勝ち取るための下準備が完璧に働いた舞台を演出しました。笑うための準備を事前に用意して、人が息をするように観客にフリを見て覚えてもらい、怒涛のボケとツッコミで笑いの波を起こす。「場」が笑いにとって重要なら自分たちで一から作り直して気持ちよく笑える場を提供する。「なぜ笑えるのか」を理詰めで問い質し、舞台の上でたらいに水を汲み、観客席ごと気持ちのいいぬるま湯に浸してあとは観客の能動性で波を起こさせる。笑うのは演者ではなく客だったのか!

 ふーん、ふんふんふん。ジャンプSQ.の発売日が近づいてきました。次号のショーハショーテン!が楽しみだなあ。コミックス2巻194ページと195ページは私の胸にちいさな楔として残っています。「俺は太陽を疑わないよ。ただ本音をいえば、そう言い切ることはできない」。他者を信じる、信用するは、大切なものを他者に預けても安心できると自分を信用できるか、今までどう生きてきたか、これからどう生きていくかの、己の確認作業みたいなものだ。

 ジャンプSQ.1月号、読みましたぞ。読み返すのが辛い内容でしたな。

 そのせいで頭の中だけで読み返しをする可能性が高い(→そうでもなかった)。自分の中で笑いのために人を傷つける行為、面白いことのためにつまらないことを黙認する行為はほぼほぼ悪なので少し消化に時間がかかることでしょう・・・。

 月額定額で見放題のサービスを使い始めると最初は見たい作品を続けて見て満足し、あとはダラダラと適当に作品をみて月額料金のもとが取れているか怪しくなっていきます。ショーハショーテン!の(比べるのもおこがましいですが)作品の構造と似ているところがあってそれは「お笑いの波」第一波を受けたときの衝撃が最大であり、あとは小さくなっていくところです。また人間が病に侵された際に病床で余命宣告を受けるような場合も第一波が最大衝撃となるでしょう。ちなみに「おこがましい」の意味を検索してみると「身の程知らずの大バカ者の世迷言」といった意味のようです(謙遜が過ぎて攻性が付与されてる…)。頼りない自分の記憶を遡ってみても、他人からおこがましいな君は、と言われたことはないと思います。いや普通は言わんだろう……と考えていたら、わたしの子供時代にはもっともっとくだけた言い方で大小の違いはあれ日常的に言われていた気がしてきました。おまえ自分が人気者だとでも思っているのか、勘違いも甚だしいな、と。

 食っていける才能、将来にまで食いっぱぐれない己の力量。いろいろとさておくとすれば、それは食物を咀嚼して飲み込み胃袋で消化して腸で栄養をこしとり老廃物ごと肛門から排出する一連の行為が基本であるといえます。小さい声で言えば、生きていることに感謝して謙虚さを忘れない才能が何をおいても生きていくうえで大切だと思います。ただ欲望のまま行動すると感謝よりも快感を欲して意思決定していくのでよくわからなくなります。

 ショーハショーテン!の第一話はネット上で無料公開されており、何度でも手軽にみることができます。

 皆さんは人から「もっとしっかりしてくれ」と言われたことはありますか。私の記憶を遡っても、ほとんど言われたことはありません。近い意味で言われたことは「年齢相応にしっかりしてくれ」ならあります。本当に何事にも使えない人間だったので、最初から何も期待されないから成果を求められることもなかったのでしょう。仕組みから外れて欲を出す元気もなかったので、言われたことをのぺーと作業していました。元気があれば人の何倍も仕事ができたのでしょうか。

 力を抜き、力を抜き、ぼけーとしているとこれがまたよく眠れるので誰に遠慮することなくよく寝ました。寝ていれば幸せだったので幸せコスパは高かったでしょう。おまえ将来はどうするんだ。

 なにも考えていないことを考えると、やはり子供のころに行き着く。なにも考えていないので集団行動に合わせることを是とする美徳も知らないので調子が外れた人間になる。調子は外れていても子供なりに世間は知っているのでちぐはぐな行動になり、場合によっては生物的あるいは社会的な死に直面しそうにもなる。とにかく子供のころは生きていることに忙しいので死にそうになった記憶はよほどのことがないと覚えていない。たぶんあほな脳みそが楽しかった思い出に変換していそうですし。

 わたしは見てしまいました。タローマンを。

 わたしは「巨人」を連呼されると胸のあたりがズキズキ痛む奇病にかかっており、見て最初に拒絶反応が出ました。初登場時のクネクネダンスにも言いようのない感覚に襲われテレビを消そうとはしませんでしたがプレッシャーを常時受ける視聴となりました。おそらく最終話の太陽の塔まで(過去録画だったので)一気見……しようとして居間に人が現れたのでテレビを消して今にいたります。ツイッターで壮絶なネタバレも経験しましたけど、他人のつぶやきを眺めて脱力笑いする経験も得難いのでよい休日です。