こそこそとGガンのミカムラ博士のことを書きたくなったので書いてみます。(そこっ!石を投げないで)

 小学館のマンガアプリ『マンガワン』をダウンロードし、初回ダウンロード特典の無料閲覧分でらーめん才遊記を第六十一杯まで読みました。あとは電子書籍で完結までの単行本を購入し、ゆとりと夏川の活躍を楽しんで見ています。とんだボーナス作品で夏川ファンを自認するわたしにはニヤニヤ顔が止まらない読書体験となっています。泣いて笑って忙しいな夏川・・・。

 ガンダムの本質は何か、と考えればロボットプロレスをして玩具を大量販売するための販促媒体として活躍することだと思います。恐ろしいことに「ガンダム」と言えば「ロボットのオモチャ」として一般常識で十分に通用します。しかもあまり恥ずかしくないようなイメージ作りにも成功している。わたしが一番すきなMSはゴッグ、次点でドムなのに……。ガンダムのどこがかっこいいのか。世の中間違っているな。いえ、決してゴッグが恥ずかしいと言っているわけではないのですが。世間の目を気にしなくていいのなら強くてかっこいいプラモを買いたいのは当然ですし、出来上がったプラモを自立させて全方位から眺めたいのもごく普通。いっちゃあなんですが、初代RX-78は自立させて惚れ惚れと眺めたいかと言われると別にそんなことはない、としか思えませんでした。まあ好みの問題なのでなにをいってもしかたがない。歴代のガンダムフェイスプラモで自立させたい、眺めたい、と欲望を刺激される機体は・・・・・・・・ないんですよね。サンライズの他作品プラモでなら(あとマクロスで)あるのですが。それでも生き残っているロボットアニメが実質ガンダムしかないのだからガンダムが正しいのでしょう。あと、2D媒体と3D媒体で人が受ける情報量に某かの変異が生まれていのは否定できないと思います。売れているプラモと2Dイラストの関係性といえば、プラモの箱イラストと実物完成品の展示、ならびに売り上げ、出荷本数と、バンダイガンダム博物館に行けばマニア垂涎の展示物があるのでしょうか。あ。グフは別格でかっこいいです。かっこよすぎて恐れ多いので手にしたこともジロジロ眺めたこともありません。

 ジオン系MSに偏重しているわたしの主観的感覚はさておき、ガンダムらしさとはなにか?と問われるとこれは難物だと思います。・・・・・・世界人口が半減しようが戦争を止めないのが宇宙世紀ですが、「これはガンダムだ」といえる要素は何かといえば、ガンダムファンには自明のことですが、補給がなければ戦えない、ということをきちんと描写することでしょう。ファーストガンダム第3話の『敵の補給艦を叩け!』は、ブライトの臨時艦長の一杯一杯ぶりを愛でる回ですが、戦場で補給を軽視する馬鹿はいないと教えられます(そして美人に冷たくされると変な快感を覚えると学習する)。あと、やはりガンダムで特筆すべき点は主人公が自身の思いとは別に、周囲の期待と、自身の生命を維持するために、殺戮マシーンと化していくことです。本来、軍と無関係だった主人公がガンダムに乗るということは、大量に人が死んだことの落とし前をつける側の人間になることを意味します。未視聴ですが、ガンダムXはこの点を真っ向からぶん殴ったと聞いています。噂だけで事実確認もせずに「そうらしい」とブログで書くのは卑怯で不誠実極まりない態度です。じゃ、じゃあ見るか。ガンダムX…。全39話。アマプラでは一話ごと(¥110)のレンタル商品、dアニメストアには在庫がないと、視聴するのに面倒が多いことが判明。数年来行ったことがないレンタルビデオ屋に行くか迷う。財布の中にあったTSUTAYAレンタルカードは有効期限切れと、そもそも店舗は存在しているのか。漫喫のカードも出てきた(同じ日に作っていた)が今これ役に立つのか? バンダイチャンネルで検索してみるか。初回登録無料特典とかないかな・・・。クレジットカードご登録案内お知らせの不備、と赤字でお詫びの文章がトップに掲載されている。ガンダムXはある。トロトロと情報だけを集めて行動できずにいます。アマプラの時代劇チャンネルを登録し、長七郎(里見浩太朗)と柳生宗冬(丹波哲郎)の長台詞シーンを見て満足して就寝したのは内緒です。

 作・久部緑郎、画・河合単、協力・石神秀幸、の布陣でビッグコミックスペリオールに連載されているらーめん再遊記(ならびに他2作品)は繰り返し読み返すたびに新しい発見があります。「ラーメンハゲ」のネットミームと化している芹沢のユカイツーカイなキャラは、登場人物たちに甚大な影響を与え続けています。わたしはプロレスにはほとんど興味はありませんが、ジャンルの栄枯盛衰にはかなり興味があります。わたしは馬鹿なのでひとつのことを延々と繰り返しニタニタしているといつの間にか流行が去っている(流行とは何ぞやとは今は考えない)ことがよくあります。らーめん再遊記を読んでいると流行り廃りの不思議さに思いを馳せずにはいられません。もし流行が波であるのなら、ショーハショーテン!のシュプレが立ち向かっている構図を想像します。第一波が最大というのは見た目だけの話で、単に知らなかったか目にしても気にもとめなかったか……。芹沢が忌み嫌う不倶戴天の敵、中華そば原理主義者も正直よく分からない存在(わたしは最初のシリーズであるラーメン発見伝はコミック3巻までのみ読了)で、芹沢がラーメン変人である最大の理由は「たかがラーメン」とラーメンを馬鹿にしながらその環境に(ある種の)特別感を持っている人間が世間で幅を利かせていることへの無計画なカウンターを人生を投げて始めてしまう馬鹿者だという点ですが、自分が頭に来ていると自覚し、抹殺対象を脳内で想定し、かつ自身の社会的成功を目論むというショッカーも真っ青な反社会的(非合法手段は取らない)人物なのが面白いところです。再遊記の4巻、第31杯を再読するとラーメン評論家・・・・・・というより病的なラオタである有栖氏がいい味を出していて、芹沢・宇崎の因縁を綺麗にまとめています。病的なほにゃにゃら、は最近のわたしの頭の中でリフレインしているワードで、大変な魅力を秘めているけど、近くには絶対にいてほしくない、こいつに見込まれたら人生終わりだ、という柳生宗冬みたいな存在です。捨て置くのは忍びないが、一線に出張るのは迷惑だから本当に勘弁してほしい。ジジイ同士で茶を啜ってあの世に行ってくれと願う存在(でも嫌いではない)。そして後世に爆弾を落としていく……。

 冬の寒さが和らぎスギ花粉と共に春がやってきました。好きな時に好きなだけ入浴ができたら(ピッカピカの浴場に張ったばかりのお湯がなみなみとたたえられていたら)大体の不平不満はお湯といっしょに流れていきそうです。もちろん花粉といっしょに。

 巷でアニメ映画『BLUE GIANT』が上映されているそうで、その販促か既刊コミックスが無料で読めるサービスが始まっています(全巻無料ではない)。寒い、ひもじい、眠い、と動かないと死ぬぞとせっつかれて行動を開始する人間からは、主人公の大は一言ではいえませんが、もてあます主人公ですね。間違いなくハングリーでありながら(世界一のジャズプレーヤーになりたいと単身行動している)芹沢と違ってヒネクレていないので・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 世界一はさておき、違いを認識できないのならあってもないのと同じことで、醤油・味噌・塩・トンコツといったラーメンの形式が理解できない、全部同じラーメンでしょ?と真顔で言われたら、ロボットはみんなガンダムだし、ちょんまげを付けていたら時代劇の人で、音楽が聞こえてきたらなんか音が鳴ってるね、と疲れている時の私みたいな人間になってしまう。ここで再遊記の1巻のことを思い返すと芹沢の無気力症候群の正体ですが、あれで「いまやラーメンの主流は何の枠にも囚われない自由な創作麺料理」だから、なんかつまらんな、となっていたら有栖さんだってハゲの首を絞めたくなるでしょう。踏み込むと、芹沢の言う「獅子身中の虫」発言も芹沢の立場を考えるとかなり危険なセリフで、「俺はそう思われている」と「奴らは正にそう」だ、では集団の中にいる個人として看過できる発言か判断が難しいところです。主流か傍流か、権威と実働力を鑑みて、普通は言わないですよね。

 踏み込んだついでにワクワクとはなんだ?と自問すると、それは何のためらいもなく娯楽を享受できる環境である、と思います。つまりラーメンを味わうことがワクワクなのではなく、味わう前の涎を垂れ流して(社会的自制心があれば脳内イメージで)いいの?いいの?オレ食べちゃうよ?がっついちゃうよ~と、脂・砂糖・苦味・ほっかほか・ビリビリ・しょっぱ!・なんじゃこれ?と混乱の極みにいる自分を誰に遠慮することもなく享受できる、許す好きにしろと誰憚らずに自分を好きにしてよいといえる環境(最終的なストッパーは人それぞれの心の中にいるはず)こそがワクワクなのではないかと。味覚の形成がされていく過程はとても想像することができないですが、期待値と絶望のy軸の落差は、自身の肉体的記憶に根差していることでしょう。さてどうするか。発見伝の4巻以降を読んでみるかな……。いやしかし、俺は、俺がおいしいと思う料理をお客がおいしいと思ってくれると、信じきることができなかった……。芹沢とゆとりの母、汐見ようこは境遇が少し似ているところがあって、それは芹沢が自身の渾身の作品である淡口らあめんをお客に理解してもらえなかったように、ようこの人生の結晶であろうヘルシーで美味しい料理(手間隙かけてます)をワクワクしない、間違っている!と娘のゆとりに言われてしまい、ショックを受け、少なからず頭に来た経験がある・・・ということです。まあ、汐見ようこ氏も目的のためには手段を選ばない(他人の行動を自発的に動いたように手練手管で仕向ける)のであまり同情はしません。

 シリーズ1作目である発見伝を購入して発刊された順番を無視して読んでいるのですが、芹沢の顔の血色が良さそうで登場するたびに笑えます。テキトーに読んでいるのでいつ芹沢が出てくるか(大体「クックックッ・・・・」と前コマでフリがくる)、わんこがご主人と散歩して幸せオーラを振りまいて、そのお裾分けをいただいている気分です。なんだとっ!

 根本的な話になるのですが、私はラーメンに大して興味はありません。だから発見伝、才遊記、再遊記、とラーメンの説明が入るページはふむふむなるほど「そうだったのか!」となにも分かっていないのに分かった気になっているだけです。つまり読んでいない。「実は(だから)こうだったんですよ」と言われて、えー本当ですかーすごいですー、とよいしょするのも真面目に考えれば何も聞いていないし何も考えていないのだから酷い話です。

 藤本が芹沢から受けた恩は、最終回を読み返すと(まあ人生は色々あるが)取りこぼさないようにしろ、チマチマした改良だけを見ていると本質を見失う。おまえは客にどんなラーメンを食ってもらいたいんだ、と大先輩風を吹かしているようにも見えます。そう考えるとラーメンハゲはかわい過ぎるんですけどね…。

 今日も今日とてらーめん再遊記の1巻を読んでいるのですが、今度はハイスペック醤油ラーメンが気になり始めました。いいなっ!ハイスペック醤油ラーメン。再遊記を既刊分まで読み、才遊記から発見伝へと話を遡って読んでみると、場末のラーメン屋で肉野菜炒めとギョーザで一杯やっていた芹沢がかなりどうかしていたとわかります。再遊記の4巻で板倉憎しから背脂チャッチャ系ラーメンも視界に入れる気がなかった芹沢が旨くも不味くもない醤油ラーメンを頻繁に食べに行くのは、どうにも理解できません。汐見説を取ると会社のお荷物になった現在の自分を直視しないために低レベル店で現実逃避をしていた……ことになります(その直後に有栖さんが言っていた必勝法を汐見がカマし芹沢の怒りは鎮火する)。汐見も、店の仕事で忙殺されている夏川も、芹沢がショボいラーメン屋でため息をついてビールを飲んでいる心境なんて想像する必要もないし、そもそもわかるはずがない。発見伝で繰り返し語られるラーメンスープの仕込みには手間がかかる、そして人手の足りない店舗では凝ったスープを作る余裕はない。小池さんと芹沢がニアミスするシーンは発見伝の中でもそうなかったと思いますが、小池さんがポカをやらかすのは自分の自信が揺らいでいる時で、逆に頼もしい時は藤本の相談に乗っている場合。これも発見伝で繰り返し言われることですが、ヒキの強いスープはお客を選ぶことがあるが店主がウマい思うラーメンを客は食べにきている。だから——だからなんだ。小池さんと芹沢の期せずしてのヘンテコ対決があればギャラリーの隅に私もいたいし、絶対にろくでもない感想を口走る自信が私にはあるので、逃げる足だけは常に用意しておきたいと思う。まあ、誤解しないでほしいんだが、私はあの二人の作るラーメンをバカにしてるわけじゃない。ただ自分が舌バカだとわかっているので、大量生産品であるスーパーの生ラーメン(二人分で200円くらいで売っているやつ)を自分で煮込んで満足して食べているから、きっとそれよりおいしいだろうなと真剣に考えているだけなんだ。で、私はどちらのラーメンを食べてよいのかな?

 先日、アマゾンで石神秀幸・著『ラーメン最強うんちく』(晋遊舎)を購入し時間が空いたときに読んでいます。初版発行は9年ほど前の本です。ラーメンを口にする機会は自主的にはスーパーでカップヌードル日清食品)を買って食べる以外はここ20年(もっとかもしれない)くらいなかったので、浦島太郎気分で読書しています。はじめてトンコツラーメンを食べたときの衝撃は脳髄に刻まれていますが、リピーターにはならなくとも、知人を連れて食べに行くくらいにはラーメンの存在を認識していました。25年くらい前のことです。本を購入したのは一週間ほど前でプライム店の新品本でした。・・・・・・・・・・・・いや、まてよ。仕事で都市圏に研修等で出かけた際に街の中華食堂でラーメンを注文したりした気もしてきた。ほとんど記憶に残っていない程度のことだけど。ああ。しょぼいラーメンを食べた記憶なら、わりと数珠繋ぎで思い出せる。なんでもよくなった。時間も惜しい。とりあえず何か口にしよう・・・という時に醤油ラーメンを注文したことはあった。化調とかなんにも知らずにモソモソ食べていました。「安上りで手っ取り早く」できるとはようこ先生の言ですが、それ以上でもそれ以下でもないだろうと食べていました。考えてみると、水や空気のように街中華が存在して、醤油ラーメンがある、それがどれだけ凄いことか普通すぎて考えられない。当たり前だと思っていることがそうではなかった、特に食に関してはここ最近から死ぬまでの間にちょっとした覚悟がいるのは不勉強と不健全のツケを払う形で確定している、のでしょう。漠然とは思っていましたが。

 芹沢を語る場合に外せるはずもないエピソード「スープが冷めた日」ですが、読んでいるとお寿司のネギトロで本物と偽物があり、偽物のほうが脂が乗ってうまい、と若い客が言うので本物の方が世間で肩身が狭くなっているんですよ…と寿司屋の大将がこぼす場面があります。お話としては本物志向を捨てない芹沢の理想論は敗北する、露骨なまでの振りですが私にはかなり耳の痛い話です。ここで城下ガレイなる魚を初めて知り、芹沢が白身魚に精通している(マニアである)と改めて知る怖い構成。ちなみに私はイカが大好きです。新鮮なイカを私に食わせろ。居酒屋でイカを注文して食べるとマスターに微妙な顔で見られていたことがありました。あれはなんだったんだ・・・。

 「食」は人間が生きていくうえで欠かすことのできない要素です。だから食に詳しいということは、それだけ生きていくことに幅ができるということです。芹沢が汐見ようこへ伝えた言葉、「ラーメンとは……」は、娘の生き方を他人に預ける母親として、敗北宣言としてこれ以上なかったんじゃないでしょうか。

 味覚のことを考えていると、甘味よりもしょっぱさ、醤油の味つけのことを考えるようになりました。納豆にかける調味料といえば、少し前までは100%醤油だったのですが今や納豆容器に入っている「たれ」ばかり使っています。醤油でもおいしく納豆をいただけるのですが、しょっぱさが勝ち過ぎるのであまり使わなくなりました。お刺身には醤油しか使いませんが、昔より食事の減塩を気にするようになったのでほんのちょっとだけつけて食べています。口の中に入れる食べ物に本物と偽物がある、などと考えたことは人生で一度もないですし、まして本物と偽物は何が違うのかと探求したいと思ったこともありません(傲慢だな)。再遊記1巻に深く強くかかってくる「本物」というワードは芹沢の喉に深く刺さった魚の骨みたいなもので、ある種の食べ物を本物のまがい物として認めなかったのは、1巻の芹沢の鬱屈していた気分の最たるものであり、広く人口に膾炙して親しまれた物を否定するのは、自分を根無し草と卑下する気にもなるでしょう。自信に溢れている時ならまだしも。

 ツイッターを眺めていると映画『天空の城ラピュタ』は公開当時はお客の入りがよくなかった・・・なぜか? という話題で盛り上がっていました。私の初見の感想は「音楽(劇伴)がメチャクチャスゴイ!!!」、でした。劇場ではなく、家の居間で録画した内容をステレオヘッドホンで何度も聞く、見るといった視聴です。ラピュタを体験する前にもそれなりに「ステレオスゴイ!」とおサルさんになっていましたが、ラピュタは別次元の凄さだったので相当に参っていました。敵要塞内でロボット兵が大暴れした挙句、パズーがシータを搔っ攫うシークエンスはあまりにイカれているので視聴中は人間を放棄していたでしょう。ドーラはアドレナリン出っぱなしですよね。奇襲作戦はゴリアテが動き出している時点でアウト。それでも作戦続行するのはパズーの妄想かもしれない塔のてっぺんにシータがいる!という情報だけが頼り・・・。全滅も想定できる作戦だというのに。

 ラピュタにたどり着き、シータとパズーが出会う園丁ロボットの歩く音にも心奪われました。むかーしのテレビのスピーカーでは高い音が再生されているのかよく聞こえなかったので、ヘッドホンで音を聞き取ろうとして美しい歩行音を発見したときは驚いたものです。友人に「知っているか」と鼻息あらく聞いてみたら「知ってる」と素っ気なく言われもしました。ラピュタを再視聴したいとネットで探してみると、ネット配信はなく、DVDソフトを買うか借りるかしないと視聴できないと判明。北斗の拳オープニング、ケンシロウの残像ダンスを椅子に座ったまま上半身で演じた後、映画館でD&Dの映画を見に行こうと思いました。前評判を聞く限りだとゲラゲラ笑えそうですからね。調べてみると最寄りの映画館では次の土日までに上映が終わることが判明。なら一番音響設備の良い映画館へ遠征してやるわいと今調べています・・・。

 (隣の県になら上映館はあったが、特に音響に凝った劇場ではないんだよなぁ・・・)

 まあ、映画『ダンジョンズ&ドラゴンズアウトローたちの誇り』ホームページにあるプロダクションノートを適当に読んで、ああこれは映画の前半部分はともかく、中盤からラストにかけては、名誉と金に目が眩んだ連中が自分の命を捨てる覚悟で冒険に挑む活劇物なんだなと思っちょります。ここで私的にひっかかるのが、おいそんなに簡単に一つしかない命を賭けの対象にしていいんか?という気持ちと、パーティーの中に最初から死にたがりがいたんじゃないの?という疑惑です(たぶん当たる)。こいつの出生と出自では希死念慮に囚われているだろ、というのと、太く短く生きると決めている連中がいて、楽しくやっていくためには目的が必要だから、先生の死にたい願望もセットで利用させてくれやという、寒いからそれも燃やそうという刹那主義で暖を取る連中の話ではないかと。「もったいぶる」を英語で訳すと何になるのか。そもそも日本語でもったいぶるといえば・・なんかヤンキーのイビリ台詞しか出てこないぞ。——映画を見てきました。素直に感想を書くならティーフリングのドリックはいいぞ。わたしも(あなたも)遠慮のない正論でズバッと切られましょう。領主に喧嘩を売る時点で(世間から見れば)札付きの悪ですが、パーティーに彼女がいると自分たちが良い冒険者だと思えます。まあ、1cp(銅貨)にもならない私怨による私闘なので、ドリックから見ればついでに一緒にいるだけのやさぐれパーティーでしかない。聖騎士の臨時加入がなければゼロに近い愛想値が下がり続けるのを止めることはできなかったでしょう。映画のプロダクションノートにもティーフリングは(基本)一匹狼と設定されているので、俗世間と隔絶している聖騎士とは互いに似た者同士で気にならない存在ではないでしょうか。ちなみにこの映画で知恵と勇気を振り絞って活躍しているのはフォージです(間違いない)。彼、エドと同じかそれ以下の戦闘力しかないのに、大してない胆力を奮い立たせて名誉と金と家族愛を手に入れようと奮戦しています。他人の迷惑を一切考慮しない悪党ですが、かつての仲間の死(に様)を悼む程度には共感する心性を持ち合わせており、まあ、ドリックと対面していたら「人間はクズ」と自説を強化し、ゼンクと相対すれば英雄の持つ道徳性を全開にする場面が見られ、エドガンは腰を抜かしたことでしょう。私の知っているアメリカのヒーローというとダイハードのジョン・マクレーンあたりなんですけど、これは脚本、監督つながりで『スパイダーマン ホームカミング』を見る流れだな・・・。

 悪役がいて、初めて主人公の善性が発揮される。とかく自分に都合の良い妄想しかしない私は、スカッとしたいという欲望を常に抱えています。そりゃヴィランだ。ここに大変な問題が存在し、それは悪役を設定すればするほど、そっちの方が魅力的になってしまい、主人公はただのボンクラではないかという事態が生まれるということです。能動的に己の欲望を自覚して、自身の幸せのために行動する。まあ、周囲の被害や迷惑は二の次なので必然的に悪役を担うことになるのですが、属する集団への利益貢献なぞ大して考えていない主人公では、ミニマムな善性しか発揮できません。鷹村と一歩をちょっと想像します。陣営の守護者・・・・・といえば聞こえはいいが、目的と手段がごっちゃになれば善性もなにもあったもんじゃあない。ヴィランの持つ攻性を主人公が受け持つ、(主人公は遅れてやってくる)ここでそこら中から構成を拾い集める動機と正義の味方が同族殺しを行う信念みたいなもの(トップ2の宇宙怪獣モドキがトップレスを叩くのと少し似ている)を足していくとひどい内輪もめのぐっだぐだなオチなしの陰惨な話が出来上がるという寸法です。

 『スパイダーマン:ホームカミング』はアマプラで視聴できます。ちびちびと見ています。スタークが美味しすぎるポジションにいますよね・・・。パーマンのバードマン的なとこにいる、でしょう? TRPGならGMです、よね? 笑いしかでない。

 映画D&Dのキモい感想を書けば当然ドリックの出番が、というよりパーティー内の男二人(残念ながらサイモンはカウントされない)の「何食えばこんな変人が出来るの?」とエドガンとゼンクを観察し、たまに噴き出しそうになるのをホルガに観察され、常にサイモンが気を揉んでいる場面を入れてほしい・・・というか、捏造して迂闊に口走りそうで怖い。観察による推論から作戦を考案し実行する。この映画での最終ミッションはエドガンの宿念である亡き妻を生き返らせることですが、考えるにホルガはこのダメ男のダメ願望になに一つ意見も注文もしている様子がないですね。なかったと思います。名誉・金・家族愛(?)。先立つものがあってこその立つ瀬だろう? とはエドガン、ホルガが共にパートナーに対してやらかしてしまった、離別のトリガーですが、おそらくエドガンはホルガに事情を話しているのでしょう。そう考えるとフォージの対エドガンへの心象が深淵の森すぎて意味不明です。近づきたくない。

 善い人が良い行いをするのは当たり前だろう? と、誰かが私に向かって話しかけてきたら、500億パーセントの確率でこいつ胡散臭え…と思うことでしょう。自分で書いた文章にツッコミを入れるのは野暮ですが、八方美人で口八丁手八丁のフォージと東京砂漠で残飯食べてそうなドリックだと好感度ゲージの下限突破は致死量のゲッター線を放出する勢いでフォージを嫌っていそうです。

 キモいキモいとキモいを連呼すれば、やたらとドリックのキャラクターを絡めて感想を書く私がキモい訳ですが、映画の後半、レッドウィザード戦を観ていたころはお尻が痛くなり集中力が本当に落ちていました。割と本気で休憩時間が欲しかった。

 我儘、我を通す、自分の都合を優先する、腕力でも知力でも道徳心でも発想力でも、他を圧倒できないのならそれ以外の方法を用いて目立つ。引け目と劣等感が心の友で常識の上に立っているのが自負であるのなら、それは常識を誰よりも把握し使役するのが最善と判断するのが妥当だろう・・・。

 ゴールデンウィークも終わりましたが、皆さんにひとつ考えてほしいお題があります。それは、かけがえのない体験と、ごくありふれた体験、の間にはなにか違いがあるのかということです。そりゃあるに決まっているだろう。近所のスーパーで買ったラーメンと、旅先で行列に並んで食べたラーメンとが同じであるはずがない。値段も違えば味も違う。食べる周囲の環境もまるで違うのだから、そもそも違いがあるのか? と疑問を持つ方がどうかしている。同じかどうか、違いがあるのか、普通か、特別か、大した価値はあるのかないのか。しかしこの疑問に答えなんてあるものなんですかね。

 アマゾンキンドルでダンドラ公式メイキングブックを購入しました(英語版です)。我がiPadの英和翻訳機能を駆使しての読書体験です。ありがとうアップル!便利なんてものじゃあない。スタッフインタビューをすらすら読めるなんて本当にうれしいよ!

 ゲッター線で人が殺せる、というのも面白い話で、そもそも観測できない電磁波なんて幽霊と同じで、居ると言えばいるし、居ないと言えばいない。納得できる殺陣とはなんだろうと、ここ数ヶ月ほどぼんやりしていましたが、幽霊が殺す武技、と書いて、存在しない機関による流体発電機による発現と読み、〇〇殺法てのはどうだろう(自重)。藤子・F・不二雄氏の『エスパー魔美』だと、主人公魔美のエスパー能力は相棒の高畑君のみぞ知る突然変異型能力で、学習や外部からの刺激によって得られる能力ではない。たま~に第三者に「こ、こいつエスパーだ!!」と魔美の秘密を知られそうになっても「人に言ったら(略)。また悪さをしたら(略)」とドスを効かせて恐怖体験を与えることで口を割らせないようにしている。ただし善人だと判断したときは「どうか体験したことは黙っていてください」とお願いしているので、すごいいい加減にやってますね。ここで映画D&Dエスパー魔美を俎上に載せると、私なんかだとキーラと高畑君を最重要人物だと思ってしまいますね。道理に外れた行いを良しとしない態度を持つ隣人、もちっと適当に言えば嫌われたくない好かれていたい相手。——なのに怠けていると小言を言われるのだから、ちょっと鬱陶しくもある。

 藤田和日郎先生のマンガ『うしおととら』に出てくる秋葉流というキャラクターは私も大好きなキャラで、その死にざまは単行本だったか、サンデー連載作だったか・・・Wikiで掲載~単行本発行年月を調べると、ほぼほぼサンデーの連載をリアルタイムで追っていました。読んでいた当時からやっぱりこうなったと思いました。意外だとは思いませんでした。秋葉流が所属する光覇明宗は彼自身の去就にほとんど影響を与えていないのが少し不満で(私が)、それは主人公のうしおが光覇明宗の歴史の中でも特殊な存在だと認めてしまっているようで、光覇明宗の歴史が軽い感じがします。そこまで特殊な人間っているものなのか?という秋葉流がヒネクレたど直球の疑問に、光覇はちっとも役に立っていません。猟師連中で狩りの段取りを相談しているのに皮算用の話を始めるアホは丁寧に退席してもらう他ない。もちろん狩りの対象は白面の者で皮算用は論功行賞のことです。全てを奪いきる(相手の子孫繁栄など微塵も許さない)根絶戦など正気の人間がやることではないし、相手の心情を少しでも想像すれば、自身にも多分にあるであろう同族嫌悪(陰の感情がやたらと濃いアレ)を克服するのは容易ではない。理解されないから後ろから刺されるパターンは消化不良になるので勘弁してほしい。まあ、知っているかうしお。オレは悪い人間なんだぜ!!、と啖呵を切られたら、とらでなくても呆れる。光覇明宗関係者でも呆れる。なにやってんだこいつ・・・。

 意外だと思う、という言い回しを、やっぱりこうならなかった、と口に出して言ってみると正直釈然とはしないのですが、物事の推移をなんとなく予想していて(こうなるといいなあと努力もしないで期待している場合に)思っていたフィナーレと違ったら、今までならなんかつまらん時間損したと思うだけでしたが、「やっぱりこうならなかった」を「ヘマした。スランプだぜ。でもまあいいか」と一人で言っていれば(変人だ)いいかもしれない。自分の欲望を隠し、世間には良心的な人物であると(己の正体を)隠し切る。悪役でこいつ救いようがないと呆れ、それでいて創作上の人物であれば、ある種の尊敬の念を抱いてしまうのが、欲望のスケールの大きさと自分を信じる度量の大きさ(この場合は世間から見られている己の人物像をそのまま自己の目指す姿と誤認できる正気ではないくせに正気を保持している面の皮の厚さのこと)が一般的な悪役と比べて一線を画している、物語の黒幕といえる人物です。ミカムラ博士とカッシュ博士が、辞書に載るくらいの典型例だと私は思っているのですけどね。私がミカムラ博士に惹かれて惹かれてどうしようもないのも、まあつまりそのあたりのどうしようもなさがホントにどうしようもないので、どうしようもなくいいよなあと悦にいっているだけなんです。なんのマンガだったか、己の悪行を棚に上げて「いいぞいいぞその通りだ。もっともっとがんばれもっと努力しろ。おまえの行く先には栄光が待っている」と若者をルンルン気分で煽りまくるアホがいたような…。

 マンガ『エスパー魔美』は再読すると思いがけない発見があるのですが、作中で散々擦られる佐倉十朗氏の絵画(まず誰も欲しがらない)を気にして読んでみると、これがまた最初に通読したときよりも面白く感じる要素があります。大前提として佐倉十朗は絵が売れることよりも絵を欲しいといってくれる人がいることが嬉しい!と娘の魔美に直言するような男で、もちろん金も欲しいのですが、一つの絵を複数人のバイヤーから欲しいと言われれば、相手の人となりをみて判断して売る(提示金額を度外視する傾向がある)、ロマンチストな本性をビジネスの鎧で守らない楽天家であるという、魔美の天真爛漫さは父親譲りなんだと読者に納得させる、作者からの提示が作品の冒頭からあるという点です。(ときに十朗は猛烈な片思いを独身時代の妻に寄せている。ついぞ想いは恐怖に打ち負けるかというその時、時空を超えた怪奇現象に襲われた。十朗も訳が分からなかったろうが、彼女の方がよっぽど意味不明であっただろう・・・)エスパー魔美1巻の作品構造として、エスパー能力で正義のヒロインとして大活躍し、周りからチヤホヤされたい魔美。もしもエスパーなんていたら気味が悪いという母。もしもエスパーだとしたら平穏な暮らしを守るためにひた隠すという父。そして勉強なんてしないで世の中の人々の役に立ちたいという魔美。このフォーマットは最終巻までずっと続きます。破綻することはありません。エスパー魔美は面白いですね。

 「チヤホヤされたい欲」はエスパー魔美全編を通じての裏テーマ・・・というか通奏低音として機能している感があります。魔美の愛犬コンポコ(合っているよなぁ…)がいじけるのは犬としての自尊心を傷つけられた場合であり、佐倉十朗が憤慨するのは自分が描いた絵を批判された場合。どちらにも共通しているのが、褒め讃えるならどうぞお構いなくやってくださいと、賞賛を受ける気は365日24時間いつでもいいですよと臨戦態勢であるということです。だからあんたらはヘコみやすいんだよ・・・。魔美で一番好きな話というと、ベタですが「サマードッグ」あたりかなと。この話とチヤホヤとはあまり関係がなさそうですが、まあ、犬をチヤホヤすると全力で愛情表現を返してくれるので犬っていいよね!という人間様のご都合と、高畑くんの理性でひねりだすクソ度胸にちょっと感激するので人間っていいよね!というその場の雰囲気でGO!みたいな痛快と感動に差はないという娯楽作品の醍醐味が味わえます。他者からの賞賛、他者からの評価を意識的に藤子氏が作中に描いているかを高畑和夫を中心に見てみると、学業の成績や趣味の野球、未知への探求である超能力への興味と、他人の目から見た高畑和夫の人物像にはあまり重きを置かない、第三者からの評価は参考程度にさせていただきますという態度が見てとれます。ゲームセンターに誘われた際に中学生だから入場できないと断るように、世間を斜めに見ているのではなく、世の中は優しく正しくあってほしいと真面目に考えているので暴力による言論封殺には身を挺して戦います。魔美がどじっ娘エスパーなのに対して高畑は非力凡人です。圧倒的ヒーロー性のなさは「学園暗黒地帯」の作中で遺憾なく発揮され、喧嘩自慢の応援団員に囲まれたときは魔美の助けがなければ無事では済まなかったでしょう。他者からの評価とは、平たく言えば多数からの理解、世間からの認知、権威からの賞賛と、なんと素晴らしいのでしょうというレッテルを貼られることです(逆もある)。エスパー魔美が雑誌掲載のマンガなので作中で魔美や高畑がベタベタに褒められるのは落とし穴に落とす前のフリでしかないと勘繰ってしまいますが、こと高畑は自己研磨の成果を他者評価に委ねない性格なので作中で褒められることは少ない。「学園暗黒地帯」では社会性のない暴力集団である応援団を糾弾し、暴力による報復弾圧を受けた後に学園教諭からの指導を仰ぐも隠ぺい工作により失敗し、最終的に高畑が一人で応援団を説得する…リンチの場に出向くというストーリーとなっています。オチはひょうろくだまな格好をした魔美が応援団の首魁をボコボコにして、面子丸潰れな応援団は瓦解するというものです。この首魁は後半のエピソードで再登場し、高畑の苦い独白を魔美は聞かされます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。自己の研鑽と他者からの評価。暴力が結果その人を良くしたかという高畑の苦い思い。ものすっごいきれいにお話が締まって終わるので、たいへん読後感のよいエピソードです。これは高畑の方が救われていますね。この善人め・・・。魔美が世界でただ一人のエスパー、かもしれないという孤独と恐怖に襲われないのも、いまさらですが高畑が身近にいてくれるからですよね。与太話として魔美の父親と母親もエスパーであり、実の娘にすらその事実を秘密にしている・・・と仮定すると、高畑は佐倉家に迷い込んだ(佐倉家の平穏を脅かす)反乱分子(仮)であり、常に監視対象となっているのですかね・・・・ってウソでーす。

 男には理屈抜きでかっこよさに平伏する状況というのがあり、もし異性のエロさと同時発生するという地獄極楽イベントがあれば、男ならプライドを取るはずだ。高畑でもきっとそうするだろう。ただし大衆性と嗜好は被ることもあれば外れることもあるので、時と場合による。日和るわけではない。本当に時と場合による。また、かっこよさは個人の持つ価値観だと思いたいが、現実では相対的な価値基準だと言わざるをえない。これはダサさ、醜さ、気持ち悪さで考えれば自明のことで、周りの人々が顔をしかめている中、平然と対応する人間は周りの人間の価値観を大きく揺さぶる。エスパー魔美のエピソード「凶銃ムラマサ」では精巧なモデルガンに魅了される高畑を見て、魔美はおもちゃの銃の何がよいのかと冷めた目で高畑を見る。外部からの視線で自己の価値観に羞恥を感じる高畑だが、なぜ銃が魅力的なのかを魔美に説明しようとはしなかった。もし、銃が持つ魅力を魔美に理解してもらおうとするなら高畑は何から説明を始めればよかったか。そして情理を尽くして説明し、やはり興味がないと言われた場合、高畑はどう思うだろうか。物事の一面だけから切り取ったかっこよさなど情報の一部でしかない。高畑がどうして銃はかっこよいのかを本気で説明をするには、銃の成り立ちや使用方法、改良の歴史、近代に入ってからの急激な進化と、魔美にとってゴミ同然の話を延々とすることになるだろう。他者の制圧をより効率的にこなすために進化した道具は、ある意味原始的な超能力者である魔美が超能力をより進化させるための試金石ともなるだろう。美しく魔を秘めているという点で両者は一致している。

 そういえば映画D&Dはいつごろネット配信が始まるのだろう。ブルーレイソフトもいいのだが、うちにはろくな再生機がないのでパッケージ作品を購入するのはためらいがある。DVDソフトなら適当に再生できるが、ならネット配信で十分だろうなあ。エスパー魔美のことばかり考えていると、あのお節介焼きのゼンクが脳裏をよぎる。ハーパーとして目を覚ましたようだな・・・。はあ。アニメ『アルドノア・ゼロ』のマグバレッジ艦長も相当にお人よしなので、溜めたストレスをゼンクに聞いてもらうといい……。

 物事に決着があるとして、それが人気の出ている連載マンガで一話完結型の日常ギャグマンガであるとすれば、決着とはどういったものだろうか。私は子供のころからマンガは小学館寄りの愛好者だったので、規定の枠内で始めて終えるという様式は比喩でもなんでもなく藤子氏のドラえもん単行本で訓練されたといえる。子供心にイカれたマンガだ。作者は頭のおかしい人なんだろうな。そしてこれを売っている小学館とこんな本を流通している大人の社会はだいぶ頭が狂っている。中学生になる前にはこんな世界から卒業しないと・・・と誰にも言わなかったが本気で思っていた。聞いてみたかった気はするが、頭のおかしい子供扱いをされるであろうと思ったので控えた。大人になった今になってもその考えは間違っていなかったと思うが、中学あたりから読んだ劇画調のマンガに対して心の防波堤として立派に機能した(頭のおかしい絵の主張に対しての心構えといった感じだ)。ちなみに少年サンデーは本屋に売っていたようだったが、買ったことはない。回し読みした記憶も今のところはない…。これは高校までの話です。

 考えてみると秋葉流にはごくわずかではありますが、生存ルートがあります。それは光覇明宗の頭であるお役目様と対談し、腹芸なしで白面を潰す方策を示す案です。ジエメイを名乗る白面の使いがいつ秋葉流と接触したかで無理筋となるのですが、生存ルートはこれしかないでしょう。理詰めで指し切りを回避する狂気の案なので乗る馬鹿はいないはずですが、藤田和日郎キャラだと狂気で理詰めは悪の華なので、ばえると思います。白面の持つ強大な妖気に流が個人で立ち向かえるはずもなく、光覇明宗の宗徒や修行僧からの支援が必須で、それはつまり、何百年も連綿と続けてきた対白面の者への対策を、オレが示した案の方がより効果的だからお前たちは(お役目様が口説き落とした)幹部たちの指示にしたがってくれ・・・という流れになるわけで、必然的に担ぎ上げられる杜綱、日輪、といった、まるで気の合わない同僚たちと白面とどう戦ってぶっ殺すかを議論して納得させる必要がある。まあ、つまり。誰よりもオレの攻撃は白面に通ると、実践と実証を兼ねたトンチキ道中編が始まるわけです。コミックは29巻~33巻まで所有しているのですが、残りの巻も手に入れてみようかのおう……。書くか。流が自分でも訳が分からないほど楽しくて楽しくて仕方がない、誰がなんと言ってもオレは楽しい。この楽しさをお前らにも分けてやりたいくらいだ。この尽きることのない楽しさを。もちろん白面、お前にもだ。遠慮なく食って死ね! と。ここでお役目様ですよ。唐突な回想場面が入り、流に真意を問いただすわけです。光覇明宗を裏切ると決心して、心変わりの後に白面を退治しようとここまで来た訳を。秋葉流生存ルートのキモは、なぜ生きたいのか、という秋葉流の人生観の決着(現時点での)の表明なので、なんとなく面白可笑しくつまらない人生を過ごしていればよかった自分の生き方を白面退治に捧げるのはなぜですか、という答えが知りたいわけです。ここですよ! 最高にうまいお茶と茶菓子を出すタイミングはッ!!! 喉のカラカラ具合は秋葉流の比ではないですからね。茶坊主の一世一代ですよ…。もしわたしが当番でたまたま二人いる茶坊主の一人だったら相方に盆を押し付けて逃亡しますね。そして後で謝る。いや~スマンあれはなかった許してくれ・・・

 (不躾ながら)対象に向かって「大して魅力的ではない」と念じてみると、意外と自分でも思ってもみなかった反応に気づくことがあります。わたしはアマノジャクなのでまあ大体は疑って物事を見ているのですが、最初から疑うまでもなくゴミカスだろこれは、とは思わずに「大して魅力的ではない」と自己に保留をかけて物事に接してみようとすると、意味もなく「いやそうとはいえない」と内なる声が発生するので結果的に「割と魅力的である。なぜならば・・・」と誉めモードに突入しやすいことにさっき気が付きました。また、大好きだった対象に上記の嫌がらせとしか思えない蔑侮の言葉を投げかけると、これまた不思議なのですが、まあそういう見方もあるかと胸に落ちるものがあります。人気がないから魅力がないのだという現実があったのだと納得できたのだと思います。

 田辺イエロウ氏の『BIRDMEN』を読んでいるのですが(なんとなく14巻から読み始めた)、氏の出世作である『結界師』は単行本の新刊が発売されるたびに買って読んでいました。今、ぼんやりと考えているのは結界が大切な物を守るために存在するのなら、他者がその大切な物になんら興味を示していない(別に害したいとも愛でたいとも思っていない)、本当に関心がない場合に結界による保護機能は働くのかという疑問です。『結界師』の作中でいえば、開祖間時守とその子供宙心丸、そしてなんとなく結界内にやってくる守美子の関係性ですね。嘘をついてでも守りたい対象と、我慢の限界まで耐え忍ぶ歯車としての人生・・・・を、渡すつもりはなくとも子子孫孫まで申し伝える伝言ゲームとしての緊張感。作中で割りを食うのは正守と時音か。身も蓋もない言い方をすれば『結界師』の作中では、人に好かれる人ほど苦労を背負い、人にあまり好かれない人ほど力を得てしまいやすい傾向があります。主人公の良守は人に好かれてパワー全開なのでズリィですよね。単純に考えれば、好きな人から期待される活躍をして喝采を浴びることは人生で最も幸福な瞬間のはずです。自分が望む活躍と、他者から期待される活躍に齟齬があればそう単純でもないかもですが。結界師の最終巻で良守は皆が望む活躍をして、結果、開祖時守をぶん殴るのですが、これはよくよく考えると結構な八つ当たり行為でして、真界と呼ばれる世界創造を果たした良守に母親の守美子も創造世界の主である宙心丸も「よくやった」と褒めているので、良守は「俺はよくやった」と自画自賛してよかったのですが、内心ではまったく面白くも可笑しくもなかったので、取りあえず時守を殴ったわけです。最終巻のひとつまえの巻の巻末読者コーナーのお題が笑顔であったように、終わりのころの話には笑顔が全般的に足りていないのですが私が言いたいことは良守は時音の自然な笑顔を引き出すには兄の正守にまだまだ及んでいないことに早く気がつけということです。足りないのは身長ではナイ…(ジャアナンダヨ)。時に良守がお役目を拒否した場合は守美子が独りで真界を創る予定でしたが、実力以前にお殿様のお好きなタイプを教えてくださいという時点で無理に決まっています。「大丈夫。なんでもおっしゃってください」と言われれば、じゃあ前と同じで・・・としか言えないでしょう。床屋か。妄想にツッコミを入れると真界の神髄は世界創造ではなく異界の遮断にあるので、例えば巨大隕石が地球を襲う場合に隕石に張り付いて真界を発動する(タイムリミットは考えない)と、隕石衝突による地球文明の滅亡を回避でき、かつ隕石の持つ質量と移動エネルギーを無尽蔵に術に回せるわけです(?)。まあとにかく、なかったことにできるという特大のメリットがあり、良守が術を日常生活で悪用しはじめると世界が終わってしまいます(精緻な分身が作れればいくらでもリスクを減らせる)。

 『溺れる者は藁をもつかむ』とはよく聞く成句ですが、これを対人関係で使われると、どんなに神妙で気の毒な様子だったとしても助けることはしないでしょう。藤子作品を読んで衝撃を受けたことは多々あるのですが、最近だとオバQことオバケのQ太郎を読んで驚きました。ここまで読者の気持ちに配慮して作品作りをしていたのか、と。わたしが海底鬼岩城で受けたショックは何だったんだよオイと、ちょっと指さして疑問を呈したい気分です。ゲラゲラ笑いたくてマンガを読んでいるので(本当は少し違う)アクセル踏みっぱなしなドラと比べると、Q太郎(新の方)はとんでもなく上品に感じます。ここで再遊記をひっぱり出して再読してみると、品とやらはともかく米倉、おまえ本当にかわいいなと再確認ができました。ジャマだからとオバQに邪険にされるドロンパですな。海底鬼岩城の序盤に挿入される母親たちのドラへの過剰な信頼はメタな話をすれば絶対に子供たちの日常は守られるという神話みたいなもので、まずのび太が疑問を呈し、そしてスネ夫が神話をぶっ壊すという暴挙に出ています。ひどい話だ。最近の藤子F作品のマイブームも、作品世界の崩壊の際(きわ)をウロウロする恐怖を感じて悦に入る私のひどい性癖の発露でしょう。

 『結界師』を最初から読み直してみると、本作のラスボスといえる裏会総帥の日永にわたしは肩入れをするタイプなのだと気が付きました。このキャラの解説をすると結界師本編のネタバレになるのですが、物語の縦軸は主人公良守と烏森との因縁の決着で、横軸は日永の超個人的な恨みによる復讐劇なんですね。前者にはヒロインの時音がすごい責任感で守ります!と無理をしまくり、後者には実質主人公の正守が最後まで面倒を見るという構成になっています。烏森の因縁も日永の復讐も、死にたいように死ねない奴が生きたいように生きようとする努力と達成感の物語となっており、主人公の良守は傍観者でしかありません。死にたいけど生きたいという人間(?)に結界師たちが寄り添う努力と根性の少年マンガなので、終わってみるとアレは一体なんだったんだ……と無道に愚痴をこぼす正守状態になります。若さが足りんよ。

 きっと誰かがどこかで書いているだろうことを私も書いてみますが、藤子F先生の作品群で主人公が明白な幸福への道筋を持っている場合(例。「大金が欲しい!」「美女と結婚したい!」「世界的な英雄になりたい!」等)と、そうでない場合(のび太を幸せにするにはどうすればよいのか 等)では、何かが決定的に違うはずです。Q太郎とドラえもんを並べて「おお。なんという感激!!」と・・・言わせてみれば、食い意地の張ったおばけとタヌキがいるだけですな。この二人は居候組なので大食漢でありながら常に家主に遠慮をしています。物語の主人公ではあるけれども異分子であることを常日頃から認識させられている存在で、たいへんな異能者ではあっても、日常を毀損する輩は放逐されると理解しています。ドモンとカッシュ博士の違いもそのへんで、ドモンは子供なのでいつも全力一生懸命ですが、カッシュ博士は遠慮は美徳だと理解しているので、興行と演技について一家言あるはずなんですよね。そんなカッシュに合いの手で皮肉の効いたジョークを(内心でビクビクしながら)ブッ刺してくるミカムラ博士を見てみたいです。私たちは対等な存在だとお互いを認め合うのは、Gガンの大切な魅力の一つですが時と場合によっては劇薬に転じます。ミカムラがカッシュにシャイニングの秘密を打ち明けたように。ルールのある見世物としての戦争にミカムラは真面目に取り組み、カッシュは巨体と耐久性が売りのゲテモノMFを作るわけですが、アルティメットガンダムは大会期間中に地球上を逃げ回り続け、本戦までサバイブできればいいコンセプトのMFです。戦って負けたら馬鹿をみるので敵が追ってこれない地中深くまで潜り高速移動でひたすら逃げる。誰からも嘲笑されるガンダムです。Gガン世界だとこれが正解なんだよと思ったりもしますけど。なおアルティメットGはロールアウト直前にミカムラ・ウルベ一派に急襲され正規の運用は一度として行われていないので、先に書いたGF大会期間中の運用方法はすべてわたしの妄想です。

 結界師、Gガン、らーめん再遊記(才遊記)と作品を斜め読みしていると、敵方の行く末に執着して作品を読んでいる気がしてきました。ドラゴンボールが顕著な例ですが敵方は手を替え品をかえ、読者が飽きないよう自在に変化して殺されます。ベジータの例だけでもクリリンが持つ日本刀で背後からグサリ(未遂)、恐怖と憎悪で錯乱しながら虫ケラだと思っていたカカロットに復讐の完遂を懇願して死亡、あれやこれやあって、最終ラスボスを道連れにして自害(失敗)、とバリエーションに富んでいます。楽しくなければ死ぬ価値はない、と贅沢な欲望を口にしてしまいそうです。結界師の笑顔が足りない問題も、根本の所はこの世に未練を残したまま死んでしまうとあの世で笑うことができないという問題にひっかかりそうで、無道がワキワキしながら笑顔満面(顔が多いと文句をいうな)で人々を悪の道に誘いそう。まあ、もっと人生を楽しめ、という先達のありがた~い教えを気軽に垂れる背後霊なので、害はあるはずもない。楽しさの共有という観点で少年マンガを読み直してみると、おそらく何もかもが上手くいかなくなると予想します。楽しさ、というものは一人でタオルケットにくるまって妄想している分には毒にも薬にもなりませんが、いざ現実に持ち込もうとすると様々な課題が見えてくるはずです。結界師ならケーキでできた城を作る! Gガンなら幸せな家族を取り戻す! らーめん再遊記シリーズ(少年マンガ?)ならすごいラーメンで世間をあっと言わせる! などです。ドモンの場合は楽しさの共有という他者視点はほぼないですね。正守が主人公であると仮定するのなら、「得体の知れないルールに縛られるのはまっぴらご免だ!!」ですかね(別に楽しくない)。端的に言って「独立したい」という野望なので、上の人間からやたら可愛がられるのは納得できます。そのくせルールを遵守することに実は愛着があるので、プロスポーツ団体の経営に適正があるはずです。ゴルフなんてどうですかね。

 競い合わなければ上達する必要もないのは真理で、より上手く、という手腕を平時において不満なく発揮し、有事において遺憾なく発揮できるのは理想です。訓練と練習で何が違うのかと考えると、辞書で言葉を引けば強制されるか自主的に始めるかの違いだと分かりますが、そもそも強制されなければ自主的に練習を始める人はそういないのではないか。なんだったか、オーダーメイドの商品に憧れを眩しさを感じてしまうと、マスプロ製品への愛着が薄れるのかという疑問と似ている。大量生産されていることに安心と信頼を感じているのに、職人の手間隙をかけた仕事に関心を持つのは矛盾した感情のような気がする。とまれこの話題は料理と相性がバツグンにいい。生きるか死ぬか、食うか喰われるか、塩とコショウで煮るか焼くか、野菜も摂取すると健康にいいぞと。そして火と水ですが、休日の朝というあっぱっぱーな精神状況では「きみィ火と水をガスコンロのつまみをひねるように、蛇口の取っ手を回せば水がジャージャーと出てくるように」と思っていないかい!!? 道具は貸しているのだからいつか必ず返せよ!無料じゃあないんだ。無料ではない。

 コナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズを読み始めたのですが、ページをめくる手が止まらないほど面白いです。ホームズは人格がちょっと破綻していて、紳士面をしていますが根っこの所は「この世から私の興味を引く事件がなくなるなら、そんな世界は滅んでしまえ」とワトソンに毒づく趣味人なのが面白い所です。ワトソンは妻帯者で常識人で名士であります。 考えてみるとホームズの怒りの沸点がどこにあるのかは興味ある命題である気がします。退屈を強制する輩は抹殺するに相応しい対象と思われますが、ここで退屈とはなんだ?と疑問を呈すれば、なかなか楽しいシンキングタイムになります。これは宿敵と設定されているモリアーティの人物評そのものに関わってくるはずで、ワトソンから見たホームズとモリアーティは宮崎駿が作るラピュタと唐傘連みたいな関係で、愉快な隣人と理解可能な本当につまらない組織(ただし怖い)といったところか。欲望を理詰めで煮詰めるのがモリアーティで、快楽を理詰めで構築したがるHENTAIがホームズ。湿気が多く温暖というより熱帯な日本では持て余す阿呆どもで、そのままでは日本上陸は遠慮してもらいたいですね…。まったく関係ない話ですが、人生で一度はアメリカで本物のショープロレスを見てみたいと思っています。イギリスに行ってみたいとは1ミリも思いませんが、イギリスイギリス・・・時計塔でも見て白身魚のフライでもパクつけば観光欲が満たされそう。油で揚げて閉じ込める。そして腹持ちはもちろん、長期の常温保存が可能となればインスタントラーメンも現地で食べてみたいものだ。UKロックスターはクズばかりとどこかで聞き及んでいますが、ボヘミアの醜聞を読んで一番引き込まれるのはホームズがガラの悪い知人友人を金で集めて人の家の前でケンカ騒ぎを起こし、その後に火のついた発炎筒を窓に投げ入れて火事騒ぎを起こす場面です。クズ過ぎるのですが、読んでいて本当に面白いのです。発案するホームズは弁護のしようがないですし、共犯関係を求められたワトソンも「大義名分があるならしよう」と、上流階級の人間が持つ鼻持ちならなさを感じます——が、面白いのですよね。ボヘミアの醜聞赤毛組合の短編二話を読んだだけですが、ホームズとワトソンのしようもない関係は十分に伝わりました。赤毛組合で依頼人の話を聞いて、我慢できずに爆笑する二人はなかなか酷く、そんな二人を好きになりました。写真を撮っておきたいくらいです。実は赤毛組合を読む前に本作の決定的なネタバレを踏んでしまい読書中は答え合わせをしているような気分だったのですが、読み終わって本を放っておくとこの短編がどんどん面白くなっていきました。劇中の登場人物である赤毛依頼人ことジェイベス・ウィルスン氏が天啓を引き連れてホームズのアパートにやってきたからです。シャーロックホームズシリーズの序盤の序盤で決めつけるのは良くないですが、ウィルスンさんほどユニークな依頼人はそういないでしょう? ホームズが日々求めている奇妙奇天烈な怪事件(とても笑える)を神がかり的タイミングで持ってくるのですから。ワトソン来いワトソン来いと、例の両手の指を山の様につき合わせるポーズでホームズが念じていたこと疑う余地がありません。ホームズは女嫌いで通っているとボヘミアの醜聞の冒頭でワトソンが書いていますが、人間関係のトラブルが事件の起因であり、それが母娘関係であった場合には目に見えてホームズのやる気がなくなることが予想されます。他所でやれよと言いそうになるのをワトソンが察してフォローしたことは何度かあったのではないでしょうか。与えられた能力(ギフテッド)を趣味的に使うのはワトソンから見たホームズの世界そのものといえるでしょう。好ましい世界というよりも美しい世界を彼は見据えているようだという珍獣を保護する観察人のようです。

 英国グラナダTV製作のシャーロックホームズのドラマの第一話をアマプラで観ました。何度か視聴して小説とドラマの違いで気になった点は大きく二つ。一つはアイリーン・アドラーとホームズの接点が丁寧に描写されていたこと。二つ目はホームズが急場をしのぐ為に用意した群衆が想像を超えていたことです。規模・質ともに私の想像を超えていました。用意できる時間を考えても、群衆に与えた役割を考えても、よくこの段取りを実行できたなと驚くほかありません。ホームズの茶目っ気は手の込んだ悪戯を正当に評価できる人物に対しての称賛とセットになっているようで、ワトソンにアイリーン・アドラーの話を振るのも遠回しに他者を誉めている(ホームズの機嫌がよい)のではないかと思います。ここで唐突にマンガのガイバーの話をしますが、この世に3つしか存在しないユニット・Gは物語の根幹です。熱心な読者なら一度は想像するであろう殖装者がユニットを重ねがけした場合はどうなるのか? という疑問を考えてみたいと思います。普通に考えればコントロールメタルが互いを感知して、強殖生物はユニットに戻される、何も起こらないはずです。制御装置は強殖生物を自在に制御し、強殖生物は欲望のまま捕食する行為を制御装置によって阻害されストレスを溜めつづけます。私は腰抜けなのでそのストレスとやらはガイバーの造形熱に転化されているとしてしまいますが、そもそもガイバーはなんの想定もなく生まれた規格外品なのでユニットの重ねがけが結果どうなるかなんて誰も知らないはずなのです。神も仏も畏れぬ不埒者がいるとすれば、己の興味を満たす為に苦労を厭わず行動し、対象に自分以上の趣味人としての矜持を見せつけてほしい欲望を隠し持っている人物ではないでしょうか。

 グラナダ版ホームズを連休中にゆっくり見ているのですが、ホームズを演じるジェレミー・ブレッドの奇人ぶりが見ていて新鮮で、小説を読む、グラナダ版ドラマを見る、また小説を読む、の幸せスパイラル状態となり、もっと窮地に追い込まれたホームズを持ってこいと末期のクズ人間になりつつあります。How absurdly simple! 今夜中にクモオーグ撃破で止まっているシン・仮面ライダーを最後まで観よう。緑川博士が死亡し彼の苦悩は奇麗さっぱり触れられない(触れるとたぶんルリ子が本郷にキレる)と確信していますが、迷惑過ぎる隣人は人生のエッセンスなので、燃やさずにバッグに叩き込んでいる父の日記をいつか本郷に投げつけてほしいですね。死にゲーと覚えゲーと忘れ得ぬ女性、ときて緑川博士の挙動不審っぷりにその娘ルリ子が言う仮想世界っぽい理想郷と面白ワードが揃ってしまったので、悪夢を見てうなされました。自分で想定した死亡ルールで何度も死んで、死んでやり直し生き抜くたびに世界ルールが追加公開される鬼畜仕様です。クローズドがオープンになっていくのが即死ルールのクリアといっしょなので(そしてわざと忘れやすいように邪魔くさいフローチャートになっている)麻薬的快感がセットという廃人育成ゲームです。マッドで天才で純情と三点揃った博士は封印するべき。ホームズのわざと危ない橋を渡りたがり芝居がかった演出を徹夜明けでも敢行する変人ぶりも改めて見直すとスゴイですね。付きあうハドソン夫人もなかなか堂に入っています(「海軍条約事件」)。この事件でホームズがワトソン、フェルプスにぼやいたのは深夜の屋外での見張りはほとほと疲れるということでした。ワトソンつっこめ。なんだ、膨大な手数を省くために君が疲れているじゃないか、と。伊達と酔狂を愛する友人だと知っているので野暮なことは言わないのかもしれません。

 そして急ぎ次の短編をほいほいと読み、グラナダ版ドラマを見ると問題作に突き当たりました。製作スタッフのワトソンへの人物評価が大きく揺らぎかねない「美しき自転車乗り」です。依頼人、ヴァイオレット・スミス嬢は正体不明のストーカーに悩まされており、そのストーカー男の正体と目的が知りたい(不快だが恐怖を感じているわけではない)。スミス嬢の変に凄いところは自分でストーカーの正体を暴けるならそれでいい(実際にストーカーを待ち伏せしたが失敗している)と達観していることです。また、25年間音信不通だった叔父の知り合いが急に現れ、急死した叔父から妹(?)とその家族の生活の面倒を見てほしいと頼まれたので、私たちを信用して頼ってくれないかと言われている(怪しい)。資産は人並み以上にあると言い、実際に立派な邸宅と申し分のない女性のハウスキーパー(イギリスでは良家で雇う家事手伝いは、その家の格に合うしかるべき良家から紹介された者を雇う。つまり自称叔父の知り合いは怪しいが信用できる紳士)がいて、10歳になる娘さんのピアノ教師を好条件で頼まれたので週一回でアルバイトをしている。ただしもう一人いる叔父の知り合いは下品で粗野な乱暴者で、恐怖と嫌悪を感じている。この奇妙な私の不安を解消してください、との依頼でした。ホームズは依頼を受け、依頼人の不安はそっちのけで疑問点だけをワトソンに告げ、独自の調査でよいので情報を集めてきてくれ、私は今、忙しいので全部まかせる。ただし、独自解決を図るのはNGだ。スマートにいこうと丸投げします。(※訂正あり。スミス嬢は邸宅に住み込みで働いており、週一回、母親の顔を見に家へ帰っている)毛が三本足りない、とは五ェ門がルパンを評して言った遠慮のない誉め言葉ですが、ルパンと五ェ門、ホームズとワトソン、この二組の決定的な違いは最終判断は己で決めるという決断能力の有無です。見放すかどうかは私が決めてお前次第だと、言えば喧嘩になるので言わないだけ(五ェ門は短気なので言ってそう)。

 「海軍条約事件」の名シーンは前述した事件解決パートの他に、薔薇の花を片手にホームズが神について語るシーン(後世でホームズの活躍を知る我々は、白目をむいて話を聞いていただろうワトソンにも感謝しなければならない)があります。この短編を読み終わった後にもう一度読み返すとこの場面のホームズは周囲の人間に対して韜晦をしていたと明らかになるのですが、問題なのは、己の有能さを押し隠すために神の名と全能への感謝を口にしながら、己に酔っているということです。最後のおいしい料理ですよバーン!まで、なんとなく絵図面を引いていた可能性があります。他者の苦悩は真実の追求の前には塵芥に等しい、とまではいえませんが、美の創造は神がこの世に与えたもうた最高の芸術だよワトソン、と本気で思っていますね。ロンドンへ帰る列車内でお世辞にも美しいと言えない街並みを「美しく、そして素晴らしい」とワトソンへ語るシャーロック・ホームズ(残念ながらドラマ化はない)は、他人に迷惑をかけないなら、いやそれでも、外に出しては駄目な人間だと思わずにはいられない。不衛生で汚れた街並みを見て、美の創造に思いを馳せる彼は同時に精神が泥沼に沈んだ依頼人おたまじゃくしのフェルプスを救い出そうと本気で考えている訳で・・・・・・・・・。さすがのジョン・H・ワトソンでもホームズを独りにはできない(もとより自分の同窓の友人の危機である)。微力ながら最大のサポートを尽くす覚悟だろうと思いますよ。そして実際フェルプスの体調を常に気遣い、フェルプスをロンドンまで連れ出そうとするホームズに対して医者としての意見も差し挟むことをしない。ホームズの言動に驚き、伝記作家としてイギリス中にその名を知られつつあるワトソンにフェルプスは質問をする。ホームズさんは何を考えているんだ、と。ワトソンは答える。

「ぼくはね、彼とのつきあいが長いからわかるんだ。——あの男がなにかれっきとした理由もなしに行動することなんて、ぜったいにないんだってことを」

創元推理文庫 深町眞理子訳 「回想のシャーロック・ホームズ」より)

 グラナダ版のドラマと、シャーロック・ホームズシリーズの原作短編が発表された順番は異なっており、当然ホームズが行方知れずとなる「最後の事件」までのシャッフル具合も異なっている。上記ワトソンのセリフも事実上の最終話だった(はずの)「最後の事件」の前日譚としてコナン・ドイルは執筆していたので、ホームズが薔薇を見て神の御業にうっとりするのも、ワトソンのホームズへの信頼度が上限まで達しているのも、なんら変なことではないのだ(無理だ)。ネットで検索をして調べてみると、「美しき自転車乗り」は放送順は4話目であるが、撮影に入ったのはこの話からなのだそうです。なんてこった。「ボヘミアの醜聞」ではジェレミーのホームズとデビッド・バーク演じるワトソンの関係にはほとんど関心が向かなかったのですが(二人の関係が自然であったし)、思えばアイリーン・アドラーがホームズに言った、

 Goodnight, Mr. Sherlock Holmes!

のシーンでワトソンの表情を追ってみようとも思わなかったが、あらためて視聴してみると・・・・・

 and  Watson.

アイリーンがワトソンにまで挨拶をしていた(小声で)。当のワトソンは聞こえていなかったようですが。ホームズには聞こえていたのでしょうか。美は与えられるものではなく、見出すものなのだ。我らが女王が世界にそのお姿を見せつけるのでなく、自らをお見つけになったように・・・。面倒くさい熱狂的な女王のファンより。

 ホームズの面倒くささは、動機の面では関心がうっすーいのに、なぜ誰にも(犯行の痕跡が)見つからないのか、いや、どうして誰の目にも入らないのか、という価値の分からん奴は紳士ではない(ほぼ人間ではない)という独断的で独善的なイカレ野郎だというところです。自覚はさすがにあるでしょう。

 「笑いには射程があり、その距離が近ければ近いほど、ネタの強度は身内に振ってよい」とはショーハショーテン1巻で畦道が言っていた、邪道な必勝法です。なぜ邪道かというとネタは苦労して産み出すのに対し、射程はある程度まで任意に設定が可能だからです。(ショーハショーテン最新刊の新ライバルキャラである絶サンはわざとその点を突いている。たぶん)これは英国紳士のジョークセンスにも懸かってくるであろう問題点で、そして畦道の果てしない物語の終着点でもあると思います。今のキャラ関係でいうと、ガラ靴はその射程の調整不利を承知で挑んでいるチャレンジャーであり、畦道と親和性がたいへん高く、すでにフラグが立っています。適当に書いたのですが、1巻を読み直してみると「足りないものを教えてください」とわざとやっているのかというくらい親子で似たことをしています。金を払ってプロに聞けば(養成学校に入学して卒業して事務所に所属する段取りを踏めば)いいのではないか? 親御さんもきっと安心するだろうと思います。畦道(父)の影響が、なんと大きいことか・・・。「背の曲がった男」はグラナダ版では第5話。小説発表順だと20番目。浮浪者の体でアジアから来た素性の分からぬ肢体不自由な男、と全部盛りの不審者が主人公ですがその彼を一目で見抜くのがヒロインのバークリー夫人、旧名ナンシー・デヴォイ。小説を読んでからグラナダ版を見るのですが、プロットは何一つ変えてなく、ワトソン周りが賑やかに変更されていました。女性の気配がこれでもかと剝ぎ取られ、陸軍連隊のスキャンダルに敢然と立ち向かうワトソン。ホームズが乗り気になる要素が一つもなく、連隊長の浮気による刃傷沙汰だろうと目されている事件の解決に乗り出します。結論から言えば事件ではなくただの事故だったというホームズの出番はほとんどない話なのですが、イギリスによるインド植民地支配とインド独立の騒乱のさなかに起きる男女三人の愛憎劇となっており、ホームズ番外編といえるお話です。連隊長バークリー大佐の邸宅内の様子、従卒やメイドの訓練された動き、教会での恵まれない人々への施し、兵隊酒場での喧噪、30年前の思い出だけを胸に故郷で死ぬために帰ってきた男、とホームズ譚である必然性はあまりないかもしれません。ホームズが言うところの、目的がない犯行ほど難しい事件はない、を体現しています。奪われたのだから取り戻せ自分の手で!とは私が中学生のころに刷り込まれた行動原理ですが、人間には都合というものがあるのだから核戦争後の無法地帯でもない限り、ある程度は分別が必要です。ワトソンも劇中で言っていました。戦争から帰ってきた兵士がなんの脈絡もなくふさぎ込む症例がある、と。

 身も蓋もない比喩だなとグラナダ版を見終わって思いました。愛しい女性を戦争(と同僚)から奪われた「背の曲がった男」と、ドラマ本編中では女性遍歴も愛しい妻とも会う機会を奪われた「背筋を伸ばした男」。あの酒場の喧噪は青年時のワトソンの記憶そのものでしょう。それとも軍医様はあんな酒場には出入りしないのでしょうか。ワトソンとその奥方に、遠慮をしているつもりでまったく遠慮していないホームズは見られないわけで、シャーロック・ホームズファンからすれば大変な損失です。What do you say,Holmes? 汎用性が高そうなセリフだな……。ちなみにグラナダ版、小説内でホームズに対しはっきりと侮り訝しむ態度をとった人物はスコットランドヤードの刑事フォーブズだけです。そのうちレストレード警部が出てくるのでしょう。デビッド・バークのワトソンとのツーショットが楽しみです。日本語字幕、英語音声で視聴した後に日本語吹き替えで聞いてみると驚きの展開が・・・! バークリー大佐の声に聞き覚えがありました。「茶? 茶だと? こんな時間に茶か!」(いぇ~ぃ)

 総じてバークリー邸の使用人たちはバークリー大佐よりもバークリー夫人、奥方を敬う傾向があります。単純に大佐が嫌われ者なのか、婿養子同然の結婚だったので下賤な生まれを内心で軽蔑されているのか、理由は不明です。短い登場シーンだけを見てもバークリー夫人の上流階級の女性としての立ち振る舞いは完璧で、大佐が自分の妻に憧れを抱き、同時に浮気を常に疑っているという態度があからさまで、そのあたりが女性たちから軽んじられる理由なのかもしれません。

 Jane,is that you?

 (Omitted)

 Am I a pathetic man?

 Ye… No,sir.

 Really??

 Not to my knowledge,sir.

 か~ら~の、

 Oh,how could you do such a thing,it was evil!

 愛する妻からのすっごい罵倒。メイドのジェーンは必死でドアをノックしていたので聞こえていなかったようだ(ホントに?)。いや、ホームズに説明していたか。臆病者(coward)と言っていました、と。彼女の発言に真意があるとすれば、夫のバークリー大佐を非難をした事実はあれ、否定はしていません、と女主人を守ろうとしたのでしょうか。吹き替えを担当した榊原良子さんがジェーンは何を思ってホームズに嘘をついていたのかを書いてあるインタビュー記事があればなあ。正直、この悪魔! からのデービット連呼は場合によってはホームズの聖書への連想を早めたかもしれず、いや、そこまで気を回すかはなんともいえないか・・・。まあこの話の感想をまとめれば、大木民夫さん声の館主人が部屋の呼び鈴を鳴らすとドアをノックしてから「なにかご用でしょうか?」とメイドが用を聞きにきてくれる環境だということです。意味もなく何度でも呼び鈴を鳴らすね、オレは! ブチ殺すぞ…とメイドから言われる直前までチャレンジするぜ!(従卒が付いているのだから、そちらに殺意が飛び火する可能性を忘れていた・・・)

 夫が妻の社会奉仕活動を煙たがるのはヴィクトリア朝時代の上流階級では普通のことだったのでしょうか。ナンシー(バークレー夫人)が夫に激昂した最大の理由はかつての恋人を罠にかけて殺そうとした事実もありますが、彼女の夫へ責め立てる様子を見ているとヘンリー・ウッドの名誉を任務の失敗という汚辱にまみれさせることで原隊への復帰を阻止する意図があったのではないかと想像します。紳士なんて冗談じゃない。裏切り者の卑怯者。彼の献身を己の欲で汚した背信者。それがあなただ、というナンシーの怒りです。

 女性の怒り、といえばホームズの無神経な一言でナンシーの友人であるモリスン嬢を怒らせていました。「背の曲がった男」とナンシーが出会ったことを秘密にするという約束を破らせるために、「このままではバークレー夫人は夫を殺害した重要容疑で被告席に立つことになる」「この事件の事実の一端をあなたが握っていると、ぼくは確信している。彼女のために事実を話してください」と友人の危機を救うために約束破りを唆したうえで、「——なるほど。お話いただきありがとうございます。このことは警察に話しましたか?」と言って、モリスン嬢を怒らせたのです。ワトソンが代わりに謝りましたが、海軍条約事件の薔薇の時といい、事件解決の謎解きに没入するとホームズは高い確率で依頼人周りの女性を怒らせますね。

 シャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルがゴリゴリの愛国者であったことは彼の伝記を調べるとすぐに記述が出てきますが、ではシャーロックが大英帝国に忠誠を誓う紳士であったかというと、相棒のワトソンから見ても国際政治には「きわめて薄弱」と太鼓判を押されているので、作者のドイルからすれば鼻で笑うほどの社会不適合者として彼の活躍を書いていたのかもしれません。これはワトソン≒ドイル説の亜流の端っこみたいな奴ですね。社会不適合者、稚気を感じる無職っぽい人間、エキセントリックなトリックスター。まだ未読ですが、「最後の事件」の展開はワトソンに心労からくる死を選ばせるほどワトソンいじめな話になりそうです。ガイバーにおける、瑞紀と哲郎が晶のことを死ぬほど心配している問題と構造はまったく一緒です。晶はいっちゃあなんですが村上が出てくると(晶のことを心配している)人の話を聞かないですよね。一方通行の関係でありながら互いに決着を望んでいるのは、推理小説の作家と読者、ロンドン悪の秘密結社のボスとホームズ、マーレ戦士団と調査兵団、アルカンフェル一党とガイバー一味といったところですか。一つめと最後は別に仲が悪いわけではない。腹の探り合いをして笑顔で接しているだけです。緊張関係が続くと疲れるのでアイドルはやっぱり必須であると思われます……。

 人の話を聞け、といえば『進撃の巨人』主人公エレンが一大決心をしたきっかけである「本当にガッカリした」事件ですが、そもそも親友アルミンがエレンを煽りまくった(「壁」を破壊することはエレンの持って生まれた衝動だが、壁の向こうにボーナスステージがあると煽ったのはアルミンである)結果、あの騒動が起きたので、エレンのあんまりな告白を聞いた後にアルミンは自分の夢をエレンに聞かせたことが「地鳴らし」が起きた要因だと知ったわけです。エレンは自分の発言がアルミンに地獄の覚悟を促すきっかけになることを自覚するべき。コミック最終巻はまだ読んでいないので、NHKのアニメを見てから読みたいと思います。ガイバーもそうですけど、あんな小さな身体に小型核攻撃なみのエネルギーを封じておく超大型はおかしい。咢と超大型と車力が悪魔合体すると永遠に破壊活動ができそう。ライナーは死ぬ。

 グラナダ版ホームズを見ていると、登場人物たちの行動が日本人であるわたしから見て「恥」についてどう考えているのだろうと疑問に思います。特にボヘミアの醜聞。形骸化している・・・というか、得体の知れないマナーとして英国紳士を支配している紳士らしさとは何かということです。マーレがイギリスでエレンがベイカー街をうろつき歩き悪ガキどもに因縁つけられて口を開くとよそ者とバレるのでコインでもぶん投げるかと思案しているところにホームズ&ワトソンが通りかかったとしましょう。ホームズに見つかるのは致命的な運の悪さですが、スタンド使いよろしく変人は変人を呼ぶので運命というやつでしょう。またその話か、もう飽きた、と言われるでしょうが、自身を見つめて自分を笑う時にその距離間をどう保つかは誰もが無意識に間合いを取っているはずです。普通、自分の努力したことを笑うことはしないはずですが、他人の努力は平気で笑ったりしますよね。自分の目で見た様子と、同じ場所同じ時間で写真を撮った映像では印象がガラリと変わるのはよくあることで、部屋が散らかっている整理整頓ができていないことを写真で見て教えられるのは、その典型的な例といえるでしょう。イタタ・・。よく探偵小説は人の暗部を白日の下に晒す悪趣味な作品だと陰口を言われますが、欲と使命感(と所属意識)でもはや立ち行かない状況を理路整然と説明する空気読めない奴は探偵をおいて他にいません。俺の近くに来るな。 こと殺人となると、それが犯罪なんだと社会が認めるのなら、見つめ解きほぐして元に戻してあげるのは社会の医者の仕事なんですかね。劣等感と欲にまみれた人間にはほとんど天敵なので、太っている人に「食べ過ぎですね。(以下親切な助言が続く)」と説明するのは危険だし、変えようのない事実にメスを入れようとするのは越権行為ですぜ。町奉行所の与力と同心が寺社奉行所の管轄に探りを入れるようなもので、譜代の殿様の顔に泥を塗る気があるのならやるのでしょうが、そんな馬鹿はいない。呪術廻戦で出てくる反転術式を無償の愛とするなら、「愛がただのはずがあるか」と宿儺に言わせるのは伏黒なんでしょうね。硝子の愛はお金で買えるの?と聞くのは五条悟。

 ホームズとワトソンの関係性は突出したアンバランスと、常識と良識の折衷関係がたいへん程よく気持ちがいいです。確固たる人間性ってなに?と自分に聞けば、いてもいなくてもいいが、いてくれるととても嬉しいと思える関係性ですかね…。自分につっこむとそれ相手の人間性じゃなくて自分の願望だよね?としか思えない。つまるところ、自身に揺るぎない人間性がないとその願望は維持できないので、自分が大好きで相手のことが大好き(東堂だ)な状態ですね。常にパーフェクトを維持する姿勢。アニメのエピソード19、「黒閃」をまた見るのだ。花御戦序盤での「コクセンッ!」空振りから悪態をつく悠仁。怒りで我を忘れる悠仁に平常心の大切さを説く東堂。感情で自分を持て余すのは未熟者のお前には使いこなせない。収めて戦え。東堂が視聴者に黒閃の解説役を買って出て、その心の内側にある退屈への憎悪を裏返すきっかけであった恩人を思い出すとき、虎杖は東堂の期待に応え、花御に四連続の黒閃を決める。ブラザー。お前からはいつだって予感がする。あの時と同じ、退屈が裏返る予感ッ!(花御はとても憎みきれない呪霊で、東堂のブギウギラッシュを喰らっても機嫌を悪くする様子がない。ブギウギの必中効果(効果が必中)に怒りを露わにするのでもなく、落ち着いて領域展開からの一撃必殺を狙うあたり真っ当な強者である。引き際の正直さは見習うべき美徳で、なんか今度のアニメ化で退場するらしいと聞いて少しがっかりしている。)

 東堂と虎杖悠仁は疑似的な師弟関係を結んでいるが、悠仁にとって本当に必要な師は宿儺の指をなぜ悠仁だけが自我を保ったまま体内に保持できるのかを悠仁の身を案じつつ解明できる人間であり、呪術廻戦の本編上では夜蛾がその任に相応しい人物であったと思われる。彼の名言、「呪術師に悔いのない死などない」は「結果に満足して死ぬことはない」とも言い換えられ、負の感情をエネルギーに転化する呪力操作は普通に考えて善人は使用できないはずなのに、七海と夜蛾は至って善人であり自分たちの後輩を教え導く責任感もある実はどうかしている人たちなのはなぜなのだろうか。そもそも最初から善人だったのか、悪性が転じて善人になったのか、善人のふりをしている悪党だったのか、この二人の人物評を五条悟から聞いてみたいものだ。ちなみに東堂の脳内妄想癖ですが、彼の脳内CPUは妄想を現実として認識しているので呪術関係者を含むほぼ全人類が東堂を気持ち悪い奴と認識しています。もし、東堂が領域展開を必要に迫られて発現する場合、正気を保っていれば(正常な正気の人間)それほど気持ち悪い現象は起きないはずですが正気でなければ死ぬほど気持ち悪い現象が発生するはずです。花御戦での悠仁は、なんとなーく東堂の漏れ出た領域に当てられたのではないかと推測します。「デリカシー」という言葉をネットで調べてみると、繊細・微妙と説明がなされています。原因があり結果があるのはとても分かりやすい話ですが、研究室の中で発生する現象と、日常生活で発生する事件とでは、結果を追い込む際に生じる不特定要素(の発生)がベテランであればあるほどいくらでも気を回す(一円にもならない)ので、遠回りをして結論にたどり着くこともあるでしょう。最短ルートをなぜ通らないのか、という失望と怒り。お金に換算できる説明は「なぜ最短ルートを通らないのか」と詰問されると、条件の発生は多岐にわたり、個別にあたるには時間をかけた観察が必要で、他と同一の環境に置かれていれば、結論を早めることは可能でしたと答えるのでしょう。よりよい状態を志向する考え方は、それを商売と考えないのなら、いくらでも自由に選べる。得体の知れないポリシーを行動の指針としているのなら、東堂が高田ちゃんの生放送番組を欠かさず視聴し録画も忘れないように、デリカシーのない発言は厳に慎むべきなのだ。(でも東堂に正論は言ってよい。「おまえはどうしてそんなにマヌケなんだ?」と心から心配されるので、一生ものの思い出ができるだろう)正しい呪術師の在り方は非術師を呪いから守ることだと夏油は言っていましたが、退屈から自分の身を守るには夢中になれるものをどこかから見つけるべきなのでしょう。要するに夏油はヒマだったんじゃないでしょうか。親友とつるんで怪物退治をする機会もなくなり、呪術師としての成長も頭打ちになった(ような気がしている)。食べる呪霊の味はクソ不味い。どうかんがえても生活環境を改善するべきで、ダメ元で硝子に自分の生活環境を変えたいので面倒をみてほしい。金は払うと言うべきでした。べきべきうるせー。映画、呪術廻戦0を改めて観ると真希がズケズケと自分家の内情を乙骨に話し出して禪院家をぶっ潰すと宣言しているので笑った。「なに笑ってんだ乙骨。御三家を潰したら次は特級(術師)だからな?」「え、僕も?」「全部潰しておかないと仕返しされるだろ。やるからには徹底的にだ」(なんとなく三位一体の話を寝て起きたら思いついたので適当に書く。伏黒と乙骨と虎杖の三人のうち、一番格が低いのは虎杖だということで間違いはないだろう。この場合の格は、寝て起きて生活してきて、周りの人々からどれだけ影響を受けてきたのかの総量みたいなもので、ひどい話、ATフィールドが強ければ強いほど、刺さる影響の質量は無限大に上がっていく(ATフィールドを突破されるとメチャクチャ刺さる)。悠仁が伏黒、乙骨と比べて社交的な性格をしているのは明らかで、これもまたひどい話虎杖は八方美人を地で行くところがあり、祖父の遺言「みんなから好かれろ。俺みたいになるな」は止めを刺していて、夜蛾が虎杖を心配するのは教育者としてまったく当然で、虎杖くんは自分で望んでもいないのに人から好かれたいと思っているのか?それは偽善で、君を好いてくれる人々を失望させている。亡くなった祖父を大切に思うなら、祖父の遺言を金科玉条にしてはいけない。その覚悟が出来てからもう一度ここに来るべきだ・・・。東堂の領域展開は自身の内側にへばり付いている愛が裏返って表に強制的に出てきてしまう地獄絵図で間違いはないと思いついた。東堂への殺意だけが無制限に上がっていく領域なので、術者にメリットはない)

 呪術廻戦0の冒頭シーンで乙骨憂太の処分について五条悟と呪術総監部が意見を交わしていますが、正体不明の過呪怨霊・折本里香を祓う手段は見つかっていないことから、乙骨を死ぬまで収監するか、呪術師の監督の下で乙骨本人に折本里香を祓わせるかを決めているのです。呪術総監部を頂点とする呪術師の世界は人の世に仇なす怨霊や呪霊を実力で排除するので国から権威を与えられているのですが、特級呪霊という別格に強い怪物たちにはほとんど無力であり、天元という結界術師の補助を得て、一般人の生活エリアに被害を及ばないように努力するのが組織の力としての限度になっています。ただし、この世に4人しかいない特級を冠された呪術師は特級の怪物を祓えるので、呪術界が組織の体を成しているのは、4人の特級呪術師の中で唯一、呪術総監部と連絡が取れる五条悟が気まぐれで仕事を請け負っているからです。と、ここまで書くと呪術廻戦の登場人物の一人、秤金次がおいしいキャラだと気づくようになっていました。見世物バトルで興行を行い、興行主として独り立ちしているキャラです。幽遊白書でいえば幻海と戸愚呂が参加したトーナメントバトルの"最強"が興行主だったというオチを秤が仕込んでいるわけです。観客は非術師(の金持ち)なので現在進行形で呪術師の掟第8条「呪術の存在は非術師には内緒」を破っています。呪力で体力を底上げした人間同士の殴り合いの賭け試合ですが、真希が使っている呪力の付与された眼鏡があれば術式を使用した演出も見れるので、成功待ったなしのブルーオーシャン市場といえるでしょう。領域のバーゲンセールだぜ・・・()。領域の始まりは空間内に強制ルールを敷く「だけ」だったと作中だれかが言っていました。ルールを破った場合のペナルティの開示も最初期はもの凄く軽い(「負ける」≒「ルールに抵触する」≒「恥をかく」ぐらいのもの)ので、花御と漏瑚が苦労して領域展延を仕掛けるよりも、トランプを指し示して「ポーカーやらんか?」と本人がポーカー狂なのが前提ですが、トランプ勝負を申し出るくらいでちょうどいいのかもしれません。呪いもバクチも、面白いか、笑えるか、熱くなれるか、ぐらいがちょうどよく、金次の「“熱”に嘘はつけねぇ!!」は本当にいいセリフで「オイオイオイマジかオマエ」「超つまんねぇじゃん」からの心の中からのギクッ——!は、呪術廻戦の本編をすべて総ざらいしても、真希の「聞けよ。なぜわたしが落ちこぼれなのか」の心情を想像するのと同じくらい、イイですね。呪術廻戦0は「呪術師とはなにか」という呪いの話でもあり、らーめん再遊記がラーメンとはなにかを始めてしまう憎悪と解呪のお話なのと少しだけ似ている。らーめん再遊記の1巻は何度読んでもいいお話で、業界の生けるカリスマであり、業界の中では醜い自己顕示欲の権化としても知られる芹沢の黄昏モード(バーでの有栖との会話は憎まれ口に覇気がなく、後進の暴走に対し制裁する気力もない)がイカれたラーメン馬鹿の本性を取り戻すまでのブッ殺しストーリーなので、いつ読んでもイイですね。2巻、3巻、と続きを読んでいくと、どちらかというと芹沢が呪いをかけているほうで呪術廻戦の乙骨と違って自分の醜さに絶望したりはしないで、いかにマウントを取るかに自然にシフトしていきます。藤本(1作目の主人公)や汐見(2作目)は芹沢の薫陶を強く受けていますが、藤本には小池さん、汐見には夏川が身近にいてくれるのでマウントを取って愉悦に浸る悪癖は最小限に抑えられているはずです。五条と夏油のどちらが魅力的かと考えれば、3:7で夏油が魅力的だと言えます。呪術廻戦を読んでいると、呪術廻戦0を見ていると、いかに夏油が自分に嘘をついて頑張ってしまうお話を見せられているか、違和感が真面目に頑張る姿を見せられることで化学反応を起こし、相当に滑稽で笑ってしまいます。最強でいたかったけど最強ではいられなかったことの照れ笑いを大義とかで覆い隠そうとする真面目君のストーリーなので、身近な動機すぎて過呼吸になってしまいそう。夜蛾にぜひ聞いてみたいものだが、黒閃と反転術式の存在と習得を高専で教えているのだろうか? 若者が呪術師として人生をよろしくやっていくうえで、偶然でもいいから黒閃を経験することと、反転術式の存在を知っていることは生存率を撥ね上げる要因となる。真希が特級呪術師を「冗談でしか聞かない存在だろ」と言っていたように、あるのは知っているが、一般人から見たイーロン・マスクか宝くじ5億円みたいなものなのかもしれない。昭和の時代から何も変わっていないような古臭いラーメンを食べるとホッとする。芹沢の心の中では古臭いラーメンと革新的なラーメンが同居していて、ある日、ニューウェイブ系の頭目としての自分が裏返ってしまい自分のしてきたことの意味・価値に理由がつけられなくなってしまった。とりあえず昭和の遺物みたいなラーメンを食べてボーとしているのが再遊記1巻の芹沢なわけです。チャルメラの鍋から匂い立つスープの香りこそがラーメンの神髄だッ!(読み直すとそこまでは言ってない)いったいあの頃はなにを考えて生きていたんだろうな、と。

 アムロガンダムのコックピットに座らなければ有名人にならずにすみ、乙骨は真希に発破をかけられなければ夏油を圧倒せずにすみ、虎杖悠仁は祖父の遺言を聞かなければ、宿儺の指を飲まずにすんだかといえばNo!でしょう。飲みましたよね。死に直面するなら正しい死がいいと本人が決めたことで、祖父の遺言はきっかけの一つに過ぎない。名探偵を誕生させるには地獄の一丁目一番地であるガンダムのコックピットに座らせる必要があり、成りたくて成るのではなく、成させるために成させる必要がある。ザクを殺すためにガンダムが造られ、特級呪物の完成形として乗員が必要であったように。必要に迫られて誕生するというのは、いかにも呪術師らしい。おそらく夜蛾は生徒たちを戦場へ送り出す立場と責任から呪霊の発生原因の追究をやらかしているはずで、当然九十九の異端研究にも触れた可能性があり、呪いとの戦いと並行して生徒たちが無事に成人し(御三家管理での呪術界の元で)子をなし親として成長し、死ぬことを望んでもいたはずで、五条の「学長ー!!」「呪術師に悔いのない死なんてないんじゃなかったんですかあ⁉」は、学長の心、生徒知らずにもほどがある。七海の毒舌が冴えわたるのも道理で、夜蛾の五条を半殺しにしたいけど大人だから我慢する心情は七海が空港に併設されたバーで聞かされることになるのでしょう。もっと言ってやっていいぞ。人を呪わば穴二つ、といいますが、宿儺の五条殺しを見ているとせっせと自分の墓穴を掘っているように見えなくもなかったり・・・。宿儺の天敵は呪い返しに特化している呪術師で、愛はいらないから金をくれを四の五の言わずに徹底している術式であると推測します。世界一の我儘はすべての我儘が通ることであり、金と時間に換算できないものはいらないと縛りを設けることですべての呪いを返す術式・・・・・・五条に与えられた最強を無碍に返す無責任術式。考えてみると乙骨の術式のコピー能力は相当に人外の能力ですが、飛んでくる術式を見て理解して無効化して再構築して送り返すのは、ほぼほぼ無理な芸当で、五条悟の目とリカの消化能力(無理がある)と乙骨の再現能力と石流の放出がきちんと順を追って出来て、はじめて可能となる。どんな脳内CPUを積んでもできるわけはないのだ。いきなりは。五条家の生得術式はこちら側にむこう側から辿り着くことが(永遠に)できない術式となっていて、術式を定着前に調べて境界の境目がどう構築されるのかを延々延々延々と調べて、表面と裏面の構成オタクと化せば最低限の呪力で領域の生成と必中の反対である必ず外れる領域効果を付与できたりするのでしょうか。必ず中らない領域。別の言い方をすれば見つからない領域ともいえるので、諸処で上前を撥ね放題にできる(バレっこない)スーパー省エネな術式運用が可能になるかもしれない。泥棒だが。悪いことしたなあ、と、すまないことしたなあ、は同じようで全然違う。悪いは善悪の彼岸だが、すまないはあり得たかもしれない未来に対しての謝罪だと思っている。つまり、すまないと思ってないと判断した時は、もっと笑える未来があると判断している。五条家が謎なのは誰に対して六眼&無下限呪術セットの当主を望んでいるのかがさっぱり見えてこないことで、いくらでも砂金が湧き出るツボがあり、蝶よ花よとおだてないと機嫌を損ねて役に立たないとすれば、じゃあそのツボを地面に叩きつけて割ってしまおうか(駆け引きはしない)という話で、花はさておきツボの価値は砂金を吐き出すから価値があるのかツボそのものが大切だから大切なのかはツボにとっては一大事なわけです。当たりと外れがあるんだよー。その違いは望まれた通りの姿で生まれてくるかどうかだよ。まさか生まれてくる前からえり好みできる人間だと思っているのか自分のこと、と。五条の家では一族あげてがんばっていたのではないかという疑惑ですね。東堂は金・権力・名誉よりも高田ちゃんの愛を欲していますが、身内である京都校の仲間全員からも気持ち悪がれ嫌われています。まあ当然の話なので今更なにいってるんだという話ですが、場違いである、身分違いである、いくら金を積んでも届かない高みにいる、月は美しいが手に取ることはできない(個握、全握は別)。と、本当に東堂は気持ちが悪いですね。東堂の術式、不義遊戯を使って全力で攻める場合、相手の攻撃の「起こり」に合わせて入れ替えをするのが最善で、領域展開を空振りさせて帰ってきたところを集団でボコるのがベストな使い方です。ブギウギの射程にもよりますが、東堂は存在を隠している方が(潜んでいる東堂がどこかにいるかもしれないと思わせる方が)余計な思考を強制できるので嫌らしい攻め方ができるはずです。無下限呪術と同等のパフォーマンスを見せつつ、まったく別種の術式を使用している呪術があったとして、情報の伝達手段を無限の容量を持つ記憶媒体を通すことで何もかもが理解できる(はずの)領域を作成し、分解と再構築をフルオートで(独り相撲で最も効率的な規格があるはずだと延々と同じことを繰り返し)作動させる術式。無下限呪術から逃げ切ることを主題としてとしているので、もし対峙した場合は「洗練などクソだ!」と叫んで(死亡フラグ)情報を手当たり次第ぶちまける。肝心なのは逃げ切ることなので、少しでも気を引くような情報をメッタメタに放出する。「VHSとベータの違いはご存じかな?」「呪力を電気、術式を家電に例えようか」「自分たちを取り巻く世界を映画館だとするなら、呪力は信号であり術式はその再生機となる」「音の良さは一定以上の品質まで上がるとほとんどの人間はそれ以上関心がなくなるのに対し、世界の視覚化は圧倒的情報量をいかに高速に処理するかで皆が目を回してしまう。おかしいとは思わないか。その映像を早送りにすると、もう視覚からの情報に意味を感じなくなりただエンディングまで見届ければいい心境になる。目を皿のようにしてコストをかけ、ようやく情報を得ようとするのに、そのせいで疲れ果ててどうでもよくなってしまうんだ。呪術師がこの稼業から足を洗いたくなる理由なんて身内の死を除けばほとんどこれだよ。犠牲と得る物のバランスが釣り合っていないんだ。ほっとけという話(逃げる)」領域そのものをテープとカメラと機材一式に見立てて撮影し、後で自身の領域内で再生するってーのはどうか。最初期はなにもかもがデカくて重い。これはつくづく秤の野望と相性が良く、「今のシーンをもう一度見てみましょう」と感動の名シーンを様々な角度から振り返ることができ(試合が早く終わり過ぎた時は過去の名場面プレイバック集をBGMと解説付きで流すこともできる)呪術ビデオが実用化されるまでは小遣いが稼ぎ放題ではないか…。他者の思念を読み取ってテープに保存し規格が合えば家のテレビで再生して見れるサービスも始めれば引く手あまただ。(殺されそうだが)宿儺退治はどうせ誰が戦っても負けるのだから、負けるのが怖いのか?と宿儺を煽りこちらの土俵で戦わせるのが最善にして唯一の方法だろう。ルールの勉強から始めるので「こんなこともわからないの!?」と宿儺に指導ができるので、勝とうが負けようが悔いなどあるはずがない。勝ち負けではなく、ピースのばらけたパズルを前にして、

 「このパズルを完成させた時に見える図柄は何かを当てるゲーム!」

とかを始めても、そもそも図柄などは最初からない可能性もあるのだ。インチキゲームというか規格のない状態での退屈しのぎの遊びなどすぐに飽きるし、子供の外でやる遊びなんて即興でルールが変わるものだ。雲の形を見て動物に似ているといって笑っても正直そんなに似ているか?と思う子供もいるだろう。ほとんどの場合、遊びに誘うのは仲のよい友達なので(そしていっしょに空を見上げようなどと、気難しい相手を誘う人間は子供・大人問わずいない)遊びたいと思ったときにすでにルールは本人の中で(ほぼ)完成されているといっていい。宿儺がユージのマヌケ顔を見て可笑しみを感じ、裏梅といっしょに笑う場面など、なんのてらいもない、いい笑顔だといえるだろう。「なんで!」「おまえは!」「人によって!!」「そんなに態度を変えるんだ!!!」

 呪術廻戦0での真希ならびに本編での秤金次ですが、彼ら二人は根っこの所で似た所がありそれは御三家が仕切る呪術界の在り方に不満を持っているということです。真希は乙骨に全部話してしまいましたが、自分と妹を見下している家と家族とついでに呪術界もまとめて痛い目に合わせて泡を吹かしてやろうと思っています。秤は旧態依然の呪術界に何一つ面白みを感じないので、面白れー祭りを起こすべく勝手に喧嘩賭博場(呪術規定に違反した一般人に呪力の存在を明かす犯罪も犯している)を開いています。呪術廻戦の世界では、日本国の法規が適用されない犯罪の一部を呪術界が勝手に裁いて断罪しています。伊地知さんたち黒服組は警察組織との折衝も担当せざるを得ず、本当に苦労のわりに見返りがないというか、大変な仕事ですね。秤は他人から協力を頼まれた場合は相手がどれだけ自分に"熱"を伝えてくるかを最重要視する男で、日車と相性最悪だよと思わせて、実はその人の人格や能力や来歴にほとんど興味がなく(言い過ぎ)、一発逆転を狙う熱量に惹かれているという点で、日車と秤は同じ穴のムジナと言えます。低俗、高尚をバクチで例えてしまうと大変危険な香りしかしないので絶対にしない。低俗、高尚でいえば、伏黒と真希の「呪術師としてどんな人達を助けたいですか?」問題(コミック2巻、第12話「邁進」に収録)も味わい深く、性格悪い人間が己の主義主張を通すために呪術師をやっている(と乙骨に言ってた)真希は「誰が助かろうと私の知ったこっちゃないね」とロクデナシ呪術師の本懐を述べていました。乙骨が聞いたら「真希さんはみんなのことを勝手に助けちゃうから答えようがないんだよ」と絶賛するのでしょう。しゃけ。一発逆転を明らかに欲している人間は周知の醜悪、知った上でその醜悪な人間としての人生を選択をしてきたはずだ。夏油の苦悩は与えられた役割を果たすのは強者に生まれた人間の責務と自分の可能性の限界まで自分を信じる高貴な人間としての役割を信じたことにあります。月が欠けていないのなら望月としての役割を果たすべきだという傲慢な考え方ですね。呪術廻戦0では七海の出番はほとんどなく、原作コミックではヒトコマも描かれず、映画ではなぜか高専にいる。七海はコミック4巻で真人の領域展開を喰らい、死に際の走馬灯で脱サラの経緯を振り返るのですが、夏油が起こした京都百鬼夜行時の前の出来事だったのですね。京都校の生徒たちの苦境に黒閃テーマソングとともに颯爽と現れ4連続黒閃をキメる七海。京都校二年の東堂たちも参戦していたので、グラサンの七海さんの4連続黒閃は京都校では語り草になっていることでしょう。強くて驕らないので(東堂…)京都校関係者からの好感度数は誰よりも高いのではないでしょうか。五条悟の人格批判を公言していそうな所もポイントが高いはず。東京にもまともな呪術師はいる(みんな視線だけ東堂の方を見る)。七海一級術師の推薦が欲しい術師は隠れファンも含めるとかなりの数がいそう。御三家と接点がなく発言力がある術師は極少でしょうし、黒閃連続発生タイトルホルダーの肩書(かなり恥ずかしい)も知名度上昇に一役買っているでしょう。つまり、真希が七海と師弟関係を結ぶことはメリットしかない。そしてそんな展開はない。虎杖が自由時間にパチンコを打つように、真希は禪院家を壊滅させますが(自分で書いてパチンコの代打ちと真依のお願いを一緒にすんなと思う)必ずしもそうしなければいけなかったわけではない。秤の術式は博打からの由来ですが、昔からそうであったようにこれからもそうであろうというのは術式の縛りに転用できそうな要素で、呪術廻戦の本編で「時間の未来視」、「時間の分割による強制早送り」、「時間内における運の総量を偏らせ爆発させる」等の、過去は未来へと繋がっていることを利用した術式が多数登場しています。皆、息をするように自然に移ろうので当たり前すぎて忘れてしまったことをほんのちょっとだけ思い出し、加工することで術式効果を得ています。東堂の師匠は特級呪術師の九十九由基ですが、東堂の独特な呪術師観は九十九との修行で得たものであり平安からの由緒正しい呪術師の家系である加茂家や禪院家の思想とは富士山とエベレストくらい違うはずです。高田ちゃんを例に出すまでもなく、その違いは秘匿するか広く布教するかの違いが大きく、まあもし東堂のベストマイ歌姫が高田ちゃん以外の他の誰かであったらと仮定すると、この世の地獄の釜の蓋を開けた状態が現出することになります。マイブラザーが虎杖ではなく、他の人物であったらと仮定すればその地獄味が想像できるはずです。京都校の引率教師である歌姫も東堂は何を考えているかわからない生徒で扱いに困っていると思いますが、暴力沙汰を非術師には起こさないという一点(のみ)は信頼しているはず。術師の最低遵守ラインなので、年長、上役の言うことを聞かない点は見えないし聞こえていないふりをしている。どのみち東堂の面倒を歌姫がカバーしないなんてことは絶対にないのだが・・・(他に誰もしないから)。呪術廻戦0で七海が出て来ると違和感を覚えるのは、闇落ちした夏油を見て七海がどう思うのだろうと余計な気を回してしまうからです。「私は弱者を見捨てて逃げたりはしない」「私は仲間が任務で死ぬのを見て逃げ出した」「ですが私はあなたと違い、私を承認してもらうために力に理由や責任を求めたりはしません」「——私が酒宴で飲酒を強制するような昭和のダメ上司とでもいいたいのか」「そうは言っていません。ただ上司の気に入る歌を暗に歌えと、距離感のおかしい態度を取る人間だけにはなりたくないものです」「悟を反面教師にしろというのか!」「誰も距離感のおかしい人が五条さんだとは言ってません。若者に慕われるのも結構ですが、ああはなりたくないと後輩を教え導く方が教師として、人間として正しいのではないでしょうか。現状に満足してはなにも変えることはできませんから」呪術廻戦では主人公の虎杖悠仁が正しい死を志向しているために作品全体で間違った死は嫌だというメッセージがどうしても横溢している謎の少年マンガでもあります。真希がダイレクトカウンターになっていて、間違っている生の方がよほど始末に悪いだろ、正しい生に宗旨替えしろよと今の真希なら悠仁に言っちゃいそうです。血も涙もない鬼みたいな台詞ですけど。東堂の「俺達はあらゆる仲間全員で呪術師なんだ!!」と、Mr.七海の「あの人一人でいい」は強烈な対比になっています。ただの妄想ですが伏黒の十種影法術が呪術師全般に及ぶとしたら確かに術師の死はありとあらゆる意味で無駄ではなくなるのですが、そんな薄気味悪い術式を誰が使いたがるのか。イマジナリー高田ちゃんの使い手である東堂にはそんなに煙たい術式でもないかもしれませんが。振られる前提で高田ちゃんを慕っているくせに自分の愛は高田ちゃんに必ず届くと信じているのは真偽が同一線上に存在してしまうので矛盾している。宝くじが外れると思って買う馬鹿がいるかと、かのアン・サリバンはヘレン・ケラーにそう説いた。「勝つ前に負けることを考える馬鹿がいるか」と。いるよ。普通はみんな考えるよ。だから負けた時に後悔するわけで。敗北の味を噛み締めるのは勝者なくしてはできない。七海が生前に残した心残りは、おそらく「こんな所に連れて来てしまって申し訳ない」だろうと推測しています。七海を知っている人間は全員が「わたしが勝手に付いてきました」と答えるのでまったく嚙み合わない心のやり取りが発生します。真希も同上であると確信がありますが、「ただし!」と叫んでから爆散するので、死を悼むよりもそのタイミングで他界する間の悪さを恨む傾向が強かろうと思います。七海は他人から尊敬を受けやすい(言い方がヘンですが)所があり、この文章を読んでいるあなたの胸の中に尊敬する人物がいて、なぜ尊敬できるのかと考えれば、その理由の大きな部分は苦労を買ってでる所があるからではないでしょうか。血も涙もない言い方をすると、危険な所へ任務として身を投げ出すのは人間のすることではありません。機械のすることです。組織の中で社会人として自分を律して現場に即して行動するのはクレバーですが、大体の人間は自分の主義主張を通して行動するので、変えるのはお前らだと主張します。ナナミンが偉いのはそんな人が上司だとしても、彼らは人間ではなく組織の歯車だと己を律して事実に即して行動できるからです。信頼と信用が第一であり、尊敬はどうでもいい。金さえあれば嫌なことを見聞きしないで暮らしていける。金 金 金 金 金 金 金…… 東堂が自分が嫌われていることに自覚を持ち、Mr.七海が多くの人から尊敬を受けている事実を見て、京都校(の女子)に「俺とMr.七海とでは、どこが違うのだろうか?」と己を虚心にして質問をすれば現実という名のナイフを目一杯投げられるのでしょう。俺の術式を解禁する!! じゅじゅさんぽでのメカ丸の頼られっぷりはオタク用語でいう解釈一致というものでしょうか。真依と西宮が心の中でノリトシと東堂を面倒くさがっている(面倒くさいから)のも、三輪が二人を怖がっているのも、よく分かります。面倒くさくなく、警戒しないで接することができるメカ丸は貴重です。三輪がメカ丸へのリトマス試験紙として真依、西宮に利用されている可能性は否定できませんが、ごく普通に親切なロボット人間なので利用しない手はありません。人型呪霊の真人との連携が可能であれば超特級術師(呪詛師)に化ける可能性も大いにありました。真人は生まれたばかりの呪霊で自分探しの真っ最中なので、義体に魂を載せられるメカ丸は世界唯一の宝であったことに気が付かなかったのですね。羂索には興味をそそる題材ではなかったよう。わたしが今、呪術廻戦に惹かれる点は真希の行く末なのですが、真依が全部持って行ったものの中に(置いていったものの中に)自分にとって都合のよいものがどれだけ残っているか、我儘がどれだけ残っているか、我儘がどれだけ残っているかが気になります。我儘といえば禪院直哉。全方位、全圧力、全領域を支配する王者。真希を全力で爆笑させる男は実はこいつしかいない。夫婦漫才をこの二人でさせて禪院一族を笑い死にさせることは可能。組織末端の人員ほどよく笑う。真希真依の母親まで笑っていたら本当に一族滅亡するので直哉がお笑いに目覚めたら(テレビでお笑い番組を見始めたら)禪院家は滅ぶ。笑わせてやっとるという意識が見え見えの直哉と、素が一番笑えるのに変に構えるから笑えないんだよとツッコむ真希。お客は直哉の大ボケと真希がツッコみ大人しくなる直哉を笑いたくて見に来ているのに直哉には永遠に解らない。逃げるように領域を展開して客席一同を震撼させ、なぜか動ける真希が手印を力技で解除して抱いてやる。——と、ここまでがワンセンテンス。直哉は全力で客を笑わせようとしているのに対して、真希は1ミリくらいしかそんな気がない。飲み会に母親が同席する感じかもしれない。パンダがいればこれ以上なく的確な人情味あふれる真希評を聞かせてくれる。「憂太が見たら嫉妬するな、こりゃ」 (パンダで言って自分で震える。嫉妬ではなく死ッと。この場にいる全員死ぬ)死滅回游が非術師の飼い慣らしと殺戮を目的としている(その結果人類が進化する)なら、お笑いは日常の浸食と破壊を目的としていもおかしくはない。過激すぎると判断した場合は何を置いても逃げますけどね。非境界型、外殻のない領域展開は羂索が使用しましたが、互いに領域を展開して必殺必中ではない閉じない結界を広げるとどうなるのか。互いに相手が意味不明過ぎて馬鹿じゃないのかこいつと呆れるでしょうが、領域には術式が発動しているので相手の狙いはほぼほぼ相手に伝わるので、必殺はともかく必中ではない領域は自身の生活が空っぽであると言っているようなもの。生得領域で逃げ回っているのだからよほど欲しいものがないつまらない人生を送ってきたのに、他には譲れない信念だけはあるという、無害の有害というか、辿り着いているくせに中身がない、なにが楽しくて生きてきたのかつまらない映画を強制的に見せる退屈拷問領域といえる。(生得領域そのものと断言できそう)勝手に席を立てることが縛りになっていて内容の面白さの無さが強力に担保されている。出入り自由な領域。インターネットなんかは正しくそんな感じですね。不味い料理を楽しく食事する映像を延々と見させられる映画があるとすれば、それはホラー映画なのですが、よくよく見て研究すると不味い料理なんだけれども真剣に食材に向き合っていることが途中から発見でき、最初から見返すと調理技術が明らかに進化していることがわかる映画。どうみても不味いはずなのに技術だけは進化していくので不思議な感動があるかもしれない。つまり王道ではないが主役を食う意思だけは感じる作品、呪術廻戦でいえばなぜ伏黒が主人公ではないのか、なぜ虎杖はやたらめったらと伏黒に気を使うのか、虎杖は誰から気にかけてもらっているのか、本質的に食うか食われるかの関係を別の関係に置き換えていることへのフィジカルギフテッドが出す回答(フィジギフは絶対的捕食者だから)の結末。お笑いに関してはピンとコンビの違いをバトル展開でギャフンと言わせてほしい。お笑いの世界では独り立ちできるまでは成功して余裕のある者が未成功者の生活を庇護してあげるのが美徳とされているとマンガで見たことがありますが、そういう意味では羂索は弟子を取らない(いい物件があれば引っ越しをする術式のせいもあるだろう)ので、お笑いの世界ではつまはじき者といえるでしょう。真希が禪院家の当主になったとしても、妹はともかく他の面々を幸せにできるかと考えれば相当に難しい。単純にいって「術師でない者は人間ではない。術師であっても御三家でない者は生きる資格がない」くらいに驕っているので性根を叩き直すのは容易ではない。ハレの場で当主として家の者には落ちるところまで落ちてもらう荒療治が必要で、真希ならさらっと実行しかねない(悩むはずだが)。禪院家と羂索が相対しても、お互い本気で争うかといえば、お互いどうでもいい態度をとりそうなくらいには外の世界に関心がない。集金と集票が数値として永続的に上がっていれば何もかもがどうでもいい(どうでもいいわけがない。人間ではない。それは)と先祖代々から教えてもらってきたのだから、過去の人間たちも否定するつもりかと恫喝されれば、自分の脳みそで考えてみろとしか言えない(爆笑される)。呪力は非術師の数の力の総体なのだから、非術師さえいなくなれば呪霊は生まれない。大雑把に言ってしまうと、全人類が呪力に対する徳性を身に付ければ呪霊は生まれない。術師って道徳心があるの?と最大級の疑問が発生するが、自身の可能性を信じて無理なく効率的に使うのが術師だとすれば、生まれ持った術式(才能)の差を無視すれば、誰でも術師になれる道理となる。九十九が提案したケース2ですね。真希と真依を見れば一目瞭然で、呪術廻戦の世界では必要のない物を見極めて手放し、欲しい物を手に入れる過程を経て、全人類の術師化が完了するわけです。"熱"?そんなものは知らないね。東堂の呪術師観は単行本を読み直してみると再発見があり、姉妹校交流戦でのデッドボール事件は「みんな東堂が大嫌い」という総意の確認と術師同士の結束を高める副次効果を生みいいこと尽くしでした。東堂は人のいうことを聞かない(なぜ聞かないか説明はする)し、他人に暴力を振るう(なぜ殴るか説明はする)男で人から好かれる要素は皆無ですが呪術師として発する言葉にはなぜか説得力がある不思議な人間です。真希が男を連れて実家に帰ってきて、私の彼氏だと東堂を紹介(高専在学中に一級になった逸材)すると禪院家の人間がどう反応するかは見てみたい気もする。真希と東堂では常識と非常識のギャップがあり、周りが自分を見てどう思うか、呪術師とは何か(0のテーマ)のギャップ戦争が勃発する。周りから認められるのが呪術師なら、俺たち全員で呪術師なんだ、という東堂の信念は真希から見れば怠惰の言い訳でしかない。おまえみたいなのが呪術師なんていい迷惑だから口を閉じろと言ってしまえば、禪院家に戻った際に自分を認めさせるために高専で箔をつけに来た自分と東堂を比較すれば、とんでもない惨めさが真希を襲う。恥だ! 本編では漏瑚によって一時退場させられるので、七海や夏油といった諸先輩の憂き目をなぞることはない。なぜなら生まれた時にすでに決まっていたからだ。欲しいものは最初から手に入らないことが。(直毘人は解っていたでしょう。)直哉は直毘人の息子なんでしたっけ? 術師が持つ戦闘での最大優位性は勝つ結果に執着し疑わず、その自信に根拠があり、根拠とは過去の積み重ねなので、自身で予想する勝利時の倍率値が自信の源だといってよい(独り競馬ごっこ)。未来視の術式使いと精度の高いオッズ表示使い(自分では表が見えない)のコンビが最強だな!(七海が自分の身を窮地に投げ入れるのは勝利の倍率に賭けているからではない。直哉が東京に来るのは伏黒恵に全取りされた遺産の奪取のためで、必ず勝ってきた自信と、自分が持っている側の人間だと勘違いできるアホであるために嫌われ者だか本当におもろい。孤独を知ってからが勝負だ!)五条悟は常時倍率1倍の男なのでクソつまらん男ですよ。そのクソつまらん男と十年以上腐れ縁の歌姫は(同じ境遇の伊地知さんも)十代の高専生徒たちとの間でどうやってバランスを取っているのでしょうね。雑にいうと呪術師として世の中を上手く生きている者は、社会人として終わっている人間が多く、曲がりなりにも「都立」高専を謳っている学校で学園生活を送るにはまともな大人の教師がいてくれるかが人生の岐路だといえる。伏黒恵は連載が終盤に入った今となると、血筋家柄術式師匠そして階級と、同期でもタメ口をきいていいのか悩むくらいにスーパーエリートでしたが、誰を尊敬しているかというと二年の乙骨で他の生徒と教師陣には期待していませんでした。馬鹿馬鹿しいからです。自分が人助けをするイメージが湧かないのに人を害する呪霊を退治する人生に偽善を感じ、五条が引いたレールの上を歩く人生に意味があるか分からなかったから。姉の津美紀が成人して独り立ちするまでの生活費を稼ぐ以外に呪術師をやっていく理由が伏黒にはなかった。だから呪術師として助ける人間は選別する(人助け行為に意味が強制的に発生する)。真希が乙骨に言った「助けた後に生きる意味が発生する」のと違って、「助けることによって生きてきた意味が発生する(助けなかったことで、これから生きていく意味が追加される)」。伏黒の領域展開「嵌合暗翳庭」は結界が不十分な泥の庭を展開する技ですが、乙骨は殺す人間を大切な友達を自分で大切だと言える人間であるために殺すのに対して、伏黒は大切な人を訳の分からない呪いで害されないように殺す。無差別に呪いを撒く阿呆を同じように無差別に殺し返す。だから伏黒にとっての天啓は相手の尊厳を絶対に脅かさない善人との出会い(津美紀)であり、自分の尊厳を大切な人の尊厳を守るために使う人間(乙骨)であるのでしょう。(その理屈でいうと虎杖を邪険に扱う伏黒は(なぜ邪険に扱うかというと虎杖は自分の身体と命の重さを大切にしないからで)伏黒自身で虎杖が自分の生を全うできない理由を作ってしまったと認識している(宿儺の器である可能性があったにせよ、その場で殺したほうが虎杖の人間性は守られた可能性がある)から、虎杖が無差別に人を殺さないよう宿儺(の指)から虎杖を守る必要がある。虎杖が善人でいられるために)本誌連載の最新話を読みました。髙羽がピンチですが、どっちかというと日下部の方が気になります。髙羽は純粋な奴なので殺す殺されるの修羅場にポーンと送り込むのはいくらなんでも酷いのですが、味方陣営の背中と尻に火がついている状態なのでアリか?とも思えます。「つまり髙羽が笑えるイメージが現実に起き……代わる?術式・・・?」「そうだ」「俺、トイレ行ってくる」日下部が髙羽に直言。「俺の先入観だけで言うがおまえはつまらないと思う」「だからダメージを受ける前に言っておく。お前の相手は人類史上最悪に性根の曲がった悪人なので絶対におまえを嘲り笑う」(今オレの目の前にオレをあざ笑う悪人がいるじゃん……)「だからそんな時はここはお笑いステージじゃない。俺を笑うな!!」と言ってやれ。俺は人からバカにされる度にそうやって生きてきた。幸運を祈る。髙羽から笑えばつまらない悪事は頭から吹っ飛ぶぞと羂索を煽りはじめたので全部おかしいのですが、みんなが仕事を放りだしてひょっとこ踊りでも始めたら爆笑モノなのでは?とか言い出す羂索に遠慮はいらないでしょう。相撲は土俵がなくてもできるのだから、お笑いだってステージもテレビもいらないはずです。なにをいっているんだ。羂索は私的に笑える世界を求めているので、公的な和を成したいわけではない。善人で真面目な髙羽は羂索のトラップにきれいに嵌りそうです。羂索は髙羽が思っているような、結構お笑いが好きなヤツではない。虎杖の歯車理論を日下部が聞いたらどう思うか。劇場版0、夏油対策会議での「俺はやる気はありません」アピールと、夜蛾学長の準一級以上の術師を正面ロータリーに集めろ命令で日下部はどこにいたのか(いなかった気がする)。ゾクゾクするほどやる気がないですよね(新宿の百鬼夜行には出動していた。手は抜くが首にはされたくないらしい)。夜蛾から見ると日下部は実力はあるがやる気のない部下なので気安い間柄のはずです。誰かさんと違って役職をいじってもこないのでストレスも溜まらない。糊口をしのいで(高給取りでしょうが)自分のしたいことをして生活できればいいやと、虎杖がそうあればノンストレスの生活ができたでしょうに。遊び相手が欲しいと強制必中の領域を展開できるまで自分勝手になれば呪術師としては一人前になれます。領域を展開できる度胸があれば、ですけどね。(東堂が全方位から嫌われているのに一顧だにしないのは呪術師として全く正しい。髙羽の善人性と良識は結局のところ、他人に喜んでもらえることと、自分の人生の価値を秤に掛けてしまう小市民的善性からきている。ウケないのはおまえらが悪いというのは、過去の出来事からの幸せをギャンブルのチップに両替するが如き悪行といえる……)乙骨の領域展開ですが、おそらく里香か真希との思い出を再現する領域であると推測します。里香なら病院、真希なら学校ですかね。もう問答無用で助けまくる善意という名の暴力だろうと。烏鷺の言っていた、「圧倒的な自己」「他を顧みない」を完全に兼ねるので、里香がいれば絶頂、真希なら憤死。いずれにせよイカレている領域であると思います。グダグダゴチャゴチャうるせぇ!(CV 誰?ロックオンと同じ人か・・・って日下部を担当していた・笑)故人の願いの再現まで行き着くと乙骨は人間ではいられなくなるかも。天元という先例もいますからね。死者と生者の願いを兼ねるのは人類最悪の悪行に直結してしまうが、わりと呪術師はその線を踏み越えるので日下部の命の使いどころはその辺りかもしれない。ちなみに烏鷺と日下部は相性が良さそうですな。金 金 金 金……。(「贅沢するのが堕落とかいう呪術師なんて始めて見た」「おもしれー女」) 本末転倒を考えてみると、やはり退屈で退屈で仕方がないのなら、退屈ではない物を探し求める為に行動をするべきなのですが、では何が楽しいのかを経験しなければ、何が退屈を発生させているのかが分からない。ドラゴンボール孫悟空はこの辺りが壊れていて、ベジータとの邂逅でクリリンから正気を疑われ、正論で諭されたにもかかわらず、「もったいないから殺さないでくれ」と生涯一度の願いを親友に託すわけで、ベジータには聞こえていたんですかね、そいつ殺すのはもったいないから殺さないでくれっ……という悟空の切なる願いが。真希真依も本末転倒、本末転倒でいえば、真依の初恋の相手はどうなったという謎が残されていて、真希を駆り立てる動機は禪院家の壊滅を除くと真依のお願いしか残っていない(あの姉妹はお互いに自分が自分であることを譲る気は本当はない。二人ともなかったことにされるくらいなら——一本化してやるという妥協の上で怪物真希は成立している)ので、いわば他人の債権の回収義務を付与されたうえでのフィジカルギフテッド(笑える)である為、現在進行形で進む、宿儺・羂索討伐は本当の意味ではどうでもよく、クソ生意気な後輩の面倒を見ているにすぎない。乙骨が憧れるわけだ。笑笑笑。(この“笑”マークのせいで私の性格が悪いように感じられるかもしれないので言い訳をすると、「僕は(私は)性格が悪い」と本編で「聞いて(聞けよ)」からヌケヌケと言ったのは五条と真希で、その後に続く文句も、「リセットする(ブッ潰す)」と似たことを言っていたのがおかしくて笑ったわけです。決して真希のことを軽んじたり乙骨を馬鹿にしたりしたいわけではありません。五条は真希からバカ扱いされている) 今、期せずして呪術廻戦とショーハショーテン!がお笑いで盛り上がっているのですが、ガラ靴の出番が終わったことをネットの書き込みで散見できるものの、なんか単行本でまとめ読みしたいなあと思い、雑誌掲載の本編は読まない状態でいます。相方がいる以上、必ず賞レースで勝つ!というモチベーションは必須でガラ靴はショーハショーテン!の1巻から延々延々延々と引っ張っている「身内を笑わせる」「不特定多数を笑わせる」「ただ一人に笑ってほしい」というネタを擦っているので燃えるキャラとなっています。青い春です。

 アマゾンでネット購入したプライムビデオの『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』をようやく見終わりました。長かった!(買ってからエンドロールの最後まで見届けた時間が) 映画館まで見に行った作品なのですが、映画を視聴する集中力が途中で尽きたのでレッドウィザード戦はがんばれーと心の中で応援していました。私の心の中では映画を見た後に革命が起きたのですが、世間では特に盛り上がっていないようなので、せこせこと私が書こう。権力者に取り入るキャラの有用性を、です。

 今作の悪役であるフォージは映画を見る前にホームページにアップされている情報で下調べをしておきました。かなり理解困難な立ち位置にいるキャラで、ヒュー・グラントが映画のスクリーンに登場するまでは、実像があやふやで適当に既存のキャラを当てはめて理解しようにもほぼイメージを持ってこれず、白旗を上げていました。少しムカつきもしました。これでつまらなかったらどうしよう、金と時間を返せ、といった不安です。圧倒的強者であるレッドウィザードと手を組み、主人公たちと袂を分かった仲であり、地方領主。誰だよおまえは、と。主人公の娘を庇護して愛情をかけて育てているという背景もあり、本当になんなのと不安しかありませんでした。地方領主、というのは最大のひっかけポイントで、「なんで?」とはエドガンもホルガもフォージの性格から掴めないでいる様子でしたし、金はともかく、あいつ権力なんて欲しがっていたか?詐欺師が金持ちを騙して大金をせしめるのが生きがいみたいな男がどうして、と関わらない方が絶対に賢明な人物であると強調したうえで、刑務所に入れられて生き別れてしまった娘との再会と、エドガンの人生を賭けたマジックアイテムの入手には避けて通れない人物であるために会いに行くしかないと、物語は前へ前へと押し出されていきます。(朝起きて呪術廻戦の直哉のことを考えると、あいつのいじらしさにちょっと泣ける気がしてきた。目の前にいたら顔面を陥没させて殴るのですが、ひざ抱えて泣いていたら頭を撫でてやってもいい。まあ殴るのですが)フォージから見れば、娘のキーラに会いたいエドガンの心情は手に取るようにわかるし、マジックアイテムの重要性も痛いほど理解している。その上で罠にかけようとする悪辣さがフォージにはある。エドガンはなんとなくフォージに親しみを感じているっぽいが、ホルガにはジャガイモ一個分の価値もない(キーラに悪影響を与えたら鉄拳制裁も辞さないだろう。というかやる)。呪術廻戦の髙羽史彦も笑わせる相手は絶対に選んだ方がいい。自分を肯定するなら全てを受け入れる必要はない。子供時代の自分に友達は選べと言えるはずもないが、寂しくない(大切なものを大切だと思えるように)人生がほしいのなら、大切な人を大切にするべきなのだ。羂索じゃあないはずだ。捨て犬が優しいご主人を欲するようで見ていて切ないが、ケンさんは「俺はオマエのネタ嫌いやない」と言いたかっただけで、前半部分は「え? 俺なんか言った?」ぐらいの比重である可能性があるのではないか。わからないけど。フォージの内面を探っていく作業はただの変態であるフォージを喜ばせるだけなので作業用ゴム手袋を何重にしても気色悪くて触りたくもないのですが、フォージ的なるモノを分解・発展させていくことは、私の性癖に合う確信があるので大変悩ましい問題です。要は余り余ったリビドーを分解して再構成するだけなんですが、社会的なるもの(領域外)との親和性が欠かせないので、じゃあ自分でやれという話になります。動物は偉い。人に噛みつく癖のある飼い犬はその飼い主が100%悪いのですが、不用意に犬の顔の前に手を出す人も何割かは悪い。領域必中でいえば犬のテリトリーに侵入した時点でアウトなのだ。ダンドラのメイキングブックを改めて読んでみると、ハーパーの聖域にエドガンが足を踏み入れるのが物語の転機だったのだと実感する。エドガンは仲間は売っていないが、ハーパーの秘宝は手に入れようとした。レッドウィザードの財宝を盗み取ることで失った幸せを取り戻すために。ハーパーの矜持と家庭人としての幸せと義賊(?)としての中途半端さ。高名なハーパーであるゼンクと会うのは亡き妻と出会った時以上にエドガンは緊張したはずだ。なに一つ自分を大きくみせる材料がないから。メイキングブックの記事には共同監督の一人ジョン・フランシス・デイリーの言葉で「冒険者たちは悪の心と戦い、自分たちの気高さと名誉を守り抜く。泥棒稼業に身を落とすが、最終的にはサーイの侵略からネヴァーウィンターを救うんだ」とあり、エドガンがゼンクと会わないと何一つ始まらず、終わらない物語であったと説明がある。ゼンクは(笑ってはいけないが)完全無欠のヒーローで、ぜんまい仕掛けで動いているのかと疑うくらい神出鬼没に日夜、人助けに奔走している。冗談が通じないのが唯一の欠点だが、エドガンをからかって笑うという趣味があるのでエドガンさえいればパーティーがギクシャクすることはない。もしゼンクが身近にいたらと思うと、おちおちカップ麺も啜ることができない。酒を飲んだ後に食べる緑のたぬきは最高だぜぇと人生を満喫していたら、「アルコールと油分と塩の高濃度の摂取は身体に悪影響を与える。理解しているのなら止めはしないが、可能ならこれを最後にしたらどうだろうか」と説教してくるかもしれない。酔いが醒めるしメシが不味くなるので黙っててくんない? ゼンクは方々で英雄活動をしているので名前が知れ渡っています。パーティー内でゼンクとの絡みが多い順で名前を挙げると、エドガン、サイモン、ホルガ、ドリックの順になるはずです。私はドリックのファンなので改めてゼンク登場シーンからドリックがどこにいてどこを見ていたのかが気になります。(ドリックの食事シーンがあったかどうか、今のところ記憶にありません。ドリックがどんな顔をして食事をするのか、見たくて見たくて仕方がない。たぶん目の前にいてもガン見すると思うので、「3秒以内に視線を外さないと目を潰すけどいい?」と言われてしまうアホ冒険者がいたら私だ。)映画本編を通して見ると圧倒的に気の毒な登場人物はソフィーナ(二年間フォージとコンビを組んでいる)なのですが、霊的に満たされた真のユートピアを建国するザス・タムの理想を実現するためにフォージの傀儡となって働いています。大規模死霊術を行使する決起日まで辛抱に辛抱を重ねているので、フォージがしこたま集めた財宝のせいで計画が台無しになった時はたまらなかったことでしょう。アート&メイキングブックは英語のキンドル版を購入しているので、iPadの英和翻訳機能を介して読んでいます。なので訳文には首をかしげる文章も出てくるのですが、英文がすらすら読める体験は何ものにも代えがたい経験で本当にアップルとiPadには感謝しています。以下の文章は謎訳の例ですが、

 「(中略)彼は物事に絶対に怯えており、大きな赤ちゃんで利己的で失礼なことができますが、彼は努力しています。」松の発言。

——とあり、なんとなく意味は察することができるのですが、松って何?プロデューサーの隠語かなにかですか。・・・エドガンを演じるクリス・パイン(Pine)の名前を松(植物のマツ)と訳していました。自信満々で訳してくるので圧倒されます。主演男優の名を平然と誤訳してくるのは翻訳ソフトならではですね。使っている人間の感性が試されます。呪術廻戦では夏油が「術師というマラソンゲームその果てのビジョンがあまりに曖昧で・・・」と九十九に弱音を吐いている(コミック9巻P138)のですが、機械ほどに振り切れていれば悩みなんてなかったはずです。九十九⇔五条の間には大した因縁はないだろうと思っていましたが、親友だと思っていた人間から悩みの一つも相談されない五条悟という、九十九由基から見るとアオ春サイコーという爆弾がありました。いくらでも引っ掻き回せるジョーカーじゃあないですか。私が性格悪かったらとんでもないことになっていたよ。 フォージが絶対的に救えない悪党なのは、人が大切にしている宝物を誰よりも理解した上で、その宝物を我が物にする非人間性にあると思いますが、夏油は誰よりも非術師を守りたいという気持ちを大切にしたい(動機、きっかけが今日に至るまで不明ではある)が、なぜその為に辛い思いをしなければならないのか(悟はイカレバンバンにサイコーをキメているのに)まるで分からないわけで、ロクデナシの特級術師に弱音を吐いても親友には皮肉を言うのが精一杯な自分を強者としての才能と大義でごまかす道を選んだわけです。九十九もアオ春爆弾が怖すぎてどっかに捨てちゃおうと思いますよ。五条はあれで高専からの依頼を受けて、仕事をして伊地知さんたちに後処理を丸投げするというお勤めをこなしているので、九十九と比べれば健全な社会人です。九十九には変な魅力があり、夏油と、あと脹相ですか。まず他人に弱音を見せない地頭がガッチガチの偏屈な人間(葵もそうだ)がフランクに話しかけ(られ)る魅力があります。D&Dでいえば魅力値が人間の上限ギリギリか、なにかの間違いで勝負する瞬間にブーストできる特異体質なのかもしれません。悪役フォージはネヴァーウィンターの港で「欲しい物は恥も外聞もなく手に入れる。それが私なんだ!」と勝利宣言をするところがショボいピークとなっており、後は坂道を転げ落ちるように地位も財産も失います。小悪党の俗物臭を極めた男の末路には大して興味もありませんが、映画を見終わってフォージが今日も極寒の刑務所で0円スマイルをふりまいていると思うと、ハーパーの慎ましい四季のある暮らしが羨ましく思えてきます。映画『ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り』は、エドガンの持つ喪失感がすべての始まりとなっており、ホルガがエドガンを放っておけないのも、サイモンがエドに文句たらたらなのも、ドリックが見下げ果てた嘘つきだなこいつは(と途中まで思っていた)のも、ゼンクがなんだかんだでエドガンにハーパーとして返り咲いてほしいのも、結局は見込みのある奴なのではないかとエドガンに期待させる徳性があるからです。小悪党でも救いはある。しかしサイモンはなんだかんだで愛すべきダメリーダーの弱虫の原因を熟知していましたね。ドリックに「あの人なに怒っているの?」「サーイと因縁があってね…」「今度は何怒っているの?」「ハーパーとも因縁があって・・・」 苦笑いしているホルガが止めを刺す構図も美しい。ゼンクは有名人すぎるだろう。ヒュー・グラントの愛嬌のある悪役ぶりはこの映画の中で一番忘れられない印象的な記憶となりました。フォージは死ななくて本当によかった。ダンドラ映画と呪術廻戦との感想を混ぜて書き連ねているのでだらだらと五条悟、空港関連のことを書きますが、悟と傑の3年間の青い春で黒井さんが五条の空港にいてくれたのは、取りも直さず「ああ、これ。僕の妄想だ」と今際の際で五条は悟ったはずだと思います。理由を述べるまでもなく、五条は黒井さんに顔向けできる人間ではないし、黒井さんは死んでも五条と夏油に非難めいたことを言わない人なので、理子と黒井さんが笑顔で空港にいてくれることは100%の善意であっても、五条悟の心象風景の中ではいられないはず(いくら五条悟でもない)で、となると悟の妄想でしかないと結論付けることができます。そも、人助けは学習して覚えるものなのか、できるからすることなのか、助けを求める人がいるからするものなのか、高専では教えない。過度な利益を貪れば、それは報いとなって返ってくる。宿儺は気に入った人間に「お願い」と「約束」を使い分けてもてあそんでいる(前者はハイタッチを交わしたい気分で、後者は目を見た相手と握手。相手に土下座強要は通常運行仕様)。~してもらいたい、~したい、を概念上の考えまで持っていくと、身に余る贅沢とはなんだろうかという所にたどり着く。"呪い"の完璧な運用とは、そこの厳格な定義なくしては何も始まらないからだ。いきてかえりし——。際の際で決断するには、この幸せが自分の身に余るかを考えていなければ、できるはずはない。ヒュー・グラントが演じるフォージの奇跡的なバランスは、周りから迷惑がられても居てくれることで安定感が増す(ソフィーナの計画成就までのピエロとしての役割、映画内演者ともいえる)舞台装置としての希少性と堅牢性を兼ねている点が素晴らしい。他の役者では、フォージの持つジメっとした嫌らしさと突きぬけた陽気な性格、深い知性を感じさせて何も考えていない悪辣さを持つ人物を表現するのは難しいのではないか。コーヒーにコクがあるのはフォージのおかげと言われたらもちろん否定するが、案外その通りかもと言い分を飲んでしまいそうになるくらい、映画D&Dでのフォージの役割は大きい。権力者に取り入るキャラを説明しようとすると、もちろん権力機構の総体図があれば便利なのですが、どちらかといえばエログロナンセンスから見ていったほうが楽しいし分かりやすいというか、無意味に大勢死ぬからこその権力だろう(健全に皆が生活できるのなら統治機構など別にいらない)と思いますので、となると大人の社会人が電車の中で読む下らないエロだらけ(バンバン死ぬ)の雑誌がちょうどよいテキストだろうと漫画雑誌でも漁りにいくか・・・。(酒、アブラ、女、とくれば、まあ早死にするでしょうが、酔っぱらった勢いの妄言は嫌いではないです。才遊記3巻の武田のオヤジと芹沢の変な信頼関係は好きなんですが、武田のオヤジの健康がいつまで続くかはわからないですよね。)呪術廻戦の髙羽と羂索ですが、真希とカッパ&サムライでの意趣返しだとすると(心の中のモヤモヤを晴らすために戦っている)不殺を貫くのが己の欲望を満たす筋道となっている(結果的に)場合、その縛りが領域の強度を上げ、五条ですら叶わない領域の底上げが可能となるのではないでしょうか。対戦相手に「俺は味方(どこが!?)」とアピールをする狂人はなかなか理解し難いのですが、いや、やはり理解はできないでしょう。外堀を埋める、というイメージから漏瑚を見ていくと彼の目指した立ち位置は城の天守で沸かした茶を飲む数寄人というわけではなく、それなりの地位に自分たちと志を同じくした同士たちを導くために行動するテロリスト、といった感じになります。作中で五条と宿儺に弱いだの負け犬だのと扱き下ろされるので負のイメージが強いキャラですが、己の主義主張に殉ずるのは実際のところ呪術廻戦の世界ではイケている(宿儺が大好きそうな)人物であり、さっき書いた“ミニアマル私益”をほぼ完遂しているので最イケキャラの筆頭にいます。バランスの悪さを必死に矯正する髙羽(100人中100人に当てる気でいる)と比べると漏瑚はクソ真面目に必死(1人1人に純度100%で当てる気でいる)で、なんでおまえはそんなに純粋で真面目なんだ。真に純粋なサッカー小僧人間は我々なのだ。急に空気が冷えてきて漏瑚の人間ストーブが恋しい季節となってきました。屋外じゃないと火事になるし、火力調整ダイヤルがいい加減で人間火だるまが常態化しているので世紀末氷河期でもないと使えない欠陥品ですが、「寒い」「温まりたい」「ストーブ」「酒」「ゲラゲラ」と、漏瑚を肴に爆笑するには本当にいい季節です(2回目)。ジョジョ3部からの伝統ですが、炎熱使いはシンプルに強い(だいたいみんな熱いのが苦手だから)ので、熱がそう簡単には伝わらない世界(呪霊だと月の化身あたりが超寒そう)が欲しいですね。特級呪霊を創造でき、本人には別段変わった能力はない、あたりが舞台装置の座長としてちょうどいいかもしれません。迷惑過ぎるが嫌われてはいない、のバランスが取れている状態がほしいのです。殺したいが本当に殺したいわけではない。五条の登場で呪霊の存在が斜陽化するのと似ているように新しい娯楽に遊興産業が取って代わられる時、ベテランとルーキーのゴリゴリの摩擦は外から見ている分には腹を抱えて笑える出来事となります。斜陽と爆発とくると不穏でしかありませんが、自分が未熟者だと知っているキャラクターは本当に魅力的です。ロジックでなぜ自分が未熟なのかを第三者に説明できるキャラは愛せる。自分の爆発力のなさを露呈できるのは将来的に勝つ自信があるからです。少年マンガの場合では主人公が意味不明に基礎体力お化けだったりするので、ロジックで超えてくるキャラは基本いません。斜陽化とロジックは相性が良すぎるので、落ち目の産業にやり手が参入すること自体がおかしい。それでは理屈に合わない。のび太がキーくやしい!とかキーうらやましい!とか毎日毎日飽きもせずに他人の良い所を見ては楽してうまい汁を吸いたがるのには閉口しますが、最近はこの手のキャラクターは見なくなりました。NHKのブギウギで見た気もしますが、あれは夢は買ってでもつかみ取れ的な流れだったので少し違うか。唐変木とは変な漢字の言葉ですが、他人を罵る時に使います。エスパー魔美ではひょうろく玉という時代がかった罵倒語を使っていました。女子中学生が友人(の知り合い)に対して使っていて、意味は通用していたようなので高畑くんも驚くほど魔美の世界ではクソミソに人を貶す際の言葉が豊富に使われているようです。すごいな魔美くんは。一種の傑物だよ。エスパー魔美は第三話で母親からエスパーは気味が悪いと釘を刺されるのですが、高畑くんは魔美も呆れるほど超能力に前のめりに夢中となり、父親は人と違う個性を持つと平穏には生活できないと持論を述べるので、魔美はかっこよく正義を愛し私益に走らないエスパーを目指します。父の絵画が魔美の正義のエスパーとしての精神の根本なのだ。・・・・・・・・・・・・・・かっこ悪いのは愛嬌ですよ。チヤホヤ熱と興味、関心のバロメーターは魔美の世界では画面奥の神のサイコロステージで密接に関係しているはずで、圧倒的な関心の無さは暴力による支配を受け入れる下地となるので、徹底的に抵抗します。「もう飽きたよ」「馬鹿馬鹿しい。そんなことはしないよ」時間のむだむだ。魔美の前でそんな振りをするとおせっかい魔女の本領が発揮され、無血暴力魔女が破壊活動を開始します。高畑の情緒は誰が守るんだ。チヤホヤ熱は相互に与え、与えられる、一筋縄ではいかない関係性であり、スネ夫のび太の関係性がただ単に金持ちと貧乏人の関係かというと絶対にそれだけではない。スネ夫の持つ劣等感と自尊心はかなり複雑なので、与える側の人間が実は与えられる側の人間に少なからず嫉妬している(自分の持っていない物を持っていることが見えるからこその)いじらしさは私の情緒を激しく揺さぶる。時代劇のヒーローは基本的に何者でもなく何も持っていないが、誰もそんなことは気にしない。深く気にしたら負けである。何者でもないのに皆から慕われていることを疑問視することは怪獣や特撮ヒーローの存在を頭ごなしに否定することと似ている。理解できないから否定するのはTPOを選ばないと総スカンを食らう。わたしだけが笑えない世界があるとすれば、わたしが笑えるように君たちが努力してくれないかとスネ夫が祈る世界があってもいいはずです。それすらも他者からの押し付けの結果にすぎないとすると、そもそもおまえ、人生に笑いを求めていたのか?と思ってしまう。スネ夫ジャイアンを心の中でバカにしていますが、ジャイアンの個性である破滅的に下手くそな歌唱力を揶揄するかというと作中で逃亡や中止に動いたことはあれ、あんな歌をよく人前で歌えるものだと馬鹿にしたことはないはずです。スネ夫の美意識は父親と母親から与えられた本物の芸術を幼児期から大量に接することと、本物と接する機会が極端に少ない友人たちを見渡すことで生成されたといってよく、美の真贋を見抜くことはスネ夫の自分自身の自信の源といえます。鉄人兵団のミクロスはスネ夫の分身みたいな存在で、しずかから若干の信頼とほぼないに等しい腕っぷしの強さを見込まれています。つまり期待されていないのですが、やる時はやります。スネ夫と違ってしずかの決定的な危機に最短で行動できる短絡性があり、大物ロボットの予感があります。怖がりな気分にプライドがほとんど載っていない(恥ずかしいという感情がスネ夫と違ってほとんどない)ので、死活問題が発生しない。間違いを恥と思わないスネ夫は興味深い観察対象となることでしょう。自分と同じ種のアダムとイブの脳みそ改造を目の前で見せられて卒倒せずに「始めた仕事をやり遂げないなんて無責任だ!」と言えるスネ夫スネ夫じゃない。ラーメン発見伝の入口に来ている感じがしますね…。因果応報は全自動ではない。では、それをある程度まで人が任意にできるようになればいいのではないか。自分の罪が巡り巡って自分に返ってくる(自業自得?)のをほんのちょっとだけ手助けする形ですね。シン・陰の発案の原点はここらあたりではないかと推測する。領域があまりに無法過ぎるので弱者は身を守らなければ、逃げるまでの時間を稼がなければ全滅するしかないのでライフジャケットは装着しろという話。どのみち低体温症で死ぬが溺れ死ぬよりかは時間を稼げる。罪と罰の話ではないんだ。どちらかというと主題歌と戦闘BGMのせめぎあい。黒閃・・・。鬼タイミングの目押しでキメると気持ちいいとくれば、周回行動からの最効率の追求ときて、レースゲームのタイムアタック格闘ゲームCPU戦の打撃音が最も乗れる戦い方を延々と試す不毛なゲーミングを想像する。正月休みに発生します。お休みであったり休暇であったり息抜きであったり、誰に気兼ねすることなくのんびりしたいものです。ただしエスパーとスーパーマンに休日はない。映画を見たことはないですが、バットマンみたいな自警団は実生活に影響は出ないものなのでしょうか。金持ちの道楽でしかバットマン活動は成しえないのであれば、貧乏人がバットマンの真似事を始めるのは子供のうちから親に叱られるのが道理となるのでしょう。別に切り込む必要もないのに死地に足を踏み入れるのは狂人のすることなのですが、魔美の能天気さと劇光仮面の実相寺の切実さには近しいものを感じます。まあ、美しくて素晴らしいものに惹かれている点が似ているのですが、ここにスネ夫がいるとビビってビビって話にならないと思います。いつどんな場所でも常識と共にあるのがスネ夫ですから。実生活での経済力と社会人としての責任感と自負。スネ夫が魔美、実相寺と渡り合うには、そういった常識に囚われない連中に警告カードを見せる必要があります。エスパー魔美では魔美の母親が、劇光仮面では警察官の中野が、やりたくもないクギを刺す役を引き受けています。大好きな連中とつるむ楽しさと、社会のルールを逸脱しないストッパー役を兼ねるキャラはいいですよね。ワトソンがめっちゃ張り切る回は異色作になる(ホームズのやる気が微塵もないのに話が進むのは犯人の動機なんてどうだっていいんだよというホームズの非人間性、スターターモーターのポンコツ具合を無視しているので他の話と比べるとそれがどうしたとホームズが言いたいのを脚本で我慢させている、ワトソンの面子をホームズが気にしていることが変な緊張感を生む)のでレギュラーよりも脇役が光る。予算が潤沢で有名役者を長時間拘束できる環境は狙って作れるものではないので、時が来たと判断して動けるのは、動けない人と比べて何が違うのでしょう。(今、劇光仮面の無料閲覧期間となっていて2巻分を読んでいるのですが、中野が実相寺のおもちゃにされそうで見ていて怖い。「おもちゃじゃない。ヒーローの手足だ」とか言ったらゲンコツの刑ですよ)魔美、実相寺、スネ夫と、美的センスが狂っているのか、独特で理解に苦しむのか、自信があるのかないのか、スネ夫が恥も外聞もなく喚き散らす時はこの世の終わりだと常識的な判断のうえで行動する無意味さを嘆いているのですが、ドラえもんが唯一無二の異物のくせに、役立たずであることをスネ夫だけは諦めきれない。いつか説明してほしいものだ。特美研の劇光服付帯装備の訓練を見てなんとも思わなかった私ですが、冷静に変だという指摘を聞くと、確かに変でしたわ。割と常識人の切通が見たら正義の味方は変態しかいないと指摘をしようとして怪人側から言うのも変かと思いとどまるのでしょう。怪人が日常に侵蝕している、これは特撮に限らず刑事探偵時代劇すべてにわたって共通する下地だ。だから大概のやつらはしっぽがあってでっかいのは「怪獣」、人間サイズの異形が「怪人」だってことで納得しているんだ。が、もちろんそれじゃあ不満だよな。こんなのはどうだ? 寒い夜空の下で震えている子供にろうそくの火を届けるのがヒーローで、暖房器具を届けるのがサンタ。やけどするほど熱い缶コーヒーを持ってくるのが怪人だ。ヒーローは単独では状況を改善できないし、サンタは善意の大人だが正直扱いに困る。怪人は子供の状況は理解できても、状況の改善策を具体的には提示できない。人間じゃないからな。人間の真似事を繰り返すのが怪人だ。怪獣は街ごと焼き払うんだろうな。最初から無かったことにするのだから、怪獣が一番人間らしいといえるかも。怪異に出会った際に心がどう反応するかは誰にも分からないし、決めることもできない。恐怖を感じるべきだと理性が叫んでも、こころが歓喜に打ちふるえるかもしれない。絶対に出会いたくないものに出会った時に自分がどう対処するかは準備できても、自分が幼稚な人間だということを変えることはできない。守るべきものを自分でしっかり持っている中野の心構えは強固でかっこいいよな。(ヒーロー性と怪人性、劇しい光による覚醒ときて、自分しかいない世界での他者観察。どうしようもなく他者に関心がない状態での世界との関わり合い方。怪人が実在する世界なら、ヒーローが実在すると仮定できてしまう)そもそもの発端がバーン!と登場してドーン!と活躍してドカーン!と爆発して散る怪人は美しい、とうかシンパシーを感じるという切通のホビー魂から特美研は始まっているので、ゼノパドンを廻る一連の出来事で切通の魂の半分くらいは危なっかしい子供みたいな実相寺とその仲間たちの将来の心配に取って代わられたのかも。一巻のシャゴラス造形エピソードは切通と実相寺のイチャイチャエピソードに見えなくもなく、シャゴラスと伏龍はごく狭いフォーマットの中で生まれた既定期間内でのヒーローといってよく、設定された環境での最大の効果を狙って生まれてきた。ただし、シャゴラスはともかく伏龍の最大戦果は敵小型艇の沈没が精々で、大型艦の接岸に対抗するには何もかもが不足している。既定された枠と期待される戦果、それによって得られる肉親たちの平穏な生活。実相寺はシャゴラスに憎しみや怨念を感じておいて、造形の先祖的存在である伏龍を美しいと言っていますが、ここにははっきりと飛躍があります。切通のいう通り、いくら形式の要請があったとしても、それに殉じるのは哀しい。ここらへんが私の大好きな延々と擦れるストロングポイントとなっていて、他者からの強制は悲劇で、自分からの志願は美談(とはならない)というエセ道徳の匂いがぷんぷんしています。強制ではないから、熱望か希望か拒否か一つを選べと言われたら普通は逃げる。よほど絶海の孤島で嵐の中、定期便もない別荘内での殺人事件でもない限りは。特美研の日本刀の刃の上を歩くような仲間内で嘘をつかない情報交換は初代劇光仮面の相棒だった狭山章の嘘をつかない秘密主義に通じるものがある気がします。状況の設定、ガンギマリの登場人物、風評被害が甚だしい一ノ谷特技監督(5%必中、実話なの…?)、初代ゴジラを思わずにはいられないし、キボーガーエピソードの真ん中に特美は現実を凌駕する可能性を持っていると挟んでくるのは、いろいろと覚悟が決まり過ぎている。キボーガーの最終回ですが、本来の用途である民主化デモ鎮圧ロボとしてのあるべき姿と、キボーガーと鈴木少年との絆を見た大人たちの話になっていたのではないでしょうか。キボーガーが対人制圧、対人蹂躙を拒否するのは電子頭脳の故障でも、個性でもなく、日本国内で生産された電脳部品が子供の前では暴力行為はしないと最初からプログラムされていたからで、つまり、そもそも重大な依頼主からの契約違反を犯して生まれていたロボットだった。初期設定が狂った原因はなんであれ、キボーガーが無力化できるとわかれば、研究者の拉致か、鈴木少年とキボーガーを連れ去り、その関係を暴くしかない。キボーガーの世界設定はたぶんヴルードがそうであるように戦後日本であると思われますが、一ノ谷監督の作中の言である「Gはピカの災いをもたらすらしいけど焼夷弾10万発くらいの被災で充分だと思うよ」のセリフの怖さが後々効いてきそう。一ノ谷とGを実装し演じた島村との、Gってなんなんですかねというシーンは切通と実相寺の関係につい結び付けてしまいそうになる。逃げる準備は万端だぜ。Gがピカの化身であるなら、我々はGを躾けなければならない。現実の模倣が模倣たりえない現象(当たらない必中)、真なる宝が偽物にことごとく潰される現象、意味のない人助けが忌みもなく助けられる現象、すべて理に適っていない。悪しき前例はこの世から滅ぼすべきだ・・・。ウルトラの星、もっと高く!、暗黒の支配者、輝けるものたちへ、の連チャン視聴は確定だな。はぁー。切通はシャゴラスの造形から狭山の過去話を聞いた時に、星をつなぐ神聖さとその怨念の合体に多少は思いを馳せたのではないか。劇光仮面1945の劇しい光に目が眩んでいたにせよ、ね。実相寺のただのバカっぷりを見届けたのは切通と狭山だけで、ある意味、この二人は伏龍式呼吸法で先端に爆弾が付いた竹やりで怪人に特攻しそうな若者の後見人に為らざるを得ない。死んだら夢見が悪すぎるからです。実相寺の部屋に狭山からの手紙が置いていないようですから、切通宛てに狭山が手紙を書いて送っていたと考えられます。だいたい夏の雨でびしょ濡れになり、人の家の一番風呂を一回も断らないで「すみません」と受ける実相寺を見て狭山がどう思ったか、いや全然わかりませんけどね。正月三が日も終わり予想通りにぐーたらし過ぎて身体が重い、鈍い、切れもなんにもないと申し訳ない年明けとなりました。働いて結果を出している人を見ていると、とりあえず起きて布団を畳んで朝飯食って身体を動かすかという気分になります。腰を痛めないように気をつけよう。呪術廻戦の最新コミック25巻を読んだのですが、これは万を好きになってしまう。なんでも構築できるのに画一的な運用ばかりとなっているので予習大好き人間から見ると全部進〇ゼミでやったとこと娯楽の一環にされてしまった。ひたすら宿儺を求めているので多種多様な味付けがお好みの宿儺様から見るとすぐに飽きるのが致命的でしたな。追いかけても追いかけても捕まらない鬼ごっこ(気色悪い)の状態がデフォルトならやりようはいくらでもあったでしょうに。秤の、俺は"熱"を愛している、のセリフもそう考えるとすげーキモいセリフのような気がしてきた。領域展開とそれに付随する効果の必中は呪術廻戦のリアリティを底上げしていますが、必中の条件をイジり始めると作中最高の解説役の人をイジめる結果となりそう。正確な計測によるデータの蓄積と、出力される結果との因果関係を説明できることは、ハズレを可能な限り減らす生産安定性の責任者の大事な仕事の一つですが、結局は過去の経験から推測される可能性の話なので、私としては正確なデータを集める方法に注視して、あとは誰かがなんかやってくれるのではないかなぁと、羂索がゴミ以下の嫌悪しか抱かない行動しない人間を演じようとしています。弥勒菩薩と観音さまは違う存在なんでしたっけ? スペリオールの最新号を購入して、劇光仮面、らーめん再遊記、の順で読みました。私の情緒がかなり攪乱されましたが、やはり夏川新情報はかなり衝撃的で、そのうえ『麺屋なでしこ』について原田の忌憚ないコメントが聞けるとくれば、和文は逃げたほうがいいのではないでしょうか。あんなぼろ雑巾に「私」「俺」が、負けるわけないだろう! お得に生き抜こうとすることと、祭りの熱に後ろ髪を引かれている状態は基本的に両立しない。自分の幸せは熱狂の中にこそあると頭がおかしい状況を自身で設定できる人間がヒーロー足りうるのでしょう。他人の権勢と財力を当てにするのはゴミカスです。祭りと訓練は近しい関係にあると思われ、非日常を受け入れるには事前の訓練が必要です。非日常とはなにかといえば、普通ではない状況です。事前に準備できる非日常はお湯のないカップ麺に納得できることを指すのでしょうか。劇光仮面の最新話を読んで怪人である亜門に少なからず感情移入をしました。必ず死ぬと書いて必死。対して実相寺は万に一つの命中、劇光のかがやきを受け継ぐことに使命を感じているのですね。これは茶化せない。間違った信念だろうと思いますが、本物の怪人と対峙してしまった実相寺に言葉は意味を持たない。切通がいればなあ。ただの勘違いで済ませればいいんじゃないか。それを亜門に聞かれたら本気で殺されるのですが。あいつ今までどうやって生きてきたんだ……。亜門を笑わせる大喜利でも考えてみるか。万に一つ…。映画好きで甘いもの好きときて変身願望がある青年。プロパガンダ映画にノリノリで乗っちゃうところが怖いよなあ。感動と恐怖のごちゃまぜ状態で時間が止まっている怪人。偽物だと分かっているのに本物だと思った感情の更新を期待しているようにも見える。映画を見る目的も娯楽というより、映画を作る人間への理解を深めるための努力だったのではないでしょうか。実相寺の特美への心酔ぶりは鼻についたでしょう。実生活で他人の溢れ出た感情に共感できない場合、ほぼすべての人はその人への態度を保留するはずですが、人の作った"万に一つ"に感情を揺さぶられ人生が決まった亜門の独白を聞かされた、その相手が実相寺とは・・・・・・・・・・・・・。仮面そのものが現実を覆い隠す脅威であった場合に二矢はどう行動するのか。誰に対して恥じない行動を取るかは仮面は教えてくれない。組織末端の兵士は仮面に殉じたとしても、組織の頭が仮面の物語に良心を預けるのは人間を辞めるに等しい。見て見ぬふりなんかできないのは仮面のせいだったんです。すべては仮面のせいですと、教科書を墨で黒塗りにすれば仮面の呪縛は解けるのか。そん時は"本物"にしか見えんかったが、今観りゃどうなんだという話です。劇光仮面世界に亜門たち人龍を解体、あるいは人間に戻そうとする勢力があったとして、果たしてその欲望が、善なる性質で満たされているか。まず、100%、やりたいからやっているだけだと思うのですよね。そのうえで、人龍の心のメンテナンスをする部署が途中から生まれてくるかもしれません。物語の補填、作中の一ノ谷も青年から大人になるにつれ、大スターへの憧れに屈折した心情を感じていたはずで、より精緻な本物と見紛うばかりの特美は、少年たちがそしゃくできないような憎しみや怨念を孕んでいても不思議ではないでしょう。ただ、実相寺がそれを見てどう思いどう感じるかは実相寺二矢の話になるので、能面の上に実用性しかないヘルメットを装着する伏龍は美しいと2段構えの自己否定、後戻りなしの変身に固執する実相寺は・・・ある意味では、確かにヒーローです。狭山先生・・・・。魔美の父親、佐倉十朗にとってヒーローとはなんなのか、魔美から十朗に聞いてほしいし、巻き込まれる高畑が「お言葉ですがそれは違うと思います」と形だけの反省を言い訳の道具に使う大人に欺瞞があることを口にしてほしいとも思う。こいつ危険な男だな、と十朗からマークされることに高畑は不義理は感じても魔美に恥ずかしい男だと思われる筋合いはないと判断すると思います。こう、高畑が自分のことで激高する場面は、なかなか想像できない。他人から低く見られても高く見られても、他人の評価は参考程度にさせてくださいと自分自身に強い芯を持っているのが高畑です。山口貴由氏も劇光仮面1巻のあとがきで書いていましたが、仮面は臆病者の発露でもあります。エスパー魔美の物語フォーマットが強固なのはひとえに魔美の生存を優先する意思があるからで、仮面をつけた悪党がのさばる余地はない。ここで「魔美はエスパーという正体を隠して世を欺く魔女ではないか」と指摘されると少し弱い。高畑はあまり目立ちたくないという歪んだ性癖の持ち主なので、本人の意思とは関係なく意外性を発揮する。黒雪妙子は高畑のどこに惚れたんだ。(たぶん、無実の罪を妙子から着せられ、解決し、恩着せがましいことを言わなかったのではないか)高畑は嘘がつけない人間だと指摘したのは、作中で妙子だけかもしれない。評価されないことと対象への思い入れと世間とのギャップ。高畑が自分の意志で魔美から距離を取りたい(「友情はクシャミで消えた」)と伝え、また魔美が周りの人々から距離を取られた際に、その噂の根拠の不確実性を暴く高畑(「魔女・魔美?」)と、自分が傷つくことと他人が傷つくことの勘定を高畑は中学生離れした冷静さでこなしてみせる。他人の一生を誰かが背負う必要はないと狭山が切通に伝えたとして、ヒーローの活躍は異質すぎてその範疇に収まらない。そもそも託されていない(委託と受諾が発生していない)のだから、夜空の星を見上げて神託を受け取るヤバい人と差はないのだ。ヒーローは。妄想は自分に都合よく始めると歯止めがきかない。今際の際にナウシカに登場するクシャナに歌ってもらいながら看取られたら最高と妄想したら、自分でも過去最高にひくほど妄想が悪化した。最新号のスペリオールの劇光仮面を読んで思うことは、りまが劇光仮面1945の話を切通からはじめて聞いた時、紙面の上には出てこなかったが、[生き残ったのに何をやってるんだその男は][実相寺くんが影響されるね。仮装した正義の味方、彼にぴったりだ]と呆れていたのではないかということです。一生、可能な限り、グダグダしていたいという強い願望があったとして、その願望に対するアンサーがヒーローだとすると、折衷案を提出するなら——。一巻でりまが言っていた、「尖りまくりのメッセージをスポンサーと大衆は嫌うので、広く作品が受けた後は皆大人になっていく」現象は刑事ものと時代劇にはピンポイントで急所を撃ち抜いていて、悪党に人権はないし、そもそもミカドヴェヒターは死体をベースにした人造兵士なので基本使い捨てなのだ。ヴェヒターの停止は肉体の損壊ではなく、生まれた意味を死体の持ち主に再確認させる信号を打ち込むことで果たせる。やはり狭山章の心象は気になる。結局すべては消耗品だったとして、なにをしたかったのか、初代劇光のすぐそばで将来に一切の希望を持たず生きることに執着がないアホんだらの相棒として昭和平成令和まで生き抜いた狭山の実相寺評ですよね。明確な敵意と悪意が存在しない、ピクニックにいくような気分で凶行に及ぶ輩に法を説くのは徒労であるし、自分の身を守らない人間に危険な仕事をさせるのは社会人として容認できない。陶淵明の詩で「時に及んでまさに勉励すべし、歳月、人を待たず」とあるそうですが、狭山の若者への思いはこの詩と同じで若い頃にこそ遊べ、であると私は思います。俳優・監督のクリント・イーストウッド氏はまだご存命だったでしょうか?暴力の適正運用はマグニチュード9の地震を拳で殴って止めるのが理想なんですが、往々にしてしょっぱい悪党を毎週成敗するのがせいぜいです。形にならなくてもよいのですが、一ノ谷と実相寺の関係性は興味をそそられます。実相寺がちょっとどうしようもないバカなのは脇に置いておいて、物語の実質的な太陽と雲である一ノ谷の予測不可能性、単純にいえば、どこを目指しているのかがよくわからない偉人の迷惑っぷりが気になります。一ノ谷のヒーローが一ノ谷を都合のいい映画技術師として見ていたのか、水野ユミが真理りまを自分を窮地から救うヒーローとして見ていたのか、真理りまが実相寺を現実が見えていない痛いヒーローとして見ていたのか、この手の話では物語の構造上、誰がどれだけ我慢しているのか、実相寺がりまを見る目のやる気のなさ(なんじゃこいつ)は最高と、物語上もっとも無慈悲で平等なのはおそらくB29から見た都市上空からの視線であると思われます。大量の視線と爆弾(or焼夷弾)。得体の知れない力の使い道の話となると、田辺イエロウの『結界師』がほぼほぼ道しるべとなっていて、ゴジラが誰かのために熱線を吐きたいとか言い出したら魅力減だからヤメロとノータイムで言ってしまいそう。実相寺の信念である仮面の物語によって人並みの良心を得ることができるという考え方は、中身が空っぽの人間は仮面の力で何者にもなれる可能性があると宣言できる狂信性を持っています。ほぼ皆、実相寺を誤解していますが、彼はミカドヴェヒターを裏切れない共に心中する覚悟がある人間なのであって、急迫不正の侵害を見て、見て見ぬふりができない人間ではない。そういう時は警察に通報するのが最善です。暴力を肯定する権力の背景がヴェヒターにはあったはずなのに、映画『空気軍神』ではその背景は剥ぎ取られ力のみがヴェヒターに与えられている。ただし彼の仮面の物語は失われていない。そこにヒーロー性があると実相寺は見たのでしょう。ドラえもんのび太のように、ヴェヒターと実相寺は、人が悲しい時に自分も悲しいと感じて人が幸せだと感じる時に自分も幸せだと感じることができる人間らしさを手に入れるのでしょうか。ネズミを殺すにはまず地球からダ・・・。真なる狂気に仏性が宿ると説けば迫害待ったなしだな……。ただの狂気ならその辺に溢れているのに。何事もそうですが、一見して似ている二つの建物があり、規模、構造、目的、収容人数、建築年数、日々の運用方法と、なぜかわからないが惹かれる存在があれば、どうして惹かれるのか(割と碌な思い出がないのに)を箇条書きにして比べてみるのも楽しいのではないでしょうか。人ならぬ身でヒーローと化す。実相寺がそうであり、りまが実相寺を見て呆れ惹かれたように、オリジンの敗北性を複製が覆すことはない。あれば混乱が起きる。劇光の特徴の一つに持続性の短さがあり、また、声を大にして言わなければならないことは当事者から他者への伝わり方がほぼ期待できない絶縁性があるということです。私も劇光仮面を最初読んだ時は、ちょっと気持ち悪いマンガだなと思いました。『スチールレイヤーたちは、これをエクゾスケレットの反転と呼ぶ。』と話しかけられた時はマジで聞こえなかったふりをしようと思ったものです。考えてみれば私たちがスフィンクスと呼ぶ建造物も建造当時の人々がどのように呼んで、どんな気持ちで見上げていたかなんてわかるはずがない。劇光もその心情に似ているのではないかと少し思う。だからスフィンクスになりきるのだ、とか魔美みたいなことを言い出したら絶交です。粗雑さの対極にある自然環境の中で原型を保てない造形がそこにあるとして、実相寺のヒーローの実在を求める心性は極限状態での実存を追求する劇(はげ)しさであるといえます。熱したフライパンの上に水滴を垂らすと踊るように水滴が跳ねる現象、ライデンフロスト現象を思わせる。消滅するのが大前提です。「子供だまし」と「嘘」を手のひらに乗せてエスパー魔美を読書してみると、やはり高畑が気になってしまう。嘘といえば高畑の嫌いな物、堂々の第一位で、子供だましといえば『スズメのお宿』事件で高畑とお宿の老主人の趣味が完全に合致しそうな予感があります。老主人は大会社のオーナーで大地主なのですが人付き合いを嫌い会社の経営権を譲渡して、大邸宅の離れ小屋に引きこもって生活しています。そこに魔美が闖入してお節介を焼くのですが悲劇は置いておいて老主人の質素な生活のなかの趣味がことごとく高畑の感性に衝撃を与えそうです。魔美のつくった食事を残らず食べる老人、文句もいわず美味しいといってくれた、とくれば誰だってその老人に好感を持ちます。物語では魔美の同級生のお母さんの友人が、その老主人の息子と駆け落ちをして十年ぶりに再会するお話となっており、高畑はいてもいなくてもいいお話なのですが、老主人から見れば会ったばかりの青年(高畑)から敬意と尊敬を受けて大事にされることが嫌なわけがない。そしてそう遠くないうちに十朗の個展を見に行き、魔美よりも高畑に興味を持つだろうと思います。魔美は純真な乙女(高畑談)ですが変人でもあるのでそういうこともあるのかと自分を納得できても、高畑の性格からいってこの状況に平静でいられる君の考え方を聞きたいと、魔美のいない所で真面目な顔をして聞いてくるだろうと。「なぜだ?」 実相寺がヒーローに持つイメージはあくまでも“ヒーローは実在する”ことの証明であって、自分がヒーローになりきることが目的ではない。切通は自分の身体が病気におかされて長くは生きられないと実相寺に告げているので、なんとなくですが、だから実相寺には(無理そうな気もするけど)長生きしてほしいが、こいつ仮面を被ると人格が変わるからナーと、諦めと願いを実相寺に託しているような気がします。(※ スズメのお宿を読み返してみると「うまそうに食った」は魔美からみた主観であり、老人は「是非もない、覚悟を決めて食べよう!!」と魔美の前で言っているので、わたしは嘘をついていましたね。いかんいかん)最近、藤子・F・不二雄大全集のページをまじまじと見てペン入れの強弱にはっきりと筆圧を感じることができる鑑賞法を知り、ちょっと愕然とした思いです。言葉を選ばないでいえば、本当に信じられない。驚天動地の大事件であるといって過言ではないです。子供だましといえば刃のない軽い素材でできた模造刀でちゃんばらごっこをして斬られたふりをする時代劇は、ただひたすら嘘をつくフェイクニュースであるともいえます。ドラえもんひみつ道具のび太の夢をかなえることと少し似ている。昔の時代劇はオープニング曲が始まる前に口上を述べる様式があったのですが、あれ、これから大嘘をつくけど野暮なツッコミはするなよ、内容によってはそちらの命に懸かってくるので努々忘れてはいけない(シリーズものだと口上が洗練されてくる場合がある)と親切でいっているのかもしれないですね。実相寺に毒されてきた人間の台詞。劇光仮面と時代劇(マンガ)は庶民の哀しさが強調される傾向があり、実相寺の悲哀は人間なのに人間らしい幸せを求めようとしない、周りの人間も実相寺に気を使って幸せになれと世話を焼いたりしない、中野がかつての相棒だった実相寺の孤独をすこしでも和らげようと奮戦しても実相寺はまったく乗ってこない。この世の中には捨てられた子犬にも自分だけのプライドがあるんだと僕は知っているとか言い出しそうな実相寺を特美研のメンバーは見守っている。境界での誇りの話となっていて、実相寺と魔美の類似点はその現実と主観世界の垣根を軽々と越えてしまう非現実性にあります。ルールの逸脱と表裏一体なので、嘘が嫌いな人間にはなかなかできることではない。いかに社会適合性を学ぶか。その必死さを(現代日本では中学、高校時代に、命がけで学ぶはずだ)思い出す。藤子作品なんてどうでもいい、それどころではない(10代の友人たち。私もそうだ)と、とにかく大変だった(そして周りの人間と比べて私はボンヤリしていた)。劇光仮面の中野は本当にやさしい男で、怪人化した藍羽ユヒトとの出会いを神の祝福と受け止めた実相寺にヒーローならそう思う、現実と戦う人間なら病原による症状と判断するだろうと、同じ物を見ても見る人間が違えば見方が変わることを当たり前のこととしている。エスパー魔美でわたしがこだわるチヤホヤされることの処し方として、一つの理想形であると思います。暴力と生活苦の怯えがない暮らしがあって人は礼節を知る。実相寺のアメイジング・グレイスの件は劇光仮面本編中でもかなり常軌を逸している場面で、スペリオール最新号掲載の第42話「怪獣モルグ」を読んで、成田いちるもその劇光に列する人物であると認識しました。正気じゃない人間は怖いよ、とも思うのですが、いちるは祖父の特美造形への思いに強い憧れがあるのでしょう。ここでなんとなく気が付く。劇光仮面の作中ではっきりと怒りを露わにする場面があまりないのではないかということに(結界師の正守の顔が浮かんだのは内緒)。アモンもイリスも戦っている理由は自衛ではなく自分たちの大切な人たちを守るための他者防衛が暴走した結果であると思われ、ネビュラブッディから見ると、アモンとイリスは自分と同類の存在だと判断できるのではないでしょうか。また、ネビュラブッディ本編で彼(彼女?)が怒りに我を忘れるエピソードがあったとして、プッツンしたブッディを抑止する仲間はいるのか。犬の十戒のように自分を飼うための戒律のようなものです。人類のために生み出された利器が必要なくなれば宇宙に捨てられ、ひょんな理由で地球に帰ってきてしまった場合のように。ゴミだと思っていた物が人間のなれの果てだったのは、くり二号受容体として劇光仮面作中で登場していました。二矢工房とその一味がくり二号正常受容体を秘密裡で拡張する計画の障害と判断したからこその、奥多摩ロープウェイ廃駅ソロキャンプ襲撃事件だったわけです。第42話を読み返してみると「まってユーリー。」からの展開が熱い。いちるの「今の私は劇光仮面ネビュラブッディ。」のキマり具合も凄いのですが、ページをめくると実相寺のネビュラブッディ解説がごく自然に始まり、きっとネビュラブッディならそうするだろうけど、自分らは現代人ですから警察に引き渡しましょうと実相寺も正気発言をするなか、実装を解いたいちるがブッディに成り代わりブッディの慈愛をアモンとイリスに指ししめす。さらーっと流しているのですが、ブッディの銀色と金色がイリスの中で変換されていて、この世ならざるブッディをイリスは観測している模様です。怪人が現れるのは劇光と関係があるのか。本当に実相寺たちはヒーローなのか。私たちが立っている地面そのものが消えてなくなってしまうような熱いストーリー展開を期待します。ままよ、映像ソフト化がされていないキボーガーと誰よりも速く劇光を浴びた中野は、劇光仮面世界でのイレギュラーである、“在って”ほしいと私は願っています。劇光、劇光、と書いていたらターンAを視聴したくなり、最終話をまた見てしまいました。ギンガナムにまともな副官っていなかったんですか? 身近には絶対にいてほしくないギムですが、火の扱いに関しては誰よりも真摯で限界を知っていそうなので暴走さえしなければ(我慢を知る紳士であれば)男でも女でも惚れるナイスガイだったでしょうに……。副官は死ぬ。ディアナ・ソレルへの思いは、もう少し詳しく言ってから退場してほしかった。あれではロランが話題にすることもないだろう。責任と立場の鬱陶しさからの解放は、同じ立場の人間にしか話す意味がないはずでロランという当たりくじを引いたディアナには、ギムに外れくじを引かせた負い目をちょっとでいいから持っていてほしいと思う。ターンエー小説版はいくらぐらいだったかな・・・。(対等だと思っていた相手からただの飼い犬だと思われていた、餌を与えなければ餓死するだろうと思っていたら首輪の鎖を自分で外して暴れ出したので別の犬を飼って共倒れを狙った、飼い犬から主人への愛情は変わってはいけない、オリジンの不可逆性、一ノ谷の筋の通し方。見られていることの安心感・・・。)フケイもブケイもコッケイもない。劇光仮面の主人公として私が実相寺に惹かれてしまう理由の一つに行動原理の入れ子構造があります。なんてことはなく、一ノ谷がそうであったように他者の理想を糧にその理想を実現させるために行動することです。これはとてもグロテスクな様式なのですが、種々様々な形で現出します。犬が持つ主人への愛情と、愛情を与えられる飼い主という関係も、穿った目で見れば犬が持つ主人へ仕える心情を人間が勝手に犬の愛情と思い込んで、飼い主がその心情に応えてあげようという構造になっているといえます。赤穂浪士の吉良邸討ち入りがそうであるように、亡き人へのおもいを成就させる(どっちが主人で飼い犬か)構造です。劇光仮面では「主人と奴隷の関係」と、りまが中野に言っていたかな・・・。劇光仮面は星々の光を劇的に見る人の物語なので、時代劇は娯楽だと割り切っている人間(食事は娯楽。「ワクワク」なんです。)からは相性が悪い。まさか才遊記の第二杯をひっぱり出してまた読むことになるとは。ラーメンの再定義を迫ると有栖に言わしめた原田の作品も、フムフムとワクワクの本質から外れた、孤高に触った故の袋小路状態だと推測します。タイガーⅡは至高。 ワクワクの先に黒歴史があると仮定すると、この話題は一気に身近になります。欲望の解放を他人のせいにしないディアナにはまだ理性と羞恥があります(悪くないとは言わない)が、先祖代々が積み立てた保険の履行を忠実に実行する気満々のギンガナム(王家を守るのか、月面人類の守護者なのか。黒歴史アーカイブを見てしまった後のギンガナム艦隊の役割。副官が重要なのは月面人類の行く末をギンガナム艦隊が掌握する未来予測が容易だということ。比較対象がないのは恐怖でしかない)は墓荒らしを食い殺すつもりでも、ただ立ち上がって歩き出したいだけなのかもしれず、赤ん坊と老人の世話を根性と愛情で実行するパワー介護者がロランであるといえるだろう。再遊記の単行本9巻はインスタントラーメン編となっていて、最初に読んだときは芹沢のインスタントラーメン愛はチョロイぐらいにしか思わなかったのですが、今、スペリオール本誌で連載中の原田編を見た後に9巻を読み返すと印象がガラリと変わります。芹沢が有栖と和文たちと一緒に日本各地を巡った即席乾麺の旅が本当に楽しそうで、見ている読者の私たちも笑顔になってしまいます。瓶ビールと缶ビールが袋麺とカップ麺の関係と似ている、というのは意外な発見でした。ご当地袋麺にはニューウェイブ系に通じる自由奔放さがある、という有栖の発言にはニヤリとさせられます。偽物と本物に垣根はあるかという話題にもちょっと絡んできていますね。才遊記の第二杯で有栖が言った「多少の荒削り」と「洗練」の間にはワクワクとフムフムが潜んでいる、ラーメンはワクワクしていてほしい・・・って、有栖はいつも同じことを言っていますな。ワクワクしないは、殺し文句として二流ですが有栖が言うと説得力がありますね。塩匠堂事件もかなり辛抱強くお話を引っ張った印象がありましたが、スペリオール掲載の最新話でハイスペック醤油ラーメンの上っ面だけを真似た安易な偽物が登場して、「悪貨が良貨を駆逐する末路」と芹沢が危惧するのも、なんちゃってヒーローコスプレが世間に蔓延する劇光仮面の世界と重なる所があります。塩匠堂事件は本人が意図せずに羊頭狗肉の状態に陥る悲劇を、耄碌した本物では見抜いて戦うことができない、と示しました。今、東大の令和五年二月二十五日、午前九時三十分から開始したはずの試験問題を読んでいるのですが、月光仮面に言及しましたね。『そして、テレビの画面のなかで繰り広げられる現代の仮面のヒーローたちの活躍もまた、それと同じ欲求に根ざしているのである。』ひょー。『暴れん坊将軍』以降、若き吉宗の後継をついに創造できなかった苦っーい時代劇ファンの深淵を衝く発言。もちろん仮面ヒーローの話をしているのだから、私のただの言いがかりなんですけどね。清潔な寝床、豊かな量の飲み水、その水をお湯に変える豊富な熱量、栄養バランスが整っている食事、そして避妊。ナイチンゲールは病床を清潔にすることで死亡率を減らし、死亡に至る経緯とその対策のために統計を取り資料を作成し傷痍者を減らす活動をしたそうです。クリミア戦争の名は知っていても、時代と場所については何も知りません。ネット検索してみますと、1853年から1856年にかけて起きた戦争であり、日本でいえばペリーが浦賀沖に来航した年が1853年で、立て続けに米蘭露英と条約を結びハリスが下田にやってくるのが1856年。ハリスの身の回りの世話をしたのが下田の人々だったようです。ときにシャーロックホームズシリーズの作者、コナン・ドイルはその3年後に生まれていますね。シャーロックホームズシリーズ当初の最終話前日譚である『海軍条約事件』は私の大好きな話で、ホームズの対人情緒スキルがかなり壊れている名作です。ホームズは胡散臭い男ですが、スコットランドヤードに貸しを作ることで社会的信用を得てきた唯一無二の変人です。ワトソンの存在がどれだけホームズのトランキライザーになっているか、ちょっと想像するだけでも怖い。グラナダ版ホームズを小説を読んだ後にみて自分の視覚イメージを再確認する視聴方法をとっているのですが、街並みと生活する建物内部の様子が次々と映像で表現され、シドニー・パジェットが描いた登場人物たちが動いて会話しているドラマを見ていると不思議な気持ちになります。海軍条約事件ではロンドン行き列車内でのやり取りは残念ながら再現されなかったのですが、私はてっきり冗談かと思った——、というワトソンのデビッド・バークの演技はぜひ見たかったですね。そして最新話の劇光仮面です。心身共に傷ついた真理を元気づけようと気合の入った劇光服のデザインをりまに語る実相寺。中野には空気読まないくせに、りま相手には実相寺なりの気遣い(ベーアサーダの戦闘力強化を提案)をするのですが、まったく相手にされません。存在しないはずだった怪人と戦い無力化するための機電、ミカドヴェヒターがそうであるように、存在が秘匿され恐怖を流布する兵器こそが威力。鉄仮面少女は恐ろしい奴だったけど、次に会敵する時は真理が衝撃を与える側になればいい。その戦果で失われた視力も取り戻せるはずだ。僕は協力を惜しまない。喜んで真理の新兵器の実験台になるよ・・・。誰だよおまえは。動機が不明過ぎる。単純に考えれば、九千九百九十九の実験失敗を経て、限りなく必中に近づけようとする実相寺の意志なのですが、本当におまえはいつの時代の青年なんだと言いたくもなります。実相寺には常識がないのですが、常識とは好きか嫌いかで語られる要素なのか。呪術廻戦の五条は皆が知る「正論が嫌い」派の人間ですが、宿儺はあれで正論が大好きなのではないかと私は疑っています。呪術廻戦世界での正論中の正論は、「特級は術師の格付けの中でななめにハズれた位置づけ」「1級こそ他の術師、延いては呪術界を牽引していく存在」「危険・機密・俸給、準1級以下とは比べものにならない」「それを踏まえて言わせてもらうと、最初から特級に勝つ気のない1級など鼻くそ以下の価値しかない」「みんな日下部が大好きなのは、五条に対抗し得る可能性のある唯一の1級術師であるから」「それはそれとして、まず五条には勝てないだろう」五条対策をシン・陰一派が布瑠部由良由良の他に見つけようとしていたのか。弱者を守るのが、シン・陰の真骨頂であるなら、五条と禪院にスパイがいるのも道理にかなう理屈になります。真希も宿儺戦から一時退場しましたが、私が真希で気になるのは呪術廻戦0での「聞けよ。なんで私が落ちこぼれか」と憂太に問いかけたシーンの前後で、そこには真希から見た世界からの視線が、ダセェ落ちこぼれ、恥ずかしー奴、あんな人間はいらない、と蝶よ花よと育てられることには無縁だった子供時代の面影があります。東堂の少年時代はケンカ、ボコる、つまらん奴をボコってもつまらないだけ。退屈が世界を覆っているなか、ファイトの中身を評価する美女が唐突に現れ世界が裏返ったわけで、顔面死球を東堂に投げつけるだけの理由が真希にはありました。今気が付いた。チヤホヤ熱。ううん、むずかしい問題だ……。私はまっさらにしてやりたい欲望が対象への大小の差はあれ存在していますね。イデオンの主題歌がよく心情に合う日だ。呪術廻戦の新刊は買って読んでいるのですが、現時点で日下部のキャラクターに過大な期待を持ってしまいました。コンピューターが弾道の計算をするために生まれて成長したように、呪術のうんちくを当代一流の呪術師がありえねーことに解説をして周りがつっこみ宿儺の術式が五条につられて成長するという現象に別ベクトルでも使えるのではないか、呪うことは相手に禍根を残すことででも達成できるので、日下部には最後の最後まで生き残ってくそだせぇ呪いの解説役を全うしてほしい。五条悟にあまり興味がないからとはいえ、私は日下部に本当に酷いことを言っていますね。肩代わりできないと分かっていることに代役を当てはめたらどうなるか意見を言ってみてくれと九十九由基に聞けたら人でなしの称号をもらえそうです。アップルの創業者の一人スティーブ・ジョブズは学生時代にタダで長距離電話がかけられる違法装置を作って販売し荒稼ぎをしていたそうですが、彼は身近な情報機器が世界と繋がっていて人々の生活と密接に関わっていることに心震わせていたのでしょうか。エスパー魔美のチヤホヤもサービス精神とかっこをつける心構えの相互作用であるのだろうとなんとなく思う。魔美の父親、佐倉十朗が誰に対してかっこをつけているかは、読者なら一目瞭然であるだろう。もしエスパー魔美に続編の製作が発表されるのなら、十朗の連作『少女』の完結への意気込みが主体になるのでしょう。物量と熱量が十朗に求められるので、まず十朗の妻が止めるはずです。エスパー魔美をほんの少しだけ再読する。サマードッグの余韻に浸る間もなく名犬コンポコポンを読むと、「しかし、念波もクソもなかった」と酷い解説文が挿入されていて苦笑。ここだけパーマンやないか。無事、コンポコは泥棒をつかまえるのであった。アマプラでこの話のアニメを視聴すると泥棒役の声優が千葉繁さんだったようでコンポコにがぶがぶ噛まれていました。がぶっと噛まれるといえばレジィ・スターですが、千葉繁さんの声で聴いてみたいですね。レシート内容の再現をする際の嫌みったらしい声を誰が演じるか、興味があります。今際の際の善行だぜ? 術師が持つ己の死の概念に最も近い要素を摘出してプログラム化したものが術式だとすると、虎杖の術式は宿儺に準じた術式になるのは避けられないだろう。虎杖が人生で初めて死の恐怖に泣いた時、なんの興味もなく助けてくれたのは宿儺でした。社会通念上の檻、刑務所の中の秩序、火影の統治下における里内忍者の安全と、なんの疑問もなくヒルゼンが大蛇丸を含む里の子供たちを守り育てること、崇め奉り退屈の檻の中に封じる行為の動機、収拾がつかなくなるであろう次期火影のスタンス。呪術廻戦で宿儺を20分割して封印する案を考え実行したのが誰なのかは明言されていませんが、羂索と天元が一枚以上噛んでいるのではないかと思っています。長生きしているキャラだからということ以外に大した理由もありませんが。呪術にあまり興味のない私は真希の行く末がどうなるのだろうと思って本誌を追いかけていますが、宿儺の分割・合体について日下部も交えて解説が始まったら、本誌、Twitter(X)、ネット上の解説、知り合い・他人の与太話でもなんでもいいから知りたい。本作一番の激甘ポイントであると勝手に思って巨大スプーンで掬って独り占めにしたい。もちろん誰にも言わない。ジョジョ第6部でスタンド能力の奪取ができると知った時は少なからず落胆をしたのですが、次のスティール・ボール・ランで、鉄球回転の能力は固有能力であると知った時は興奮しました。迷惑な力を得てバランスを逸している(常時不安定な状態にいる)のに飄々としている人物はカッコいいですからね。プッツンした時は素数を数えるのではなく、時を止めてから広瀬康一に敬意を持とう。自然に怒りが収まります。

 マスプロダクション、英語で書くとmass production、規格に沿った製品を大量生産することです。ショーハーショーテン!の最新話では椚と泥谷との確執が主題となっているので気にも留めなかったのですが、椚が太陽に説明した「芯を食わないレッテル」貼りは笑いを生まない、なぜならお笑いはどこまで行っても共同作業だから・・・という内容は、読んで数日が経ったいまになって気になり始めています。

 芯を食う、と言ってもこれは言葉の単純さから感じるよりも非常に厄介そうな話題で先に書いておきますが、上手く説明できる自信はありません。とてもナイーヴな所を突きそうで、・・・・泥谷は椚から傷つけられたと認識しているはずですが、同じように自分が椚を傷つけてしまっていたと自認していると思います。コミック第1巻で畦道の家族(特に父親)を描写することで他人から軽んじられる、笑われ者になることは決して良いことではないと読者に提示していますので、・・・・・・・人前で笑いを取りに行く気恥ずかしさと自負心はとても傷つきやすく、自分で前に進む動機を他人のせいにすることは本当に醜悪なのですが、それで人を笑わせるのは心に澱を溜めていく行為にほかならず、とても健康にいいとはいえません。笑いを生むために自分以外の人に某かを要求し、笑いという形で吐き出すことで対価を要求する。おれをみて笑ったのだからおまえは———

 (くどいくらいに注釈がひしめいている十五少年漂流記サクラ大戦の解説本、特に世界観に病的なまでの追い込みをかけている本が売っていないものか……)

 手軽に安く、サクラ大戦の3と4を遊ぶにはどうすればよいのか。ヤフオクドリームキャストを買えばいいのか・・・? 中古ゲームソフトは高騰していそうだしなあ。PC版があるのなら、我が家には古いノートパソコン(ウインドウズ7)があるので動くならコレが最善だと思われる。ダウンロード販売がきっとあるだろう……と思っていたらなかった。だめだこれ。ドリキャス本体と中古ソフトを探してみるか。そして十五少年漂流記、話全体の五分の一ほどしか読んでいない。誰に共感して読むかも決まってなく俺は温い人間です。

 話が変わりますが、ストリートファイターⅡ´(ダッシュ)でベガを画面端に追い詰め、本田がベガの目前に大百裂の壁を置くと簡易詰め状態となります。ベガの地上技は(必殺技も)立ち位置から数ドット前のめりに喰らい判定が出てから攻撃判定が発生するため、大百裂を目前に置かれると一方的に百裂のビンタを喰らい間合いが離れても本田がジリジリ前進してくると振出しに戻る、という戦法があります。間合いが少し離れていればベガの立ち大パンチで百裂を一方的に潰せます。ベガがジャンプを試みてもやはり喰らい判定が数ドット前に出るせいで百裂ビンタの餌食になります。おそらく百裂を喰らった直後にベガ側がきちんと対処すれば簡単に反撃できるだろうと思いますが。

 自分がベガを操作していて画面端で大百裂を目前に置かれた場合、一番スマートな対処方法はしゃがみガードをすることです。しゃがむと喰らい判定が前にでるので100%ガードが成功し、必殺技をガードすることで間合いが大幅に開くのでベガのターンとなります。

 スト2のキャラで基本技(コマンドとタメ、連打系を介さない技)のみでケンカを始めると、まず必殺技のケズリが発生しないのでジャンプ攻撃をしてきた相手を対空基本技で落とす行為が基本となる…? 従って強い対空技のないキャラは防戦一方となり、投げor下段攻撃の地味~な攻防になりそう。ダッシュのシステムで妄想しているので投げ受け身はない。よって投げ間合いの広さが決戦要素となり、本田は相当に有利なキャラとなるだろう。楽しくはないが。

 本田の楽しさはしゃがみ中パンチがギリギリ当たる距離(≒リュウケン波動拳の出かかる所を止められる、ザンギの大足払いを一方的に潰せる、ダルシムのスライディングを止めてしまう、ガイルの中足払いに反撃しオカマキックで転ばせる、等々)からの立ち小・中パンチから小百裂、つかみ技への移行、投げて大百裂でケズる……と、単純に前進して端に追い詰めてケズって殺す(or投げて殺す)が完遂できたときが楽しかったです。小百裂の発生速度とリーチが反撃能力を上げる(ジャンプ逃げ阻止)ので対戦相手には悪いことしたなと思いますが、おとなしく観念して画面端で沈んでくれるとやったぜと思いました。ザンギにはしませんでしたけど。大百裂とベガの立ち大パンチキックの相打ちほど気分爽快、ストレス解消、かつ笑いがでる効果音はない…。

 そしてまたらーめん再遊記の話になります。一人のラーメン馬鹿に戻った芹沢は気の赴くまま行動していますが芯はなにかというと、ラーメンの形式、流行っている店の盛者必衰を見てまわって、自分でも知らなかった強いラーメンに出会いたいという欲望を心に飼っている、ということです。全盛期の幕之内一歩と出会ってトレーナーに転身した沢村みたいな奴ですね。常識がなさそうであるので千堂っぽくもある。一歩沢村千堂とくるとヴォルグを出せ(ザンギ繋がり…)と俺の中で誰かが叫ぶ。

 納得感のある敗北、負けて尚得るものがあったと思える対戦。

 一歩は被弾しまくる主人公だったので沢村戦は完全に終わっているカードでした。幕之内一歩の突進を止めるジャブ、ジャブのみでKOを奪える拳質、相手のパンチを見てから先当てできるハンドスピードと、100回戦って100回幕之内が負けるダイアグラムです。よしアニメを見よう。アマプラだと第3期の一話のみ無料視聴なのでかえって欲求不満が高まるという罠。

 話がグダってしまい、どうしようもなくどうでもいい気分になった際に最も良い解決方法は最初からすべては解決していたと他人に言ってもらうことです。考えてみれば物事には必ず始まりと終わりがあるので終わんねえぞこれと観念したら、「馬鹿野郎、はじまってもいねえよ」と誰かに言ってもらえば万事解決します。

 手を動かして料理(材料の下ごしらえから始める料理)をしたことは家庭科のカレー作り以来ないような気がします。一人暮らしをしていた時は焼きそばをフライパンで調理して食べていましたが、同僚からは「それ料理?」と言われてショックを受けたので包丁を使えど皮をむかない炒め物は料理ではないのです…。(豚肉とキャベツと焼きそばのもとを炒めるだけで、多少のトッピングがあろうがなかろうが明日の生活の活力になるならなんだっていいわいと食っていたのだから、律義にショックを受けるほうがどうかしているなと今なら思いますね)

 ラーメン再遊記の新刊が明日28日に出ると聞いて電子書籍版を購入しようと思っています。雑誌の掲載作品は追っていないのでとても楽しみです。再遊記の1巻はかなり読み返しているのですが、読んでぼけーとしていると米倉が面白い奴だなと最近思うようになりました。芹沢をして「今の俺じゃあとても勝てる気がしないな…」と素直に言わせる実力者で、食材の良さを生かし抑制した味付けで細部が磨き抜かれたラーメンを創ると評されています。再遊記の1巻は芹沢が主人公ではあるのですが、芹沢の反骨心は見る影もなく衰えており米倉の登場がなければ落ちぶれたラーメン屋で瓶ビールをすする中年男の話がはじまって終わらないマンガとなっていました。昔はあれだけかっこよかったのに本当につまらない人になってしまってがっかりですよぉ~。これってニューウェイブではなくてオールドウェイブではないですか?

(この場面を読み返してみると、「オールドウェイブ」発言の前に酒の力を借りようと、若しくは酒の席の発言と予防線を張るためにアルコールが入ったグラスを手に取る米倉はすこしかわいいですね。そして汐見は決してかわいくはない……)

 はじめの一歩の単行本51巻を購入してあらためて読んでいるのですが、本当にこのマンガは読んでいて楽しいです。キャラのヒエラルキーでいえば鷹村が理不尽大王なのは誰もが知るところですが、この巻で一歩も大概だと皆が認めたうえで、どこまで行く気でなんで前に進むのかと小橋に問われるシーンは忘れることができない名シーンだと思います。その直前に地球上最強を達成してしまったオレ様(鷹村)もボクシングを引退するべきか(モチベーション的に)限界なのではないか…と悩みを吐露する場面があって、本当にどうでもいいですね。

 ゲーム攻略本の中古を買い集めるのが好きで、東日本大震災が起きる前くらいまでは中古ゲームショップの攻略本コーナーで立ち読みをしては、値札シールの価格と相談して本を購入していました。定価よりも格安で、カラーをふんだんに使った本を好きに買えるのは快感で、プレイしたことのないゲームを想像してその攻略内容をレイアウトして本にまとめるという妄想を楽しんだうえで本を選んで買えるのは禁断の喜びでした。商業性を無視した市販されている攻略本は存在しえない、というのもポイントが高く間違って世に出たゲームがあったとしても、クソオブクソな攻略本は出版されるものなのでしょうか。

 当事者でしか分からない、当事者すぎて判らない……

 らーめん再遊記で一番好きなキャラクターは夏川なんですが(書いてしまった)、思えば彼女は他者への憧れの感情がピンボケしていないという稀有な美点があります。この文章の最初に書いた「大量生産」はこの文章を書いているわたしが一、二を争うほど好きな言葉で、大量に生産するに至ったからには、大量に生産する背景が必ずあり、まあ楽してぼけーと生きたいと日々願っている私にとって、材料と生産プラント、需要と供給、一気にガッと儲けたいと野心を燃やしている投機家がいればおこぼれにあずかって楽したいと思っているわけです。夜、布団のなかに入って温い体勢でなにをするかといえば妄想をするわけですが、楽してぼけーとしていい目をみたいと思えば、それは勝ち馬に乗る過程をリアル(夢の中……)に想像しようと努力するわけです。つまり、皆が懸命に努力して幸せになろうとしているなか、渋滞していない幸せルートがないか考えて、かつ面倒なことは他人にやらせることで最短ルートでウホウホのガハガハな未来が手に入らないか想像するのです。

 はじめの一歩でリング上で罵声を浴びるキャラといえば鷹村ですが、他人からほぼ際限なく罵声を受け続けるという環境は想像しにくいものがあります。よほどの変人でない限り、その場から離れますからね。

 これは想像なのですが、十万回学業をやり直す機会が与えられたとして、卒業する度に学習成果を持ち越したまま小学生からリスタートすることできれば学問をよりよく修めることができるのでしょうか。チート能力として学業道具一式もなぜか持ち越せる(ある程度の分量までノートの内容を時空を超えて持ってこれる)おまけつきで。

 ドラえもんの登場キャラで感情移入しやすく、一番ノリノリで書けそうなキャラはスネ夫です。スネ夫のいい所は自分をよく見せようと外見をやたらと気にする所だと思います。まあキザで嫌味で自慢ったらしいので、よほど周りの人たちの心が広くないと集団でボコられそうですが、外面をよく見せようと神経と頭を使って自分を主役にしようと演出するのは頭がよく常識がないと成功しませんから、あれは大した男だと思います。私自身はこれっぽっちも衣服に気を回さないので、フォーマルな場で場違いな恰好をしないか数年に一度は冷や汗をかいて早々に逃げ出しています。理想をいえば汚れてもいい格好で仕事をして、お湯の心配がいらない環境で風呂と洗濯を楽しんで酒を飲んで寝れたら最高です。お湯といえば瞬間湯沸かし器を初めて見たのは中学か高校のころで、住んでいた場所の気象観測データを調べても中学のころの年平均気温がちょうど最高、最低ともにV字グラフの谷間だったようで、そりゃあ寒かったはずですよ。スイッチを押すとすぐにお湯が出る経験は、子供のころ冷え性でしもやけだらけだった自分にはかなり衝撃的でした。

 なんとなく格好よさについてぼさぼさと書いていますが、世間一般では芸能人や一流スポーツマンがかっこいい人物のフォーマット像といえるでしょう。わたしもそう思います。自分とは縁がないと割り切れるので、すげーなあかっこいいなあとテレビを見ながら煎餅をかじって見ていられます。ここで格好良さの価値化、数値化、格付け化と他人の異論は認めないと光の速さで事を進めればしかないな、とぼけーと思います。見られる側の短命と長命の差は、見ていて飽きない・・・・・・・・・・・・ラーメンハゲの言うところの万人の形式、飽きのこない存在と、他と差異が明白であるという自明性をバランスよく持っているかが重要なのではないでしょうか。型を重視しつつマンネリはイカンと好きなことを言っています。おそらく誰にでもある経験だと思いますが、映画やマンガ、アニメ作品などで作品全体の感想としては「凡庸」の一言で終わってしまうのに、ある一場面の絵面が忘れられず、何十年も経ってから見直したらストーリーは忘れていたのにそのシーンだけはしっかり覚えていた、なんてことはないでしょうか。わたしは思うのです。奇跡が起きて忘れられないシーン(その人の感性に焼き付くほど価値がある構成の絵)が開幕から終わりまで続いたとして、その作品は名作とたりえるかと。わたしは「たりえる!!」と断じたいのですが、経験上からいえばそれはファンサービス、ろうそくが燃え尽きる前の最後の炎であって、そんなものがメラメラ燃えていたら現場はヤケクソなのではないかと疑います。価値はある。だが普通ではない。

 勝手に盛り上がってきたぁ~ッ!!

 TBS系で毎週放送されている『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』、面白いですね。YouTubeで散々ハサウェイのPVを見て「眼鏡のそばかすの娘は可愛いなあ」と思ってましたが、TV版2話を見て『なんでそっちに逃げるんだよ!!』の名言を大音量で喰らったので鞍替えしました。背のでかい姉ちゃんはいい!ヒュー

 かっこよさ、と大の男がたじろぐ場面。雰囲気とこいつアホなんじゃないかと諦観が混じる感情。特に衝撃的なのが結局は雰囲気・・・・・・騙されているだけなんじゃないかと正気に戻った時におまえどうすんの?と。

 いつも心に武田のオヤジを。さっき頭の中に浮かんだフレーズですが、0コンマ3秒後に『Dead or alive!!』と心が叫んだのでそんなもの飼うくらいなら死を選ぶわと即断しました。閃光のハサウェイの3話の放送は本当に楽しみなんですが、同じくらい心情的に警戒しています。私はザンボット3をリアルタイムで見たことはなく、なぜか子供向け絵本でファーストコンタクトをした口なんですが(主題歌のソノシートが付いてきたのでオープニングソングはクッソ繰り返し聞いた)成人してからザンボットをビデオで見たときはオープニングの『ザンボット3!!』連呼にはっきりと恐怖を感じたので、あ、これはきちんと見てはいけないアニメだとカッコで括っています。ガンダム作品全般もだいたいその口で、富野監督の成分が濃さそうな場合は心情的にかなり遠ざけて視聴しています。

 アマゾンから注文していた本が届き、ペラペラとめくって読んでいます。逆シャア友の会なんですが。恐ろしすぎてチラっとページを見ては本を閉じ、各界の著名人が富野監督のことを好き放題言っています。令和の世に一人の人間をサカナにここまで言いたい放題なのは許されるのでしょうか。

 で、このブログを書くのも終わりにしようと思います。読んでいてくれた方がいたのかほぼ分かりませんが、やるべきことは見つかったので手に入れようと思います。

 ご自愛ください。失礼します。

 

 ドラえもんで麻雀に平和しか役のない状態でゲームをする話があるとどうなるのだろうか。単行本収録作品でのび太が正月の遊び(凧あげと羽根つき)のルールをひみつ道具で改変するお話があるのですが、考えてみれば正月に麻雀をするのも全然ありなので負けが込んだのび太が(満貫や役満を憎むあまりに)「平和だけでしかあがれない麻雀」を思いつくという流れで。

 まあ最速の平和あがりを目指すゲームと化すはずですが、おそらく面子に出木杉がいればのび太は臆面もなく聞くと思うのですよね。「どうすれば早くあがることができるのか」と。そして出木杉はフラットに平和の作り方を教えるはずで、のび太の興味ある分野ではあきれるほど速く学習する特性が発揮され、すぐに追いつき、そして麻雀に貪欲になるであろうと思うのです。あがり効率と得点のリスク配分を自分で管理してゲームを進めるという麻雀沼の入口に手をかけてしまうことで。

 連休があると愚にもつかないほら話を書いていられるのでやっぱりいい。今気になることはワートリの遊真の父親が言っていた「強者を足止めできている時点で立派な戦果」といったところで、麻雀でもテンパイしている人のあがり牌をひたすら放銃しない打ち方ができればかっこいいなあと妄想しています。ワートリのトリガーで妄想すれば、ランバネインを一人で足止めできるトリガーはあるのか?という方向性となり、奴さんの総トリオン量がケタ違いなのでまあ無理なのですが、弓場というキャラが「よーいドン」で始まるタイマンなら最強だと言われるように特定の状況下において強者に我慢戦という無理強いを強いるという超限定トリガーならイケるんじゃね?などとウキウキしながら妄想しております。相手におもちゃを使わせず、逆に雑用を押し付けて、その雑用に大した意味はなく、そして自分は意味のない雑用が大好きならカンペキ。鼻歌歌いながら意味のない雑用をこなして相手の仕事の粗を(悪気なく)指摘して「お互いがんばろ!」と時間を潰せるなら平和でいいのではないでしょうか。トリガー始動条件はさておき、終了条件は指定した相手が心の底から自分のすべてをなげうってでも雑用辞めたいと念じた時。使用者側のリスクは全部忘れるってことでしょうか。上記の言質に説明責任を与えるのなら、特定の状況下とは「相手の大砲をまともに喰らったはずなのにピンピンしている」状態で、そのあとは付かず離れずの距離でウロウロしまくりベタオリに徹する。その後にガードが甘くなり大物手が育ったことを暗に示して相打ち上等の瞬間を待つ。という流れ。使用者側のリスクは大砲を受け損なうとそれで終わるのに受ける面積と出せるタイミングが高難易度で、実質見てからでは間に合わない仕様だということ。大砲待ちとばれたら速射砲で削られて終わる。大砲を見てから対応しても普通に終わる。それを全部忘れて実戦で使うのはナンセンスだ。

 表面的には遊真のブラックトリガーと同じ他者トリガーのコピーを行う能力に見えるが、やっていることはレプリカ先生の解析能力を自分の脳みそで行い、ブラックトリガーを生成する時のように他者トリガーをその場の即興で生成する。付かず離れずの距離は解析の必要条件(データ送信の安定度みたいなもの)で、ベタオリは相手のトリガーと紐づける十分条件(ルールを破ると最初からやり直し)となる。そう考えると味方から希少トリガーを融通してもらうほうが冴えたやり方となるが、ボーダーのトリガー量産技術は高いので、なら最初からトリガーの複数所持を選べという話になる。どん詰まりのトリガーだが、ブラックトリガーの複製が可能なら評価は一変する。だが無理だろう。使用者が発狂する未来しか見えない。オペレーターとチームでの並列処理を考えて実装したら黒トリガー適応が実現するのか。ここまで妄想してトリガーネーミングもこれしかない、と思い至ります。名称はMZX1(エムゼットエックスワン)。SHARP謹製ですな(笑い)。

 あとは妄想の垂れ流しで……。

 湯水のようにボーダーの開発予算を使えるはずもなく、鬼怒田さんの目を欺けるはずもなく、城戸さんの目にかなうかも怪しい。人と違うことをなんのプレッシャーもなくする人間は要注意人物に決まっている。設定の必然としてボーダースポンサー関係者となり、2社以上の巨大資金源は暗躍舞台装置となり気持ち悪いので、必然の必然として唯我の関係者であり唯我尊とはほぼ親和性はない、と考えると、唯我の社長の養子で(実質は産業スパイの)唯我尊の弟……にでもなるのか。しょっちゅう頭の中の記憶をいじられていそうだ。

 先日、ついにワートリを全巻購入してしまいまして、頭に入ってくる情報量が一気に増えました。誰が一番気になるかというと、今のところは東さんです。人物評がいちいち気になります。瞬間最大風速的に東さんが唯我尊をどう評しているのかが気になっています。主人公の修を東(以下「さん」は略)はアンバランスと評しましたが唯我はどう思われているのだろうと。ランク戦の話ではなく、あの隊の中で息が詰まらずにマイペースでいられる人物像はちょっと読めないですから。そして一番好きなキャラは唯我とからみが多い出水なんですよね。アフト戦の戦功褒賞でも彼は上位だったはずで、トリオン切れを心配しないで様々な弾種を使い分ける弾バカと、家庭用ゲームで使えるキャラになったら、対CPU戦でどんな手を使ってでもコントローラーに合成弾マクロを組んで暴れまくりたい。敵の出現パターンと攻撃アルゴリズムを読み切って(というか学習して)好きなように弾幕を張りたい!Q!

 わたしの脳内で明け方に木虎と迅と東による唯我座談会が開かれたのですが、結論から言うと「関わりたくない」「わからない」「知らない」と、とっちらけた印象となりました。

 コミックをぼけーと読んでいると陽太郎まわりも面白いことに気がつく。あのお子様は作中屈指のエリートなんです。でかい口を叩くだけの明白なバックボーンがあります。林藤支部長が激あまやかした結果の「世のなかのきれいとおいしいはおれのもの」状態な子供ですが、かわいい顔をして護衛の巨大ロボと化す愛玩動物もお傍にいるので、唯我尊と同列の本作での最上位キャラでしょう。代わってくれ。

 短期間でワートリ成分を摂取したせいで、少し平静でいられない気分です。唯我の立ち位置は将棋でいえば奨励会を経ないでリーグ戦に参加(しかもA級)という針の筵にいるわけで、よっぽど本人が特殊でなければ自分を保つことはできません。なんでお前弱いのにA級にいるんだよと、誰だって思います。その疑問への答えは一つしかありません。誰がどう言おうと、わたしはA級に相応しい人間だと自負自尊しているからだ、です。唯我が増長するたびに太刀川が精神攻撃をしかけ、出水が物理でショックを与え、国近がとどめを刺……さずに無視する流れですね。太刀川隊は。こう書くと国近のランク戦での指示ぶりを見てみたくなります。

 段々と唯我のことが好きになってきたので、一見では嫌な奴としか思えないが話してみると割といいやつだった、という小話を藤子先生の過去作でも読みながら考えてみよう……。

 ヤフーの電子書籍サービスで『ラーメン発見伝』の無料閲覧が巻数限定で公開されています。ラーメンハゲこと芹沢さんの活躍を読みたくなり2巻の途中まで読みました。私は作品が発表された順番を無視して、最新作の『ラーメン再遊記』のみ拝読していて野生の芹沢さんを見るのは初めてなんですよね……。思ったよりずっと紳士でした(まだわからんが)。

 作中におそらくずっと通底するであろうコストとうまさの関係の片鱗(あるいはど直球)が塩ラーメン対決で来そうな感じです。これを「リスク」と「リターン」の関係と捉えると、店と客の関係、己と敵との関係、と人の心がない話になりそうで怖い。(実は最終話の噂はネットで散々みてしまっているので芹沢が大敗北する師弟対決の結果は知っているのですが)——そして2巻の最後で小池さんに人の心で情報に殴られる。つれー。

 なんとなく気づきを得ると同じ物語の展開が別の理解へと変わる瞬間があります。なんの話かというと『ラーメン再遊記』3巻のベジシャキ豚麺堂の社長と、かつての人気店長だった加納との、左遷させられた(と思い込んでいる)過去のいきさつを読んだときの話です。

 最初にこの話を読んだときは「あー加納はバカだなぁ。社内メニューコンテストで一位常連だからってチェーン店の看板メニューをひっこめて新メニューで勝負するべきだ、なんて吹聴しちゃって……」くらいにしか思わず、ベジシャキ社長の言い分はほぼスルーしていました。なんか言っているな。けど話の展開的には加納の店を立て直す流れにいくに決まっているのだから……おお、ほらみろ。社長が閑古鳥バスターとか言い出したぞ。と、一人ほくそ笑んで読書していたわけです。周りに誰もいなくて本当によかった。きちんと話を作って作劇しているのだから、芹沢が跡を濁さないようにいなくなるのは当たり前で、ベジシャキの社長が自分の言葉足らずで前途有望な若手社員を迷わせてしまったことの心の清算を丁寧に描き、加納が自惚れていた自分には社長の言葉は(言ってもらったとしても)理解できなかったと思いますと、バカにしていた上司の心情を汲み精神的に成長するシーンが話のきもであったのだろうと、明日が休日なので缶ビールを片手にブログを書いている自分には思ったりします。(自分でとどめを刺すと、芹沢は「自惚れた勇者よりも賢い臆病者のほうが強い」と加納に助言しており、気づきを得た、とかぬかすノータリンは臆病者に淘汰されるのであります)

 

 芹沢のキャラ造形に関心があります。かつての失敗や敗北により拭えない思いを抱えつつ立身を成し得たキャラ、というとスポーツでもビジネスでも権謀術数の戦国ものでもいろいろありそうです。書いていて自分で思いますが、これは大好物ですね。立身を果たしているのにそもそもの根源に立ち入っていない自覚を持ったままというのは、本人の価値観が他者や他所に支配されたままともいえる。先日にアニメ最終回が放送された『ダイの大冒険』では、わたしはご多分に漏れずクロコダインが大好きなんですが、別の意味でアバンも大好きなんです。これにバーンが加わってハドラーを題材に好き勝手言ってくれないかなあ・・・と想像します。バーンは聞き手にまわり、アバンとクロコダインのハドラー評を楽しく拝聴する。そんな集まりですかね。

 『ダイの大冒険』(以下『ダイ大』と略す)のクロコダインはハドラーを王と仰ぐ武人キャラとして登場し、強敵との戦闘で何度となく死にかけ、斧を捧げる相手をハドラーからポップたち人間へと変え、最後まで生き延びた男です。ポップと出会うまでは己の地位(ハドラーの下での将軍の地位)可愛さに武人の誇りをベットした卑劣漢でもあります。クロコダイン好きなわたしが強調したいことは、初回登場時のクロコダインの己の誇りとはハドラーの下で戦功を挙げ将軍まで上り詰めた己の生き様だということです。(かっこいい!!) 

 深夜3時に布団から這い出てキーボードをたたいていますが、dアニメストアで『ダイ大』をつまみ見していると、なんとも思っていなかったフレイザー(の声)がやたらかっこいいことに気がつきました。わたしは今までフレイザードを舐めていました。悪い癖でどうせ絶対にダイの新技の餌食になる運命の、ポッと出のキャラだろうと。炎と氷の二属性でメラゾーマ五発同時発射で俺様強ェ!!とムーヴをかますのだから、ああこいつ死ぬなと普通思いますよ。でもかっこいいのです、フレイザードは。

 昨日の夜はかなり夢見が悪く、細切れの夢を飛ばし飛ばし見るようで眠りが浅い状態でした。ワートリの唯我を周りがどう評価しているかの興味が一段落すると、今度はハドラーが周りからどう評価されていたかと気になりはじめ、正直あまりよく言われていなかった(アバンからは大魔王の使い魔呼ばわりされていたような……)かなと、安眠できない夜でした。寝る前に100話もあるアニメをスワイプしまくって見るのはよくないと知見を得ました。

 ピクシブ百科事典でフレイザードの項を読ませてもらいました。とてもすっきりするまとめで、もう書くことなんてないな……と思いますが、わたしが感じたフレイザードのかっこよさはクロコダインが捨てきれなかった過去の栄光を躊躇なく捨てる即断性と、バクチに勝利することで得られるであろう己の快感に全ベットする狂気性です。いさぎよい。『ダイ大』コミックスは全巻所持していて、ある日すべてを廃棄して手元にないのですが、バクチは(外れたら)痛い目をみるから面白い、のページを見るために単行本を買おうと思います。クロコダインは気絶していたか、それとも意識はあったのだろうか。

 近所の本屋に新装版の大ダイを注文(バルジ島決戦編だけ)し、表紙の青エクに釣られて購入したジャンプSQ.を読むと気になるマンガが連載されていました。こちらは電子書籍で既刊本を購入。『ショーハショーテン!』という作品です。私が初めて読んだ第13話は主人公の一人、東片太陽が相方の畦道に大切な人の笑顔を「お笑い」で目にすることができたと過去話をする回だったのですが、・・・・・・・。第1話を読んでから第13話を読み返して、そしてまた第1話を読むというループに入りました。「面白い」「かっこいい」「煽られてるみたいだ…」「君の方が(中略)プンプンしてる」と、子供のころからの悪い癖で、何度でも読めてしまう。そして思う。

 太陽、おまえ。値千金のプラチナチケットをもらってくれと言われて、「お笑いに興味はありません(意訳)」「芸人さんとお友達なんですね(よくわかりました)」と出したチケットを財布にしまった朔太郎の残念ぶりを、よくよく胸に嚙み締めろ。

——と。

 

 将棋とお笑いは似ていると仮定して、将棋が対戦相手に「まいった」と言わせるゲームなら、お笑いは観客席の人々に「まいった。もう降参だ。これ以上笑わせないでくれ…」と懇願させるゲームといえるかもしれません。

 お笑い、を副業にして興行を見て渡り歩き、あるステージを見て「つまらん!」と言って演者から顰蹙を買い「同じ構成でもっと笑えるステージにできます」とのぼせ上った素人発言をして……

 『ラーメン発見伝』でラーメンの代わりにお笑いを副業とする藤本がいたらどうなるのだろうと与太を飛ばしてみました。ラーメンとお笑いが一緒に語れるかというと、無理でしょ!としか思えませんが、第一話ではまずいと言われたラーメンを10年前に同じ材料、同じ味付けで学生時代の藤本が食していたことが明らかとなり(ただし今よりも高級な食材、3倍のスープ煮込み時間をかけていた)ラーメンを再現して店主を黙らせるという筋書きでした。お笑いでこの構成を真似するのなら、ステージに立つ人物の再現となるのでしょうが、独演の芸人を素人が再現するのってどうなのと冷や汗がでるので、ショーハショーテン!よろしく畦道のように素人ながらツッコミが誠実で聞き取りやすい、高慢さを感じずにガラガラ声ではない(……)漫才の再現となるのでしょうか。俺がつっこみてえー-。

 明日が休日で与太話をブログに書いていると意味もなく楽しい。

 ジャンププラスで掲載されているダイ大の外伝作品『勇者アバンと獄炎の魔王』の25話目が数日前から見られるようになっています。いまはお笑いに興味が傾いているので、私がひっかかるなあと感じるのはクロコダインとザボエラの「笑い」についてです。可笑しいから笑う、面白いから笑う、と、なぜあの人たちは笑っているのだろうとぼんやりと考えています。作品内のキャラに感情移入するのなら、ガンガディア配下のビビっている魔導士の一人の気持ちです。「え。なにがおかしいの? ガンガディア様はブチ切れているし……。よくあの人たち(クロコとザボエラ)この空気で笑えるよなぁ」きっとハドラー様が帰ってきてくれたらもとの居心地のいい職場に戻るに違いない。それまでの辛抱だ……。

 現在、わたしはお笑いの内容にはほとんど興味がないと思います。極論を言えば、楽にボーとしていられるのなら、それがいいなあと思っています。クロコダインの大笑いもザボエラの高笑いも本当はどうでもいい。ただ、ああもエネルギーに溢れていると、どうして彼らはあのような形態になるのか、どのようにすればその形態に移行できるのかと疑問に思う。楽にボーとして楽しく笑って生活できるのなら、それに越したことはない。それができているのなら、なぜそうなったのかを考え、適時再現できるように理論化するべきだ。楽に越したことはないから。

 ショーハショーテン!で何度も登場人物が口にする「笑う場として温まって」いたという理屈は本当に謎で、人は笑うときに笑うのではないか。場が重要だという理屈は————甘えなのではないかと一人でいると考えたりもします。他人の顔色に影響されて笑ったり笑わなかったりするのであれば、ほぼ必然として、周囲の影響を受けて怒ったり怒鳴ったりするのではないか。呆れて話にもならない。みんなそう思っているぞと場に重要性を持たせるのであれば、そもそも何かに順位をつける格付け行為は明確なルールがない場合、場の雰囲気で決まってしまうのではないか。そうに決まっているだろうと自分で思ったりもします。こう書いているとショーハショーテン!の主人公、四十万畦道と東片太陽のキャラ造形は少し寒気がしてきます。コミックス3巻で前演者が異様すぎて客席から笑いたいという気持ちが飛んでしまい、どう演じても笑いを起こすのが困難な危機に際して、太陽の異様な一人舞台で場の異質さを中和し、畦道のツッコミで笑いを起こす。優勝を勝ち取るための下準備が完璧に働いた舞台を演出しました。笑うための準備を事前に用意して、人が息をするように観客にフリを見て覚えてもらい、怒涛のボケとツッコミで笑いの波を起こす。「場」が笑いにとって重要なら自分たちで一から作り直して気持ちよく笑える場を提供する。「なぜ笑えるのか」を理詰めで問い質し、舞台の上でたらいに水を汲み、観客席ごと気持ちのいいぬるま湯に浸してあとは観客の能動性で波を起こさせる。笑うのは演者ではなく客だったのか!

 ふーん、ふんふんふん。ジャンプSQ.の発売日が近づいてきました。次号のショーハショーテン!が楽しみだなあ。コミックス2巻194ページと195ページは私の胸にちいさな楔として残っています。「俺は太陽を疑わないよ。ただ本音をいえば、そう言い切ることはできない」。他者を信じる、信用するは、大切なものを他者に預けても安心できると自分を信用できるか、今までどう生きてきたか、これからどう生きていくかの、己の確認作業みたいなものだ。

 ジャンプSQ.1月号、読みましたぞ。読み返すのが辛い内容でしたな。

 そのせいで頭の中だけで読み返しをする可能性が高い(→そうでもなかった)。自分の中で笑いのために人を傷つける行為、面白いことのためにつまらないことを黙認する行為はほぼほぼ悪なので少し消化に時間がかかることでしょう・・・。

 月額定額で見放題のサービスを使い始めると最初は見たい作品を続けて見て満足し、あとはダラダラと適当に作品をみて月額料金のもとが取れているか怪しくなっていきます。ショーハショーテン!の(比べるのもおこがましいですが)作品の構造と似ているところがあってそれは「お笑いの波」第一波を受けたときの衝撃が最大であり、あとは小さくなっていくところです。また人間が病に侵された際に病床で余命宣告を受けるような場合も第一波が最大衝撃となるでしょう。ちなみに「おこがましい」の意味を検索してみると「身の程知らずの大バカ者の世迷言」といった意味のようです(謙遜が過ぎて攻性が付与されてる…)。頼りない自分の記憶を遡ってみても、他人からおこがましいな君は、と言われたことはないと思います。いや普通は言わんだろう……と考えていたら、わたしの子供時代にはもっともっとくだけた言い方で大小の違いはあれ日常的に言われていた気がしてきました。おまえ自分が人気者だとでも思っているのか、勘違いも甚だしいな、と。

 食っていける才能、将来にまで食いっぱぐれない己の力量。いろいろとさておくとすれば、それは食物を咀嚼して飲み込み胃袋で消化して腸で栄養をこしとり老廃物ごと肛門から排出する一連の行為が基本であるといえます。小さい声で言えば、生きていることに感謝して謙虚さを忘れない才能が何をおいても生きていくうえで大切だと思います。ただ欲望のまま行動すると感謝よりも快感を欲して意思決定していくのでよくわからなくなります。

 ショーハショーテン!の第一話はネット上で無料公開されており、何度でも手軽にみることができます。

 皆さんは人から「もっとしっかりしてくれ」と言われたことはありますか。私の記憶を遡っても、ほとんど言われたことはありません。近い意味で言われたことは「年齢相応にしっかりしてくれ」ならあります。本当に何事にも使えない人間だったので、最初から何も期待されないから成果を求められることもなかったのでしょう。仕組みから外れて欲を出す元気もなかったので、言われたことをのぺーと作業していました。元気があれば人の何倍も仕事ができたのでしょうか。

 力を抜き、力を抜き、ぼけーとしているとこれがまたよく眠れるので誰に遠慮することなくよく寝ました。寝ていれば幸せだったので幸せコスパは高かったでしょう。おまえ将来はどうするんだ。

 なにも考えていないことを考えると、やはり子供のころに行き着く。なにも考えていないので集団行動に合わせることを是とする美徳も知らないので調子が外れた人間になる。調子は外れていても子供なりに世間は知っているのでちぐはぐな行動になり、場合によっては生物的あるいは社会的な死に直面しそうにもなる。とにかく子供のころは生きていることに忙しいので死にそうになった記憶はよほどのことがないと覚えていない。たぶんあほな脳みそが楽しかった思い出に変換していそうですし。

 わたしは見てしまいました。タローマンを。

 わたしは「巨人」を連呼されると胸のあたりがズキズキ痛む奇病にかかっており、見て最初に拒絶反応が出ました。初登場時のクネクネダンスにも言いようのない感覚に襲われテレビを消そうとはしませんでしたがプレッシャーを常時受ける視聴となりました。おそらく最終話の太陽の塔まで(過去録画だったので)一気見……しようとして居間に人が現れたのでテレビを消して今にいたります。ツイッターで壮絶なネタバレも経験しましたけど、他人のつぶやきを眺めて脱力笑いする経験も得難いのでよい休日です。

 困ったときにイマジナリードラに相談し、「そんなことは僕の知ったことではない」と言われる状況。ドラの行動はのび太に心身の負担が発生し、その負担の除去、あるいは達成を支援することから始まる。キャラ設定の能書きよりも主人公たちが今どういう状況にいるのか、どういう出来事に直面しているのかという「状況の設定」がキャラ立てにつながる。ジャンプSQ.漫画道場で葦原大介先生が言っていました。

 「どうしてきみは何の関係もない僕にそんなことを聞くんだ」

 『のび太の海底鬼岩城』がべらぼうに面白い理由の一つに、のび太たちに深海の脅威や陸上人に偏見をもつ海底人たちの差別、そしてポセイドンによる世界の破滅と、どうかしている「状況」が立て続けに発生し、ドラ、のび太、しずか、スネ夫ジャイアンたちが否応なく、反応・行動・選択・決断を迫られるサスペンスドラマの娯楽性があると思います。どうかしているといえば、海底人のエルはかなりどうかしている人物で常識的な海底人(の軍人)なら言うことを聞かない陸上人にビームぶっぱは当然の行為で、女子にボディタッチされたぐらいで前言撤回するのはギャグ要員と思われても仕方がない。捕虜の心理内面を調査(行動)し、危険性のない人物とわかるや謝罪(決断)し、色仕掛けで迷い(選択)、上司に確認もせず危険因子捕虜を釈放しようとする(どうかしている)。好きにならざるを得ない……。

 集英社のサイト、ジャンププラスで『ワールドトリガー』が84話まで公開されています(R4.9.10現在)。わたしがワートリを読み始めたのがこのあたりからで、某所の待合室でくたびれたジャンプを手に取り読んでいたところ、メガネの少年がマスコミからつるし上げを食っているというジャンプにあるまじき展開だったので目を引きました。根付さんが驚愕していたのが印象的で、当時わたしは思いました。

「え。これ面白いの?」と。

 先を読みたいほどには気にならなかったので日曜日の午前中にアニメが始まるまでは関心がありませんでした。アニメ序盤のイルガーが街を襲い、木虎が苦戦しまくる展開で心を鷲掴みにされ一気にファンになりました。

 

(後日、ワートリ公式ファンブックであるBBFを読み、巻末掲載の読み切り作を見ました。読後の感想として修の衆人環視でのつるし上げを思い出し、つるし上げる以上は吊るした後の責任は吊るした側が持つ。安心して吊るされてくれ……という根付さんの声が聞こえてきました(嘘)。昔に読んだ赤マルジャンプの掲載作品のようで、読んでいて少しだけスリリングな感じを受けましたね。子供のころはかぶりつきで作品に当たるだけだったのに、世間に擦れて擦れて擦れまくると面白いけど生き残れるかな、とか読者として心の底から本当にどうでもいいことを考えてしまいます。面白ければどうでもいい。強ければ(略)。結果さえでれば(略)。いいわけないだろってことで、詭弁正論ごまかしすっとぼけと根付さんは作品上で過労死しないでくださいね・・・)

 

 

(? 本誌本編とTVアニメの掲載放映時期が果たして記憶と合っているか。ジャンプも発行後いつのものか不明だし。そもそも「いつ」読んだかすぐには思い出せない)

(まあいいか)

 

 ここでワートリ最新刊の木虎を思い出し、東から「想定外の事態でも対処できる柔軟性をランク戦三つ巴形式は促していると思う(意訳)」……「木虎ほど実戦経験がある隊員なら初手合わせで面食らう相手がいなかったか?(言ってない)」……「歯が立たない場合、仲間に頼るだろう? 窮地に助けを求める相手には相性があるから普段から考えておくといいんじゃないかな(三雲と空閑とか)」

 

 そしてワートリアニメ一期で出番を終えたレプリカ先生を思い出し、ここ数週間悩んでいた方向性に決着がつきました。お話を考えるうえで、どうしようもなく高い壁、端倪すべからざる人物ってどんなキャラなんだとへろへろと考えていたのですがレプリカ先生の声を聴いていると、あ。そんなことはどうでもよかったと思いなおし、畏敬すべからざる、同僚に近い人物で到底敵わない男でよかったんだと、洗濯機を操作していて思いました。